♦️116『自然と人間の歴史・世界篇』古代文明と宗教

2017-08-14 19:04:01 | Weblog

116『自然と人間の歴史・世界篇』古代文明と宗教

 世界の「四大文明」といえば、紀元前7000年頃の地球上にすでに産声を上げている。中央アジアのメソポタミア文明と呼ばれるのが、人類の整然かつ組織だった社会形成の意味での、文明の端緒であった。そのこととの関連もあって、世界最古の文明といわれるメソポタミアの宗教で一番変わっているのは、人間が粘土から創造されたという思想のユニークさではないだろうか。つまり、メソポタミアの神々が人間をつくったのは、自分たちの代わりに働いてくれる存在が必要があったからであると。なぜそうなったのかについては、シュメル神話での『エンキ神とニンマフ神』に由来が書かれている。岡田明子氏と小林登志子氏の共著では、以下の説明がなされている。
 「『エンキ神とニンマフ神』では、神々は増え、食物を得るために、神々のなかでもことに低位の神々はつらい農作業をしなければならなくなった。身代わりをつくる際には知恵の神エンキが人間を生み出すための道筋を考えた。エンキは母神ナンムに人間を創造させ、ニンマフ女神や低位の女神たちに手伝わせようと、つまり助産婦の役割をさせようと考えたが、肝心の「人間創造」の箇所は文書が破損している。だが、文書が読めるようになると、神々の宴会の場面になっいることから、人間は無事に誕生したようである。」(岡田明子・小林登志子「シュメル神話の世界ー粘土板に刻まれた最古のロマン」中公新書、2008)
 こうしたメソポタミア出土の粘土板の中で、一際有名なのが洪水が起きて人間達は一層されるので、助かるべく、船をつくって乗り、生き延びろと神から啓示を受ける男の物語なのである。この粘土板は、1872年にイギリス人のジョージ・スミスが発見かつ解読した。その板は、縦の長さが15センチメートルくらいの大きさで、隣り合う二つ段組に分けて、びっしりと文字が記されており、こうあった。
 「家を壊して、舟をつくれ!富を捨てて、生き延びよ。財産は捨てて、命を助けよ。あらゆる生き物の種をもって舟に乗り込め。これからつくる舟は、すべての辺が均等になるようにせよ。長さも幅も同じにするのだ!下に海が広がるように、舟の上を屋根で覆え。そのあと、大量の雨がもたらされるだろう。」(ニール・マクレガー著・統合えりか訳「100のものが語る世界の歴史1、文明の誕生」筑摩書房、2012より引用) 
 これと極めて似た物語が記されるものに、『旧約聖書』の次の一節があって、こうなっている。
 「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい・・・・・また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り・・・・・わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」(『旧約聖書』の創世記6章14節~74章4節、新共同訳)
 前者の粘土書字板は、現在のイラク北部、ニネヴェ(バグダッドの北方にある都市モスル付近)からの出土にして、紀元前700~前600年頃のものと推定されている。したがって、その中の物語を、キリストが生まれる前からあった『旧約聖書』の中身として採り入れたことは、充分に考えられるところだ。
 紀元前4000年頃からはエジプト文明が栄えるに至る。この文明下では、独特の宗教観念が発達した。「ナイルの恵み」と称される、この地方で成立し専制王政の社会においては、人は死後、独力ではこの世に戻ってこれないと考えた。というのも、もし独力で戻りたいのなら、厳密には古代のエジプトにおけるようにミイラとかがこの世に残っていないと、理屈が成り立たないからだ。古代のエジプトの人々は、人間や物の本質を「カー」であると考えた。この「カー」を中心として、「バー」(魂)と肉体が合わさることで人の生命力が発揮される。吉村作治氏の『吉村作治の古代エジプト講義録』上、講談社文庫)によれば、人間が死ぬと「バー」はあの世に去ってしまうため、「カー」は独りぼっちになってしまう。一方、肉体は完全に滅びてしまうから、「カー」はそのままでは収まるところがなくなり、どうしたらいいのか困ってしまうだろう。それゆえ人々は、「カー」が収まることが可能な、生前の肉体に代わる「第二の肉体」、すなわち「ミイラ」が必要だと考えた。
 このやや込み入った「カー」について、大城道則氏の解釈に、こうある。
 「「カー」とは神々であろうと王であろうと、あるいはそれ以外の人であろうと、彼ら一人一人に個別に与えられた「生命力」という概念であった。「カー」は図象として表現される際には、肘から先の両腕を高く持ち上げたヒエログリフで表された。クヌム神が轆轤(ろくろ)の上で土器のごとく人間と「カー」を作り上げることにより、出産とともに個々人が獲得すると考えられていた。そのため、あらゆる生命体が「カー」を内に持っており、それこそがそれらが存在しているという証でもあった」(大城道則『古代エジプト、死者からの声ーナイルに培われたその死生観』河出ブックス、2015)。
 このエジプトの「カー」は、人が死ぬと肉体を離れる。その「カー」は、個々人の肉体の死の後にも、その死んだ肉体の代わりに供物としての食物(栄養)を受け取ることにならねばならないだろう。それゆえ、人々の心の間では、その摂取の続く限り、「カー」は存在し続けることができる存在なのだと考えた。「さらに、「古代エジプトにおいて、墓は「カーの家」とみなされており、「何々某のために」という言葉とともに死者に対して唱えられた供養文が永久に「カー」のために準備されることを目的として作られたのだ」(大城道則氏の同著)とも言われている。こうなるのは、神とは別の次元での進言存在の本質であるところの、古代エジプト文明に独特の「カー」の概念ゆえのことであろう。

(続く)

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