Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

BSO: OPENING NIGHT AT TANGLEWOOD (Fri, Jul 8, 2011)

2011-07-08 | 演奏会・リサイタル
あれは確か、四月頃のこと、私が連れに言いました。
”7月の初めには私達二人共少し仕事が落ち着くみたいだし、わんこも連れてバークシャー(マサチューセッツ州の一番西に位置する郡)でニ、三日のんびりするってのはどう?”
”バークシャーでのんびりか、いいねえ。僕も長らく行ってないしね。、、、ところで君、タングルウッド音楽祭で何聴く気?”
 なんだ、思いっきりばれてんじゃん!!!!
ま、でも、そうなると話は早いですね、ということで、以下のポイントを一気に伝達。

① 今年のタングルウッド音楽祭のオープニング・ナイトでアンジェラ・ミードが『ノルマ』の一幕を歌う
② NYからタングルウッドに行くには片道三時間半~四時間かけてバスで行くしかなく、公演時間を考えると終演後の日帰りは不可能である
③ ということで同地で最低一日は宿泊決定
④ 毛深い息子(わん)を夜中二匹ぼっちにして外泊はしないのが私のポリシー。つまり、彼らも同行する。
(しかもバークシャーは彼らが大喜びすること間違いなし!の自然に恵まれた場所である。)
⑤ 毛深い息子達は音楽祭の会場には入れないので、誰かが宿で彼らのお守りをしなければならない。

”、、、、。その誰かって、もしかして、僕のこと?”
”そう。”
”ってことは、また、モントリオールみたいになるってこと?今回は事前に知らされている、という点が違っているだけで。”
うーん、さすが。察しがよい!
実際のところ、心が広いのみならず、頭もよい私の連れはもう①を聞いた段階で、これは逃げられない!と観念したようです。
なんといっても、ここ一年、私は彼女を聴きに、キャラモアやら(そういえばその時も連れを連行したんでした、、。)、
ピッツバーグやらボルティモア(感想はこれから)やらに遠征出撃した程ですので、
ミードが絡んでいるという時点で、私がタングルウッド行きを諦めるということは決してなく、
彼が同意するまで、しつこく泣き落とし作戦(泣き脅し作戦ともいう。)が継続するであろうことを一瞬で察したのです。

というわけで、時は流れ、7/8の金曜の朝。
レンタルした車の運転席に座る連れと、久々の遠出に興奮状態に陥っている毛深い息子達を
両脇に押さえ込んで後部座席の真ん中に陣取るMadokakipの姿がありました。

NYからタングルウッドまでの道のりの多くの時間はタコニック・ステート・パークウェイをひたすら北上することに費やされます。
長いドライブになるので、持って来たんですよ、どっさりとCDを。
”一番初めにかけるCD、選んでいいよ。今日はドライブもしてくれて、夜にはわんのお守りまでしてくれるんだもん。ありがとねー。”と猫なで声のMadokakip。
”オッケー!じゃ、候補は何?”
”えっとね、(連れの好きな)ストーンズでしょ、それからカラスの『ノルマ』でしょ、、、それから、えっと、えっと、、、”
すると連れがぽつりと言うのでした。”なんか、カラスの『ノルマ』しか選んじゃいけない気がするのは気のせい、、?”
というわけで、数秒後にカーステからばんばん流れる『ノルマ』の序曲。
ああ、日本の皆様はつい数週間前にこの曲をメト・オケの演奏で聴いたのよね!と、羨望の思いにわなわなしてみる。
というのも、前にもどこかで書いたと思うのですが、私は何気にこの曲が好きなのです。いや、上手い指揮者の手にかかったら、という条件付きですが。



そして歴代の指揮者のうち、イタリア・オペラの指揮で最も好きな人を一人あげよ、と言われれば、私の場合、候補にあがる人がセラフィンです。
”ベル・カントの序曲はつまらない。”という人がいますが、それは緩みきった演奏を聴いているからでしょう、と私はいいたい。
言い換えれば、ベル・カントほど指揮者の技量が如実に現れるレパートリーはない、と私は思っていて(と、ここでふとサマーズの『ルチア』を思い出す、、。)、
上のYouTubeの音源はセラフィンがスカラを指揮したスタジオ録音からの抜粋ですが、この何かがおこりそうな緊迫感、緊張感、
それから、4分10秒あたりで、曲調の変化に伴ってぶわーっと周りの空気と景色が一気に変わって感じる・見えるようなこの感じ、
ノルマの今いる状況、彼女の気持ちががこの5分40秒ほどの曲の中に全部表現されているわけですが、
力のない指揮者とオケによる演奏では、このCDのような表現は絶対に無理だ!!と思います。
また、彼の演奏は熱さと気品のバランスがとれているのもいいのです。私、下品なものは大っ嫌いですので。

ちなみに『ノルマ』の演奏で私が最も愛で、そしてそれゆえに今回の旅行のお伴に連れて来たのは、そのスカラの音源ではなく、
実はデル・モナコ、カラス、スティニャーニが歌い、セラフィン指揮のローマRAIオケが演奏する、スタジオ公開放送の音源(1955年)です。
はっきり言って、全く音質はお世辞にも良いと言い難い。美しい録音に慣れた耳を持つ方には苦痛ですらあるでしょう。
しかし、歌唱が素晴らしい!
しかも、オケが違えど、まぎれもなくセラフィンが指揮していることが感じられる演奏なので、
総合的に見て私はこの盤が一番好きなのです。

序曲に続くオケの演奏部分が始まると、連れが”『ノルマ』ってベル・カントの中では好きだけど、ちょっと冗長な感じがする部分もあるよね?”
ややっ!これはもしや連れもこれまで緩みきった演奏しか聴いたことがない一人?と、つい、眉がぴくっとしてしまう。
”もしかして、ここの、序曲が終わってから合唱までの演奏の部分も冗長だと思ってる?”と尋ねると、”うん、ちょっと、、。”
と、そこでいきなりきれるMadokakip!!!
”そんなことないの!!!良く聴いて、このセラフィンの演奏を!!!ここはね、ノルマの気持ちを表現した序曲から、
ドルイド人たちの宗教儀式を表現しているシーンに変わったわけよ。あなたもね、今、そのセレモニーに参加していると思って目を閉じてご覧なさい!
そしたら長過ぎる、なんて思わないから。真ん中には木があって、それを教徒が取り巻いている、そこに響くオロヴェーゾの声!!”
宗教的な神秘さも何も漂っていない、つまんない演奏が多いせいで、変な誤解が広まるんですよね、本当に。
あ、そうだ、次回メトに『ノルマ』が帰って来る時には絶対にサマーズの指揮にならないように今から願をかけとかなきゃ。

そして、登場するデル・モナコのポッリオーネ。本当、こういう思い切った声の出し方をしても長い間へたらなかったデル・モナコとは、
どれほど強靭な声をしていたのだろう、、と思います。
確かに現代は演奏のペースが違う(ので歌手の方でよほど自制心がないと、声がへたるのも早い。)ということもありますが、
そもそもへたる前の声をとっても、こんなすごい声を出せるテノール、しばらく出てないわなあ、、、と思わせられます。

そして、カラスの”清き女神よ Casta Diva"は、、、。いやー、本当にすごい。
もう何度も聴いている音源なんですが、聴く度にその凄さを思い知らされる。
オペラを好きになって日が浅い頃に聴いた時ももちろんすごい!と思ったけれど、今はそのあまりの凄さに怖くなるくらい、と言った方がいいくらいです。
彼女のしていることを成し遂げられる歌手がこの世に存在しえる、しえた、ということが驚き、というか、
オペラのこと、声のこと、歌のことを知れば知るほど、その凄さの深さを知って呆然とするという、そういう感じです。
Casta Divaについては、我々が車内で聴いた音源と同じ音源がYouTubeにありました。この後に合唱を挟んで歌われる部分が、
ベルカントの技巧の花火大爆発!という感じでこれまたスリリングなんですが、その部分が含まれていないのが残念です。



”清き女神よ”が終わった後、もちろん、客席は大喝采(公開放送なので、オーディエンスがいるのです。)なんですけれども、つい連れに尋ねてしまいました。
”この時の聴衆のどれ位の人が、彼女が二度とこの世に現れないかもしれない程の才能を持った歌手だということを、
また、その場にいて、彼女の歌を聴けるということがどれほど幸福なことか、わかっていたと思う?”

タングルウッドはボストン交響楽団(BSO)の夏の活動の場である音楽祭の会場を含む敷地の名称と考えた方がよく、
所謂”町”では決してないため、音楽祭を泊まりで鑑賞する人にはすぐ側にあるレノックスという町が宿泊先として最も一般的なようですが、
私たちは音楽祭の会場から峠を一つ越えたところにあるウェスト・ストックブリッジという町に滞在しました。
距離としてはタングルウッドからそんなに遠いわけではないので、歩けそうな錯覚を起こしますが、それはやめた方が無難だと思います。
車がびゅんびゅん横を通る暗がりの中の峠道を30分以上かけて歩くなんて、翌日轢死体で発見されかねません。
広大な駐車場があるので、車で来て駐車に困るということは絶対にありませんが、帰りは相当混雑するので、それが嫌な人は少し早めに出るとか、
迎えの車に、駐車場に入る少し手前のスポットで拾ってもらうよう手配するなどの工夫が必要です。
(B&Bのオーナーがそのあたりの事情に詳しくて、色々教えてくださったおかげで助かりました。)

残念ながら私は当日に現地に到着して、しかも時間的に慌しかったので、ゆっくり敷地を散策する時間がなかったのですが、
会場としては、キャラモアのような瀟洒な感じも手作り感もあまりなく、ボストン交響楽団(BSO)の夏の拠点として、
それにふさわしいというか、大規模で、近代的、気取りがない雰囲気だと感じました。ちゃっかりとBSOのグッズを売る売店なんかもあったりします。

タングルウッドには複数の演奏会場がありますが、規模から言ってメインの会場と言ってよいのが、クセヴィツキー・ミュージック・シェッドです。
ミュージック・シェッドというのは強いて訳すなら音楽小屋とでもいう感じなのですが、この音楽小屋は相当な広さがあります。
柱に支えられた屋根、ステージを除いては空間を取り巻く壁がない、という二つの点で、キャラモア音楽祭の会場と基本的な造りは似ていますが、
席数が5000ほどもあるというクセヴィツキー・ミュージック・シェッドは、その広さ故に、
キャラモアの会場とはだいぶアコースティック上も、また会場から受ける雰囲気・手触りも、違っています。



特に私が気になったのは、この音楽小屋はまともな音を聴く半野外ホールにしては大き過ぎ、特に横に広すぎるように感じる点です。
オケの音の場合でも、聴いていて若干不自然な感じが伴いますが、声についてはそれがほとんど許しがたいレベルに達していて、
正直、ここで初めて聴く歌手たちの声が例えばメトなどのオペラハウスでどのような声量で聴こえるか、それを伺い知ることはほとんど不可能だと思います。
そもそもBSOは交響楽のオケなので、声楽の演奏会場としての機能は重視していなかったということもあるでしょうが、
私が今回座ったのは、最前列のブロックを通路ではさんだ一列目だったのですが、かなり舞台下手に寄っていたせいで、大変欲求不満が募りました。
次回訪れることがあれば、なんとしてでもセンターブロックを押さえなければなりません。

さて、健康上の理由から、メトの日本公演不参加を余儀なくされたレヴァインですが、それと同時にタングルウッド音楽祭からの降板も発表しました。
しかし、今日のオープニング・ナイトは、歌手たちの中にメトで主役級の役を務めたことがあるソリストが実に4人も含まれているという事実、
また、オペラの作品からの抜粋が半分を占めているという、このプログラム構成自体に、レヴァインの亡霊(あ、まだ亡くなってませんでしたね、失礼。)が見え隠れします。
ついでに言うと、『ノルマ』を演って、『ウィリアム・テル』の序曲を演って、ヴェルディを演って、そして最後に『ローマの松』まで入れてしまう!という、
この異様なまでのてんこ盛りさ(彼のてんこ盛り好きが、メト・オケのカーネギー・ホールでの一連のコンサートの選曲にも表れていることは、今まで何度も書いて来た通りです。)に、
私は今日激しくレヴァインの存在を感じています。
もしかすると客席のどこかに紛れこんでいるか、あるいは、あの舞台の床板をひっぺがしたらそこでじーっと座ってたりして、、と怖くなって来ました。

オケ作品のみ、もしくはそれらが中心のプログラムなら、もしかすると代わりの指揮者の意向に伴う演目の変更という可能性もあったかもしれませんが、
公演時間の半分以上をオペラからの抜粋に割き、複数のソリストをキャスティングしてしまっているゆえに、最早変更しようもなかったのでしょう、
レヴァインが組んだプログラムをほとんどまるまる受け継いで指揮することになったのがシャルル・デュトワです。
彼がメトで振ったことがある演目は、『ホフマン物語』、『ファウスト』、『サムソンとデリラ』の3演目だけで、
”奴にはフランスものだけ振らしておけ。”という音楽監督レヴァインの声がオーバーラップして来そうなこの露骨さに笑ってしまうのですが、
1989/90年シーズンを最後にメトには帰って来ていないところを見ると、デュトワにとっては笑い事ではない、色々な事情があったのかもしれません。

彼の指揮を最後に生で聴いたのは1999年末にN響と演奏したダルラピッコラ作曲の『囚われ人』以来で、一応『囚われ人』はオペラなんですけれども、
それでも彼の20年近くにおよぶメトでのエクスポージャーの少なさ、というか、”無さ”と言った方が適切なんですが、
そのために、私にはデュトワにはオペラを指揮する指揮者というイメージがあまりないのです。
(彼がよその劇場で頻繁にオペラを振っていた・るかどうかはよく知りません。)

正直、『囚われ人』を聴いた時も、テクニックはきちんとしているけれどもそれ以上のものを感じさせない演奏という印象が残っているのですが、
これは私が思うところのN響の特徴そのものでもあるので、全てをデュトワの指揮のせいにするのはフェアでないかもしれません。
しかし、今日はBSOという違うオケを得ているわけですので、彼がオペラの作品(それもフランスものではなくイタリアの!)で、
オペラ指揮者としてどのような力とセンスを持っているのか、また私の感性と合うか、そこをじっくりと観察したいな、と思っております。
また、あまりレヴァインとそりがよくないという話を聞くBSOが、代指揮者デュトワに対してどのような姿勢で演奏に臨むのか、
さらには、BSOの常連オーディエンスがデュトワの登場と指揮の内容をどのように受け止めるのか、それらの点にも興味が湧きます。

太陽の光がいよいよ消えかかろうかという頃、舞台上にオケのメンバーが現れ、やがてソリスト達を引き連れたデュトワも登場です。
観客の拍手は、お世辞にも熱狂的とは言えませんが、まずは温かいといってよいでしょう。
それにしても、夏の夜の演奏会、特に野外のそれでは、オケやソリストが白いタキシードで演奏するのが普通ですが、
白のタキシードにはやはり白シャツに黒の蝶ネクタイが無難でよろしいですね。
デュトワの黒シャツ(しかも写真を見たら裾が出てるし。)は、なんか田舎のちんぴらみたいで、演奏が始まる前から品の無さで5点減点!って感じです。

プログラムの前半は『ノルマ』の第一幕。ということは、あの、序曲から始まるわけです。
オケは、、、サウンドを聴くと、やはり上手いオケだな、とは思います。音の重心がしっかりしていて、骨格のがっちりした音。
メトの楽日からはだいぶ日にちが経っていますし、直近で聴いた生オーケストラといえば、
恐怖のABTオケによる『白鳥の湖』のへなちょこ演奏だから、耳の錯覚だろうか、、?いや、そんなことはないと思います。

でも、きちんとした音と演奏であるというだけでは観客の心を摑めない、
その点こそがベル・カントを演奏する難しさであることは、先にも書いた通りですし、
また、BSOの演奏をものの数分ほど聴くと、そのことをしみじみと感じさせられます。

一般論ではありますが、シンフォニー・オケ(交響曲など、オーケストラのために作られた作品を
レパートリーの中心にするオーケストラ)の多くは、
オペラハウス付きのオケとは根本的なところで作品へのアプローチとか姿勢が違っているように感じられ、
まさに、それが、私が一般的にはシンフォニー・オケによるオペラ作品の演奏をあまり好まない理由の一つです。
NYフィルの『トスカ』や『エレクトラ』の演奏を聴いた時にも似た種類の違和感を感じました。
そんならBSOの演奏なんか聴きに来なけりゃいいだろうが!と、ボストニアンに言われそうですが、それはその通りだと思います。
私もミードが出演するのでなければ、何もわざわざタングルウッドまで遠出して来はしなかったでしょう。
NYフィルやBSOのオペラ作品やその抜粋の演奏を聴いていて思うのは、
各楽器のセクションが一生懸命、力任せに自分のパートを演奏し過ぎだということです。
結果、正確な演奏、技術的に上手い演奏ではあるかもしれないけれど、各セクションの自己主張大会みたいな感じになってしまうのです。
オペラは交響曲とかオケ用に書かれた曲と違って、具体的な筋立てがあり、具体的な情景があり、具体的なテキスト(歌詞)があります。
そして、その上に、言葉で直接には語られない感情も音楽を使って表現されます。
オペラ・オケには、まず、それらの言葉や感情を表現するために自分達の演奏があるのだ、という自覚がある点、
これがシンフォニー・オケとの一番の違いかな、と思います。
いや、自覚というよりは、それをあまりに毎日当たり前のこととして行っているので、ほとんど無意識に行われているといった方が良いかもしれません。
具体的なテキストや感情の表現を最も適切なものにするためなら、
あるセクションが他のセクションを立てて日陰に入るのを厭わないので、
決してNYフィルやBSOの演奏のようにがちゃがちゃうるさい感じがしないのです。
そう、実際、シンフォニー・オケが演奏するオペラの全幕を聴くと、なんだか私はとっても疲れてしまうのです。
今日は一幕だけだからまだ良いですが、『ノルマ』を全幕この調子でやられるときつい、、と感じてしまいました。

オペラ・オケの奏者はリブレットの一字一句を覚えているわけではないですから、
時に音楽そのものから、今語られている言葉、今登場人物が感じている気持ちを敏感に感じ取り、それを楽器の音に反映させています。
どんなにリブレットのテキストやその時の状況が複雑もしくは抽象的なことを語っていても、
また実際に歌手から発される言葉がどんなに短いものであっても、
それにぴったりと寄り添う音色をオケが出して来た時、これはオペラを鑑賞していて、身がよじれるような至福を感じる瞬間の一つです。

序曲や前奏曲には言葉はありませんが、全幕の筋立ての総ざらえみたいな内容だったり、
もしくはこれから語られる物語への予感を感じさせるものであらねばならず、
この点でも、シーズンを通して多くのオペラ作品の全幕を演奏し、
そのあらすじや全体像を把握しているオペラオケによる演奏の方がが有利なのは言うまでもありません。

BSOの奏者の方が、どれだけ『ノルマ』というオペラのストーリーに精通しているかはわかりませんが、
今日の序曲の演奏は、なんだか、ざっ!ざっ!ざっ!ざっ!、、という兵隊の足音が聞えて来そうな演奏です。
確かにオペラはこれからドルイド教徒がローマ人との戦いに踏み切るか、否か、というところから始まりますが、
そんなところを克明に序曲で表現して何の意味があるのか!!??
このドルイドvsローマという構図は、ポリオーネとノルマ(そしてアダルジーザ)の恋が道ならぬ物たらしめるための設定にすぎず、
『ノルマ』は戦争オペラなんかじゃない!
『ノルマ』が何を描いたオペラであるかといえば、それは一にもニにも三にも、愛、愛、愛!!!愛に尽きます!
だから、序曲の演奏にも、その底に常に激しく溢れる愛が感じられなければなりません。
先に紹介したセラフィンの演奏は、曲想の変化に関わらず、最初から最後まで非常にロマンチックなものが流れているのがわかります。
ところが、デュトワ率いるBSOの演奏には、それがなくて、最初から最後まで、ざっ!ざっ!ざっ!
きゃー、BSOの兵隊たちが愛を踏み潰していったわよー!!!という感じなのです。

先に、序曲の4分10秒のポイントに言及しましたが、それは、私にはこのポイントこそがこの序曲の大肝だと思うからです。
道ならぬ恋ゆえの苦悩、ポッリオーネの心が離れて行ってしまった理由がわからないゆえの苦悩、
アダルジーザへの友情の一方で、ポッリオーネの心変わりの真相を知り、その原因が彼女であることから湧き上がる嫉妬、
そして、なによりも自分を捨てた男への憎しみ、恨み、、、これらの負の感情を引き起こす原因となったのはポッリオーネへの愛ですが、
また一方で、この嵐のような状況から彼女を高みに引き上げるのもまた同じポッリオーネへの愛であり、
ラスト(第二幕第二場)で”それ(ローマの総督ポッリオーネと通じている裏切り者)は私 Son io.”と告白した後の、
愛によって全ての負の感情が雲が消えるように散って、彼女の勝ち得た心の平穏がこの序曲の4分10秒からの部分に表現されていると私は思うわけです。
セラフィンの指揮の演奏のようにここできちんとそれを感じさせてくれない演奏は、私にとって、『ノルマ』序曲であって『ノルマ』序曲でない。
BSOの演奏には、このポイントについても、ざーっと黒雲がひいていくような感じも、ノルマの魂が高みに上っていく感じも全くなく、
この大切なポイントにも表情一つ変えることなく、ひたすら前を見て行進!あっさりとスルーして行ってしまいました。
ここ、デュトワから何の指示もなかったんだろうか、、、。



と頭をかきむしりたい気持ちでいるうちに、序曲から、例の、わが連れに”冗長”発言を受けたオロヴェーゾ&合唱の部分になだれ込みました。
オロヴェーゾのパートを歌うのはジェームズ・モリス。
モリスといえば、シーズンの終わりの方のSingers' Studioに登場して、本当に色々な興味深い話を聞かせてくれました。
(まだ記事には出来ていませんが、、、、。すみません。)
モリスと言えば、ヴォータンをはじめとするワーグナー作品でのキャスティングが印象に強いのですが、
ベル・カントを含めたイタリア・オペラも結構歌っていて、自身、自分がワーグナーの作品を歌うようになるとは想像もしていなくて、
ずっと基本的にはイタリアン・レップを中心に歌って行くんだと思っていたと、そのSingers' Studioで語っていました。
ただ、オロヴェーゾはものすごく小さい役でもないけれど、猛烈な聴かせどころのある役、というのでもなく、
非常にキャスティングが難しい役の一つで、今回は、モリスの声に衰えが見られる今だから納得する点もありますが、
たとえば15年前とかに、メトがモリスをオロヴェーゾ役にキャスティングしたら、
それはやはり”なんか贅沢なキャスティングだな。”という印象をオーディエンスに与えたことでしょう。
で、実際、そんな贅沢なことはメトもなかなかしないもので、モリスがメトでオロヴェーゾを歌ったことがあるのは、
1981-2年シーズン終了後の国内ツアー(そう、今はもう行っていませんが、以前のメトはシーズン終了後に
全米の地方都市に出向いて全幕公演を行うツアーを行っていたのです。)の時のみです。
今回のモリスの登場は、特にリングを中心とした、長きにわたるレヴァインとのコラボ関係によって実現した、
一種のゲスト出演のような側面もあるかと思います。
加齢により、歌唱に読経のようなクオリティが出てきてはいますが、
さすがにモリスには長らく一線で活躍して来た貫禄があるのと、きちんとした基本的な歌唱力や表現力はある歌手なので、
そこのところで乗り切ってみせました。

ポッリオーネを歌うデ・ビアジオは先シーズンの『シモン・ボッカネグラ』で、
病欠のヴァルガスに代わってガブリエーレ役を歌ってメト・デビュー、健闘を見せたテノールです。
その『シモン』の時の指揮がレヴァインでしたから、このタングルウッドへの起用自体、
もしかすると、その『シモン』での健闘が一つの理由になっている可能性はあるかもしれません。
『ノルマ』に関しては、多分にミードの力のショーケースとして企画された側面があり、デ・ビアジオの方がそれに合わせた感じがあるのでしょう。
というのも、ポッリオーネ役はデ・ビアジオの声質には重く、若干手こずっている感じがあり、
彼の良さが十全に引き出される役だとはあまり感じませんでした。
メトで聴いた『シモン』や、今日の後のプログラムで聴く『イ・ロンバルディ』、こちらの方がずっと適性があるように思います。
彼の声は、中から少し軽めによった声質で、からっとしながら芯のある端正な音色で、
YouTubeでいくつか彼の歌声の音源が上がっていますが、なぜか彼の歌声は録音では著しく劣って聴こえるタイプのそれで、
彼の歌声の長所である、生で聴いた時に感じられる響きのからりとして端正な美しさはすっかり消失し、
逆に欠点であるところの、ブリージーさとか声のコントロールの甘さ(というか、声がブリージーになること自体、
コントロールが甘いということなのですが)が、とことん強調されて聴こえるように思います。
私がこれまで経験したことのある中で、劇場で聴く声と録音の声が最も乖離している歌手の一人かもしれません。

ただ、ポッリオーネ役に関しては、もともと彼の持ち味ではさばききれない範囲の声の力強さ、マスキュランさが求められ、
今日、私が聴いた限りでは、今後(少なくともしばらくの間は)全幕で彼がポッリオーネ役を歌うというのはちょっと考えにくく、
また歌ったとしても、無難に歌いきりはしますが、単にパートが正しく歌われたということだけでなく、
キャラクターの描写も合わせたレベルで”ポッリーネ役を聴いた”と、オーディエンスが真に満足するような結果は得られないように感じます。
なぜなら、声の質というものもある役を歌い演じる時の大事なファクターであるからです。
例えばこの役の低音域なんかもかろうじて音が出ているという感じで、それこそ車の中で聴いたデル・モナコのような、
どしっとした重量感が音に備わっていない。
へなちょこなローマ総督、それを二人の女性が取り合う。ありえない。
例えば映画で、不細工な男を美人二人が取り合うストーリーを見たら、”それないだろ。”と普通に思いますでしょう?
私にとって、オペラを鑑賞する時、不細工な男=役に必要なパーソナリティが声に備わっていない男であり、
そんな歌手がモテ役を歌う時、同じように、”ありえん。”と思ってしまうわけです。
ここで強調しておきたいのは、ある特定の役に向いた声でないからと言って、駄目な歌手だ、と言っているわけではない点です。
デ・ビアジオだって、それこそ、ガブリエーレ役を歌った時は、”うぬ、あり得る。”と私は思いましたから。

肝心のミード。
彼女に関しては今年はピッツバーグのヴェルレク、NYでのドヴォルザークのスタバ(スターバックスではなく、スターバト・マーテル)、
そしてボルティモアでのヴェルレクを聴きましたが、NYのドヴォルザークのスタバあたりから、
少しご本人に気の疲れが出ているのかな、と思うところがあります。
周りからの期待は大きい、メトでの本格的な活躍に向けて準備はしないといけない、
名前が売れて来ると、その分、きつい批判も出て来る、、と、色々大変なことがあるのでしょう。

最近の彼女で私が気になっている点は、スタミナの配分が若干露骨に感じられる点で、
昨シーズンのキャラモアでの『ノルマ』(あれは一幕どころでなく全幕でしたから!)はもちろん、
ピッツバーグのヴェルレクくらいまでは、全編、神経が届いていて、思い切り歌っている感じがしたのですが、
ボルティモアのヴェルレクでは、最後のリベラ・メは破格の出来でしたが(ここは本当にすごくて鳥肌が立った!)、
そこに至るまでの道のりで、非常に正確に丁寧に歌ってはいるので、手抜きでは決してないのですが、
どこか力をセーブして歌っている感じがあって、最後の最後で爆発させた彼女の本領を持ってして
これでOK!と締めてしまったような、そういう印象を持ちました。
ま、それでもリベラ・メで、あんな締め方を出来る歌手はそうはいないと思うので、ある程度、納得はしてしまうのですが。

で、今日のBSOとの演奏にもやはり似た種類の感覚があって、全部の演奏時間を足してもキャラモアの『ノルマ』全幕には遠く及ばないので、
肉体的にきついわけでもなかろうに、これはどうしたこと、、と訝しく思います。
Casta Divaに関しては、キャラモアの時と違って妙なオーナメテーションを押し付けて来る人=クラッチフォードがいないせいもあり、
彼女のやり易いようにリラックスして歌っていて、その点はいいな、と思ったのですが、音を軽く外してしまった箇所もありましたので、
Casta Divaだけに限って言うと、なぜそれほど彼女の風評が高いのか、良くわからん、、と感じたオーディエンスもいたかもしれませんし、
実際、拍手もそれを反映したものだったように思います。

しかし、今日の演奏では、この後が凄かったのです。
そう、Casta Divaが終わった後の、合唱を伴って歌うFine al ritoからの部分です。
ある意味では、Casta Divaよりも、アジリタなどのベル・カント技術の有無がはっきりと露になってしまう部分でもあり、
また聴いているオーディエンスにとってもとてもエキサイティングなパートでもあるので、
ガラやコンサートでCasta Divaを歌う歌手はこのFine al ritoも含めて歌って欲しいよな、といつも私は思います。


(上はカラスの歌唱によるFine al ritoです。)

映画『The Audition』のエンド・クレジットのバックグラウンドにこのFine al ritoが流れていましたが、
あれももしかするとミードの歌唱だったのかな、と思います。
もしそうだとすると、あの頃よりも技術が格段ブラッシュアップされていて、今日の歌唱はもう文句のつけようがない出来でした。
このスピード感で、音の美しさのクオリティを保ちながら、楽々と(に見える)歌って、
しかも最後にオケを悠々と越える高音が出る、そんな歌手、そうそう出て来るものではありません。
Casta Divaで彼女の力に懐疑的だった人でも、このFine al ritoを聴けば彼女の評判がなぜ高いか、よくわかったことでしょう。

ただ私は彼女がこういうすごい力の持ち主であることは以前から良くわかっているし、
だから彼女を追いかけて他都市にまで出て行くのであって、特に驚きもしません。
むしろ疑問に思うのは、こういう歌を歌えるのに、最近、なぜかそれを出し惜しみしているような感じを覚える時がある点です。
本当にスタミナに不安があってそうなるのか、例えばオーディエンスの質に合わせて気持ち的に乗る時と乗らない時があるのか、
(確かにドヴォルザークのスタバの時の客のクオリティはひどかった。)
でも、メトにオペラを聴きに来る客というのは、そういうすごいものをいつも見せて欲しい!と無理を言う種類の人間達ですから、
いよいよ彼女のメトでのキャリアが本格的に始まりそうな新シーズン以降、全幕で彼女がその辺りで、
どうやって折り合いを付けていくのか、非常に興味深いところです。

ミードは体型のせいもあって、瓦も割るごっつい声が出そう、、と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、
実際には非常にたおやかな声で、先に”オケを悠々と越える”と書きましたが、決して劈くような音ではなくて、
どこかにやわらかさがある、それも魅力になっています。
なので、オペラに新しいオーディエンスにとっては、彼女の声は実際よりも声量が低く見積もって聴かれる傾向があるように思います。
一方で、誰が聴いても”すごく良く通る声だな、、。”と感じるのは、アダルジーザ役を歌ったジェプソンです。
彼女は2006年頃まで、メトにも『ファウスト』のジーベル役や『イドメネオ』のイダマンテ役といったかなり大きな役で登場していたのに、
それ以来なぜか、突然姿を消していて、ということは、もしかすると彼女もゲルブ支配人の寵愛を受け損ねたチーム
(ラドヴァノフスキー、ホンさん、、)の一人かも、、と思います。
その『ファウスト』も『イドメネオ』もレヴァインの指揮だったので、彼女はレヴァインのお気に入りではあったのかもしれません。

ただ、彼女に関しては私も結果としては珍しくゲルブ支配人と同じ意見を持ちます。
でも言っておきますが、もちろん、ゲルブ支配人みたいに年齢とかルックスで組み分けを決めたりはしません。
ジェプソンは声が立派なのに加え、音楽の技術的なことに関してはしっかりしたものを持っているのですが、
彼女の歌唱にはニュアンスが欠けている、これがとても気になります。
キャラモアのアルケマの歌唱にはテクニカルな欠点はあったかもしれませんが、
アダルジーザの持つ苦悩とか脆さ、良いところも悪いところも含めた女性らしさが、歌唱の中にあった。
私は正直、アルケマのアダルジーザを聴いているうちに、
”ふざけんなよ、このアマ。ポッリオーネの愛を一身に受けておいて、そのくせ、ノルマのためを思って悩むわ、などとかまととぶりやがって!”
と怒ったりする瞬間がありました。でもそれはとりもなおさず、私が物語に引きこまれ、
まるでアダルジーザが身近に存在する女性のように感じられたからであって、
ジェプソンの歌については、巧みに歌っているなあ、、と思っても、彼女のアダルジーザに対して、何の個人的な感情も起こって来ることがなかったのです。

さて、最後にどうしても言及しておきたいのはタングルウッド音楽祭合唱団です。
私は彼らが歌い始めた時、『椿姫』の一幕の合唱メンバーが『ノルマ』になだれ込んで来たのかと思いました。
要は、”能天気”。この一言につきます。言葉に注意を向けないで、音色だけ聴いていると、
ローマに対して戦いを起こすか、起こすまいか、神はどのようなお告げをするだろう?といった深刻な話をしている風ではとてもなく、
”みんなで乾杯でもしようぜ!””夜はまだ長いぜ!”とか、そんなことを歌っているのではないかと思えてくるほどです。
その場面の空気、物語、語られている言葉を音色に載せること、これはもちろんオケだけでなくて合唱にも求められていることで、
こんなテキストと乖離した音色を発する合唱は駄目です!細かいところを云々する以前の問題で、本当、がっかりしました。



インターミッションをはさんで演奏されたのはロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲。
まあ、『ノルマ』はあれでも大人しくしていたのね、、と気づかされるほど、まあ、オケがここぞとばかりにばりばりと暴れてます、、、。
なんか、ロッシーニが書いた作品というより、ヘビメタ・バンドの曲をシンフォニー・オケが演奏しているみたいで、
わけがわからなくなって来ました。
矢もりんごに刺さらず、子供の額の真ん中に直撃したに違いないと思われるような凶暴さです。
問題は究極的には『ノルマ』の時と同じ。個々の楽器の主張が強すぎて、全体像を見失ってしまっているのです。
YouTubeにアバドとベルリン・フィルの組み合わせと思われる同曲の映像がポスティングされていますが、
それを聴くと、私の思い込みに反して、シンフォニー・オケにだって、全体像を見失わず、物語のスピリットを保った演奏が出来るという見本になっています。
まあ、デュトワの手腕の問題もあるのかもしれません。
そのベルリン・フィルの演奏の映像では演奏が終わった後、観客が大熱狂していますが、
それは演奏がこのオペラの、序曲のスピリットを捉えて、それに観客が感化しているからであって、
こういった熱狂を単純に個々の楽器が暴れることで達成できると思っているとしたら、BSOよ、それはちょっと甘い、と思います。

大暴れ『ウィリアム・テル』の後はヴェルディの『イ・ロンバルディ』第三幕の三重唱です。
ヴェルディには意外とソロの楽器が長大にフィーチャーされる作品というのは少ない気がしていて、
私がすぐに思いつくので言うと、『ドン・カルロ』の”ひとり寂しく眠ろう”のチェロのソロくらいなんですが、
この『イ・ロンバルディ』のヴァイオリンのソロもすごいことになっていて、本当に長大で、かつ名人芸的な演奏が求められます。
ヴェルディがこういうパートを書いたことがある、というのも、ちょっと意外な感じが私にはするのですが、いずれにせよ、
この演目がメトで再演される日が来たら、コンマスは上演期間中、胃が痛くなる日々を送ることになるのだと思います。

ヘッズ、特にイタリア・オペラを好むヘッズには、ヴェルディという名前を聴くと自ずと浮かぶ、
熱い血の滾り、熱さ、というのがあって、彼の書く音楽は、ワーグナーとも、シュトラウスとも手触りが違っています。
ヴァイオリンのソロ・パートを今日担当したBSOのコンマスは、もちろん技術的には申し分のないものを持っているのですが、
なんだかとても演奏が硬質で冷たくて、私の中では限りなくセットになっていて、ヴェルディの音楽に必ず付随しているはずの血の通った感じがなく、
これまたヴェルディの作品でないものを聴いているような感覚が起きました。
ただ、このソロ・パートが終わって、全体のセクションが入ってくると、今日聴いたオペラ系の演目の中では一番良い演奏だったかな、という風には思います。

ミードはベル・カンティッシュな技術を持っていて、かつ、ぴらぴらと軽くはない、低音域もしっかりした声をしているので、
ドラマティックなベル・カント・ロール(それこそノルマのような、、)を歌っているのだと思いますが、
ヘッズの中には彼女の声がノルマに向いているわけではない、と言っている人がいて、以前は”えーっ?”と思ったものでした。
しかし、生で重ねて彼女の歌唱を聴いているうち、私も今ではその意見に近くなりつつあって、
多分、今の彼女に最も適しているのは、ヴェルディの一部のレパートリーだと思います。
ということで、メトが新シーズン、彼女を『エルナーニ』に配しているのは非常に正しい選択といえ、
また、今日の『イ・ロンバルディ』も彼女に向いたレパートリーの一つだと思います。
多分、BSO側は、今日のプログラムの中では『ノルマ』を目玉に置いていたのでしょうが、私は、結果として、
彼女はやっぱりヴェルディの方がいいかもな、と思いました。

また、デ・ビアジオも、ポッリオーネより、こちらの三重唱での方が声質に合っていて魅力的な歌を聴かせていたのも全体の印象に貢献していたと思います。

ところで、新シーズン、HDの対象でもある『エルナーニ』の公演には、当初、オロンテ役にリチトラがキャスティングされていて、
最近ではリチトラへの信頼感を全く失っている私ですので、せっかくのミードのHDデビューに彼が相手役か、、と、
若干憂鬱だったのですが、そのリチトラが全公演から降板することが発表され、よかったー、、、と安堵の息を吐いていたのも束の間、
代役がジョルダーニだと聞いて、泡を吹いて倒れ、メトはこの『エルナーニ』を更に強固なものにするための大チャンスだっていうのに、
一体、何を考えとるのか!?と、激怒したものですが、同時にいくつかの公演がTBAになっているのも見落としませんでした。
その時に、デ・ビアジオとか連れて来たらどうなんだ?声質も合ってそうだし、ジョルダーニよりはましだろう、と思っていたのですが、
なんと!今メトのサイトを見ると、ランの2/3近くを、他の誰でもない、そのデ・ビアジオが歌う予定に変わっています!
しかし、なぜだか、HDの日はジョルダーニ、、、。マルチェッロ、なんてしぶといんだ、、、。
でも、もし、前半のランでデ・ビアジオの歌唱がとても良い!ってなことにでもなれば、ジョルダーニがデ・ビアジオにHDの座を譲る
(もしくはメトが譲るように迫る)こともなくはないと思うので、デ・ビアジオには前半の公演が正念場だと思って頑張って欲しいです。

タングルウッドに話を戻すと、残る演奏はレスピーギの『ローマの松』。
私は残念ながら、ここで席を立たなければならなかったのですが、
いつの間にか降り始めた雨の中、会場を立ち去りながら背中に聴いたオケの音は、もしかすると今日の演奏の中で最も活き活きしていたかもしれません。
オケの方もオペラの作品はやりにくい部分があったのかもな、、と思います。

レヴァインが指揮した演奏会を以前聴いた時には、オケのメンバーとレヴァインの間にあまり良い関係が築かれていないのでは?と思うことがありましたが、
今回は、メンバーが割りと素直にデュトワの指揮に答えていたのが意外でした。
ただ、デュトワは、ことオペラに限ると、やっぱり私にとってはあまり面白い指揮者じゃないな、というのを実感。


Boston Symphony Orchestra
Tanglewood Festival Chorus
Conductor: Charles Dutoit


BELLINI Excerpts from Act I of Norma
Angela Meade (Norma)
Kristine Jepson (Adalgisa)
Roberto De Biasio (Pollione)
Matthew DiBattista (Flavio)
James Morris (Oroveso)

ROSSINI Overture to William Tell

VERDI Trio from Act III of I Lombardi
Roberto De Biasio (Oronte)
Angela Meade (Giselda)
James Morris (Pagano / Hermit)

RESPIGHI Pines of Rome

Section 7, Row A Odd
Koussevistzky Music Shed
Lenox, Massachusetts

*** ボストン交響楽団 タングルウッド音楽祭 オープニング・ナイト Boston Symphony Orchestra Opening Night at Tanglewood ***

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16 コメント

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ミード (コバブー)
2011-08-17 10:01:06
おすすめのミードがエルナーニでHDデビューということで、これは楽しみですね。
体型はほとんどカバリエですね。声質的にはどうなんでしょう。

ノルマのカヴァレッタ、最近デヴィアーで聴きましたが素晴らしかったです。
返信する
この冬METに行きます (sachi)
2011-08-18 21:58:16
初めまして、
Metライブビューイングのおかげで、すっかりMetオペラのファンになってしまいました。と同時に、こちらのサイトに出会い、それ以来いつも新しい内容がupされているのを楽しみにしています。オペラは初心者なので、どの内容もへぇと感心しながら読ませていただいています。
ところで全然話題とは関係ないことをここで質問することをお許しください。この冬、オペラ三昧しようとMetのチケットを複数枚、予約購入しました。日本からなので、チケットはbox officeに取り置きなのですが、購入したチケットの席って、メールで連絡が来たりしないのでしょうか。席種が変わる時とかはメールで連絡があるようなのですが。カード決済は完了していたので希望の席種で購入はできていると思うのですが。直接Metにメールで聞けばいいのですが、それほど英語メールも得意ではなくて。もしご存じなら、教えてください。
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Madokakipさま (Kinox)
2011-08-19 12:07:46
>その場にいて、彼女の歌を聴けるということがどれほど幸福なことか
この質問はディープ過ぎて言葉がでません...

>また、BSOの演奏をものの数分ほど聴くと
なるほど。カラヤンが、オペラを演るとオケが互いの音を良く聴くようになるからいいんだよね、と言っていたのを思い出しました。このところライブ録音を除くとメジャーなオケがオペラのスタジオ録音をするのが極端に減りましたよね。このヴィジュアルな時代、じっくりいい音を作ろうとするオペラのプロジェクトにはもうお金が出ないってことなんだったら、残念です。ただ、米国在住の耳としては、カーネギーホールの観客を除いて、生粋のアメリカ人オーディエンスのクラシックコンサートに対する期待水準は極端に低いので、われわれが米国オケの質にがっかりするのはしょうがないのかな。ボストンフィルも小沢氏の要求水準を後半特にうるさがってたらしいですね。交響曲の終わりまで聴かないで拍手を始めたり、クラシックよりスターウォーズのテーマのほうが良いと思うような観客が多いとさすがにモラルや演奏基準が低下するのは当たり前かも。ヨーロッパの指揮者に叩き上げられたクリーブランド、フィラデルフィア、ピッツバーグあたりにはこの不況の中でもぜひともパトロンの皆様には頑張ってレベルを維持する貢献をしてもらわないと。なんて言いながら、自分自身はCDを買うとするとやっぱりベルリン、コンセルトヘボウ、ヴィーンにいってしまうんするんですが...

>各楽器のセクションが一生懸命、力任せに自分のパートを演奏し過ぎ
そういえば、週末、ジーメンスのおかげで見れた(TV放送があった欧州や日本がうらやましい...)バイエルンのローエングリンでの合唱団のハーモニーの美しさに、メトの我も我もになりがちな合唱団に慣れきった自分の耳に気づいてショックを受けました。この俺・あたしがプリマみたいなやらしさのない、参加者全員が最高水準の音楽を作り出そうというハンブルかつ真摯な姿勢がひしひしと感じられる公演、こういうのをやっぱりNYCでも観たい! 評判は悪くても意味のある、そして音楽性を妨げることはしないこういうプロダクションで観たい!

>『ノルマ』
カラスも素晴らしいけれど、やっぱりわたしにとってのノルマはわたしのオペラファン人生で現役で活躍していたカヴァリエ。あぁわたしの心に住む(大きな?)妖精カヴァリエ。生であなたのノルマは観られなかったけれど、いつかあなたが与えてくれた感動に匹敵するノルマを誰かが生で聴かせてくれる日がくるのでしょうか...
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コバブーさん (Madokakip)
2011-08-19 15:27:56
それはもう私、とても楽しみにしておりますよ。
また、『エルナーニ』の前にネトレプコとのダブル・キャストでの『アンナ・ボレーナ』もありますからね。
セントラル・パークで行われたメトのサマー・リサイタルの出演者にミードが含まれていて、
『アンナ・ボレーナ』からの抜粋を披露してくれましたが、
ちょうど準備している最中で相当歌い込んでいるからでしょう、
思った以上によく仕上がっていて、こちらもとても楽しみです。

ミード、目の前でご本人を拝見したことが何度かありますが、写真で見るほど大きな感じはしないんですよね。
なぜか写真ではやたら巨体に見えますけれど。
声質は、低音域がしっかりしていて、他の音域も生で聴くと録音よりもやや太い感じがする声ですが、
まだ少なくとも今は、ドラマティックな役を歌う段階にはないし、
(なのでベル・カントでも軽い方、重い方、両端に寄って行くほど、適性が低下していく、ということは言えるのかな、と思います。というのは、あんまり彼女の声質にあっていないと思うのです。)
また声もばりばりと轟かしてねじ伏せるという感じではなく、どちらかというと丁寧な歌い方の中に美があるタイプだと思います。
響きは決してヒステリックにならず、たおやかさ、芯の強さのようなものを感じる声です。
ただ、高音域での透明度に関してはカバリエのようなクオリティは持っていません。
返信する
sachiさん (Madokakip)
2011-08-19 15:28:59
はじめまして、コメントありがとうございます!
ライブ・ビューイングをきっかけにメトにお出でになる方が増えるというのは本当に嬉しいです!!
それからそのおかげでこのブログを見つけてくださったのですから、私の方からもHDに感謝!
それにしましても、オペラ三昧とは何と素敵な言葉でしょうか(笑)
どのような演目をご覧になるのでしょうね?いずれにせよ、楽しみなことです!!

さて、話題とは関係ないトピック、ご質問も、大歓迎なんですが、
メト関連の質問でいらっしゃいますから、全く無関係ではございませんよ。
同じ疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんし、とても有意義だと思います!

>購入したチケットの席って、メールで連絡が来たりしないのでしょうか

これはチケットを購入された時期によると思います。

①サブスクリプションの申し込み期間、それから、それに伴って(もしくはパトロンであることによって)与えられるシングルのチケットの優先発売期間

これらについては、一部の座席(サイドのボックス席などその期間から既に座席単位で指定できる座席)を除き、予約をする際にはブロック(Orchestra Primeなど、、)による申し込みしか出来なかったはずです。
これはサブスクライバーを辞める人、新しくサブスクライバーになる人の両方の調整を行う必要があって、
それが確定してからでないと個別のオーダーのフィルも出来ないからだと思われます。
メトはまず、申し込みの第一希望が全て満たされたと仮定して、一旦クレジットカードの引き落としを行います。
その後、思ったよりも、サブスクライバーになりたい人が多かったり、
シングルのオーダーが殺到して、あるブロックの座席が足りなくなると、
一部の人は、第二希望で申請していた席種に回され、もしここで座席がおさえられることになると、
第一希望とは金額の差が生じるので、その調整がさらにクレジットカード上で処理されます。
(もちろん、第二希望でも座席がとれなくて、全額返還されることもあります。)
このタイプのチケット購入では、メールは座席のコンファームではなく、
どういう決済がクレジットカードで起こるか、という連絡、それに近いと思っていてよいのではないかと思います。
ですから、メールが来ても、必ず座席が取れたという保障にはなりません。
(もし、金額のアジャストや返還があった時には当初希望していた座席が取れなかった、
逆に何も言ってこなければ、まずは希望通りのブロックでおさえられたのだろう、と解釈することになります。ただし。これは私も経験がありますが、稀に、全額返還のメールがタイムリーに、もしくは全然来ないことがあって、これはショック大です。気づいた時には他のブロックも全部売れてしまっていたー!ということになることもあります。)
いずれにせよ、チケットを発券してもらうか、もしくはメトのBoxOfficeにメールや電話で確認を依頼しない限り、詳しい座席番号はわかりません。

②一般発売の時期に入ってから以降のオーダー

①の段階が終わると、とりあえずサブスクライバーの申し込み分やシングルチケットの優先発売によって埋まった座席が具体的に決定するので、一般発売の時期以降、メトのサイトのオーダー画面では、ブロックではなく、座席を指定しながらチケットをオーダーできるようになります。このタイプのオーダーの場合は、返信されるeメールにも座席の具体的な番号が表示され、その座席は完全にリザーブされています、ということの証明になります。

Sachiさんは①の段階で申し込まれたようですので、box officeでチケットをホールドしているとなると、電話やメールで座席を確認するしかないと思います。
また、
>カード決済は完了していたので希望の席種で購入はできていると思うのですが
も、上の説明から理解して頂けると思いますが、それだけでは席が取れているという証明にはならないんです、残念ながら、、、。
もしこの後にカード決済で、金額の調整や返還がなければ、という条件付きになります。
メト側の処理のタイミングやカード会社の方の都合によっては、それがとても遅く反映することも時にあります。
おそらくきちんと取れているだろうとは思いますが、私個人的には確認の電話やメールをお勧めします。
NYまで来てチケットが取れてなかった!!!ということになったら、ちょっと悲しいものがありますので、、。
もしオーダーの内容を私にdiscloseするのがお嫌でなければ、確認のお手伝いも出来ますので、
Madokakipの後に@mail.goo.ne.jpとつけてメールください。
返信する
Kinoxさん (Madokakip)
2011-08-19 15:31:21
アメリカだけ?それとも全世界の傾向でしょうか?
クオリティよりもスピードが求められるトレンドが益々加速していて、本当、何もかもがインスタントですよね。
正直、最近のこちらのテレビ、映画、本、どれをとっても観るべきものがなく、どうしてこんなくだらない適当なやっつけ仕事みたいなものばかり作っているんだろう、、?と思います。
オペラというのはそれとは最も正反対の場所にあるものですが、
段々そういうメンタリティが侵食して来ているのを感じます。
歌手が成熟し、テクニックを磨いて行くプロセスはとても長い時間がかかるし、
個々の上演をとっても、十分な練習やリハの時間が必要だと思いますが、
なんか、優れた歌手や演奏家が舞台やピットに立った・入ったら、すぐに良い音が出て来ると勘違いしている人が多いですよね。
その点では最近、観客も非常に非寛容だと感じます。
ミードのような若い歌手がこういうトレンドに潰されないように願っています。

>ベルリン、コンセルトヘボウ、ヴィーンにいってしまうんするんですが

(笑)んまっ!アメリカオケへの差別ですね。なんて、私もアメリカ・オケのCD,DVDは(メトのものをのぞいては)やはり比率的に少なめですけれども。
ピッツバーグはなかなか面白いオケだと思いました。ただ生で聴いたのはヴェルレクの時の一度だけなので、また別の機会があれば、、と思います。

そうなんですよね、、、オペラのコーラス、バレエの群舞、、
これはアメリカ人が得意とするところだとはお世辞にも言えませんよね。
でも、オケもやはり調和、ハーモニーが大事でメト・オケは高い水準でそれをやってのけていますから、
人種だけでは説明できないこともあるかもしれません。

>あぁわたしの心に住む(大きな?)妖精カヴァリエ

妖精、、(笑)
でも、ほんと、『ノルマ』と言えば、カバリエも忘れてなりませんね。
カラスとは全く違う人物造型ですが、彼女のノルマも素晴らしいと私も思います。
返信する
Madokakipさま (Kinox)
2011-08-20 07:33:57
お返事を頂いて、欧州偏向的なコメントに聞こえたかと反省しました。2年間学生時代を過ごして思い入れがあるピッツバーグも、来シーズンは破産申告しつつも頑張っているフィラデルフィアも來シーズンはラトル指揮のとポリーニとの競演を観に行く予定で期待度は大です。
教えていただいて期待が高まるミード。もしやいずれ彼女がわたしのノルマの夢を叶えてくれるのではないかと密かに思っています。
返信する
ミード (muguet)
2011-08-20 12:08:48
Madokakipさま一押しのミード、「エルナーニ」のライブビューイングで聴ける(観れる)のを、今から長いですが、楽しみに待っています!
ちょっと、あまりにも先過ぎるんだけどなあ(笑)・・・・・
取りあえず、「エルナーニ」は来月来日するボローニャで聴きますので、比較も楽しみです。

ミードは、たおやかな声、オケを突き抜けるのではなくてやわらかさで制する声なのですね?
早く聴きたいです。
あまり厳つい声、苦手なんですよね~
「ルイザミラー」にも向いているかもしれませんね?

カバリエは私にとっては神様です。
ただしカラスが不動明王としたら、カバリエは弁天様か菩薩様かな(笑)。


返信する
ありがとうございます (sachi)
2011-08-21 00:25:10
Madokakipさん
ご丁寧な回答をどうもありがとうございます。
カード決済=チケット確定じゃないとは全く思ってもみませんでした。教えていただいてよかったです。一般発売が開始される頃には予約分のチケットは確定していると思い込んでいました。
数日前、メンバーカードが郵送で送られてきました。でもチケットの件は全く触れられていなくて。Madokakipさんのご説明だと、チケットが確定するにはまだまだ時間がかかりそうですね(なんとなく納得しました)。
念のため、今つたない英語でMetに直接メールを送りました。
今回は3日連続チケットを予約で購入し、それで取りきれない分は一般発売を待ってから購入しました。一般発売は席を選びながらなので、簡単に購入できたのですが・・・。予約購入の方がチケット入手に時間がかかるとは思ってみなかったです。
今回の狙いはWilliam Christie演出のThe Enchanted IslandとフローレスのL'Elisir d'Amoreです。なので1月と3月にしぼり、滞在中に見られるだけ見るというまさにオペラ三昧の予定です。フローレスをどうしても生で聞きたい一心に短期間2回のニューヨーク強行軍です。もし私のメールでらちが明かないようだったら、その時はmadokakipさんにお願いしますね。ニューヨークまで行ってからチケットがないなんて、ほんとに悲しすぎますよね。
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Kinoxさん (Madokakip)
2011-08-22 09:28:19
>欧州偏向的なコメントに聞こえたかと反省しました


いいえ、冗談で申し上げたのですよ。
かく言う私もメト以外のアメリカ・オケはシカゴ以外、ほとんどCD持ってないですもの!!
それにしてもフィラデルフィアのようなオケが破産宣告しなければならないなんて、本当に悲しいです。
日本はそうでもないようですが、アメリカは特に若年層でクラシック音楽離れが著しいですものね。

>もしやいずれ彼女がわたしのノルマの夢を叶えてくれるのではないかと密かに思っています

だと私も嬉しいです。長らくノルマ歌い!と呼べる歌手が出ていないですしね。
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