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○331『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(満州事変(1931)、5.15事件(1932)と満州傀儡国家(1932))

2020-12-21 21:55:45 | Weblog
331『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(満州事変(1931)、5.15事件(1932)と満州傀儡国家(1932))

 こうなると、歯車は容易に止まらない。1931年(昭和6年)9月18日には、日本軍が奉天(現在の瀋陽(シェンヤン))郊外で、南満州鉄道の線路を爆破した、これを「柳条湖事件」と呼ぶ。「爆破したのは中国軍だ」とするのであった。
 かねてからの計画に基づき、関東軍(この地、中国東北部に進駐していた日本軍の呼び名)が、満鉄沿線の主要都市の一斉占領をはじめ、満州全域の全面支配に乗り出す。これをきっかけに軍事行動を開始し、そのことが、満州事変の発端となった。 

 これに対し、当地の群閥の張学良軍は、全面戦争回避へと動く。蒋介石(しょうかいせき)が指導する中華民国、国民政府も、ほぼ同様な理由から概ね不抵抗の方針を採る。
 一方、日本政府は、中国をめぐってアメリカをはじめとする諸外国の反発を恐れ、戦争を拡大しないとの方針を立てる。しかし、「日本の権益がおびやかされないための自衛の戦い」とした関東軍はこれを無視し、満州全域を支配してしまった。これを止められなかった若槻内閣は退陣せざるを得なく、一方で世論もこの成果を喜んだため、その後の政府もこれを認めざるをえなくなっていった。

 1932年(昭和7年)3月1日には、清朝廃帝たる溥儀(ふぎ)を執政(しっせい)とする満州国が、日本の肝いりで建国され、中国からの独立を宣言した。

 これについては、満州国執政(その前は、清国最後の皇帝に地位にあった)の溥儀(ふぎ)より、関東軍司令官の本庄繁に次の書簡が提出される。表向きには、日本が強制したのではなく、双方の頃合いが整ったところで、溥儀が自主的に依頼したという主旨になっている。

 「書簡ヲ以テ啓上候。
 此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候。
一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス。
二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス。
三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス。
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス。
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス。
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス。
以上。大日本帝国関東軍司令官本庄繁殿
大同元年三月十日、溥儀」(『日本外交年表竝主要文書』)
 それからほぼ2か月後の5月12日付けで、関東軍司令官・本庄繁より、満州国執政の溥儀に出された書簡には「三月十日附貴翰正ニ受理ス。当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス。
昭和七年五月十二日、関東軍司令官本庄繁。執政溥儀殿」(『日本外交年表竝主要文書』)とあって、なにから何までまさに予定どおりでよろしい、というところか。


 そして迎えた1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋近くで何者かが発砲したとして、日本軍が中国軍を攻撃するに至る、これを「盧溝橋事件」という。と、およそこれまでを勘案するに、日本の歴史学では日中戦争を盧溝橋事件から約8年間ととらえる見方が有力できた、しかし、近年は満州事変から日本敗戦までの約15年間を一連の動きととらえる説も有力になってきている。

 この間の国内においては、1932年(昭和7年)2月には「血盟団事件」が起こり、井上前大蔵大臣がピストルで撃たれた。3月には、三井財閥の専務理事を務めていた団琢磨が襲撃される。そして、1932年(昭和7年)5月15日に起こったのが、「5.15事件」であった。
 
 この事件は、それまでの事件とは異なり、陸軍の士官候補生と海軍将校の一部が手を結び、愛郷塾という茨城県の農民塾の塾生からも加わっていた。首相官邸を襲撃して犬養首相を殺害したほか、失敗したが牧野内大臣を襲い、さらに変電所を機能不能にして東京市内を暗黒にする事まで計画していた。
 こうして、政党内閣ではもはや無理とみた元老西園寺公望(さいおんじきんもち)は、後継首相に、海軍大将にして国際政局にも明るいという理由で、斉藤実を推薦した。1932年(昭和7年)9月15日には、日本と、日本がでっち挙げた傀儡国家であるところの満州国との間で、『日満議定書』が締結される。これに調印した日本の斎藤実(さいとうみのる)内閣は、満州国を正式に承認した。

 「日本國ハ滿洲國ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ。
 滿洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ滿洲國ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ。
 日本國政府及滿洲國政府ハ日滿兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ爲左ノ如ク協定セリ。
一 滿洲國ハ將來日滿兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民ガ從來ノ日支間ノ條約協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スベシ。

二 日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス。
 本議定書ハ署名ノ日ヨリ效力ヲ生ズベシ。本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ據ルモノトス。
 右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ。昭和七年九月十五日卽チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス。
日本國特命全權大使武藤信義(印)、滿洲國國務總理鄭孝胥 (印)」

 これの文中「滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民ガ從來ノ日支間ノ條約協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スベシ」とあるのは、この議定書の力関係が日本による帝国主義的侵略によるものであることを語って止まないものであった。

(続く)

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