♦️150『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

2018-10-07 18:43:57 | Weblog

150『自然と人間の歴史・世界篇』7~13世紀のアラブ世界(アッバース朝)

 アッバース朝(750~1258)は、イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫を世襲のカリフとする、アラブ国家である。その支配は、西はイベリア半島から東は中央アジアまで、北アフリカの一部も支配に入れていく。ウマイア朝に続く、このアッバース朝の血統だが、ウマイア家に対抗したイスラムの有力一族だといえる。

 ムハンマドと同じハーシム家の一族に属し、ムハンマドの叔父のアル・アッバースの血統だといわれる。ウマイア家に対する反発が強くなる中、ムハンマドの血統につながる家系としてアッバース家が台頭して来るのである。
 ともあれ、イスラム世界を統治するカリフの地位をアッバース家が奪い、今度は自分の家の中で世襲していくのである。ウマイア朝の血統は根絶されたらしい。新王朝の都は、第2代マンスールからバグダッドに定める。

 顧みれば、ウマイア朝の掲げる政治理念は「アラブ至上主義」であった。それが、アラブ人以外のイスラム教徒の反発を強め、また彼らの中に反体制派のシーア派が生まれ、不満が高まった。そのことを梃子として、アッバース家のクーデターが成功した、その意味を込めて、この変革を「アッバース革命」ということもある。
 アッバース朝からは、内政にも工夫が見られる。アラブ人だけに依存しない国造りを目指していく。官僚制度や法律を整備し、また税制を改革してゆく。アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてのイスラム帝国の維持に努める。こうして、イラン人など非アラブ人の官僚が進出し、「アラブ帝国」ではない、真の「イスラム帝国」の段階に入っていく。
 アッバース朝の最盛期においては、中央アジアでは中国の唐帝国と接することとなり、751年にはタラス河畔の戦いでその軍隊を破った。しかし、その一方でウマイア朝の残存勢力が遠く西方のイベリア半島に自立し、756年にその地で「後ウマイア朝」を建国する。

 8世紀後半から9世紀にかけて、アッバース朝のカリフは「ムハンマドの後継者」よりも「神の代理人」と考えられるようになり、ハールーン=アッラシードのころ全盛期を迎えた。しかし、9世紀以降のイスラム世界は分裂の傾向を強くしていく。バグダッドでの実権は諸侯へと流れ、カリフ支配は形骸化していく。イベリア半島の後ウマイア朝に続き、エジプトのファーティマ朝が10世紀初めにカリフを称するに及んで、3人のカリフがならび立つことになる。
 946年には、首都バクダッドにおいて、イラン系の軍事政権であるブワイフ朝(932~1062)が成立する。そのことで、アッバース朝のカリフの地位さえもが名目的な存在となってしまう。1055年には、セルジューク族がバグダッドに入城してカリフを救出する。それからは、セルジューク朝のスルタンがカリフから政治権力を貰い受ける形となり、カリフは宗教的権威に限定されることになっていく。
 11世紀末の十字軍時代には、アッバース朝のカリフはバクダードの周辺を治めるだけになっていた。セルジューク朝とファーティマ朝が対立していた。それらのため、イスラム勢力は、一致して十字軍と戦うことができなかった。キリスト教勢力がパレスティナにエルサレム王国を建てることを許すにいたる。

 イスラム勢力の反撃を実現したサラーフ・アッディーン(サラディン)が、アイユーブ朝を建てたものの、その彼の死後は、カリフを保護する力はなくなる。13世紀に入ると、西の方からモンゴルの勢力が攻めてくる。1220~31年、モンゴル軍による最初の大規模攻撃が行われる。帝国内のいくつもの都市が破壊されていく。
 1256年、モンゴル系のイル・ハン朝が、現在のイランとイラクの地を支配するにいたる、そして迎えた1258年、モンゴル軍は首都バグダッドを攻撃する。40日間の攻防の後、首都は陥落し、破壊された。

 アッバース朝カリフのムスターシムは投降したものの、「皮の袋に封じ込まれ、バクダッドの大通りを疾駆する馬に引かれて、袋の中で息絶えた。」(牟田口義郎『物語中東の歴史』中公新書)とも、「一般にもっとも信じられているのは、カリフはカーペットに巻かれ、足蹴にされ踏みにじられて殺されたという説である」(D.ゴードン著、杉山正明・大島淳子訳『モンゴル帝国の歴史』1986)ともいわれる。

(続く)

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