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【tv】100分de名著「平家物語」(第2回)

2019-06-09 01:21:53 | tv

【tv】100分de名著「平家物語」(第2回)

驕れる者久しからず

 

 

1回25分×4回で1つの作品を読み解く番組。5月は「平家物語」(Wikipedia)で、講師は能楽師の安田登氏。今回はその第2回。第1回の記事はコチラ

 

伊集院光氏:驕れる者ということで、芸能界を思いドキドキした。それだけ現代にも通じる話だと思う。


平家に対する不満が募り鹿ケ谷の陰謀(Wikipedia)となったが、この2年後に清盛の長男平重盛(Wikipedia)が亡くなってしまう。後白河法皇(Wikipedia)は重盛の領地を勝手に没収してしまう。これに怒った清盛は出兵し、後白河院を幽閉してしまう。これが1179年の治承三年の政変(Wikipedia)。当時は院政なので後白河院が政治を行っていたが、これに代わり清盛が政治を執るようになる。

 

伊集院光氏:完全なクーデター。

 

周りはもちろんおもしろくない。以仁王(Wikipedia)が謀反を起こす。1180年以仁王挙兵。

 

以仁王とは後白河法皇の第三皇子。藤原孝成の娘成子の息子。後白河法皇と清盛の妻時子(二位殿)(Wikipedia)の妹滋子(健春門院)(Wikipedia)との間に生まれたのが第七皇子高倉天皇(Wikipedia)で、高倉天皇と清盛と時子の娘徳子(建礼門院)(Wikipedia)との間に生まれたのが安徳天皇(Wikipedia)。

 

以仁王が初めて平家を追悼せよという令旨(命令文書)を出す。以仁王をそそのかしたのは源頼政(Wikipedia)。頼政はこの時点では平家側の人間。

 

伊集院光氏:とても不思議


後白河院はホントに暗躍するよね😅 

 

後白河法皇の三男以仁王に平家打倒命令を出すようそそのかしたのは清盛も信頼を寄せていた源頼政。70過ぎの老人。何故、頼政は平家に背こうと思ったのか? 頼政の嫡男源仲綱(Wikipedia)は1頭の名馬を所有していた。その評判を聞きつけた清盛の三男平宗盛(Wikipedia)は、馬を見ようと仲綱に使者を送るが仲綱はなかなか見せようとしない。にくたらしく思った宗盛は日に七度、八度と執拗に催促。ようやく仲綱が馬を届けると、宗盛は馬に仲綱と名付け、「仲綱に鞍を置いて引き出せ」「仲綱に乗れ」「仲綱を打て」「仲綱を殴れ」と辱めた。この息子への仕打ちに憤慨した頼政は平家を見限り、以仁王に平家打倒を持ちかけた。

 

伊集院光氏:わりとくだらない理由😅 後に大きな戦になることを考えると、とても小さいことに感じる。

 

大きな戦いだけでなく、最終的に平家が滅亡するきっかけとなる出来事。

 

伊集院光氏:終わりの始まりはこんな小さなこと?

 

「平家物語」には小さなことが大きなことを引き起こすということがよく出て来る。

 

伊集院光氏:本当にあったことなのか?

 

よく分かっていない。完全にキャラ化。新しいキャラ平宗盛。宗盛は三男だったが次男が早死にしたため、重盛亡き後平家を背負う立場になった。その人物がこんな人ですよというキャラづけ。

 

伊集院光氏:しょうもないトラブルメーカーだということを、ここでキャラ立てておく。

 

宗盛及び平家一門のおごりが提示される。


うーん💦 これは残念過ぎるキャラが出てきちゃったね😅 前回フィクションであるとの説明があったから、実際の平宗盛がこんな人だったのかは不明。そういう要素があったからデフォルメされたのか、実際とは全く関係なくキャラ付けされてしまったのか。後者だったらかわいそう😅

 

以仁王の反乱は直ぐに平家の知ることとなり、以仁王方は宇治の平等院に立てこもった。

 

宇治川を挟んで平等院(世界遺産|平等院)に以仁王と平家が対峙し「橋合戦」という戦いになる。この文章がカッコイイ

 

宇治川を挟んで対峙する平家軍と以仁王方。中央の橋板が外されているので平家軍は橋を渡れない。ここに以仁王の但馬という僧兵が橋に進み出る。

 

朗読意訳:平家が放つ矢を薙刀で切って落とす(巻第四 橋合戦) 

※塩高和之氏の琵琶演奏にのせて安田登氏が朗読され、現代訳が表示されたけど全文書くの大変だったので意訳とします😌

 

"平家方にはこれを見て"七言になっててカッコイイ。リズムがいい。

 

伊集院光氏:"あがる矢をばついくぐり さがる矢をばをどりごえ"の部分はスローモーションに感じる。わー飛んだという感じ。

 

文章の中に「こんな風に読め」というのが内在している。声に出して読むことが大事。


確かに伊集院光氏の言う通り、スローモーション的な映像が浮かんでくる。後の武将が好んで読んだということだけど、実際の合戦を知っている武将たちが読んだら(聞いたら?)、本当にわくわくしたんじゃないだろうか。

 

但馬は以仁王方なので平家は劣勢となっていたが、ここに東国の武将足利忠綱という人物が登場する。宇治川の流れは早いけど、利根川の方が早いから簡単だと言う。

 

足利忠綱の的確な指示で馬と兵士は川を渡ることに成功。平家は反乱を制圧した。

 

伊集院光氏:馬の大群が渡る時にはこういう方法がある。

 

能の「頼政」にも引用されている良いところ。

 

"手綱をくれてあゆませよ はづまばかいくッておよがせよ" リズムが良いだけでなく、これを聞いた後の武将たちが兵をどう扱うか、指揮官としての戦術論にもなっている。

 

先ず強い馬を川上に置く、川の流れが止まり緩やかになったところに弱い馬を置く。適材適所に置けということ。"馬の足のおよぼうほどは 手綱をくれてあゆませよ"馬の足がついている時は手綱をゆるめて自由に歩かせなさい。"はずまかいくッておよがせよ"ヤバくなってきたらちゃんとコントロールしてあげなさい。"さがらう者は弓のはずにとりつかせよ"落ちて行ってしまう者がいたら、弓につかまらせてあげなさいという指揮論。

 

伊集院光氏:草野球の監督をしているが、ありとあらゆる指揮官に当てはまる。

 

リズムがあるのでなんとなく覚えてしまう。


作者不明で琵琶法師が語り継いで物語ができていったんじゃないかとのことだったけど、合戦のこととか全く知らないでこんな作戦思いつくかね? 

 

1180年福原遷都。反平家勢力が大きくなってきた。うるさい寺社が多く京都・奈良から離れたかった。海へ行き日宋貿易(Wikipedia)を再開し、お金を蓄えたかった。清盛の実感として息子たちが貴族化しているので、海の近くに行き自然の力を浴びて平家の「闇の力」を取り戻したかったのではないか。

 

1180年源頼朝挙兵。小さな戦いはいくつかあるが全面対決となったのは「富士川の戦い」(Wikipedia) 重盛の嫡男平維盛(Wikipedia)登場! 実際戦いですらなかった?

 

平家軍大将は重盛の長男平維盛。維盛は戦う前に関東の武士をよく知る斉藤実盛(Wikipedia)に彼らの実力のほどを聞いた。実盛が彼らの弓の強さ、戦いぶりの激しさを語ると、平家の兵たちはすっかり怯えてしまう。いよいよ明日富士川で戦いが始まるという日の夜、戦場となる地域の人々が山や海に逃れ煮炊きする火があちこちで燃えていた。それを見た平家は源氏はものすごい大軍だと思い込んだ。水鳥が飛び立つ音が源氏が攻めて来た音だと思い込んだ平家の兵たちはパニックになり我先にと逃げ始めた。あまりに慌てたので弓を持つ者は矢を忘れ、矢を持つ者は弓を忘れる。人の馬に乗って自分の馬は人に取られる。つないだままの馬に乗り杭の周りをぐるぐる回る者もいたというありさま。翌日、源氏が戦場に来るとそこはもぬけの殻。戦わずして平家は逃げてしまった。

 

伊集院光氏:ずっこけましたね~😅 こんなシーンあるのね? つないだまま馬に乗ってぐるぐるぐるぐる

 

ここで思い出したいのが最初の回に呼んだ殿上の闇討ち。清盛の父平忠盛は闇を利用した。今回は闇を利用されて負けてしまった。闇の力が完全にチェンジした。「闇」の力を失った平家と得た源氏の構図が現れる。

 

ダメな人をリーダーにしてはいけないという教訓。

 

伊集院光氏:初代社長は成り上がった人だから社長の子ではないので、お金持ちの家で育っていない。でも、2代目はお金持ちの家で育っているし社長の子。3代目となるともうそれしか知らない。となると、同族経営の陥りがちなこと? ブレーキ役の不在。


この当時の戦って夜が明けると合図して戦い始めて、日が暮れると止めて翌日また戦うという感じだったんだっけ? 戦の常識を変えたのが義経だったと聞いたことがあるような? 戦場となる土地に住んでいる者たちがあらかじめ逃げていたというのは興味深かった。自主的に逃げたのか、戦場にするからと退去させられたのかどっちなんだろう?🤔

 

でも、維盛はすごいイケメンだったらしい! 物語だけでなく実際の貴族の日記を読むと、光源氏と見まごうどのイケメン。すばらしい貴族ではある。

 

安部みちこアナウンサー:そこから受ける教訓は見た目に騙されるな


伊集院光氏:そのかわいそうさを含めて人気なのでは?


維盛イケメン説は聞いたことあった! 「源氏物語」の中で若き日の光源氏が頭の中将と"青海波"を舞うシーンがあるのだけど、平維盛も"青海波"を舞う姿が本当に美しく今源氏と呼ばれたのだとか。でも、イケメンでもこんなにズッコケてしまってはね~😣💦


その後、平家に歯向かう寺社勢力である東大寺(華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ)、興福寺(法相宗大本山 興福寺)との武力衝突が起こる。この時起きたのが1180年南都(奈良)焼討。


実際はうっかり大火事を起こしてしまった。暗かったので火をつけたところ、燃え広がり東大寺大仏も焼けてしまった。


 南都焼討(Wikipedia)って、まさかの失火が原因なの? もう平家ついてなさすぎるわ! やることなすことダメだもの。そりゃ滅亡するわ😫

 

1180年木曽義仲 九州・四国の源氏挙兵の知らせ。1181年平清盛死去。この死の描写がスゴイ

 

清盛は異常な熱に苦しむ。おつきの人も部屋に入るだけで暑くてたまらないほど。水を掛けても焼け石に水のごとく当たった水は燃え上がり、炎と黒煙が立ち上る。清盛の妻二位殿が見た夢には炎に包まれた地獄の車が現れ、東大寺の廬舎那仏を焼いた罪で閻魔大王により地獄に落とすことが決まったと告げた。二位殿は清盛に遺言を求める。清盛は苦し気に言う。

 

朗読意訳:朝廷を平らげて太政大臣にもなったし、栄華も極めたので思い残すことはないが、ただ源頼朝のことは許せない。自分が死んだら墓前に頼朝の首を供えろ。

 

自分が死んだ後、お堂を建てたり塔を建てたりするな。直ぐ討手を遣わして頼朝の首をはねろ。そして自分の墓の前にかけろ。これこそが供養だ。だがこの遺言は罪深い。

 

伊集院光氏:罪深いの意味は?

 

往生要集(985年:恵心僧都源信が極楽往生についての仏典などの文章をあつめた仏教書)(Wikipedia)の中に悪行の人が亡くなる時に体から熱が出てのたうち回って死ぬと書いてある。清盛の死に方は「往生要集」の死に方。どんな悪行を犯した人でも往生できる方法が1つだけある。念仏を唱えること。そうすれば悪行の人も成仏できる。清盛はそれをせずに頼朝の首だと言っているので罪深けれで地獄行き決定!

 

伊集院光氏:何故そこまで壮絶なのか?

 

悪行はよくないという教え。でも何故かかっこよくないか?

 

伊集院光氏:正義の味方の敵でもかっこいいヤツっている。『スター・ウォーズ』のダースベーダーのような。野望に飲み込まれる人生。清盛は悲しいっちゃ悲しい。

 

時代が貴族の時代から武士の時代へ変わる。そういう時にはこういう闇の人は必要。仏教的価値観を超えた人。もはや人間でなく時代とか時のような存在。


平清盛は本当に苦しんで亡くなったらしい? 症状からすると癌だったのではないかということだったような気が🤔 この高熱が出ちゃう描写のことも知ってたので、癌に苦しんだ様子を大げさに表したのかなと思っていたら「往生要集」からだったのね😲 清盛像についてもフィクションとしてのキャラ付けがされているのだと思うので、どこまで真実なのか分からないけど、物語としてはたとえ地獄に落ちたとしても源頼朝を許せないくらい強い執着があったということにしたいのかなと思うし、それが悪行であるということを言いたいということなのでしょうかね😌


ボンヤリした知識にいろいろ説明がついていくのがおもしろい✨ 最終回まで頑張ってメモ取りながら全て見たので、頑張って記事書く! ちゃんと残しておきたい。

 

100分de名著:毎週月曜日 午後10:25~10:50 Eテレ

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