半藤一利「荷風さんの戦後」(筑摩書房、2006年)を読んだ。
川本三郎さんとは違った角度から見た永井荷風の違う側面を知りたいと思ったのだが、それなら荷風の天敵菊池寛の創業した文藝春秋の編集者だった半藤の書いたものがふさわしいのではないか。
半藤は自らを「歴史探偵」と称するが、「傍観者」といいながら軍人や軍国主義者に対する反感、憎悪の感情(「田舎漢」!)をあからさまに日記に記した荷風が、戦後の日本社会に対してどのような関心を持っていたかに興味があったので、半藤の本書も面白く読んだ。半藤の書いたものを読むのは今回が初めてだが、もっと硬い文章を書くのかと思っていたので、江戸っ子風の文体は意外だった。
半藤は、「断腸亭日乗」の中から、荷風の好色さ(「日乗」の日付の上に付けた「○」だの「●」だのという印はその日の性的事項の有無を暗示するものだそうだ)、勘定高さ、吝嗇ぶりを示すエピソードなどを紹介するだけでなく、「日乗」には戦後史の何が書いてあり、何が書かれなかったかを検討し、さらには「日乗」以外の文献から「日乗」には書かれなかった荷風の戦後の言動を紹介する。
川本さんの描く荷風には、「東京」の「風景」を発見した「見る人」としての荷風、江戸情緒と近代人の二面性を持つ「明治の児」としての荷風に対する川本さんの敬愛の念がにじみ出ているのに対して、半藤の描く荷風には、好色で奇行の目立つ老作家荷風に対する皮肉で冷ややかな視線が感じられる。荷風のことをしばしば「爺さん」と揶揄的に呼んだりもする。
ただし半藤も、戦後間もなくの学生時代に中公版「荷風全集」の「日乗」で読んだ「時流に流されぬ堅固な姿勢と、日記を書き続けるゆるぎない筆力と、流暢な、あまりの名文に」は舌を巻いたのであり、敗戦後の物資不足の折に「断腸亭日乗」を含む「荷風全集」を刊行した中央公論社への感謝を記している(157頁)。
本書の著者は川本さんとはそりが合わないのだろう、川本さんの浩瀚な著書「荷風と東京」はまったく引用されることなく(参考文献欄にも載っていない)、わずかに市川時代の荷風の日常生活を支援した青年に関する川本さんの随筆を引用するだけである(164頁)。
「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)を読んだときに、ぼくは荷風は昭和天皇のことをどう思っていたのかということが気になった。とくに難波大助事件の伏字と13行だったかの削除部分に何が書いてあったのかが気になった。本書でもその回答は得られなかったが、昭和20年の天皇とマッカーサーの会見の写真が新聞紙に掲載されたことに対する荷風の感想が記されている。
荷風は、「余は別に世の所謂愛国者と云う者にもあらず、また米国崇拝者」でもないが、「日本の天子が米国の陣営に微行して和を請い罪を謝するが如き」ことがあるとは思わなかった、幕府瓦解の際に慶喜がとった態度は今日の陛下よりはるかに名誉あるものだった、これに反して、昭和の軍人官吏の中には勝海舟に比すべき良臣がいなかったと書いている(9月28日)。
「荷風は、思いもかけぬ天皇好きであったのだろうか」と半藤は評しているが(46頁)、ぼくは必ずしも「思いもかけぬ」とは思わなかったが、戦前の「日乗」もきちんと読まなければ判断はできない。
「摘録・断腸亭日乗」(したがって岩波全集版「断腸亭日乗」)の昭和22年5月3日の項は、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」となっている。おそらくこれが「日記」の原文なのだろうが、昭和31年に発表された「葛飾こよみ 荷風戦後日暦」の同日の項では「日本新憲法今日より実施の由なり」と書き改めていたという(105頁)。
ぼくは「摘録・断腸亭日乗」を読んだとき、この「笑うべし」の真意が何だったのかに引っかかった。つい先日までは「鬼畜英米」とか言っていた連中が、手のひらを返すようにアメリカ人におもねる姿を笑ったのか、それともアメリカ嫌いの荷風であったから、アメリカ人の作った憲法を笑ったのか。
それでは昭和31年の改変はどういう意図だったのか。昭和31年といえば日本の逆コース化、対米追随がますます明確化する時期である。この時期に「米人の作りし」憲法とか、「笑ふべし」といった文言を削除した荷風の本心はどこにあったのだろうか。
荷風「日乗」がふれなかった戦後の事件が列挙されているのも興味深い。
荷風が無視した事件としては、例えば、昭和22年では、ヤミ米拒否の山口良忠判事の餓死事件、極東軍事裁判の審理開始などは一切記載がない。昭和23年には、帝銀事件、菊池寛の死去、太宰治の情死などは無視されるが、極東軍事(東京裁判)で「旧軍閥の首魁荒木東條」らに死刑判決が出たことを報じる号外が電柱に貼り出されたことは書き残している(166、7頁)。
文士を嫌い、それこそ文士の首魁ともいうべき菊池を嫌った荷風が太宰や菊池の死に関心を示さなかったのは当然だろうが、東京裁判はどう思っていたのだろうか。少なくとも「米英豪による報復裁判、笑うべし」とは書かなかった。半藤によれば、この頃から「日乗」の記述は俄然、簡略になりはじめるという(169頁)。
昭和24年には、下山事件、三鷹事件、松川事件は無視するが、日参していた浅草のストリップ劇場のストライキには言及する。スト解除後に出かけてみると、米兵が舞台に上がって踊り子と戯れており、これを傍観する邦人の気概の無さに憤慨する(181頁)。この年ドッジラインによって戦後のインフレは終息に向かうが、この時期から「日乗」からも物価高騰に対する恨みは完全に消えるという(185頁)。
ぼくが生まれた昭和25年頃には、浅草ロック座のヌード嬢の楽屋に日参してはマスコミの餌食になっていたらしい。川本さんを読む前は、荷風といえば浅草のストリップ小屋の楽屋で踊り子と戯れる老人というイメージを持っていたが、この頃の荷風の実像だったようだ。
その浅草ロック座で軽演劇用に書いた原稿を、天敵であるはずの文藝春秋(新)社「オール読物」の上林吾郎に手渡している。舞台の宣伝用だろうから、荷風は「商売上手」であったと半藤は書く(190~3頁)。
林芙美子、吉屋信子に関する「日乗」の記述はそっけない。荷風は美人が好きだったので、このお二人は到底美人とは言いかねるのが原因だろうと評した者があったという(207~9頁。半藤の評価ではない)。
「日乗」では無視するか、きれいごとで済ませているが、実情はそうでもなかったという事例が、荷風が市川で居候した小西茂也(知人だった仏文学者、「ゴリオ爺さん」「風流滑稽譚」などの訳者)や後に荷風の養子となった永井永光のエッセイなどから紹介される。大家にとって荷風は厄介な居候だったようだ。
従兄(従弟?)の杵屋五叟宅に居候をしながら、(荷風)「先生」は、三味線の稽古が始まると火箸を叩いて妨害し、下駄や靴のまま畳の上を歩き、雨戸から放尿したりしたと養子は書く(87~90頁)。
小西宅では、襖を締め切った座敷の中で七輪の火をおこす。娘が「火事ですか」と注意に行くと、「はいはい、火事ですよ」と平然と答えて雑誌類を燃やしつづけたこともあった(159頁)。幸田露伴の葬儀の際は、喪服がないので「平服」で遠くからお送りしたと「日乗」には書くが、当日荷風が実際に着用した「平服」とは、麦藁帽子に白いシャツ、黒ズボンに下駄ばきだったと小西は書く(123頁)。
昭和28年、荷風の文化勲章受章に陰で貢献したのは久保田万太郎だったと中央公論社の社史に書いてあるそうだ(215頁)。中央公論社長の嶋中鵬二の工作もあったと思われる。授与式で着用したモーニングは先代嶋中雄作の遺品だったという。荷風自身は当時刊行中だった「全集」の中の「断腸亭日乗」に対して授与されたと考えたようである(213~25頁)。
川本さんのものを読めば、荷風の文化勲章受章も宜なるかなと思うが、半藤を読むとよくぞこの人物がという思いがわく。
半藤には菊池寛をテーマにした書物はあるのだろうか。あれば荷風論と照応しながら読んでみたい。
「断腸亭日乗」の完全版と称するものが岩波文庫から刊行され始めたが、いささか眉に唾して読まなければならない。少なくとも、そのすべてが史実、事実だとは思わないほうがよいだろう。あれも一種の作品、フィクションと言わないまでも脚色された日記と思って読んだほうがよさそうである。
2024年9月12日 記