♦️249『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争と三角貿易(19世紀)

2020-07-16 08:59:41 | Weblog

249『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争と三角貿易(19世紀)

 1840年~1842年、イギリスが中国の清国に仕掛けたのが、阿片(アヘン)戦争だ。清朝8代・道光帝(どうこうてい。在位1820~50)の治世の1834年、イギリス商人の活動が活発化し、アヘンはより大量に中国に流入した。

 これにより中国はイギリスに対して輸入超過に転じる。中国茶などの輸出品だけでは足りないため、これに加え銀を支払った。中国からの銀の流出には歯止めがなくなった形だ。一説には、1839年には国家歳入の約80%の銀が流出した、とも言われる。
 道光帝から、1838年に特命による欽差大臣(きんさ)の任命を受けた林則徐(1785~1850)は、1839年2月4日に広州に行き、そこにあったアヘン1425トンを没収の上、焼却した。3月には、イギリス領事や英米のアヘン商人を商館に監禁して、所有アヘンの引渡させ、英米商人のアヘン2万箱分を没収して焼却する。それから商館区の封鎖を強行する。イギリスは、この清国な処置を不当として、清国に圧迫をかけていく。
 イギリスの清国に対するいらだちの背景には、イギリス綿製品(綿布およびその加工品)の中国への輸出がなぜうまく伸びないかがあった。開港場が広東(カントン)だけで港の数が少ないからだろうか。

 いや、それについては一言で片付けられない。それよりも別の話に目を向け、活路を見つけるべきではないか。1773年の東インド会社による、インド産アヘンの専売が開始された。

 以来、中国のアヘン市場も緩やかなペースながら開拓されてゆき、1790年に生産地の植民地インドから中国・広東へ輸出されたアヘンは4054チェスト(箱)であり、専売開始時の約20倍に伸びつつあった(加藤裕三「イギリスとアジアー近代史の原画」岩波新書、1980)。一方の輸入では、1780年代から茶貿易が急速に伸びつつあった。
 1825年で見た三国の貿易概念図が加藤裕三氏の「19世紀のアジア三角貿易ー統計による序論」:「横浜市立大学論叢」(30巻Ⅱ、Ⅲ号、1979)によりつくられていて、それにはこうある。

 すなわち、イギリスからインドへは綿製品(822千ポンド、表記製品の比率27.0%)、インドから中国へはアヘン(1196千ポンド、49.6%)と綿花(1042千ポンド、43.2%)、そして中国からイギリス本国へは紅茶(2934千ポンド、95.2%)がそれぞれ輸出されていた。
 これからすると、イギリスは中国との貿易不均衡を改善するすべを、この時点で既に思い付いていたのではないか。
 そして迎えた1840年、イギリスは中国に軍艦16隻を差し向ける。現地に到着した攻撃軍は、さんざんに清国をたたき、屈服させることに成功した。

 1842年には、南京でアヘン戦争終結のための平和条約(全13か条)が締結される。その主な内容は次のとおり。1番目に香港島割譲。イギリス人の居住、監督官、領事官の居住許可も。

 2番目には賠償金、2100万ドルを四年の分割で支払う。

 3番目には.広州(グァンヂョウ)、福州(プーヂョウ)、廈門(シャーメン、アモイ)、寧波(ニンポー、ねいは)、上海(シャンハイ)の5港を開港。そして4番目は、従来の「公行」の廃止による貿易完全自由化。

 この4番目の項目については、南京条約の附属協定として「五口通商章程」と「虎門寨追加条約」(1)領事裁判権(治外法権)(2)片務的最恵国待遇(3)清国側の関税自主権の放棄などがあった。

 この一連の不平等条項を盛り込んだ本条約により、それまで交易を広州港1本で対外貿易管理を行っていた体制が崩れた。これに、アメリカ、フランスも便乗。同じ条約を結ばせる。

(続く)

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