○167『自然と人間の歴史・日本篇』比叡山の焼討ち(1571)

2020-11-26 19:03:25 | Weblog
167『自然と人間の歴史・日本篇』比叡山の焼討ち(1571)
 
 それは、1571年(元亀2年)の旧暦9月12日のことだった。織田信長の号令で、比叡山の寺社勢力に対する攻撃を行う。この比叡山とは、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山にして、当時のこの山院は僧兵を擁し、「信長包囲網」の一角を成していた。
 
 さても、全軍の軍は、坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まる。    
 「信長公記」には、この時の様子が、生々しく記してある。
 
 「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(「信長公記」)
 
 信長側近の回想にも、「叡山を取詰め、根本中堂、山王廿一社(さんのうにじゅういっしゃ)を初め奉り、霊仏、霊社、僧坊、経巻、一宇ニ残さず、時に雲霞の如く焼き払い、灰燼(かいじん)の地トなるコソ哀なれ」(太田牛『信長公記』、1600年頃の作か)とある。
 
 ここからは、「聖域」を攻撃することに怯む家来を駆り立てて殺戮に向かわせていた、信長のこわもての厳しい姿が浮かび上がってくる。
 さりとて、信長側は、当時の状況では、姉川の戦いの後も、浅井長政が近江から京都にかけての一帯になお勢力を保っており、比叡山や石山本願寺、六角氏残党などとも連携のおりから、「このままでは危ない」と思っていたのだろう。
 
 それでは、この焼討ち攻撃で一番得をしたのは誰だったのか。信長は、もちろんのことだろう。だが、そうとばかりは言えまい、その中には、彼の部下の明智光秀がいた。
 
 なぜなら彼は、この事件後、「一番手柄はその方」ということであったのだろうか。ちなみに、2020年12月5日再放映のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」(第34回)では、勝どきの後、主従二人で信長が光秀の労をねぎらう形をとっていた。その筋通り、近江国志賀郡に5万石を与えられる。そして、居城として琵琶湖(ぴわこ)に面した地に坂本城(現在の滋賀県大津市)を築く。
 
 その完成の時には、城内に琵琶湖の水を引き入れた水城で、大天守と小天守を持つという造りであった。当時、信長に取り入っていた宣教師のルイス・フロイスは、「坂本城は信長の安土城に次ぐ第二の名城だ」(「日本史」)と讃えたと伝わる。

 ところで、光秀には、長らく比叡山焼討ちに反対したイメージが脚色されてきた。それが今日では、実際は光秀がこの事件に積極的に関与していたのではないかというのが、有力説となっている。
  ちなみに、前述のテレビドラマの標記焼討ち後の一シーンでは、光秀が信長に批判的な筋からの詰問に対して、あのやり方は自分の流儀ではない旨の返答をしていた、しかしながら、はたして彼が戦(いくさ)に臨んだ心情は本当ににそのようであったのかと、疑問なしとしない。
 
 それというのも、彼は、焼き討ちの前年、比叡山に近い宇佐山城(同市)に入って、地侍や周辺勢力の懐柔を行っていた。そしての、焼討ち10日前の書状の中において、こういう。
 
 「御折紙拝閲せしめ候、当城(宇佐山城)へ入らるゝの由尤に候、
誠に今度城内の働き、古今有間敷あるまじき儀に候、八木方にあひ(逢い)候てかんるい(感涙)をなかし(流し)候、
 両人覚悟を以って大慶面目を施す迄に候、加勢の儀是れまた両人好き次第に入れ置くべく候、鉄炮の筒幷ならびに玉薬のこと、勿論入れ置くべく候。
 今度の様躰、皆々両人をうたか(疑)い候て、後巻なとも遅々の由候、是非なき次第に候、人質を出だし候上にて物うたか(疑)いを仕り候へは、報果次第に候、石監・恩上は罷り上り候時も、うたかいの事をはやめられ候への由、再三申し旧ふり候つる、
 案のごとく別儀なく候て、我等申し候通りあ(逢)い候て、一入(ひとしお)満足し候、次でをさな(幼)きものゝ事、各おのおの登城の次に同道候て上せらるべく候、其の間八木は此の方に逗留たるべく候。
 弓矢八幡日本国大小神祇我々うたかい申すにあらす候、皆々くちくちに何歟と申し候間、其のくちをふさ(塞)きたく候、是非とも両人へは恩掌(賞)の地を遣わすべく候、望みの事きかれ候て越さるべく候、仰木の事は是非ともなてきりに仕りべく候、頓やがて本意たるべく候。
 又只今朽木左兵衛尉殿、向より越さら候、昨日志村の城ひしころし(干殺)にさせられ候由に候、雨やみ次第、長光寺へ御越し候て(以下、略)。
恐々謹言、九月二日
明十兵(明智十兵衛)
光秀(花押)
和源(和田秀純)殿」(明智光秀の和田秀純宛書状」
 
 この下りの部分において、「仰木(場所柄、比叡山を指す)の事は是非ともなてきりに仕りべく候、頓やがて本意たるべく候、又只今朽木左兵衛尉殿、向より越さら候、昨日志村の城ひしころし(干殺)にさせられ候由に候」とあるのには、驚かされる。
 
 参考までに、山崎の戦いで破れた光秀は、坂本へと落ち延びる途上で落ち武者狩りの手にかかり、もはやこれまでと自刃して果てる。その後、重臣の秀満らが坂本城に籠もるも、秀吉の追手に包囲され、自ら城に火を放ち、光秀の妻子を刺し殺し自害し、坂本城は落城する。
 
 これに関連して、この事件の背景並びに評価については、後代の人がそれなりに触れていることから、その中から幾つか紹介しておこう。
 
 「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった。」(1570年(元亀元年)の「多聞院日記」)
 
 
  「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く。」(「信長公記」)
 
 
 「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし。」(新井白石「読史余論」
 
 
 概ねこのような肯定的評価になっているのには、信長の側での生き残るための方策とみているのであろうか。
 大手寺院は、平安時代から畿内を中心に荘園領主として、また権力と結びつくなどして、巨大な勢力となっていた。信長としてはこれが邪魔であり、キリスト教の保護・仏教の軽視や関所の廃止などの施策を進めることにより、その力の基礎を破壊しようとしていた。
 
 
 かたや、物心両面で脅威にさらされ、このままで既得権益が奪われる危機感を募らせる延暦寺は、足利幕府の将軍足利義昭と結び、朝倉義景や浅井長政を支援するという具合にて、一歩も引かない。
 
 そこで、業を煮やしたというか、仕方なくというか、信長が、先手を打って本拠地を攻撃し、比叡山の数多くの伽藍をはじめ、日吉(ひえ)神社から麓の坂本、堅田(かただ)などを焼き払い、数千人の僧侶や信徒、老若男女を無差別に殺害した、というのであろう。
 
 
(続く)
 
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆