
◎2016年9月17日(土)
八丁湖……黒岩横穴墓群……ポンポン山……八丁湖……安楽寺……八丁湖P (車) 吉見百穴……岩室観音……松山城址……吉見百穴P (車) 観音寺板碑群 (車) 金蔵院宝篋印塔
午前中の用事を終えると、すでに11時近くになっていた。日、月ともに天気は良くないようなので、どこか軽く歩いてこよう。時間的に山は無理なので、ハイキング程度のものになる。すぐに浮かんだのは森林公園だが、あそこは混んでいそうだ。続いて吉見のポンポン山だかポンポコ山を思い出した。HIDEJIさんのブログで記憶している。HIDEJIさんの記事を改めて拝見。ポンポン山だった。
余計な話だが、自分の年代、少なからず自分には「ポンポン」という擬音からくるイメージは、NHKで日曜日だったかに毎週放映していた「ポンポン大将」だ。桂小金治、飯田蝶子が出ていた。本郷のオジサン役でたまに出ていたのはだれだっけ…。本郷功次郎でないのは確かだが。
ポンポン山だけなら車を運転している時間が圧倒的に多くなるので、吉見町の観光スポットをネットで調べる。八丁湖から歩けば、黒岩横穴墓群というのも見られるようだし、30年ぶりの吉見百穴もいい。さらに板碑群や宝篋印塔を見られるところがいくつかある。どの程度歩けるかは知らないが、まずは行ってみよう。しかし、すでにこんな時間だ。かなり暑くなっている。
(八丁湖)

(ハイキングコースマップ)

(ちなみに)

八丁湖とはいっても池か沼のようなもので、澄みきった湖のイメージには程遠い。灌漑用の池だろう。湖畔に立つ「ふるさと歩道案内図」を見ると、ここからポンポン山までは27分。その先、大回りで吉見百穴まで行くとさらに2時間以上かかる。この暑さの中では避けたい歩き。ここに一旦戻って百穴まで行くと53分か。微妙なところだ。どちらにしても、吉見百穴からまたここに戻らないとならない。考えただけで暑くなる。
いろんなコースが記されている。八丁湖の一周のウォーキングコースは1.6km。ジョギングコースとして2.1kmが設定されている。この先からトレッキングコースが外れ、さら野鳥観察コース、自然植物観察コース、丘陵コースが分岐し、また湖畔に戻るといったコース設定になっている。よくいろんなコースを編み出すものだ。ここからポンポン山に行くにはトレッキングコースを使って、まずは八丁湖エリアから離れないといけないようだ。
コースは舗装された遊歩道になっている。走りやすいのか、ジョギングしている人が多い。10km走るには5周か。
(黒岩横穴墓群はこの歩道の左斜面)

(斜面下に柵があるが、あそこに行くまでがヤブ。物好きしか入り込まないエリアのようだ)

(いくつか確認)

ちょっと行くと、直進方向に黒岩横穴墓群、戻り方向には吉見観音と記された標識があった。これに合わせて、八丁湖から離れると黒岩横穴墓群の看板が出てきた。説明板がある。未発掘の横穴が多数埋没し、推定総数五百基以上で、吉見百穴よりも大規模とのこと。しかし、正面、柵越えの斜面はヤブになっていて、入り込んでみると、クモの巣がやたらとあって往生したが、穴を3つほど確認できた。ここは自然のままになっていて、入り込む人もあまりいないのだろう。
ヤブ蚊が多くて辟易となる。半端な数ではない。もう汗をかいているから余計だろう。顔も含めて10か所近く刺された。ウチワを持ちながら歩いている人がいたが、ここで、あのウチワの意味がわかった。蚊除けだったのか。ヤブの中にさらに突っ込みたかったが、この時期はやめた方がいいだろう。ヤブから出てくる時は顔が変形している。蚊のいない冬の時期ならいいかもしれない。今日は蚊の存在は想定外だった。虫除けもウナコーワも持ってきていないから、我慢して歩くしかない。
(車道に出る)

(道端の石仏)

ここでポンポン山の標識が出てくる。野鳥観察コースの分岐だ。案内図板を見ると、手前に神社に向かう分岐があったようだ。気づかなかった。戻るということは、それだけ蚊に刺されるということで、とにかくここから離れたい。先に行く。
左にいくつか分岐を見ながら道沿いに行くと、車道に出た。標識の向きは、この車道を一旦、下るようになっている。そして、車道の途中から左上の小道を上がる。小道を行くとまた車道。車道の傍らにポンポン山公園無料駐車場があった。あとは標識にしたがって行くと、突き当りが神社になっていて、ここがポンポン山ということのようだ。
八丁湖からここまで33分かかった。黒岩横穴墓群で蚊に刺されて時間をとったから、コースタイムの27分は順当だろう。
(高負彦根神社)

(石仏の裏が山頂)

(山頂)

(あちこち叩いたり蹴ったりしてみたがポンポンの弾み音は聞こえなかった)

神社は高負彦根神社。解説板を読むと、大層由緒のある神社のようだ。山頂は裏になっていて、宝暦年間の石仏と彫りが消えかかった石碑がある。一種の岩峰のようなピークで、「岩山の中腹を踏みたたくとポンポンと音がする」とあったので、あちこちの岩をたたき、さらに下に降りて岩をたたいても、ポンポンの音色はなかったが、これは自分には功徳を期待できないということなのだろうか。残念ながら、筑波山も日光の山もまったく見えない。
(スタート地点に迂回して戻る)

町の中を歩くのも嫌なので、予定通りに八丁湖に戻る。来た時の道。途中から丘陵コースに入り、湖周回のウォーキングコースに合流。その間、さらに蚊に刺され、左ひじはすでに腫れあがっている。吉見百穴に行く途中、薬屋でもあったらキンカンを買っていこう(結局なかったが)。丘陵コースはジメジメしているのか、わけのわからないキノコがやたらとあった。
湖畔を遠回りして元のスタート地点に向かう。ジョギングは相変わらず多く、ウォーキングコースに出るまでに、これでいいのかと、行ったり来たりしていたところもあったためか、着くまでに2回抜かれた方もいた。
(安楽寺)

(八起地蔵尊)

吉見観音の標識にしたがって行くと、10分少々で安楽寺に到着。これが吉見観音。観音様の御開帳は年に一回とのことで、今、見ることはできない。この寺、どこにでもある伝説同様、行基が開祖らしい。上杉憲政と北条氏康の松山合戦で伽藍は焼失し、江戸時代に入ってから再建されたとのこと。手水鉢の水は止めてあったが、鉢の中にある水で左右の腕を冷やした。少しは痒みも治まった感じ。
(ここで嫌になり振り出しに戻る)

そのまま吉見百穴に向かう。すぐに車道になった。何だか、この暑い中、自分がひどくバカ気なことをしているように思えた。憩いの森を経由し、まだ45分も歩くのか。戻ることを考慮すれば、歩きタイムは×2になる。汗を大量にかき、アクエリアスも買い足さないといけない状態になっているし、身体もすでに臭くなっている。やめよう。そんな根性はないわ。八丁湖の駐車場に戻る。また汗をたっぷりかいた。
エアコンをガンガン効かせて走りたかったが、今日の車は軽だ。エアコンをつけた途端にスピードがガクンと落ち、坂道登りがつらい。エアコンを切って、窓を全開にして走らせる。背中がベットリとしてえらく不快。
(吉見百穴)

(軍需工場跡)

(穴の中)

(後世の落書きではないと思うが)

吉見百穴の駐車場に車を入れて、まずは百穴見物。入場料300円。30年前の記憶は外観だけ。どこをどう歩いたかも覚えていない。まず地下軍需工場跡地の洞窟に入る。こんなのあったっけ。予想通りにひんやりして気持ちがいい。このままずっといたいところだ。
外に出て、穴の中を覗きながら上まで行く。こんな穴ぼこの2畳間にも玄室、羨道があるのは驚きだ。有力者一族代々の墓所とのことだが、確かに、一般の民、百姓が古墳もどきに入ることはなかったろう。ここの吉見百穴、ほとんどは戦国期までに盗掘されたのではないだろうか。盗掘されていないのは、さっきの黒岩横穴墓群の未発掘のほんの一部だけだろう。
穴の岩壁に字が彫られていた。これは墓誌だろうか。何と記されているのか興味のあるところだ。後世のものではないと思うが。
しかしながら、この横穴墓群、1300年前(正確には1400年前か)の古墳時代末期のものと案内書には記されているが、この多数の横穴、適当に掘っていたら落盤もあったろう。それなりの高い掘削技術があったのだろうなと感心する。
一通り回って、外に出る。方向感覚がなくなっていて、ここから歩いて行ける岩室観音がどちら方面かまったくわからない。吉見百穴に置かれた観光マップによれば、ここから南側のようだが、南はどちらなのか。携帯でGoogleMapを見ても東西南北は不明。上が北とは限らないようだ。携帯に入れたコンパスを起こしても、ぐるぐると回るだけ。結局、太陽の位置を見て、こちらが南だろうと歩いてみると、車道をはさんだちょい先に岩室観音があった。ちなみに、今日は「でか字まっぷ埼玉」の地図を持ってきたが、吉見町の扱いは小さく、この周辺、百穴以外の記載はない。
(岩室観音)

(納められた石仏)

(ここを登ってみる)

(胎内くぐり)

とりあえず岩室観音。松山城址が近くにあるはずだが、どこなのかはよくわからない。岩室観音を見て、裏に出ると、地形は沢筋になっている。この先が松山城址という意識はなく、その沢筋を登ってみようと思ったら、しっかりとロープが付いた胎内くぐりのようなところがあり、そのまま登ってみた。すると、「本曲輪方面→」の案内板があった。そのまま小道沿いに上がる。
(本曲輪跡)

(なるほど、こんな配置だったのか。なぜか吉見町が吉見市になっていたりして)

また、蚊の襲来だ。今度はブヨが加わった。ブーン、ブーンと身体が包まれた。滅茶苦茶に不快ながらも先に行くと、兵糧倉跡を過ぎて山頂のようなところに出た。ここには「本曲輪」という標識があったが、いわゆる本丸跡ではないのか。ヤブの中、ロープを越えると「松山城址碑」の石碑もある。解説板があって、いろいろと記されていたが、ブーン、ブーンでまったく落ち着かない。解説は後で読むことにして、写真だけ撮って下る。後で写真を読むと、北条攻めの際、城主は小田原にいて、松山城はあっけなく落ちたが、家康後に松平家広が1万石でここに入り、松山藩も置かれたようだ。しかし、藩主は早世。継いだ二代目がすぐに転封となって松山城は廃城になったというようなことが記されていた。
蚊に追われてそそくさと下り、百穴駐車場に戻った。蚊がいなかったら、もっとゆっくりして反対側に下るとか、頭を使った見学にしたかったものだ。ここの蚊はズボンの上からでも容赦なく刺す。腕ばかりか足も痒くなった。
もういいかと思いながらも、せっかくだから板碑群と宝篋印塔を見ていきたい。歩くのはもういい。観光案内図をチェックすると、板碑群と宝篋印塔がこの先に続いてあった。この先とはいっても歩ける距離ではない。
(寺の敷地から顔を出していた)

(観音寺)

(板碑群)

観音寺に向かう。結構な距離だ。その辺にあるような寺だが、彼岸花が目をひいた。勝手に入っていいのかなと、ちょっとためらいもあるが、吉見町の解説板も置かれているので入る。寺の建屋そのものは新しい。解説板によると、板碑というのは、石板を使った塔婆のことらしい。奥に入って並んだ板碑群を見る。鎌倉時代の年号が入っているとのことだが、表の梵字は見えても、裏に記されているらしい年代は見ることができない。梵字もまたかなすり減っている。鎌倉時代のものなんだよと言われれば、へーっといったところだ。
(金蔵院)

(こんなのもある)

続いて宝篋印塔。金蔵院はここから歩いても行けるが、路肩に車を置いたので、ちょっと気になる。車を移動させるといった感じで着いた。ここの毘沙門堂にも行基伝説があって、行基が彫った仏像が本尊らしい。
(宝篋印塔)

(もう一つの宝篋印塔)

(高さ1.9mとのこと)

宝篋印塔はすぐに目に入ったが、解説板にある「毘沙門堂の西方70m…畑の中にある」が気になる。この条件には合わない。ここでも、いずれが西かが知れず、ぐるりと回ると、確かに、畑の中にお堂のようなものが見えた。行ってみる。ビニールハウスの脇だ。
この宝篋印塔、大串次郎の墓とのことだが、大串次郎そのものがどういう人物か知らない。解説板を改めて読む。なるほど、畠山重忠の関連武将か。大串次郎の没年と宝篋印塔の建立が百年ほどの開きがあって、大串次郎の墓所かどうかは判然としないようだ。
もういいだろう。一通り吉見町の歴史に触れたし、ポンポン山も歩いた。暑くて痒くてしょうがない。ナビをセットして帰る。407号線に出てそのまま帰るつもりだったが、ナビの案内するところは17号バイパスで、鴻巣に向かっていた。
荒川に近づくと、「川幅日本一」の標柱を目にした。この辺、ぶなじろうさんはすでに歩かれたのか。ナビのままに行くと、川べりの土手の上の細い道を走らされた。こんなところを車が通っていいものなのか。やがてゲートが出てきた。軽しか通れないようなすき間しかなく、左右のゲートポールにはやたらとこすり跡が付いている。ここでもまた冷や汗をかいた。
あれから2日経つが、蚊に刺された腕の痒みは一向に引かず、掻きむしたおかげで、ところどころでツユが出ている始末になっている。刺された痕を数えると18か所あった。吉見町の探索は、暑いうちはよした方がいいだろう。
八丁湖……黒岩横穴墓群……ポンポン山……八丁湖……安楽寺……八丁湖P (車) 吉見百穴……岩室観音……松山城址……吉見百穴P (車) 観音寺板碑群 (車) 金蔵院宝篋印塔
午前中の用事を終えると、すでに11時近くになっていた。日、月ともに天気は良くないようなので、どこか軽く歩いてこよう。時間的に山は無理なので、ハイキング程度のものになる。すぐに浮かんだのは森林公園だが、あそこは混んでいそうだ。続いて吉見のポンポン山だかポンポコ山を思い出した。HIDEJIさんのブログで記憶している。HIDEJIさんの記事を改めて拝見。ポンポン山だった。
余計な話だが、自分の年代、少なからず自分には「ポンポン」という擬音からくるイメージは、NHKで日曜日だったかに毎週放映していた「ポンポン大将」だ。桂小金治、飯田蝶子が出ていた。本郷のオジサン役でたまに出ていたのはだれだっけ…。本郷功次郎でないのは確かだが。
ポンポン山だけなら車を運転している時間が圧倒的に多くなるので、吉見町の観光スポットをネットで調べる。八丁湖から歩けば、黒岩横穴墓群というのも見られるようだし、30年ぶりの吉見百穴もいい。さらに板碑群や宝篋印塔を見られるところがいくつかある。どの程度歩けるかは知らないが、まずは行ってみよう。しかし、すでにこんな時間だ。かなり暑くなっている。
(八丁湖)

(ハイキングコースマップ)

(ちなみに)

八丁湖とはいっても池か沼のようなもので、澄みきった湖のイメージには程遠い。灌漑用の池だろう。湖畔に立つ「ふるさと歩道案内図」を見ると、ここからポンポン山までは27分。その先、大回りで吉見百穴まで行くとさらに2時間以上かかる。この暑さの中では避けたい歩き。ここに一旦戻って百穴まで行くと53分か。微妙なところだ。どちらにしても、吉見百穴からまたここに戻らないとならない。考えただけで暑くなる。
いろんなコースが記されている。八丁湖の一周のウォーキングコースは1.6km。ジョギングコースとして2.1kmが設定されている。この先からトレッキングコースが外れ、さら野鳥観察コース、自然植物観察コース、丘陵コースが分岐し、また湖畔に戻るといったコース設定になっている。よくいろんなコースを編み出すものだ。ここからポンポン山に行くにはトレッキングコースを使って、まずは八丁湖エリアから離れないといけないようだ。
コースは舗装された遊歩道になっている。走りやすいのか、ジョギングしている人が多い。10km走るには5周か。
(黒岩横穴墓群はこの歩道の左斜面)

(斜面下に柵があるが、あそこに行くまでがヤブ。物好きしか入り込まないエリアのようだ)

(いくつか確認)

ちょっと行くと、直進方向に黒岩横穴墓群、戻り方向には吉見観音と記された標識があった。これに合わせて、八丁湖から離れると黒岩横穴墓群の看板が出てきた。説明板がある。未発掘の横穴が多数埋没し、推定総数五百基以上で、吉見百穴よりも大規模とのこと。しかし、正面、柵越えの斜面はヤブになっていて、入り込んでみると、クモの巣がやたらとあって往生したが、穴を3つほど確認できた。ここは自然のままになっていて、入り込む人もあまりいないのだろう。
ヤブ蚊が多くて辟易となる。半端な数ではない。もう汗をかいているから余計だろう。顔も含めて10か所近く刺された。ウチワを持ちながら歩いている人がいたが、ここで、あのウチワの意味がわかった。蚊除けだったのか。ヤブの中にさらに突っ込みたかったが、この時期はやめた方がいいだろう。ヤブから出てくる時は顔が変形している。蚊のいない冬の時期ならいいかもしれない。今日は蚊の存在は想定外だった。虫除けもウナコーワも持ってきていないから、我慢して歩くしかない。
(車道に出る)

(道端の石仏)

ここでポンポン山の標識が出てくる。野鳥観察コースの分岐だ。案内図板を見ると、手前に神社に向かう分岐があったようだ。気づかなかった。戻るということは、それだけ蚊に刺されるということで、とにかくここから離れたい。先に行く。
左にいくつか分岐を見ながら道沿いに行くと、車道に出た。標識の向きは、この車道を一旦、下るようになっている。そして、車道の途中から左上の小道を上がる。小道を行くとまた車道。車道の傍らにポンポン山公園無料駐車場があった。あとは標識にしたがって行くと、突き当りが神社になっていて、ここがポンポン山ということのようだ。
八丁湖からここまで33分かかった。黒岩横穴墓群で蚊に刺されて時間をとったから、コースタイムの27分は順当だろう。
(高負彦根神社)

(石仏の裏が山頂)

(山頂)

(あちこち叩いたり蹴ったりしてみたがポンポンの弾み音は聞こえなかった)

神社は高負彦根神社。解説板を読むと、大層由緒のある神社のようだ。山頂は裏になっていて、宝暦年間の石仏と彫りが消えかかった石碑がある。一種の岩峰のようなピークで、「岩山の中腹を踏みたたくとポンポンと音がする」とあったので、あちこちの岩をたたき、さらに下に降りて岩をたたいても、ポンポンの音色はなかったが、これは自分には功徳を期待できないということなのだろうか。残念ながら、筑波山も日光の山もまったく見えない。
(スタート地点に迂回して戻る)

町の中を歩くのも嫌なので、予定通りに八丁湖に戻る。来た時の道。途中から丘陵コースに入り、湖周回のウォーキングコースに合流。その間、さらに蚊に刺され、左ひじはすでに腫れあがっている。吉見百穴に行く途中、薬屋でもあったらキンカンを買っていこう(結局なかったが)。丘陵コースはジメジメしているのか、わけのわからないキノコがやたらとあった。
湖畔を遠回りして元のスタート地点に向かう。ジョギングは相変わらず多く、ウォーキングコースに出るまでに、これでいいのかと、行ったり来たりしていたところもあったためか、着くまでに2回抜かれた方もいた。
(安楽寺)

(八起地蔵尊)

吉見観音の標識にしたがって行くと、10分少々で安楽寺に到着。これが吉見観音。観音様の御開帳は年に一回とのことで、今、見ることはできない。この寺、どこにでもある伝説同様、行基が開祖らしい。上杉憲政と北条氏康の松山合戦で伽藍は焼失し、江戸時代に入ってから再建されたとのこと。手水鉢の水は止めてあったが、鉢の中にある水で左右の腕を冷やした。少しは痒みも治まった感じ。
(ここで嫌になり振り出しに戻る)

そのまま吉見百穴に向かう。すぐに車道になった。何だか、この暑い中、自分がひどくバカ気なことをしているように思えた。憩いの森を経由し、まだ45分も歩くのか。戻ることを考慮すれば、歩きタイムは×2になる。汗を大量にかき、アクエリアスも買い足さないといけない状態になっているし、身体もすでに臭くなっている。やめよう。そんな根性はないわ。八丁湖の駐車場に戻る。また汗をたっぷりかいた。
エアコンをガンガン効かせて走りたかったが、今日の車は軽だ。エアコンをつけた途端にスピードがガクンと落ち、坂道登りがつらい。エアコンを切って、窓を全開にして走らせる。背中がベットリとしてえらく不快。
(吉見百穴)

(軍需工場跡)

(穴の中)

(後世の落書きではないと思うが)

吉見百穴の駐車場に車を入れて、まずは百穴見物。入場料300円。30年前の記憶は外観だけ。どこをどう歩いたかも覚えていない。まず地下軍需工場跡地の洞窟に入る。こんなのあったっけ。予想通りにひんやりして気持ちがいい。このままずっといたいところだ。
外に出て、穴の中を覗きながら上まで行く。こんな穴ぼこの2畳間にも玄室、羨道があるのは驚きだ。有力者一族代々の墓所とのことだが、確かに、一般の民、百姓が古墳もどきに入ることはなかったろう。ここの吉見百穴、ほとんどは戦国期までに盗掘されたのではないだろうか。盗掘されていないのは、さっきの黒岩横穴墓群の未発掘のほんの一部だけだろう。
穴の岩壁に字が彫られていた。これは墓誌だろうか。何と記されているのか興味のあるところだ。後世のものではないと思うが。
しかしながら、この横穴墓群、1300年前(正確には1400年前か)の古墳時代末期のものと案内書には記されているが、この多数の横穴、適当に掘っていたら落盤もあったろう。それなりの高い掘削技術があったのだろうなと感心する。
一通り回って、外に出る。方向感覚がなくなっていて、ここから歩いて行ける岩室観音がどちら方面かまったくわからない。吉見百穴に置かれた観光マップによれば、ここから南側のようだが、南はどちらなのか。携帯でGoogleMapを見ても東西南北は不明。上が北とは限らないようだ。携帯に入れたコンパスを起こしても、ぐるぐると回るだけ。結局、太陽の位置を見て、こちらが南だろうと歩いてみると、車道をはさんだちょい先に岩室観音があった。ちなみに、今日は「でか字まっぷ埼玉」の地図を持ってきたが、吉見町の扱いは小さく、この周辺、百穴以外の記載はない。
(岩室観音)

(納められた石仏)

(ここを登ってみる)

(胎内くぐり)

とりあえず岩室観音。松山城址が近くにあるはずだが、どこなのかはよくわからない。岩室観音を見て、裏に出ると、地形は沢筋になっている。この先が松山城址という意識はなく、その沢筋を登ってみようと思ったら、しっかりとロープが付いた胎内くぐりのようなところがあり、そのまま登ってみた。すると、「本曲輪方面→」の案内板があった。そのまま小道沿いに上がる。
(本曲輪跡)

(なるほど、こんな配置だったのか。なぜか吉見町が吉見市になっていたりして)

また、蚊の襲来だ。今度はブヨが加わった。ブーン、ブーンと身体が包まれた。滅茶苦茶に不快ながらも先に行くと、兵糧倉跡を過ぎて山頂のようなところに出た。ここには「本曲輪」という標識があったが、いわゆる本丸跡ではないのか。ヤブの中、ロープを越えると「松山城址碑」の石碑もある。解説板があって、いろいろと記されていたが、ブーン、ブーンでまったく落ち着かない。解説は後で読むことにして、写真だけ撮って下る。後で写真を読むと、北条攻めの際、城主は小田原にいて、松山城はあっけなく落ちたが、家康後に松平家広が1万石でここに入り、松山藩も置かれたようだ。しかし、藩主は早世。継いだ二代目がすぐに転封となって松山城は廃城になったというようなことが記されていた。
蚊に追われてそそくさと下り、百穴駐車場に戻った。蚊がいなかったら、もっとゆっくりして反対側に下るとか、頭を使った見学にしたかったものだ。ここの蚊はズボンの上からでも容赦なく刺す。腕ばかりか足も痒くなった。
もういいかと思いながらも、せっかくだから板碑群と宝篋印塔を見ていきたい。歩くのはもういい。観光案内図をチェックすると、板碑群と宝篋印塔がこの先に続いてあった。この先とはいっても歩ける距離ではない。
(寺の敷地から顔を出していた)

(観音寺)

(板碑群)

観音寺に向かう。結構な距離だ。その辺にあるような寺だが、彼岸花が目をひいた。勝手に入っていいのかなと、ちょっとためらいもあるが、吉見町の解説板も置かれているので入る。寺の建屋そのものは新しい。解説板によると、板碑というのは、石板を使った塔婆のことらしい。奥に入って並んだ板碑群を見る。鎌倉時代の年号が入っているとのことだが、表の梵字は見えても、裏に記されているらしい年代は見ることができない。梵字もまたかなすり減っている。鎌倉時代のものなんだよと言われれば、へーっといったところだ。
(金蔵院)

(こんなのもある)

続いて宝篋印塔。金蔵院はここから歩いても行けるが、路肩に車を置いたので、ちょっと気になる。車を移動させるといった感じで着いた。ここの毘沙門堂にも行基伝説があって、行基が彫った仏像が本尊らしい。
(宝篋印塔)

(もう一つの宝篋印塔)

(高さ1.9mとのこと)

宝篋印塔はすぐに目に入ったが、解説板にある「毘沙門堂の西方70m…畑の中にある」が気になる。この条件には合わない。ここでも、いずれが西かが知れず、ぐるりと回ると、確かに、畑の中にお堂のようなものが見えた。行ってみる。ビニールハウスの脇だ。
この宝篋印塔、大串次郎の墓とのことだが、大串次郎そのものがどういう人物か知らない。解説板を改めて読む。なるほど、畠山重忠の関連武将か。大串次郎の没年と宝篋印塔の建立が百年ほどの開きがあって、大串次郎の墓所かどうかは判然としないようだ。
もういいだろう。一通り吉見町の歴史に触れたし、ポンポン山も歩いた。暑くて痒くてしょうがない。ナビをセットして帰る。407号線に出てそのまま帰るつもりだったが、ナビの案内するところは17号バイパスで、鴻巣に向かっていた。
荒川に近づくと、「川幅日本一」の標柱を目にした。この辺、ぶなじろうさんはすでに歩かれたのか。ナビのままに行くと、川べりの土手の上の細い道を走らされた。こんなところを車が通っていいものなのか。やがてゲートが出てきた。軽しか通れないようなすき間しかなく、左右のゲートポールにはやたらとこすり跡が付いている。ここでもまた冷や汗をかいた。
あれから2日経つが、蚊に刺された腕の痒みは一向に引かず、掻きむしたおかげで、ところどころでツユが出ている始末になっている。刺された痕を数えると18か所あった。吉見町の探索は、暑いうちはよした方がいいだろう。
浮浪者が穴に住んでいるとか、言われた時期もあったらしく、観光化していますね。ポンポン山は、知らなかった、どこか空洞になっている石があるのかな、探してみたくなりますね。
蚊が出る時期、特に湿気があり、温度の高い時、に行くのは、餌になるようなものですよ。
それにしても、穏やかな歩きの日もあるのですね。
こんな歩きの記事にお付き合いいただき恐縮です。
さぞ、痒くなったことと拝察いたします。
吉見百穴、浮浪者が住み着いたことがあるのですか。夏なら涼しくていいでしょうね。
ここは岩山で、今は地肌も露出していますが、発見当時は黒岩横穴墓群のように、草ぼうぼうの状態ではなかったでしょうか。むしろ、その方がわざとらしくもなく、神秘感が漂うといったものですが。
今回は蚊に襲われなかったら、もっとゆっくりといろいろ観察しながら歩けたのですが、残念なところです。
いずれまた、ネタがない時にでも歩いてみます。
午後のお出かけだったのですね。見て、なんだ晴れてるじゃない?なんて思ったりしましたが検索して場所がやっと分かりました。先日アブにやられてやっと治ったとこなので蚊の猛攻は勘弁です。やつらも最後の間際で必死さが違うんでしょうか?ポンポンで連想するのは残念ながら知識が貧弱で船くらいです。
埼玉の方は晴れていて暑かったですよ。そのためか、こんなハイキングというかブラブラ歩きでも不健康な感じがいたしました。
蚊は、おっしゃる通りのことで、この時期のがタチ悪いですね。猛烈に痒いし、しばらく残る。やはり最後のあがきなのかと思いますがね。アブにその傾向があるかはどうか。アブが出そうなところには行くことも少なくなっているし。
ここのところ、毎日がグズグズ天気で嫌ですね。当日にならなきゃ、天気がはっきりしないというのも困ったものです。
「ポンポン」はまさにその船なのですよ。「ポンポン大将」というのは、ポンポン蒸気船の船長さんなんですよ。
蚊に刺されるのは厭ですね。ぬるそうな沼なのでボウフラも住み心地がいいんでしょうか。
山の上の方は涼しくなってきたなと思ってもまだ低山の季節には一月早いようですね。私は横穴の中で昼寝でもして帰りたいところです。
天気は困りますね。今週も木曜どころか土曜まで雨マークで良い方に外れてくれないかと祈ってますが。
こんな記事にまでお付き合いいただきありがとうございます。
横穴墓群、宇都宮にもありますか。さっそく、出かけて見てみたいところですが、正直のところ、そこまで突っ込んだ興味はなくてね。近くに寄った際にでも、記憶に残っていたら寄ってみることにいたします。
吉見の百穴は、正確には219穴のようです。おそらく、発見した時点で百ほどあって、アバウトで百としたのでしょうが、その後にどんどん出てきて、語呂がいいところから、そのままに百にしたのではと思います。吉見二百穴ではどうもね。
蚊に刺される体質というのがあるようで、典型的にО型の酒飲みが狙われるようですね。私なんか、そのいい例です。
吉見百穴にも蚊がいましたから、墓穴で寝るのは得策ではないでしょう。むしろ、軍需工場跡の広々した穴に寝転がっていた方が、熟睡もできるような気がしますよ。
ポンポン山に行かれたのですね。
無料駐車場から向かうと登らずに山頂にたどり着いてしまうと思いますので、拍子抜けされたのではないでしょうか(笑)
とはいえ、分県登山ガイドの埼玉県の山にしっかり紹介されている山なんですよ。あの山は。
しかしさぞ暑かったのではないでしょうか。
ヤブ蚊も多そうですね。想像できます。みー猫さんが仰るように、この時期の蚊はたちが悪いように思えます。ポンポン山では音が聞こえませんでしたか。神社にわりと近い辺りでポンポンと音が聞こえた気がしたのですが。
あの近辺、歴史の宝庫でもありますので、秋の紅葉のころにでも、また音の検証も含めていってみたいですね。
ポンポン山をご紹介いただき、今回はありがとうございます。
HIDEJIさんレポでそんな山だろうと察しはついておりましたので、拍子抜けも落胆もありませんよ。
ただ、神社の裏の小高い丘とは思いもせず、周囲の高いところをつい目で追ってしまいました。
神社目線でたどれば、確かにこれが山?といった疑念はありますが、反対側の下から見上げれば、山なんだな。それも岩峰に見えるのではないでしょうか。
今、分県ガイドを確認すると、ありましたね。ポンポン山。八丁湖よりも標高が低いじゃないですか(笑)。
ここに記されている北向地蔵も意識にはあったのですが、何せ蚊と暑さとの闘いで予定が狂いました。板碑群や宝篋印塔なんてのは付け足しだからもういいですけど、黒岩横穴群と松山城址は、もう少し突っ込みが必要かと思います。この時期とは正反対の時期に改めてということですね。
ちなみに、吉見町観光協会のパンフに記された黒岩横穴群はヤブもなくて、すっきりした穴ぼこが顔を出しているのですが、全然現物とは違いますね。あれでは、絶対にマムシもいますよ。
今度行ったら、ポンポン山の岩も無理矢理に鳴らしてみますよ。その際は、HIDEJIさんコースで、あの駐車場に車を置いてあっさり歩きとなるでしょう。
今回は、さすがたそがれさん、と思いました。下調べ充分で出かけられた事がよ~く判りましたヨ。自分は、板碑群もホッキョウイン塔も知らずに歩いておりました。知っていたら必ず寄り道していたと思います。
藪蚊は、私も察しがつきます。18か所ならば、まずは不幸中の幸いの部類かと。
ポンポン山の崖側は古い時代の荒川の流路だったとも言われております。ポンポン山の足元はスカスカなのかもしれません。自分は思い込みを含めて、かすかにポンポンと感じられたような気がしております。
ぶなじろうさんもポンポン山に行かれていたのですね。
今、改めてその時の記事を拝見いたしました。見落とししていたようです。
私が車で逃げたところもしっかりと歩かれていたようですね。7月のようですが、やはり、暑い時期に歩くところではないと改めて感じましたよ。
北向地蔵はたいしたものでもなかったようで。
特別な下調べなんかしたわけでもないのですが、たまたま観光協会のページを見たものですから、これとこれはといった感じで出向きました。
板碑群も宝篋印塔も、大串次郎を含めてそれなりの知識を持っていれば、もっと見甲斐もあったとは思いますが、そちら方面もまた疎いもので、歴史的価値も見出せずに終わりました。
ポンポン山の裾を荒川が通っていたわけですか。それで、ポンポンと鳴るわけですね。いずれ、どこかに行った帰り道にでも立ち寄って鳴らしてみますよ。