♦️814『自然と人間の歴史・世界篇』スペインでの分離独立運動(カタルーニャとバスク)

2020-11-30 09:29:56 | Weblog
814『自然と人間の歴史・世界篇』スペインでの分離独立運動(カタルーニャとバスク)


 歴史は繰り返す、というのだろうか。スペインには、17の自治州から成り立っていて、その中でも、2017年からは、自治意識が強いのが北東部のカタルーニャ州と北部のバスク州との二つが厳しい選択の話に晒されている。
 まずは、カタルーニャ州だが、この州では独立問題が持ち上がって久しい。流血騒ぎにまで発展したのは、2017年10月1日の住民投票以降、一向に収束する気配がないどころか、ますます混迷を深めてきていた。

 さて、2017年10月27日のスペイン上院は、この州の自治権停止を承認した。これを受け、中央政府は州首相らの解任などに踏み切る。中央政府に抵抗した州議会は同日、独立を宣言した。
 その訳だが、同日のカタルーニャ州議会は「独立宣言」を可決。一方、中央政府のラホイ首相は同日、カタルーニャ州の自治権停止に踏み切った。プチデモン・カタルーニャ州首相や州政府閣僚を解任する話にも説き及ぶ。

 10月29日には、同州の州都バルセロナで同日、同自治州の独立宣言に反対するデモ集会が開かれた。
 両者とも一歩も引かぬ構えをとって、成り行きを巡り、武力衝突などの事態にまで発展するのではないかと危ぶまれた。

 それでは、独立派は、なぜスペインから独立しようと思い至ったのだろうか。そこで、そもそもから始めよう。
 カタルーニャ州は、元はといえば、スペインとは異なる流れであった。紀元前3世紀、古代ローマとやり合ったカルタゴの将軍が、この地に植民都市をひらく開く。彼の名前の「バルシノ」をとって、「バルセロナ」と名づけられる。
 その後、古代ローマ帝国の支配下に入る。5世紀には、イスラム教徒が南から攻めてきて、この地の支配者となる。9世紀には、キリスト教徒が失地を回復する。
 それからの10~14世紀には、これを中心に「カタルーニャ・アラゴン」の連合王国として栄えたという。その最初の1137年には、バルセローナ伯のラモン・ベレンゲール4世とアラゴン王ラミーロ・エル・モンヘの娘ペロネーリャの結婚があり、二つの国が同じ君主(夫婦)ということなろうか。
 1479年には、カタルーニャ・アラゴンの王位継承者であるフェルナンド2世と、カスティーリャ王国の継承者であるイサベル1世王女の結婚により、カスティーリャとアラゴンの統一によるスペイン王国が成る 。


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 スペイン北部バスク地方の分離独立の動きについても、触れておきたい。こちらの歴史もかなり古いが、2018年4月に新たな動きがあった。現地の報道によると、テロを繰り返してきた過激派組織「バスク祖国と自由(ETA)」が、5月上旬に解散する方針を示した。
 このような運びになったのには、820人以上の犠牲者を出したことがある。この事件により、バスクの分離独立運動は、大きな節目を迎えることになる。
 ここにETAは、フランコ独裁政権下の武力弾圧に対する抵抗運動として1959年に発足した。バスク民族主義を掲げ、スペインからの独立を目指し、爆弾テロなどを繰り返してきた。当局による摘発が進むなかで路線転換を行う。2011年には、「恒久的な武装闘争の停止」を宣言する。2017年には、銃や爆発物を隠した仏側バスクの武器庫の情報をスペイン当局に伝えていた。



(続く)

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