豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

J・ギースラー『ハリウッドの弁護士(下)』

2023年12月16日 | 本と雑誌
 
 ジェリー・ギースラー/竹内澄夫訳『ハリウッドの弁護士--ギースラーの法廷生活(下)』(弘文堂、1963年)を読み終えた。フロンティア・ブックスという弘文堂から出ていた新書版の1冊。

 ハリウッド界隈で起きた痴情による殺人事件、スターたちの離婚裁判や、ロバート・ミッチャムの麻薬事件、選挙をめぐるフレームアップ事件(ロスでは市長や地方検事候補者をハニートラップ、中でも未成年者淫行罪で引っ掛ける事件が横行したらしい)、さらにはハリウッドのやくざや賭博師がかかわる事件の弁護もしている。「東京クラブ事件」など何かと思ったら、ハリウッドの「東京クラブ」という名前の鉄火場で起きた日系賭博師が絡む殺人事件だった。
 ロバート・ミッチャムの事件もハメられた感じがある。オフの日に友人に誘われて出かけてみると、室内でマリファナ・パーティーが始まっており、彼が差し出されたマリファナを受け取った瞬間にガサ入れの警官が踏み込み、彼は逮捕されたという。ギースラーは、陪審裁判で彼がマスコミのさらし者になるのを避けるために、あっさりと有罪を認めさせて、60日間の刑期も済ませて芸能界に復帰させたという。
 民事事件では離婚関係が多く(シェリー・ウィンタース、グレタ・ガルボその他)、離婚原因の姦通(不貞)、離婚時の財産分与、離婚後の親権(監護権)や子の養育費、祖父母の孫との面会交渉権など、今日的な問題のオンパレードである。
 ぼくの感覚からは「こんな事件まで・・・」と思うような事件の弁護も引き受けているが、彼なりの倫理観に基いてはいるのだろう。

 チャールズ・チャップリンのマン法違反事件というのも印象的である。
 1942年当時のカリフォルニア州には性的目的で州外に移動する者に旅費を渡すなどした行為を罰する法律があった。チャップリンは、若い女優の卵と恋愛関係にあり、やがて破局した際に(チャップリンが彼女に飽きたのが原因だったという)、彼女がニューヨークに帰る旅費を渡したところ、同法違反で起訴されたという事件である。
 チャップリンは被告人席に座ると足が床につかないくらいの小さい男だったが、その被告人席でしょんぼりと肩を落として陪審員席を見つめていたという。それが演技だったのか本当に憔悴していたのか、ギースラーには判断できなかったが、その効果もあってか、当初はチャップリンに反感を抱いていた陪審員たちも最後には無罪の評決を下した。
 もちろんマン法が定める構成要件に該当する行為も故意もないことが証明されたから無罪になったのだろうが、ぼくにはその時のチャップリンの姿が手に取るように想像できる。おそらく演技だったのではないだろうか。冒頭の本書(下巻)の右側がチャップリンである。
 チャップリンはあけすけな性格で、彼女との関係を全く否定しなかったばかりか、「私の人生にとってセックスは重要なことではない」とまで証言したという。戦争が終わるとチャップリンはアメリカを去って行った。ヒットラーから逃れたアメリカで、今度はマッカーシズムから逃れるハメになった。
 そう言えば、この本にはマッカーシズム時代のハリウッドのことは全く出てこない。

 クラレンス・ダロウとの交流も印象的だった。
 1886年にアイオワで生まれたギースラーは、弁護士になりたいという野望を抱いてロサンゼルスに出て、材木運びの荷馬車の御者をしながら南カリフォルニア大学のロースクールで学び、アール・ロジャースという有名な刑事弁護士事務所の書生となった。
 書類運びなどの仕事をしながら司法試験に合格するのだが、当時のカリフォルニア州の司法試験はあっけないほど簡単だった。試験委員の裁判官に向かって、住所・氏名・年齢と、最近読んだ法律書の書名を答えるだけで合格したという。
 合格直後の時期に、ダロウが労働事件で労働者側の弁護人を務めていた際に、検察側の罠にハメられて陪審員買収の廉で起訴された事件で、ダロウはロジャースに弁護を依頼するが、事務所で見初めた若いギースラーにも弁護人になることを依頼したのであった。このことを名誉に思ったギースラーは、生涯ロジャースとダロウの写真を事務所に飾ったという。

 「アメリカは有罪だ」(この本はサイマル出版会から出ていたのではなかったか?そうだとすると、本書の編集者である田村勝夫さんと繋がる)のクラレンス・ダロウと、「ハリウッドの弁護士」のギースラーとはどこで繋がっていたのか訝しかったが、そんな馴れ初めだったのだ。

 2023年12月16日 記

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