ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

【映画】原田芳雄の魅力を堪能する「鬼火」「竜馬暗殺」「われに撃つ用意あり」

2012年07月16日 | 映画♪

何故か急に原田芳雄のお好み焼きを焼くシーンが観たくなって、「鬼火」を借りてくる。で、あらためて原田芳雄の演技に魅せられて続けざまにCSでやっていた「竜馬暗殺」と「われに撃つ用意あり」を観る。うん、やっぱり凄いよね。

竜馬暗殺 / 黒木和雄監督


「竜馬暗殺」は1974年公開のATGの作品。監督は黒木和雄で、坂本竜馬役を原田芳雄が、中岡慎太郎役を石橋蓮司が、他にも松田優作や桃井かおり、妖艶な女郎役を中川梨絵が演じている。この作品は坂本竜馬が暗殺される直前の三日間を描いた作品なのだけれど、歴史的な正確性はさておき、とにかくこの作品が製作された「時代」を感じさせられる1本だ。

石橋蓮司が語るところによれば、この頃はその作品に「出るか」「出ないか」が問われていた時代であり、ギャラの金額などは関係がなく、まして京都のロケではお寺に寝泊りし、東京への帰りの電車賃さえ支払えず役者が自腹で払ったそうだ。金がなくても気概はある、世界に挑みかかろうという精神と、商業主義に対して作家性や作品そのもそのを取り戻そうとしていた時代。

実際、幕末を舞台にしながら、その路線対立を巡って薩摩と土佐や竜馬らの「内ゲバ」の様は70年代安保や学生運動の末期と重なってくる。竜馬と中岡の言い合いも、まさにセクト間の言い合いそのままだ。そしてそれらの思想・路線対立に嫌気がさした町人たちは盲目的にただ「ええじゃないか」と享楽的に騒ぎ立てるのだ。

時代の熱気がそのまま役者に乗り移り昇華された作品だ。

この作品を見ているとそこにはある種の「主張」や「存在理由」が存在することに気づく。観客が何を求めていようとこの作品には関係ない。求めているものを欲するならば商業映画に観ればいい。この作品は作品性に共感できるものが観るべき映画であり、監督や作家はその作品の「存在理由」や「独自性」を磨き上げなければならなかったのだ。

しかしどうだろう。最近のインディペンデント映画や低予算映画、あるいは小劇場といったものに、そうした「存在理由」はあるのだろうか。何となく笑いに包まれ、エンターティメントであろうとする。お客に「媚びた」ような作品が多くないか。ふと、そんなことを考えさせられる。

むろんそれを一概に悪いことだとは言うつもりはない。「主張」や「存在理由」がぶれないのであれば、よく多くの人に見てもらう、楽しんでもらうということは悪いことではないし、新しい革新的な表現の仕方が、次のメジャーな表現になることもある。実際、以前のように商業主義/アンダーグラウンドという二項対立では分けられないような世界になっているし、面白い作品はメジャーだろうがアンダーグラウンドだろうが面白いし、いい作品は同じようにいい作品だ。しかしその結果、このような作品は生まれてきているのだろうか。

そして僕らが作品を作ろうとするときにそうした「レゾンデートル」は存在しているのだろうか。


あの頃映画 「われに撃つ用意あり READY TO SHOOT」/ 若松孝二監督


「われに撃つ用意あり」(1990年公開)は、全共闘世代のノスタルジーを感じさせるハードボイルド作品。新宿・歌舞伎町でバーを経営する郷田の下に、ヤクザに追われた台湾女性が逃げ込んでくる。郷田は元・全共闘の闘士、そこに訪れる常連客も、今でこそ様々な職業について安定した生活をしているが、全共闘運動に興じた連中だ。

出演者の面々も原田芳雄をはじめ、桃井かおり、蟹江敬三、石橋蓮司、山口美也子、西岡徳馬、斉藤洋介など、あぁ、こういう時代の人々なのねと感じさせるメンバー。

この作品では理想を掲げ学生運動で活躍した面々が、すっかり落ち着いた「現実」の生活の中で、かってと同様に不条理な社会を見せ付けられた時に何ができるかが問われている映画ともいえる。かって機動隊とゲバ棒をもって対立していたメンバーが、「警察に頼ろう」という言葉を吐いたりする。そうした全共闘世代の「喪失」とそれでもその不条理に立ち向かおうとする郷田(原田芳雄)やその同士を最後まで付き合おうとする李津子(桃井かおり)に見える「覚悟」に、若松監督のこの映画への想いが伝わってくる。

あの時代は何だったのか、あの時代を生きた者たちはどうしているのか、と。

そして何といっても原田芳雄がすばらしいのが「鬼火」だ。

鬼火 / 望月六郎監督


ヒットマンとして活躍していた国広(原田芳雄)が刑期を終えて出所する。堅気で生きようとする国広だが、闇金の取立てで手柄を立てたことから明神組に迎え入れられる。そして麻子(片岡礼子)との出会い。麻子から「殺したい男」がいると迫られた国広は麻子に拳銃を手渡し、犬を撃ってみるように促す。そして殺すことの意味を諭すのだった…

この作品では「竜馬暗殺」のような力みはない。しかし独特の味わいや雰囲気は変わらずだし、力が抜けた分、柔らかさが出て深みが増した感がある。

そう考えると役者というのも不思議な存在だ。その役を自分のものとするために、分析し、作りこめば作りこむほど「力み」や「やり過ぎ」感が出てくることになる。しかしそうした「力み」が抜けることで、より人間らしく役柄を演じられることになる。淡白に演じればその役自体が死んでしまい、やりすぎれば役者自体のアクが鼻に付く。どれだけその役を自分のものにできるか、そしてその役に人間くささや魅力を与えられるか。原田芳雄の演技を見ていると、どれもが原田芳雄でありながら、この役はこんなキャラクターなんだという納得感がある。

他の役者陣もいい味をだしている。国広のムショ仲間でゲイ役を演じた北村一輝はホンモノかと思わせるほど堂に入っているし(テルマエよりもよっぽど合ってる気がする…)、片岡礼子も薄幸感を漂わせながらいい雰囲気を出している。

物語としては決して複雑でも斬新なものでもないのだけど、役者陣が見事に演じることで、これだけ深みのある作品に仕上がっているのだろう。


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