Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

2012 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 11, 2012) 後編

2012-11-11 | 演奏会・リサイタル
前編から続いては、

JACQUES OFFENBACH Septet from Les Contes des Hoffmann (Giuseppe Filianoti, Tenor / Jamie Barton, Mezzo-soprano /
Tara Erraught, Mezzo-Soprano / Ildar Abdrazakov, Bass / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / New York Choral Society)

フィリアノーティとアブドラザコフは2010/11年シーズンのメトの『ホフマン物語』で共演しましたので、
そのあたりも選曲の理由であると思われる『ホフマン』の七重唱
(プログラムが6人+合唱で7重唱という表記を採用していますが、一般的に六重唱と呼ばれているのと同じ
"Hélas! Mon coeur s'égare encore! ああ、僕の心はまたも乱れる"です)。
ヴェネチアの幕、なかでもこの重唱は『ホフマン』全幕の中で私も大好きな箇所なんですけれど、この曲はあんまりガラには向かないのかもしれないな、、。
同時に歌う歌手の数が多くて、その上にオケが結構厚いので、ガラの主な楽しみの一つである歌手一人一人の個性や力を存分に楽しむことが難しい、
というのが一つ理由にあるかもしれません。
また、重唱とはいえ、やはり中心にはホフマンがいるべきだと思うのですが、バートンのパワフルな声が完全にフィリアノーティの、
いや、それを言ったら他の全部のソリストを凌駕してしまっていて、
こういうレイヤーの多い重唱こそ、バランスを調節するための綿密なリハーサルが大切だと思うのですが、
多分、このガラのリハーサルでそこまでする時間はないんだろうな、と思います。
それから曲としても、ホフマンの恋しても恋しても駄目、、というブルーな気分がこちらに乗り移ってきて、なんか私までアンニュイになって来る、、。
ここまでこちらをアンニュイな気分にさせた以上、落とし前をつけてもらいたくなる、つまり、作品の最後まで聴きたくなってしまいます。
悲しみとか復讐、怒りなど、激しいエモーションに昇華されて完結されている作品(例えば、今日のガラの終盤で演奏される『椿姫』の重唱など)と違って、
この、なんとなくじくじく、、と尾を引く不思議な感覚がこの『ホフマン』という作品の独特なところ・全幕作品として面白いところなのですが、
それゆえに、ガラにはあまり向いていない作品だなと思います。

 PABLO ZIEGLER “Rojotango” (Erwin Schrott, Bass-baritone / New York Choral Society)

シュロットにとって”ロホタンゴ”はオペラのレパートリーよりむしろ評価が良い位のトレード・マーク的な曲だし、
取り上げないわけには行かなかったのかもしれませんが、実は今日のガラの問題児で、リハーサル中からかなり紆余曲折があったと聞いています。
まず、彼と共にバンドネオンの奏者が舞台に登場して来ました。
シュロットとしてはこういう特殊なセッティングも観客の期待を高めるだろう、と期待していたのかもしれません。
確かにガラにこういうものを持ち込むのはサービス精神の顕れ、ということで、ポジティブに捉えるべきなんでしょうが、なぜか準備にもたもたもたもた、、、
他の人はわかりませんが、私は結構せっかちなものですから、これだけで”うむむむむ、、。
こういう特別なことをしてオーディエンスを待たせるのなら、よっぽど良い歌聴かせてもらわないと、、。”と思ってしまいます。
メト・オケがこれまで演奏したことのない、オペラ/クラシック音楽の範疇外の曲というだけでも、若干のディスアドバンテージがあるのに、
その上に最初は金管楽器のパートも加えた編成での伴奏にしようとしていたそうで、
この金管を含めるか、含めないか、そして更には曲自体を演奏するか、しないか、がもめる原因になっていたようです。
彼のこの曲の歌唱はYouTubeにもいくつかあがっていますが、ドレスデン(ティーレマン指揮のタンゴ、、)でも
ヴァルトビューネでも金管は演奏していないので、NYスペシャル・バージョン??
結局曲そのものは演奏されることになったものの、スペシャル・バージョンではなく、普通に金管なしの演奏だったんですが、一聴して思ったこと。
”これにブラスを加えようと思っていたなんて、正気の沙汰じゃない、、、。”
彼がこの曲を歌うなら、小さな会場で小さな編成の演奏をバックにするか、そうでなければマイクを通して歌う、このいずれかでないと全く駄目だと思います。
エイヴリー・フィッシャー・ホールでどこに座っている観客の耳にも十分満たすほどの音を彼が出せる音域で曲が書かれていないうえに、
金管抜きでさえ、普通のオケの編成だと彼の声が十分かき消されてしまう位の感じなので、
私はホール平土間の真ん中から少し後ろに寄った正面の席で聴いてましたが、曲の半分以上、彼の声が良く聴こえなかったです。
これに金管のせてどうしようってんだか、、、。
これまでタッカー・ガラだけに限っても、ミュージカルとかオペレッタからの曲とか、オペラのレパートリーでない曲でも優れた歌唱を聴いていますし、
オペラ歌手がオペラ以外の曲を歌っちゃいかん!とは全く思っていませんが、
はっきり言って、オペラよりタンゴの方が好きならタッカー・ガラでなくタンゴ歌手のリサイタルに行ってます。
ガラの場でオペラ以外の曲を取り上げるなら、聴けてよかった!と思うような何かをオーディエンスにデリバーしてくれないと、、、
そういう意味で、オペラ歌手がオペラ以外のレパートリーのものを歌うということは、
オペラの曲を歌うよりもある意味チャレンジングである、といえるんじゃないでしょうか。そして、シュロットはその挑戦に失敗した、、、そういう風に私は感じました。

 PIETRO MASCAGNI Cherry duet ("Suzel, buon di") from “L’Amico Fritz” (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor)

前編に”ペレスを何度か全幕で聴いている”と書きましたが、それはそもそも彼女がコステロと夫婦だからなのでした。
そう、私は2007/8年シーズンにコステロがメト・デビューして以来、いつも熱狂的だったとはとても言えませんが、
ゆるいながらもコンスタントに彼をずっとウォッチして来ました。
メトでAキャストの脇役・準主役で登場した公演はもちろん(2007/8年シーズン『ルチア』のアルトゥーロ、2011/2012年シーズン『アンナ・ボレーナ』のパーシー)、
現在の段階では彼が主役でメトの舞台に立ったたった唯一の公演(2007/8年の『ルチア』のエドガルド)も鑑賞しましたし、
あげくの果てにはモントリオール(2008/9年の『ルチア』のエドガルド)やら
フィラデルフィア(同年の『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチョやら2010/11年の『ロミオとジュリエット』)、
そして全幕以外にもガラ(彼がタッカー賞を受賞した2009年のタッカー・ガラジョルダーニ・ファンデーション・ガラ)、
そして、ブログ休止時期だったため記事にはしてませんが、今年のシーズン前の夏にもWQXRのイベントで彼の歌声を聴きました。
いつも熱狂的だったわけではないと言いながら、なぜこうも長きに渡って彼をウォッチすることになってしまったかというと、
彼の歌唱の出来にはフラクチュエーションが大きくて”ええ??”と思わされることもあるのですが、
良い時の彼の歌にはダイヤモンドの原石のような輝きがあり、どちらの彼が本当なのかを見定めようとしているうちに、
気がつけば5年経っていた、、という感じなのです。
今も、正直、世界の主要歌劇場で長きに渡って頻繁に主役を張れるオペラ歌手になれるか、そうでないか、についてははっきりとした確信をもてずにいます。
もちろん、成功して欲しいと願ってはいますが。
で、今日のタッカー・ガラの彼は、、、ダイヤモンドの原石の方でした。
こういう歌を合間合間に出して来るので、5年もウォッチする羽目に陥るんですよね、、、。
彼は今回ペレスのサポートに徹するためか、ソロのアリアは一曲も歌わず、全てペレスとの重唱・共演だったんですが、
この環境も彼にとっては力を出しやすい環境だったのかもしれません。
彼は前からしばしばこのブログで書いている通り、オペラ歌手としては少し精神面が弱いのと(あくまでオペラ歌手として、です。
舞台に立ってオーディエンスの目の前で歌を歌う、それだけでもものすごく強い精神力が求められますから、、。)
演技があまり上手くなく、というか、はっきり言ってほとんどでくの坊的で、
それどころかただそこに立つ、歩く、というシンプルな動作ですら、昨日地球に誕生したんだろうか、、、?と思わせるほど不器用な動きになっている時があって、
こういった面ではすべて器用にこなす妻のペレスに100万光年水をあけられてます。
だけど、今日のような、自分ではなく奥さんの方が(今年のタッカー賞受賞者として)より主役の場にいて、
先輩受賞者として共演で彼女を盛り立てる、というこの構図が、自然に彼のベストを引き出す環境になっていたのだと思います。
彼は最近レパートリーによって意識的に本来持っている声以上のものを無理に作っているような、
イメージ的にはステロイドを使って筋肉を盛り立てているのと似た不自然な声を出すことがあって、それは絶対に止めて欲しい!とずっと思っているのですが、
今日の彼の歌唱は、このマスカーニの『友人フリッツ』からのさくらんぼの二重唱にせよ、後の『椿姫』からの抜粋にせよ、
余分な肩の力が抜けた、彼の本来の声に近い非常に自然な発声で、”ああ、今日はこれは良い歌を聴ける!”と数フレーズ歌った時点で思いました。
今日の発声を聴けばわかる通り、決して彼の声は大きくはありません。でも、それでいいのです。
彼の声が持っている突出して美しいティンバーは劇場で際立った音を立てるので、別に声が特大でなくったって、十分に客の耳に届きます。
その点は、今日の『椿姫』の第三幕からの抜粋で十分に証明されていたと思います。
あの場、ソリスト全員+合唱+オケがフルで鳴っていても、彼が歌っている旋律はアンサンブルの中にはっきりと聴き取ることが出来ました。
私は実は彼がペレスとあまり”夫婦共演”ということにこだわらない方がいい、と思っていて、それはペレスが本領を発揮できるレパートリーと、
彼が本領を発揮できるレパートリーが微妙にずれており、今のところ、彼が彼女の方に合わせることで損することはあっても得することは何もないと思うからです。
彼女は終盤の『椿姫』の”乾杯の歌”からもわかる通り、特にアジリティに優れているわけではなく、コロラトゥーラの技術に卓越したものがあるわけでもありません。
むしろ、それらの能力が問われる度合いがより低く、彼女の声質、ステージ・プレゼンス、ナチュラルな演技力と組み合わさってより力を発揮できるリリコ寄りの役柄の方が向いていると思います。
逆にコステロは超高音は最早得意でなくなって来ているようなんですが、芝居で鈍臭い割りには歌は結構器用で、
装飾的な音も意外とそつなくこなすので、ベル・カントの役をベースに、
徐々にフランスもののリリコの役を加えていく位のペースがいいのではないかと思っているんですが、
彼女のペースに合わせ、夫婦共演できるように、ということなんでしょうか、、、『ラ・ボエーム』なんかを全幕で一緒に歌うようになっていて、
このあたりのレパートリーになると突然に先に書いたような本来の発声ではない”無理”を彼の声の中に感じます。
精神的なものもあるのかもしれません。レパートリーが違うと歌唱が違うギアに入ってしまうような感じです。
さくらんぼの二重唱でその彼の悪い癖が出なければいいけれど、、とちょっと心配してましたが、全くの杞憂でした。
『友人フリッツ』は上演の頻度から言ってスタンダード・レパートリーとはとても言えず、どういうテノールが歌うのが理想なのか、
まだ私にはぴんと来ていないところもあって、もしかすると、コステロはこの役を歌える一番軽い方の端に引っかかっているのかもしれませんし、
並んで舞台に立っていると、なんかどちらかというとペレスの方が女地主!という雰囲気がしないでもないですが、
自分の声楽的な持ち味を壊すことがないまま、歌い通してみせましたし、
フリッツとスゼルが急速に惹かれていく様子がきちんと描写されていて、このままオペラの全幕の舞台にのっても、全く違和感がないくらいにロマンティックな歌唱でした。
それに最後に二人が一緒に出す音、これをコステロがピアノで響かせたんですが、
ペレスの声にふわっと乗っているような、まるでフリッツがそっとスゼルの肩に手を回している様子が音になったような感じで、
ホールに漂った音の響きのそれは美しかったこと!
二人がそれまでに表現してきたドラマと相まって独特の余韻が残りました。今日のガラで最も楽しんだ演目の一つです。

 GIOACHINO ROSSINI “La calunnia è un venticello” from Il Barbiere di Siviglia (Ildar Abdrazakov, Bass)

アブドラザコフの歌唱の良いところと悪いところはコインの裏表みたいな感じだなあ、、といつも思います。
彼の歌はいつもきちんとしていて、特にあげつらっていうほどの明らかな欠点は何もないのに、
じゃ、ものすごく心に訴えて来たりだとか、大いに楽しませてもらえた、とか、そういうガツーンと来るものがあるか?というと、それもあまりない感じ。
簡単に言うと、彼の経歴とか今いるポジションの割りに、歌にガストが欠けている感じがしてしまうのです。
なので全幕を任せるには安心できる歌手だけど、こういうガラでは実力のある割りに影が薄い、、、ってことになりがちです。
特にこの『セヴィリヤの理髪師』の“中傷とはそよ風のようなもの”は、
歌唱のスキルも必要ですが同等にオーディエンスが思わず笑ってしまうような、そういうパンチ=ガストが重要な曲です。
面白くない上手いだけの中傷の歌なんて、、、ねぇ、、、。

 UMBERTO GIORDANO “Nemico della patria” from Andrea Chenier (Quinn Kelsey, Baritone)

前編に書いた通り、ケルシーにはこれからメジャーな役で活躍の場を広げて欲しいバリトンとして非常に期待しているんです。
彼のオフィシャルサイトでいくつか音源が聴けますが、
特にイタリアン・レップで感じさせるスケールの大きさと歌唱の思い切りの良さは若手らしからぬものがあると思います。
なので、彼の『アンドレア・シェニエ』からのアリア“国を裏切る者”の歌唱には、ちょっと私の方が高い期待を掲げすぎたのかもしれません。
このアリアは歌っているバリトンが確固とした技術をベースに魂を込められれば聴いていて本当にエキサイティングな名曲になり得るのですが、
ヴェリズモのレパートリーって、ただ情熱的に歌えばいいだけではなくて、しっかりした基礎がある人が歌ってこそ良い歌になる、と思うのです。
この”国を裏切る者”だけ上手く歌えます!という変なバリトンってまずいないと思うんですよね、、、
むしろ、この役での歌唱の良し悪しは、ヴェルディのバリトン・ロールでどれだけ良い歌を歌えるか、ということとすごく比例しているように思います。
ケルシーのヴェルディ・レップでの歌唱はすごくポテンシャルを感じますので私は高く評価してますけれど、
彼はまだまだ若いし、これから磨いて行く点もいっぱいあるとも感じます。
そんな段階で、タッカー・ガラのような場でジェラールのアリアに挑戦するのは、ちょっと背伸びだったんじゃないかな、、
歌に彼が引きずりまわされている感じがしました。
同じ”ちょっと若いかな。”と印象を与えてしまうリスクを犯すなら、リゴレットの方が全然良かっただろうに、、と思います。

 GIUSEPPE VERDI “Vieni t’affreta” from Macbeth (Liudmyla Monastyrska, Soprano)

モナスティルスカに関してはこのブログにコメント頂く方々からもすごく良い前評判を聞いており、
もうすぐメトで始まる『アイーダ』のタイトル・ロールでの歌唱も楽しみにしているんですが、
彼女が今回のガラでマクベス夫人のアリアを披露してくれると知って、むしろ私としてはこちらへの興味の方が大きかったかもしれません。
アイーダもマクベス夫人も本当に優れたアーティスティックな歌を歌おうと思ったらどちらも大変に難しい役で甲乙付け難いですが、
ただ、声質と歌唱技術に話を限った場合、マクベス夫人の方が歌える歌手が限られるというのもまた否定できない事実であり、
昨シーズンにメトの『マクベス』全幕公演で、耳を覆いたくなるほどひどいナディア・ミヒャエルの夫人を聴いた後では、
(そして、それに負けず劣らずハンプソンのマクベスがひどいのであった、、、。
この二人で寄ってたかられた日には、もはやオーディエンス虐待のレベルと言ってよいと思います。)
まともに夫人を歌える歌手が世界のどこかに居るかもしれない!というだけで、小躍りしたくなるニュースです。
で、そのモナスティルスカの“早く来て、あかりを”。
まだ歌はほんの少し荒いところがあって、コロラトゥーラの技術の細かい点がうやむやになっているなど、多少の問題はありますが、
確かに間違いなくマクベス夫人を歌える声とベースになる力は持っています。
声の迫力もそうですが、高音域での音の鋭さもこの役に望ましいものがあります。
また、この難曲を歌うに当たってもすごく落ち着いていて、上で書いたような小さな技術でのミスがあっても、すっと元に戻してしまう冷静さがあるのにも感心しました。
今のオペラの世界はちょっと難しいレパートリーを歌えそうな人材がいると、すぐに表に引っ張り出して来て、
世界のあちこちで歌わせることになってしまうという問題があって、
こういう役はほんのちょっとのディテール、細かい部分がパフォーマンスの印象に大きな違いを残すので、
あとほんの少しだけ歌を磨いてから出てきたら、もっとすごい印象を残せるのにな、、と感じる部分がなくはなく、
彼女の歌を的確に磨くお手伝いを出来るコーチとか指揮者に恵まれればもっと歌が良くなりそうなのにな、と思います。
例えば、手紙を読むところに”間”が感じられなくて、手紙を取り出して読む演技も含めて、
なんだかスーパーのレシートから品物の個数と単価を読み上げているようなフラットさを感じたり、
フレーズの構築の仕方が未熟なために、音符が若干おろそかになっている部分があったりとか、
基本的な力があるのは十分感じられるので、ちょっとしたアドバイスで歌がもっともっと良くなる可能性があるのに、、とじれったく思います。
それにしても、こんなソプラノが出て来ている以上、メトがミヒャエルを夫人役に再キャストする言い訳は最早存在しなくなったのは、実に喜ばしいことです。

 GIUSEPPE VERDI “Va pensiero” from Nabucco (New York Choral Society)

つい最近の記事のコメント欄で話題にのぼったばかりですが、
NYコーラル・ソサエティの合唱はほんと毎年タッカー・ガラの日が来るたびに”どうにかならないのかしら、、。”と思わせられます。
ヨーロッパの優秀な歌劇場付きの合唱団に比べれば、アンサンブル等で劣っている面はありますが、
まだメトの合唱団は基本的な音は出来ている、という点で他のアメリカの合唱団体よりずっとましです。
NYコーラル・ソサエティの、まるで一日中ご飯食べてないの?と聞きたくなるような腑抜けサウンドで
『ナブッコ』の“行け、我が想いよ、金色の翼にのって”を聴いてどうなるってんでしょう?こんなプログラム、ない方がまし!

 NIKOKAI RIMSKY-KORSAKOV "Zachem ty? Znat' nye lyubish" from The Tsar’s Bride (Olga Borodina, Mezzo-soprano / Dmitri Hvorostovsky, Baritone)

リムスキー・コルサコフの『皇帝の花嫁』より”なぜお前がここに?”。
ボロディナとホロストフスキーは"Arias/Duets"というCDを一緒に出しているのですが、この二重唱も含まれていて、
また、その時の指揮がパトリック・サマーズだったんですね。
そのあたりも関係あるんでしょうか、『皇帝の花嫁』はまだメトでは一度も舞台にかかったことがないと思うのですが、
そんな風に思えない位、二人の歌唱もオケの演奏も充実していて、『友人フリッツ』の二重唱と並んで最も今日聴きごたえがあった演目です。
『友人フリッツ』の、思わずこちらの顔に微笑みが浮かんでくるような爽やかな高音パート(ソプラノ&テノール)の若い二人による二重唱とは対象的に、
こちらは、ただごとでない緊迫感でもって怒り、訴え、嘆願するボロディナとそれを氷のような冷たさで突っぱねるホロストフスキー、、と、
ドラマティックさと背中が凍るような冷ややかさが混在した大変にエモーショナルなベテラン低音パート(メゾ&バリトン)による二重唱でした。
前編に書いた通り、今回のガラで最も私の注目を惹いたのは、ボロディナの女の弱さの表現にさらに一層深みが増した点で、
デリラのアリアではそれを二重の構造に使っているのか、もしかすると本気でサムソンに惚れそうになっているのか、、
その微妙な線を綱渡りする手段として巧みに使っていたのに対し、
こちらの二重唱はもう何もかもなげうって、ストレートに女の弱さ、かっこ悪さを表現できる作品でしたので、それはもうすごいド迫力でした。
ついホロストフスキーに”そんなに冷たくしなくてもいいんじゃない、、?”と突っ込みたくなるほどです。
二重唱とは言え、歌うパートの分量からすると圧倒的にメゾの方が多いのですが、ホロストフスキーもボロディナの気迫に感化されたか、
まるで妖気が漂っているような冷徹さを歌と演技で表現していて、オーディエンスの息が止るような歌唱・演奏でした。
この二人が含まれたキャストの『皇帝の花嫁』をぜひメトで見てみたい!!!と強く思いました。

 GEORGES BIZET "Au fond du temple saint" from Les Pêcheurs de Perles (Marcello Giordani, Tenor / Gerald Finley, Baritone)

前編で触れた通り、当初は同じジョルダーニ&フィンリーのコンビで『オテロ』の二重唱”大理石のような空にかけて誓う”が予定されていたのですが、
直前にプログラムが変更になって、ビゼーの『真珠とり』の二重唱”聖なる寺院の奥に”に差し替えられました。
『真珠とり』の二重唱と言えば、2007年のタッカー・ガラのポレンザーニとキーンリーサイドの二人の歌唱が今でも鮮明に耳に残っています。
一時期はYouTubeにその時の映像もあがっていたんですけれど、今はまたなくなってしまっているので紹介できないのが残念です。
この曲は別名友情の二重唱と言われる位ですので、テノールとバリトンの声の相性、それからどれ位二人の歌唱の呼吸がぴったり合っているか、が大事で、
そこがそれぞれの歌手の思いが別方向を向いているタイプの二重唱(オテロの二重唱なんかはその代表例)とか、
1人1人の歌手が良い歌唱を繰り広げていればそれなりに結果が出るタイプの二重唱とは違う難しい点です。
どちらかの歌手のエゴが少しでもあらわになると、曲の美しさがぶち壊しになってしまうので。
その点で、ポレンザーニとキーンリーサイドの2007年の歌唱は声の組み合わせの面で理想的であったのみならず、
二人の歌唱への姿勢と呼吸が本当に完全にシンクロしていて、お互いの声が次々に立ち現れる度にその絡み合い方の美しさに悶絶!って感じでした。
その二人の映像がないならば、こちらを紹介しておきましょう。



ユッシ・ビョルリンクとロバート・メリルのコンビの歌唱で、これが2007年のタッカー・ガラの記事の中で、
ガラの少し前に聴いて、”シリウスでビョルリンクがテノールのパートを歌っているこの曲の録音を聴いて猛烈に感動したばかり”と書いている録音です。
私が上で書いているポイントがこれ以上ない位おさえられています。
こんなの聴いちゃったから、大概の歌唱では満足しないよ、もう、、、って感じで赴いたのが2007年のタッカー・ガラだったんですが、
いやいや、この二人に負けていないくらいのポレンザーニとキーンリーサイドの歌唱でした。

で、今日の二人、ジョルダーニとフィンリーの歌唱ですけれども、、、。
これはもうフィンリー、すっかり貧乏くじひかされましたね。
こういう事態が、私が前編で”ジョルダーニはもはや共演者やオーディエンスへの迷惑になっている”と書かざるを得なくなってしまう理由なんです。
フィンリーはすごく丁寧に、誠実なマナーで歌っていて、何とかジョルダーニと息を合わせる糸口を摑もうと思って努力しているのが痛いほど伝わってくるんですが、
まあ、ジョルダーニはその横で、そんなフィンリーの努力なんか知ったことか!というノリで、自分だけ気持ちよく思い入れたっぷりに歌っているわけです。
そうそう、この思い入れたっぷり、っていうのもこの二重唱では全く無効なアプローチの一つなんですよね。
とにかく、ジョルダーニはもっとフィンリーの歌を聴きなさいよ!!と思いながら、ずっと聴いてました。
『オテロ』の二重唱が外されてほっとしたのも束の間、これ。やれやれ、、、、って感じです。

 GIUSEPPE VERDI Act II Finale from La Traviata (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor / Quinn Kelsey, Baritone /
Jamie Barton, Mezzo-soprano / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / Ryan Speedo-Green, Bass-baritone / New York Choral Society)

とうとうガラのトリの演目で、ヴェルディ 『椿姫』より第二幕フィナーレ。
これはコステロが2009年にタッカー賞を受賞した時のガラで、ネトレプコと組んで歌ったのと同じ部分ですね。
当然、今日ヴィオレッタを歌うのはペレスで、ということで、再び夫婦共演です。
ああ、今日の歌唱を聴くと、どんなにスローに見えても(?)、コステロの歌は成長してるんだな、と思います。
2009年とは落ち着きが全然違いましたし、それから当時より楽な発声を今日はしていて、
繰り返しになりますが、声量では2009年のガラの時より軽い感じがするかもしれませんが、これでいいんですよ!!
彼は絶対にこういう風に今後も歌って行くべきだと思います。
それから、この演目では、半分狂人入ってるヘッドとしてのMadokakipの
めがね(とはいえ、めがねはかけていないのでコンタクトレンズの、としておきましょうか)の奥底がきらっ!と光った瞬間がありまして、
それは、ヴィオレッタがアルフレードと別れるようにドゥフォールに誓わされてしまった、と嘘をつく
(実際にはアルフレードの父ジェルモンに誓ったのだが、その秘密はばらせないので、愛人のドゥフォールのせいにした。)、
それにぶちきれたアルフレードが夜会の参加者を全部呼び寄せて、彼ら全員の前でヴィオレッタをなじる場面です。
アルフレード”この女を知っていますか?”
全員”誰?ヴィオレッタ?”(ここの情けない合いの手の合唱にもがっくり来ました。首絞めてやりたいです、NYコーラル・ソサエティ。)
アルフレード”何をしたかはご存知ないでしょう?”
ヴィオレッタ”ああ、黙って”
全員”いや、知らないが。”
と、ここでオケの短いじゃじゃーん!という、これから語りまっせ!という前置きに続いて、
Ogni suo aver tal femmina per amor mio sperdea (この女は僕への愛のために自分の持ち物を全部売りつくした)、、と
身の上語りを始め、
これが、そんなことをしてもらう理由は、恋人でない以上なく、彼女はまさに娼婦以外の何者でもないので、その代金を今返させてもらう!と、
賭けで勝った金をヴィオレッタに叩きつけるという、この作品の中でも最も胸が張り裂けるシーンになだれ込んでいくわけですが、
このOgni suo..とコステロが歌い始める時に、ほんとにちょっと、1/100秒とかそういう世界だと思いますが、気持ち”ため”があって、
しかも、音をぎゅっと引いて歌い出したんです。
これを聴いた時に、アルフレードの腹の中で渦巻いている怒りが本当に良く伝わってきました。
人って、本当に怒った時、すぐには爆発しないで、その怒りが体の中心からむらむらっと湧きあがってくるものですよね。
それが本当にその間といい、音の絞り方といい、的確に表現されていた。
こういうこと、特にどれ位間をおけばいいか、声を絞ればいいか、またそれをオケの演奏とどのようにバランスをとるべきか、
というのは、歌の先生やコーチが細かく教えられるものではなくて、本能的にもって生れているか、そうでないかのどちらかだと思うんです。
で、コステロという歌手はこういうところに、聴いている人間をはっとさせる何かを持っていると思うのです。
最後の最後の重唱の部分で、これ以上大きくても小さくても今より良くはならないという絶妙のバランスでテノールのパートを歌っていたのも先に書いた通り。
彼は声の美しさで評価されることが多いですが(そういう私もそういうことを言っている人間の一人ですが)、
彼の歌手としての本当のアセットは、むしろ、この、オケや共演者とのバランス感覚に加えて、
オーディエンスをはっとさせるようなことを本人さえ意識しないでさらりとやってしまうことがある、そこにあると私は思っています。
フィラデルフィアで聴いた彼のロミオを私が評価していたのも、これと似たようなことが全幕の中でそこかしこにあったからです。
後は演技がこれに付いていけば言うことないんですけれど、頭で意識し始めた途端に右足と右手が一緒に出るような人ですからね(笑)、かなり心配です。

一方のペレスはそのコステロの胸を借りて歌った感じで、まずは無難にこなせていたと思います。
ただ、この場面って、『椿姫』の中でも最もエモーショナルな場面の一つだと思うんですよ。
その割には言葉に実感があまりこもってなくて、決められた言葉を音に乗せて出しているだけ、という感じすらありますし、
コステロが時々やってのけるレベルと同等のことを彼女の歌からまだ一度も感じたことがないんですよね、私は、残念ながら。
彼女は努力で成し遂げられる範囲内ではこの先も成長して行くだろうと思いますが、
コステロのいるところとは違う場所にいるまま終わってしまうこともあるかもしれないな、、という疑いも私は持ってます。
もちろん、彼は彼で、生まれ持っている才能をどうやってもっと安定したものに開花させて行くか、その努力がおおいに必要で、
それに成功しなかったら、キャリアが難しいところに入って行くと思いますが。

 GIUSEPPE VERDI “Brindisi” from La Traviata (same members as Act II finale)

そのままのメンバーでなだれ込んだのはアンコールとして、同じ『椿姫』から”乾杯の歌”。
ペレスはヴィオレッタを持ち役として歌い続けて行くなら、もう少しコロラトゥーラの技術、音の走りを良くしないといけないかな、と思います。
私は彼女があまりそのあたりが得意でないのではないかな、と思っているので、
彼女の声質もあって、将来的にはもっとリリコ寄りの役を中心に歌って行くのではないかな、と予想しています。

テレビ放送が予定されている割には、ここ数年のラインアップに比して、今年のガラは若干地味なメンバーだった感もあったし、
(誰が見てもこれはスター歌手だ!と感じるのは、ホロストフスキー、ボロディナの二人くらいじゃないでしょうか?)
強く印象に残る歌唱が限られた歌手からしか出ていなかったようにも若干感じましたが、
一方で、若手で将来性を感じさせる歌手が少なくなく、彼らの歌は今はまだ完璧からは遠いかもしれませんが、彼らのこれからを楽しみに出来る要素は十分ありました。
こういった若い歌手たちに積極的にハイ・プロフィールな場で歌う機会を与えようというタッカー・ファンデーションの思いも感じられ、
そういう意味ではタッカー賞の本来の存在意義により即したガラだったと言えるのかもしれません。
若い歌手たちのこれからの活躍を期待しています。

そうそう、最後のカーテン・コールに全ての歌手が出て来て挨拶が終わった後、
指揮者のサマーズがペレスやコステロたちをねぎらって肩を叩いたりして忙しい間に、
ボロディナを先に退場するよう譲るのを忘れて、彼らと一緒に足を踏み出してしまった時のボロディナの表情の怖かったこと、、、。
サマーズがその妖気になんとかぎりぎりで気付いて、”どうぞ。”というジェスチャーをしてましたが、
ボロディナの”ふん!このアメリカ人の田舎指揮者が!”という様子で顎をつん!とあげて退場していった様子には笑いました。

それを言ったらメトの『アイーダ』のオケとのリハーサル中にも、
ルイージがボロディナに”ここはもう少しこういう風に歌ってくれますか?”とリクエストを出したところ、
彼女がルイージに返したのはいわゆるblank stareだけ、
言われたことが耳に入らなかったとでも言うように、じっとルイージの顔を見返すだけで、
”はい、そうします。”はおろか、うんともすんとも言わない。
これにはさすがのルイージもお手上げで、”一応言ってみたけど、駄目でしたね。ハイ次!”という感じで、何事もなくリハーサルは続いて行ったそうです。
さすがボロディナ、すごい迫力。女の弱さ云々は舞台の上だけのことのようです。


Richard Tucker Music Foundation Gala 2012

Conductor: Patrick Summers
Members of Metropolitan Opera Orchestra
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
ON

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2012 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2012 (Tucker Gala) ***

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6 コメント

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Monastyrka (Kew Gardens)
2012-11-19 14:24:48
ふふふ、お待ちしておりましたよ、Madokakipさんの感想。 私もMonastyrkaを推薦した一人ですが、どんなふうに感じられるかと。 興味をもっていただいたようで、ほっとしました。
>的確に磨くお手伝いを出来るコーチとか指揮者に恵まれれば
うぅ~ん、ここが難しいかもしれません。 彼女はキエフの出身らしいですが、どうもまだ故郷に居て、仕事の時に国外に出かけてくるとか。 キエフにも音楽院はあるでしょうけれど・・・。 2月からはLa Scala, ROHでNabuccoが控えていますが、ここでまた成長してくれることを期待しています。
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懐かしい (名古屋のおやじ)
2012-11-19 15:55:30
ケルシーはサイトウキネンで『利口な女狐の物語』が上演されたときに、森番役で聴きました。小澤さんも評価しているようですが、可能性を秘めた歌手だと思います。

ビョルリンクとメリルの二重唱、懐かしい思いで聴きました。今、聴きかえしても素晴らしい!大昔、ドナルド・キーン先生が雑誌で紹介されたのを目にしてレコードを探したような記憶があります。一種の「古典」でしょうね。『真珠とり』といえば、ウィノナ・ライダー主演の映画『若草物語』(映画の物語自体は、原作小説の一作目と続編をミックスしたものみたいでした)でジョーとベア先生がオペラ見物に行く場面があり、そこで使われていたのが『真珠とり』だったと思います。音源として使われていたのが、その声の特徴からすぐにピンと来たのですが、バーバラ・ヘンドリックスがレイラを歌っているものでしょうね。
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Kew Gardensさん (Madokakip)
2012-11-20 12:33:07
>彼女はキエフの出身らしいですが、どうもまだ故郷に居て、仕事の時に国外に出かけてくるとか

本当だ、、彼女のエージェントのサイトにもキエフに家族と住んでいる、って書いてありますね。
出稼ぎ系ソプラノ!?
公演の合間に自分の故郷でリフレッシュする時間が欲しい、という気持ちは本当によくわかりますが、
せっかくこんな素材なのにまだ少し歌が自己流(ウクライナ国立オペラ流?)な感じがするのだけは残念です。
故郷にずっと慕っている先生でもいるのかな?
もう彼女ってベースはちゃんと出来ていて、後は細かいチューニングとかポリッシングをする段階ですから、
そこの部分は外に出て行って、別の指導者の意見を聞くのもいいんじゃないかな、、と思ったりするのですけれど、、
スカラで歌うことが多少その代わりになるといいですね。
さあ、次はメトの『アイーダ』での彼女が楽しみです♪
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名古屋のおやじさん (Madokakip)
2012-11-20 12:33:55
ケルシーはアメリカのオペラ・ファンの中にも期待する人が多くて、主役級の役は今はまだアメリカの地方都市とかカナダで歌っているみたいですけど、いつかきっとメトの舞台に(主役で)立ってくれるだろうと思います。
彼のオフィシャルサイトの音源に『ルチア』からのCruda Funesta Smania
があがっていますが、ボリュームのコントロールとか、優れたセンスをもっていますよね。
後、私が彼の歌で好きなのは思い切りを感じるところです。音楽的にほころびなく歌うことだけでなくて、何かを表現する、ということにすごく意識が向いているように感じられるのがいいな、と思います。

今彼のサイトを見ていて気づいたんですが、彼の奥さんはソプラノのマージョリー・オーウェンズなんですね。

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/c615149595f70cfa58e1e4226c890381

バーバラ・ヘンドリックス!!!
彼女の名前も私にとっては懐かしいです!!
というのも私のオペラ初生鑑賞の『リゴレット』でジルダを歌ったのが確か彼女だったんですよ。
彼女がもう63歳!?道理で私も歳をとるわけだ、、、しみじみ。
若い時からかわいらしい人でしたが、最近の写真をネットで拝見して、
すごく素敵な歳の重ね方をしてらっしゃる様子で嬉しくなりました。
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おかしかったこと (Kinox)
2012-11-21 08:02:25
みなさまが音楽的なお話をなさっているのに申し訳ないですが、

> フィンリーはすごく丁寧に、誠実なマナーで歌っていて、何とかジョルダーニと息を合わせる糸口を摑もう
わたしが深読みしすぎかもしれませんが、出だしのジョルダーニを見るフィンリーの目の微妙な表情がおかしかったです。一瞬だけですぐ消えたのですが、わたしにはなんとなく「この人はこういう歌手なんで、これは仕方ないんだな」とちょっと苦笑してるような印象がありました。あの状況でもベストを尽くすフィンリーだったのでした。
フィガロといい、フィンリーは今回、ほんとにパートナー運が悪かったです。
そうそう、昨日Kew Gardensさまとご一緒してて、あの「カタログおばさん」にばったり会ったんですが、フィガロの最終日の土曜、ホンさんがモンスター化したコヴァレフスカの代わりだったそうで、それは良かったことです。
しかしカタログおばさん、あの時と同じくDuane Readeの大きな袋とパンパンに膨らんだフォルダーをいくつも持って、毎日リンカーンセンター(メトもAFホールも)&カーネギーのオペラ関連の公演を見ているんだか出まちをしてるんだか、の口ぶりでしたよ。あの袋の中には実はローストビーフ等の食べ物も入っているらしい。おばさん、「キーンリサイドがお腹が空いたと言うから、あたしゃ勧めたんだけどね」、なんて怖いことも言ってました、ふふ。

> ボロディナの”ふん!このアメリカ人の田舎指揮者が!”という様子で顎をつん!とあげて退場
カーテン・コールでは、もうわたしの楽しみが燃焼不良というか欲求不満というか、ガラはこういう点がつらいんだよな、と思いつつ、フィンリーばっかり名残惜しく見ていたので、うわぁ、こんな面白いことあったんですね、見逃してました。でもお話を聞けただけでも、ボロディナとあの三流指揮者だったらさもありなんとおかしくて大笑い!、あはは、ボロディナ偉いぞ! 
ボロディナのファビオへのblank stareとか、ホロストフスキにはっきりもの申すのオルデンとか、なぁなぁな「みんなともだちモード」でやるんじゃなくて、こういう厳しくやる人々がたまにいてくれないと質も向上いたしません。
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Kinoxさん (Madokakip)
2012-11-21 15:35:22
>出だしのジョルダーニを見るフィンリーの目の微妙な表情がおかしかったです

気持ちわかりますわ~。何でよりにもよってこいつと、、、って(笑)
ジョルダーニ、いい人なんですよね、、いい人なだけに周りも嫌な顔しづらい、、。
私は昨シーズン、ミードがジョルダーニと『エルナーニ』で組まされた時に殺意を感じましたよ。
後のメインキャスト二人はフルラネットにホロストフスキー、と良いメンバーです。
もしあそこにもっと良いテノールが入っていたら、また全然違う感じの公演になったと思います。
もういい人なだけでは許せません(笑)

>「キーンリサイドがお腹が空いたと言うから、あたしゃ勧めたんだけどね」

やだー、あんな変な袋から出て来た食べ物、口に入れないほうがいいですよ、サイモンさん。

>昨日Kew Gardensさまとご一緒してて

当日ご連絡頂いていたのに返信が遅くなってすみませんでした。
なんか仕事が入りそうだったので、ちょっとチケットを買うのは保留にしようと思っていたら案の定、、、で、鑑賞できませんでした(泣)
Kinoxさんのブログでお二人のご感想を聞かせていただくのがすっごく楽しみです!!
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