○○44『自然と人間の歴史・日本篇』3、4世紀の大陸と倭

2015-09-20 21:50:06 | Weblog

44『自然と人間の歴史・日本篇』3、4世紀の大陸と倭

 倭の3、4世紀がどのようであったかを覗わせる具体的な資料としては、その倭国が中国の南朝と交渉をもった記録が遺されている。そこで3世紀半ばからの中国とのやりとりを振り返ると、241年、倭が魏の帯方郡に使者を遣わす。その6年後の247年(魏の正始8年)、「女王国」の卑弥呼は、帯方郡の唐の拠点に人を使わした。用向きの件は、魏に対し、狗奴国との戦争の援軍を差し向けてほしい、との要請であったのではないか。その時は既に両者の間で戦(いくさ)が熾烈に戦われ、味方の勝利がおぼつかなくなっていたからではないかと推測されよう。というのも、『魏志倭人伝』は、両国の関係をこう述べているからだ。
 「倭王卑弥呼興狗奴国王卑弥弓呼素不和、遺倭載斯鳥越等、詣郡説相攻撃状。」(倭王の卑弥呼と、狗奴国の男子の王である卑弥弓呼は、もとから不和であった。倭は、載斯鳥越などを郡都に遣わして、互いに攻撃し合っている状(さま)を説明した。)
 その後に、『中国・二十四史』」の一つ『晋書』(しんじょ)が編纂された。晋(ジン)王朝には、西晋(シージン)と東晋は(317~420年)がある。249年、司馬懿仲達(スーマーイー)は、クーデターで魏の国政の実権を握る。司馬懿仲達は、あの有名な蜀の諸葛亮孔明(ヂューコリャンゴンミン)と互角に渡り合った人物だ。
 250年、彼は呉(ウー)の軍を江陵で撃破した。263年、司馬懿仲達の子、司馬昭が彼の後を継ぎ、魏は蜀に大軍を差し向け、蜀を併合した。この戦功で、司馬昭はこの年に「晋王」を名乗るようになる。265年、司馬昭(しばしょう)の次に晋王となっていた司馬炎(しばえん)は、名目だけであった魏に代わって晋王朝を開くに至り、自らは武帝を名乗る。これに伴い、彼の-祖父に当たる司馬懿仲達は、西晋の初代宣帝と諡(おくりな)された。280年、晋の武帝は呉に大軍を送って、呉を滅ぼし、三国鼎立の時代は終わった。これと相俟って、長らく極東地方を巻き込んだ魏・晋と呉の争いに終止符が打たれたのである。
 それでは、4世紀に入ってからの倭国の状況はどうなっていたのだろうか。4世紀に入ると、中国では西晋が316年に滅んでしまう。それからは、複数の国が興ったり、また分裂したりで、複雑な勢力図に変遷してゆく。例えば、「前秦」への倭からの朝貢があったのは、西晋が滅びた後の、いわゆる「十六国時代」(シーリウグオ、304~439年)中のことであるようだ。そのため、倭についても確かな事績が後世に伝えられていない。
 「前秦」の存続期間は「351年~394年」なので、「前秦の初め」とあるのは351年以降しばらくの間のことだと推察できる。「前秦」は、中国大陸の長江(揚子江、チャンヂャン)以北の全域を支配していた。ただし、「公孫氏を平定した後、朝貢したのは卑弥呼」とあるが、「前秦の初めに朝貢したのは卑弥呼」とは書いてない。というのも、『梁書』に従えば、おそらく240~249年にかけて卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與(とよ)又は台與(とよ)」を新たな邪馬台国の王として立てた。その後、また男の王が立ったが、いずれも「中国の爵命を拝受した」ものと読める。

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆