ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ブラウン・バニー:ヴィンセント・ギャロが描いた「わりきれない」思い

2005年04月24日 | 映画♪
「退屈」なだけという人もいるかもしれないが「ロードムービー」は嫌いではない。通り過ぎていく変わり映えのしない風景も、ドキドキ・ハラハラすることのない展開も、主人公の心象風景を追いかけるだけの映像も、ともに嫌いではない。ジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースとも違う、ちょっとつくり過ぎの感はあるけれど、「バッファロー'66」のヴィンセント・ギャロが描いたロードムーピーの秀作。

バイクレースの最終戦も終わり、バド・クレイ(ヴィンセント・ギャロ)は、レース終了後まもなく黒いバンにマシンを積み、カリフォルニアへとアメリカ横断の旅に出た。途中、バドはガソリンスタンドでヴァイオレットという女性に声をかける。彼女を旅へと誘い出し、いざ出発という段になって、バドは彼女を置き去りにして出発する。バドは元恋人のデイジー(クロエ・セヴィニー)の実家を訪ねるが、母親はデイジーの行方を知らず、またバドのことも覚えていない。途中、ベンチで孤独そうな表情を浮かべているリリーを発見し、キスをするのだが…




この映画には結末はない。多くのロードムービーがやはり結末を持たぬように、あるいは僕らの人生の事柄の多くが完全に結末を迎えることがないように。バドは一体何を追っているのだろうか。バドは街で見かけた女性に声をかける。ある時は一緒に旅に出ることを誘いながら、ある時、互いの孤独を埋めるように。しかし彼の中の何かが歯止めをかける。結局何もできぬまま、彼は旅を続けていく。僕等はその理由を知りたいと思う。何故何もしないのか、何故その瞳には力がないのか、何故浮かぬ表情を浮かべているのか、何を求めているのか――。

バドのそうした姿、様子、行動に、僕等は自らの経験や想像を重ね合わせながら、その理由を探そうとするのだろう。こうした見方は間違いではない。想像力は経験の積み重ねによって深みを増し、想像力の伴わない物語の読み方はそこに意味を生み出さないのだから。

しかしこれはあくまでバドの心を追った物語だ。多くの人の想像力はここで裏切られることになる。

終盤、彼の前にデイジーが現れる。彼の元から姿を消し、そして彼が探して求めていた女性だ。しかしあれほど会いたがっていたにも関わらず、いざデイジーを前にした時のバドの感情は複雑だ。「愛情」と「拒絶」、「楽しかった頃の思い出」と「許しがたい記憶」、自分のものにしたいという「支配欲」とそうできなかった「記憶」。しかしこれらの感情は果たして「デイジー」に向けられていたものなのだろうか。

例えば「嫉妬」という感情。これは相手が「何か」をできているから感じる感情なのか、自分が「何か」をできていないから感じる感情なのか。

あるいは「憎しみ」。当然これは当事者2人の関係を通じて発生する感情だ。しかし相手に「何か」をされたから「憎しみ」を感じているのか、相手に「何か」をされてしまった自分に対する「憤り」や「怒り」が、その矛先を変え相手にぶつけられているだけなのか。

人の感情とは決して単純に「言語」に置き換えられるものではない。様々なエネルギーが矛盾を抱えた1つの在りようとして存在するのだ。特にそれが自分が抱え込めないくらいのショックを受けたのだとしたら、それが自分が処理できる形に収まるまでは、混沌と矛盾と激しい感情の荒波の中で生きざろうえない。

デイジーに対してセックスではなくフェラチオを求め、問い詰めるバドにはあきらかに何らかの屈折がある。「売女め」とののしりながら、「俺を裏切った」と泣き崩れる姿は、未だに整理しきれない複雑な感情を抱いている証左に他ならない。

「ただ歩いた、家に帰りたかった」と語るバドは、その時から「帰りたかった家」(=楽しかった日々)も「帰るべき家」(=現実)からも離れた場所を旅することになったのだ。この旅の終わりはバドが見つけるしかない。

ロードムービーの多くが結局、結末を持たないのは、現実というものの多くが「予定調和」な物語のように感情の整理をできるものではないからだ。僕がロードムービーを好む理由も、こうした現実の「わりきれなさ」に生きざろうえない主人公達に自分を重ね合わせてしまうからなのかもしれない。


【評価】
総合:★★★★☆
ロードムービ度:★★★★★
あんなシーンがあると女性には…:★★☆☆☆


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「ブラウン・バニー」/ヴィンセント・ギャロ


「パリ、テキサス」/ヴィム・ヴェンダース


「ダウン・バイ・ロー」/ジム・ジャームッシュ


「バッファロー'66 」/ヴィンセント・ギャロ



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