Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

でもさぁ~マァジ客ダネ悪いっスよぉ~親方ぁ~

2006-02-03 23:01:55 | 撮影とテーマ設定2005~06年3月

 どうにかこうにか一段落と思っていたが、予想もしない大どんでん返しに腰抜けた。


というわけで週末どころか、来週まで仕事確定で、明日も出勤と相成りました。
もちろん、のんきに撮影なんかしている時間があろうはずもなく、打ち合わせが息抜きだったりするんだけど、こういうぽかぽか陽気の日に働いているなんて、人間として負けた気持ちになっちゃうねぇ~


でまぁ、ちゃぶ台がひっくり返った案件とは別件で、製作者サイドと発注者サイドの意見対立が深刻化する。あくまでも個人的な心情のみでいってしまうと、やはり製作者サイドに立ちたいのではあるけど、これがどうにも分が悪い。
それも、発注側と製作側の力関係が云々とか、そういう問題ならまだ気持ちの落としどころもあるのだけど、そういうわけじゃないところがややこしい。なにしろ、製作者側のやりたいことが、ことごとく発注者側の用意した顧客動向データに反しているのだから、こりゃぁもぅ万歳するほかないっすよ。
ともかく、自分たちのやってることは「製作であって制作にあらず」なのだから、その辺はわきまえていただくほかない。


まぁ、しょんぼりする気持ちはわかるけどね~


とまぁそんなこんなをやり取りしつつ、自分は昨夜観た「怪~ayakashi~の四谷怪談編最終回」なんかを思い出しておりました。


番組では鶴屋南北がいわゆる「お岩のたたり伝承」を紹介しつつ、怪談で扱われる殺人事件などは「全くの作り話」であったにもかかわらず(ただし、お岩稲荷の由来を記した小説「四谷雑談集」を参考にしたとの説あり)、そこから派生した伝承のみが現在もなお脈々と語り継がれていると述べている。そして、観客自身が「お岩のたたりが存在することを望んでいた」からこそ、現在もなお語り継がれているのだと、南北に語らせているのだ。
つまり、作品を提示するのは確かに送り手である作家の側だが、その作品をどのように受け止めるのか、あるいは拒否するのか、そしてその作品からいかなる物語を生成するのか、あるいはしないのかを決めるのは、あくまでも受け手の側である。そして、どのような作品が積極的に好まれるのか、あるいは作品からどのような物語が生成されるのか(あるいはされないのか)を決める最も大きな要素は、やはり受け手のリテラシー能力と言わざるを得ないだろう。


しかし、商業的な観点から言ってしまえば、物語を自己生成できる観客は扱いづらく、そういう「大向こう受け」を狙っている限り、大ヒットは期待しにくい。つまり、受け手のリテラシー能力は「低いほうが望ましい」わけで、これまでも観客のリテラシー能力を向上させるような作品よりは、むしろ観客のリテラシー能力に期待しない作品のほうが数多く流通してきた。
とはいえ、あまり観客を侮ってしまうと、時として手痛いしっぺ返しを食らうし、そもそも送り手の能力が低下してしまう。もちろん、この辺の事情は物語性に依拠しやすいグラビアやポートレート、報道、ポルノなどの方面で活動している人にとっては百も承知だろうけどね。ただ、自分自身もそういったジレンマに直面しつつ、安きに流れたくなる誘惑というのは「かくも強烈なものなのか」と、いまさらのように驚かされているのです。