ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ブラックジャックとドクターキリコ

2005年11月06日 | 読書
手塚治虫の「ブラック・ジャック」(マンガ版)の中にドクター・キリコという登場人物がいる。原作の中ではブラック・ジャックとは対極の「人を殺す」医者として描かれた人物だ。こう書くと明らかに悪人だが、実際、マンガの中でも肯定的な存在ではないわけだけれど、決してただの「悪」として捉えることができない役割を演じている。つまり彼は現代医学の施しようのない状態で苦しんでいる患者に対して「安楽死」を導くという役なのだ。今、読むと、手塚治虫が「ブラック・ジャック」を描いた頃、つまり「科学」(および西洋医学や西洋の「知」)に対する信頼が高かった時代以上に、このドクター・キリコに対するシンパシーは現代のほうが高いのではないか、そんな気になってしまう。



「ブラック・ジャック」が書かれた時代の人気の度合いや評価が分からないので何ともいえないが、「ブラック・ジャック」自身に対する人気というのは今の方が低いのではないだろうか。例えば、キャラクター。まぁ、もともと「Dr.コトー診療所」のような人の良さや奉仕の精神が前面にでることはないのだけれど、それだけが理由ではない。

無免許であり、「医学界」「医局」といった本流から離れながら活躍するという「アウトローさ」や巨額な手術代を要求する代わりに天才的な外科手術を提供するといった「プロフェッショナル」ぶりは、ある意味現代のほうが共感されやすいはず。また5000万円相当の手術費用を少女の折った「風車」で済ませたりと弱者に対しての優しさもある。しかしこうした姿は今、人気の医療マンガ「医龍」の朝田と共通するところも多い。にもかかわらず、ブラック・ジャックには朝田のような明るさは感じられない。

これは何故か。

ブラックジャックが医療に携わるモチベーションの根底には「復讐心」があり、逆説的ではあるけれどこの物語自体に「世の中は金が全てできない」といったメッセージがあったりと、基本的に社会に対する「反抗心」「ルサンチマン」のようなものが根底に流れている。それに対し「医龍」では、「医療」「人を救う」という行為に対する「希望」「信念」「信頼」といったものが前提になっていることもあり、「肯定的」なイメージが強い。ブラックジャックが現代に合わない原因として、この「ルサンチマン」がある。

またマンガというものが現代の世相をそのまま反映していると言うよりも、現在に不足しているもの、社会が求めているものを反映させやすいということもあるのかもしれない。「ブラックジャックによろしく」などは現代の医療の抱える問題を描いているから人気なのではなく、おそらくそこで直面する問題に諦めるのではなく、「生きる」とは何か、「医療」とは何か、を問い続けあがきつづける研修医・斉藤英二郎の姿に「共感」や「希求」を抱くからこそ人気があるからだろうし、「医龍」などもそうだろう。

そういう意味で、ブラックジャックというキャラクターはその暗い部分があまりにありそうなのだ。社会が拝金主義化し過ぎており、「医者」といった「聖職」と呼ばれている人も「徳」や「職業倫理」だけでは成り立たない。そうしたものがあまりにも伝わり過ぎ、「希求」にはならないのだ。

それに対し、原作当時以上に現代の方が共感されるのがドクター・キリコなのではないかと思う。西洋医学の発達にも関わらず未だに直らない病も多くあり、また手術や薬を中心とした治療を行ったからといって「クオリティオブライフ」が確保された「生」になるとも限らない。闇雲に西洋医学を肯定できない時代だからこそ、「安楽死」を与えるドクター・キリコという存在はある面で社会が求めているキャラクターでもあるのだ。

そういった部分も含めて、今、「ブラック・ジャック」を読むと考えさせられることは多い。




「ブラックジャックによろしく」/佐藤秀峰


「医龍」/乃木坂 太郎



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