ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

APPLESEED-モーションキャプチャーがつくる限界と可能性

2005年02月28日 | 映画♪
原作が士郎正宗だとか、モーションキャプチャーがどうだとか、切り口は幾つもあるのだろうが、この映画の最大の魅力は何と言ってもメカの動きがかっこいいことだ。「スターウォーズ」の「Xウィング戦闘機」にしろ、「ナウシカ」の「メーヴェ」にしろ、「ガンダム」の「ザク」にしろ、古来、SFやアニメはメカがかっこよくないと始まらない。それにしても「暗殺サイボーグ」や「ランドメイド」の疾走感、しなやかさと言ったら、「マクロス」の「バルキリー」の登場以来じゃないだろうか。しかしその一方でそのストーリーにも関わらず「軽さ」と違和感を感じずにはいられない。モーションキャプチャーが生み出した限界と可能性が見え隠れする、新しい時代を予感させる作品。

西暦2131年。非核大戦は世界を壊滅に近い状態に追い込み、勝利国のないまま、都市「オリュンポス」によって統治されようとしていた。「ヒト」同士では争いを避けることができないとして、「オリュンポス」では感情や欲望を抑制された優良種クローン人間「バイオロイド」が住民の50%を占め、人と人の緩衝材となり、また都市の行政を行っていた。
未だ戦地で兵士として戦いつづけるデュナン・ナッツの前に、突然、巨大なヘリが現れ、彼女を拉致する。「オリュンポス」に連行されたデュナンの前に、サイボーグと化したかつての恋人ブリアレオスとヒトミと名乗る女性が現れる。戦場から平和な街に救い出され、安らぎを感じるデュナン。無事、入植も許可され立法院へむかう矢先、ヒトミとデュナンの乗ったダミノス式自動車がサイボーグに襲われる。デュナンはブリアレオスによって助けられるが、サイボーグは死に際に「アップルシードの封印を解くな」という言葉を残していく…





何ともいえない不思議な感覚。仮にここに登場するのがキアヌ・リーヴスやミラ・ジョヴォヴィッチ、ユマ・サーマンであったら違和感がなかったのだろうか。原作は「攻殻機動隊」の士郎正宗。事実、テーマ自体はかなり先進的なものでもあり、深遠なものを含んでいる。にも関わらず、あまりにもゲームを見ているようでもあり、リアリティを感じない。この感覚は「ファイナルファンタジー」の時のそれと同じであろうか。

モーションキャプチャーに対しての意見というのは以前書いてものと基本的には変わっていない。ただ今回、実際に「アップルシード」を見てみて思ったのは、例えばブリアレオスやランドメイドのような「無機質」な者の動きに対しては実際の動き以上にリアリティを与えられるというもの。人という有機物については難しくとも、無機質な物体の動きに対しては、2Dのアニメを超える可能性は十分にある。

以前にも書いた通り、仮にどれだけ「動き」を模倣できたとしても、それで全体から醸し出される「雰囲気」「感情」「オーラ」「魂」「存在感」というものは語り尽くすことはできない。例えば「オリュンポス」でブリアレオスと出会い、安心しつつもしかしベットではなく床で寝てしまうデュナンの姿というのは、「安堵」「不安」「警戒心」そういった様々な要素がその姿や表情、雰囲気の中に込められなければならない。しかしモーションキャプチャの動きとあの平面的な絵柄では、確かにポーズとしてはそれでいいのかもしれないが、何も語りはしない。例えばより精緻なデータによって顔の輪郭までもなぞったとしてもそれだけではない。ここに1つの限界があるといってもいい。

モーションキャプチャーが測ることの出来ない「魂」の重さ

それに対し、ブリアレオスやランドメイドといった無機質の生体にとって、語るべきものは「動き」が中心とならざろうえない。おそらく実際にランドメイドのような機械ができたとして、あれほど滑らかな動きを実現するとは至難の業だろう。しかし、だからこそ、モーションキャプチャを使った動きは「人」に近い存在感を描き出してみせる。

ある意味、歌舞伎と同じように「型」こそがその登場人物の感情を表現するのだ。

今後、おそらくモーションキャプチャーを利用した3Dアニメと実写の融合は、特にハリウッドを中心にますます進むだろう。明確に表現できるものを重視するハリウッド映画にとっては明示的なリアリティ(例えば表情やポーズ)を追求することで、実際にリアリティが増すと考えがちだからだ。その意味でこの映画は未来への一歩となるのかもしれない。


さて、この映画の内容的な部分について。

人間たちの背負った原罪、自らの欲望を律することができないという愚かさに、七賢老たちは「ヒト」の生殖機能を停止させ、逆にバイオロイドたちによる新人類に地球の運命をゆだねようとする。「ヒトの安楽死」。

確かにヒトは理性の時代と言われた20世紀でさえも2つの大戦を行い、未だ戦いを止めようとはしない。ヒトが争いを続けるのはその通り、欲望を持って生まれてしまった原罪なのだろう。それに対して感情を抑制されたバイオロイドたちの世界というのは争いがないのだろうか?

生殖機能を制限することが、仮に感情や欲望を抑制することと繋がっているのだとしたら、封印を解かれた以上、そこに原罪は生じないのか。生殖行為を行うということは単に義務としてセックスをするというだけではない。そこには1つになりたい、所有・独占したいという欲望や「愛」やその裏返しとしての「嫉妬」「憎悪」といった感情と繋がっている。行為としてのセックスや感情や欲望を含めて、それらは「生きるための力」や「意志」、「エネルギー」の表現形態でしかない以上、バイオロイドたちがこれまで同様の「抑制された」存在ではありえないのだ。

この「生きるための力」をある時は「リピドー」と呼び、ある時は「呪われた部分」と呼び、また「原罪」と読んできたに過ぎないのだから。

最後の「I」の文字を打ったのは誰なのであろうか。ガイアなのか、七賢老なのか。いずれにしろ、「争い」や「憎しみ」といったことを繰り返しつづけると同時に、それを回避する知恵をもったヒトとバイオロイドに、僅かながらの希望が託されたということなのだろう。


【評価】
総合:★★★☆☆
メカの疾走感:★★★★★
アメリカのオタクたちが喜びそう度:★★★★★

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