ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

モーションキャプチャーが測ることの出来ない「魂」の重さ

2004年09月12日 | Weblog
同じ士郎正宗原作でも「イノセント」は見たが「アップルシード」はまだ見ていません。その理由は、押井守ファンとしては同時期に公開だった「アップルシード」に対して「イノセント」の方がいい映画に決まっている!という気持ちがなかったわけでもありまんが、「アップルシード」の予告編を見た時、そのモーションキャプチャーを使った動きに拒否反応が走ったからです。モーションキャプチャーを使ったアニメなんてレンタルで十分だろう、と。

浜野保樹さんの「日本発のマンガ・アニメの行方」でモーションキャプチャーの前身でもあるライブアクションの記事が載っています。この記事によると、もともとライブアクションというのはコストダウンを狙って用いられたものだとか。

「日本発のマンガ・アニメの行方」

どうしてもモーションキャプチャーというと、「ファイナルファンタジー」に代表されるように、滑らか過ぎてかえってリアリティを失うわりに制作費を高騰させる一因というイメージがあったので、「アップルシード」が低予算でできた理由にモーションキャプチャーが挙げられてのには意外な感じがします。何か新しいやり方でもあったのでしょうか。


アメリカのアニメのように過剰なオーバーアクションに慣れている人なら別でしょうが、日本のアニメで育った人間としては、あのモーションキャプチャーの異常な滑らかさというのはやはり好きになれません。日本のアニメの動きがリアルかといわれると、それはそれで違うのですが、1つには慣れているという理由で、もう1つは動きが制約されている理由で、リアルさを感じてしまいます。

実際、人間の動きなんて全く止まっている部分というのはないわけですが、私達が「誰かを見る」という行為は適当に情報を間引いており、重要な変化・大きな動き以外は気が付かないことが多い。また私達の動作というのは、一連の動き自体は滑らかに動いているわけですが、例えば「振り向く」という行為1つとっても振り向き始めから止まるまでの間に「速度の変化」があり、しかもそれはかなりの"ゆらぎ"を伴うものです。これらの情報処理を現状のモーションキャプチャーでは処理しきれていません。

ではこれらの情報処理が可能になるとモーションキャプチャーを利用したCGとリアルな人間が演じた映像との区別がつかないかというと、やはりこれは難しいのではないかと思います。

役者というのは生身の人間です。そして生身の人間というのは様々な感情をつくりその感情が結果として動きに反映されるものです。

例えば目のちょっとした動き、表情の微妙な変化、これらは「動き」という部分だけとれば同じものを模倣することは可能かも知れません。しかし眼光の鋭さというのは単に色合いや光の加減ではないように、あるいは表情の変化とともに発せられる緊張感や悲しみといったものは、何も「部分的な動き」の集合として現れているものではないように、全体からかもし出される「雰囲気」、「感情」、「オーラ」、「魂」、「存在感」といったものは自然科学が得意とする部分解析の集合では語り尽くせないのです。

それは例えば生の演劇とテレビで放送される演劇とで、同じ公演であったとしても全く別なものとなるように、あるいはテレビ中継では伝わりにくい投手の不安や焦りといった感情の起伏が、球場へ行くと小指ほどの大きさにしか見えない投手からもまざまざと伝わってくるように、生命のもつ力、発散されるエネルギー、単純に視覚で把握されるものとは違う何かを全てモーションキャプチャーがトレースできるわけではないでしょう。

そういう風に考えると、リアリティの追求(生身の動きのトレース)を捨て、独自の文体でリアリティを描こうとするこれまでの日本のアニメの方がかえってリアリティを作り出しているのではないか、と思います。



1 コメント

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Unknown (じん)
2004-09-12 17:32:56
感受主体個々の思考が他の普遍性を存在しえなくしている、と。

いやはや、今日も秀逸ですねぇ

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