困っている人が居る時、自分にてきることがあったら、何かお手伝いをしたいと、きっと誰でもが思うだろう。
ただ、お手伝いの仕方には、いろいろある。自分ができることをする、という考え方と、相手がして欲しいと思っていることをする、つきつめていくとこの二通りが残るような気がする。
お互いが領域に入り込んで、どっちとはいかないと感じられるけど・・・・。自分ができないことはしてあげられないのだし、相手が望んでいることでなければ、全くの余計なお世話で終わってしまう。
でも、こういう区別の仕方しか、今は思い浮かばない。
自分ができることというのは、自分がしたいこと、つまり無理はしない。
相手がして欲しいことに合わせると、自分ができる領域を超えて、がんばってしなくてはならなくなる。できそうな自信もないのに、やってみようとしてしまう。
今回の新生児のお世話をする、というのは、とっても難しい選択だった。断る人もいた。でも、一番相手が望んでいることは、新生児のお世話をしてあげることだった。
私は、最初は新生児のお世話は経験もあるし、容易にできることと考えていた。しかし、実際に日本でならまだ病院にいる新生児(米国では健康であれば母子とも2日間入院、最近は1日で退院させようとする)を手に抱いて見ると、正直なんともいえない恐ろしさがあった。呼吸も下手で、吸うだけ吸って、吐けないときの赤ちゃんの形相は、私を震え上がらせた。もし、この子になにかあったら・・・・。
おまけに、頼まれもしないのに、相手を慮って、自分の予定の大部分をキャンセルしたから、ドタキャンへの申し訳なさもあって、疲労感は相当なものだった。頼まれもしないのに、見かねての行動だから、自分で判断した行動だ。すべてが。
友人曰く、ボランティアでは無理をしてはいけない。自分ができることだけをしないと、見返りを求めるし、恩を着せたくもなるから。
それはそう。わかるし、納得できる。でも、目の前に困っている、泣いている人がいたらそうできるだろうか。私は、今日は予定があるから、できません。そう言えるだろうか?
ただ、他の方法を探す努力はしなかったかな。他の方法はあったのだろうか・・・。
公共の交通機関もないこの地で、車の運転もできず、英語をまったくしゃべれない人が、どうやって新生児の面倒を見ながら、娘の介護をしに、高速で30分も離れた病院にいけただろうか・・・・。それでも、できることだけを、自分に合わせてしてあげればよかったのだろうか。と、考える。