月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

千葉県詩集 第48集 2015

2015-11-15 22:55:06 | コラム

        

 

A5版244ページの千葉県詩人クラブ創立50周年記念号に本年も参加させていただいたけれども、自身は2000年からなので今回で16回目ということになりますか。表紙にこのような人物の画像が使われるのは、初めてのことですね。                                            詩誌「黒豹」を長年主宰されてきた館山市の諫川正臣氏には、発行毎にいつも黒豹誌をお送りいただき、その都度お礼の葉書を出してきていたものだけれども、この10月6日に亡くなられたということを先日知ったばかりです。非常に残念に思いました。というよりも、ショックでした。1930年のお生まれなので今年で85歳。愛媛県のご出身で、詩集に「春の仏」「新しい繃帯」、等々。日本詩人クラブ、日本ペンクラブ所属。千葉県詩人クラブの会長をされていたこともありましたね。                                                                 

今年の県詩集も例年通り締切が8月末でしたから、生前のことで氏も原稿を出されています。その作品、「かたばみ」を転載させていただくことにします。

 

        かたばみ

 

                      諫川 正臣

 

冬至を過ぎても

寒さはこれから

富士が大きく見えてくるころ

 

かたばみの花の咲いている

陽だまりの草地には

まだ ちらほらと飛びかっている

ヤマトシジミチョウ

 

今年さいごの生きのこりだろうか

羽根もうすれて弱々しい

雌雄めぐりあって産卵し

幼虫になって春にそなえる

 

かたばみは根強く

どこにでも生えてくる

そのかたばみに寄りそうように

いつも目にするヤマトシジミチョウ

 

      

 

 

           2014年版         

     

 

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来年の手帳のこと

2012-09-18 16:30:21 | コラム

ちょっとまだ早いのかもしれないけれども、書店に出ていたので買うことにした。                                                                           今年使ってきた手帳に対するストレス。それが気休めにしろ、それを解消できるような手帳を買っておくことで、いくらかでも鎮めたいという気持にさせているもののように思える。今年使っていたのは小B6版のもので、罫線はなく小さな文字で書いてせいぜい4行程度しか書けない。毎日決まって記録しているあることがあるのだけれども、書けることが限られる。一ページ一週間分になっているのだけれども、上下の余白に伸ばすしかなかったり、大抵は枠内で納めて書くのを我慢したりなどする。元々そうした手帳に書くことだから、ちょっとしたメモ程度のこと、記録程度のことではあるのだが、それにしてもスペースが足りないのである。手帳のページは、ほぼいっぱいに文字で埋まってしまう。そのいかにも窮屈な様子。それは、これまでの手帳も似たようなものではあったのだが、今年の手帳に対してのようなストレスは感じなかった。感じていれば、もっと別なタイプをえらんでいたのだろうけれども、ひとつ毎年同じ形の罫線入りのものを使っていたのが、昨年末、それを手に入れられず別種のものになってしまった。その結果の今年の手帳。

書店で手帳を見ていると10年用のもの、3年、2年のものなど。その2年のものにちょっと傾きかけたけれども、見開きの左に前の年、右に次の年という形で、2年目には前年の記録が見える形になるわけで、それは良いことだろうか、と思う。ある面便利だろうけれども、でも新しい年には新しくその年のものを、という切り替えの良さを思えば、前の年のことがついてくるというのは、どうも感覚にそぐわない。前の年のことは、現在の手元からは消しておきたい、という思いの強いことを、選びながら感じた。よって、選択の先は、単年の、そして書くスペースに今年のようなストレスを感じないで済みそうなもの。そして重すぎない、程々の厚さのもの。ということで、まあ満足なものを選べて、来年はストレスなくやれそうであることを思っている処。ただ、まだある今年の残り3か月余、少なくとも手帳に関する限りは、書くたびに感じるストレスから逃れられないという現実。それとつきあいつづけないと。

 

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徒然草英訳/「色」から、lovemaking?

2010-03-14 21:13:28 | コラム
Donald Keene訳の吉田兼好「徒然草」を、英語の勉強にと読み始めたばかりのところですが、面白い言葉が出てきたものだなと思ったのが、第三段のところですね。
文中の、but if he has no taste for lovemaking,という部分。兼好さんの文の中に、lovemaking などと訳される内容のもの、ありましたでしょうか? その原文は「萬にいみじくも、色このまざらむをのこは」と始まる部分で、色このまざらむおのこ、その「色」がlovemakingと英語に訳されているわけなんですねえ。
その部分、日本語の現代語訳(1952角川文庫今泉忠義訳のものではありますが)では、「情趣の分からないような男は」となっていて、「色」は「情趣」と訳されているわけです。英訳のものを外国人が読む時に、lovemakingという言葉から、「情趣」という意味合いを感じとれる? もっとストレートな行動、あるいは意味イメージへと向かうのではないですか? 私の持っている学生時代からの古い英和辞書には、lovemaking「n,くどき、言い寄り、求婚」ということになっておりますね。もっと直接的な性行動の意味合いも今は、あるのではないのかな。ドナルド・キーン氏(1922-)と言えば、高名な日本文学の研究者でもあります。心得た訳の筈ですから、ううむ、興味深いところですねえ。そうした訳。
余談ですが、何年か前、近くの船橋駅で待ち合わせの人たちと会っているところの彼を、通りすがりに見たことがありました。80代の半ばというご年齢だったわけですが、そんな年齢とも思えないような印象であったように記憶しています。

大正時代「文士の身長くらべ」なるもの

2009-12-14 22:32:31 | コラム
今朝、古いファイルノートを何気なくめくっていたら、あるページの真ん中あたりに、メモが書かれている。
「16 Aug '94」 とそれをメモした日付があって、「大正年間の「文芸春秋」、文士の身長くらべ」、とある。大正時代発行の文芸春秋ということなんでしょう。残念ながら今、そのことについての知識がありません。
ともかく文芸誌に、文士の身長くらべの記事があったということのようで、今の感覚からすると、読者の関心がそのようなところに向くものかと思われるようなものだけれども、でも、こうして今見ると、それはそれで興味に触れてこないものでもないな、という気がする。
メモにあるままに記すると、

徳田秋声、島崎藤村   五尺一寸(154cm)
芥川龍之介       五尺四寸五分(165cm)
夏目漱石        五尺二寸(158cm) 
石川啄木        同上
高村光太郎       六尺弱(177cm)
ラフカディオ・ハーン  五尺一寸余り(156cm)
森鴎外         (161.2cm) 

ということになる。
藤村や漱石、小泉八雲のハーンなど、155センチ前後の身長だったのかと、改めて彼らのイメージを身長から定めてみたりなどする。実際のその人をイメージする場合に、それは身長も知っておいた方がより望ましいのは、確かなところでしょう。150センチ台が眼につくことから、当時の平均身長のおおよそなどを興味を抱いて見てみたけれども、今の感覚からすれば低く感じはするものの、江戸、明治、大正と平均は、その近辺にあったもののようですね。だから、低かったというわけではない。
そのあたりのことから思ってみるのだけれども、漱石の小説の主人公、坊っちゃん。彼も、身長はそのあたりと、想像しておけば良いのだろうか? 


あるスーパーの女の子━「過剰」の危うさ

2009-12-13 22:42:07 | コラム
人の見せる様々な行動。その様子。模様。いずれも、何らかの説明ができるわけですね。その行動をとった心理面のことなど。どのような場合についても、その行動理由は、例え理由はない場合でも、その場合の説明はつくということになるでしょう。自身のことを、思ってみればね。分かり易いと思います。
心理学では分析をして、われわれに普段は気づかずにいるようなことを、あれこれと説明づけたりなどしてくれます。例えば、非常に真面目でおとなしい中学生が殺人事件を起こす。誰しもが、一体何故にそのようなことが起きたのか、理解のし難さを感じる。でも、心理学者はなにがその子に起きたのかを、説明できるはず。その子の中に生じていた憎しみの背景。
そうした心理面のことを巡ってか、私はひとりのスーパーの女の子のことが、ちょっと気になっているんですね。住まいから歩いて2分程度の処にあるスーパーで、よく寄る場所なんです。そこにこの夏頃からですか、勤めるようになって6台並ぶレジのひとつに立つようになったのですが、その最初の印象。まだ二十歳になるかならない位の年齢なんだけれども、過剰なほどに丁寧、マナーの教科書通りのような応対を見せることに感心させられた、というところになるのかな。小柄でちょっと細身の方の、化粧をしない眼鏡の女の子なんだけれども、客にはにっこりと笑顔を見せ、済んだ時には、両手を前に組んで合わせて、「有難うございます」と、丁寧過ぎるほどに丁寧な姿勢。そういう彼女をその店で見るようになって、その気持のこもった客への丁寧過ぎるほどの応対に、とても良い印象を覚えたし、他の客たちも同じように感じているんだろうな、とこちらも思っていたわけです。気持が、とても良い子なんだろうな、と思って見ていたわけです。
そのうちにかな。彼女を見ていて、このようなことを思うようになった。というより絵のようなものが、見えるようになった。自宅。自分の部屋の中の彼女。店で見せている模範のような姿とは全く別な、溜まったストレスを吐き出さずにはいられずに、誰にともなく悪態をついている彼女。汚い言葉でね。表で見せている顔とは全く別な彼女が、その向こうに見えてきてしまうようになったようなんですね。実際のところは、分からない。そのようなことは、ないのかもしれない。だが、あの作られ過ぎたような模範的姿には、どこか過剰なところがある。自身にとっての自然な部分を、表面で型に嵌めることで、抑え過ぎているところがある。それを感じさせる。だから、その反動は大きいのにちがいないな、などということを思わせるようになったんですね。
実は、ある大手のスーパーで夜アルバイトをしていた男子高校生で、このようなことがありました。この男の子が、ちょっと変わった感じの、かつ非常に真面目そうなタイプ。教科書通りのような丁寧さ、態度で、その年でよくぞそのようにできるものだと感心させられたものなんですが、それから何カ月か後でしたか。近隣のファーストフードの店に午前の時間、コーヒーを飲みに入った時に見覚えのある子がいるなと思ったら、そのアルバイトをしていた高校生で、学校に行っているはずのその時間。学校に行く身なりで横に長い椅子の上にだらしなく体を投げ出している。その態度の悪さ。店で見た姿とのギャップの大きさに、唖然とさせられたことがあったんですね。もう、彼の内面にあるストレスがどれほどのものであるか、態度に歴然と見えてしまう、というところですか。
なにかを、抑えている。心の中で、抑えている。表面、外に意識的に適応しようとすれば、それだけ多くを抑えることになるということですから、そのスーパーの女の子にあっても、反動はそれと想像して自然なところだと思うんですね。こちらの思うことがそのままであるかのように、ここのところの僅かな間に、彼女が変化を見せてきてしまっている。心的なことの影響を思わせて、顔の肉が落ちてきて、顔立ちが、変わってしまっているんですね。別人のような外見になつてしまっているわけです。そうしたおどろくほどの変化。柔らかみが、消えた。けれども、彼女は同じような、客に対する丁寧な心のこもった態度をとりつづけている。そこのところが、なにか痛ましいような。