月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

詩-Space  全て全てを

2009-12-30 22:33:01 | 




       だあれも
       辺りにひといない場の
       外壁に
       えらんだひとつの
       言葉
       金の点打つように
       並べて
       円形
       それを扉に
       見立てて通り抜ける
        という夢
       内へと入り階段を
       下へと下る
       空間
       移動を企んで
       この世の
       全ての全てを視に
       ひとつの洩れも
       ない
       全ての全て
       知見する
       永劫の一瞬を持つ
       という夢に
       沈む
       或る
       日


                          30 December 2009
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  ある心のこと

2009-12-29 22:41:49 | 



      謎
     というのを
     数字で言えば
     どのような
     数?
     発想のおかしさ
     認めて
     謎
     の言葉消し
     見つめてみますか
     その
     物
     愛する相手と共有願う
     心
     象徴する
     物
     へと動く
     心 

          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  トポス- 3

2009-12-26 22:23:29 | 


音をひとつ出すのである。つづいて、もうひとつ。あの陰翳、それにつづく音にも潜んで、ひとつづきの山脈さながら、外れて別の列に繋がるなどということ、許されないかのように進行は行われるのであります、と伝えられるまでもない、脱げない色だの、打ちつけても壊れ消えない種が、ひとは嘘をつくもの、ひとは裏切るもの、ひとは後悔するもの、それらひとから抜けないもののごとく、叩かれ洩れる音の、モデル通りの動きだけなら許しても良いのだろうが、それの見える位置が手の届かないほどに、はるか悪すぎる。


                           February 2007


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  トポス- 2

2009-12-25 22:23:14 | 

それは当然のことながら、沸き起こる赤雲を払い除けるための行ないであるわけで、あのようなものはこの辺りから、速やかに地平の彼方、いやいや宇宙の彼方、ブラックホールの淵に呑み込まれていただければ、呼吸もたのしくなろうというものと、放つその口振りの変わらないこと、遡ればあんなにも、あのようにも遠くまで連なるものかと、乾いた空気渦巻く一帯の有様まで写し出されて、去来するのである。至近で見ても遠望しても、あのかたち、あの甘さに溶け、苦さに舌悶えそうな絡みつくものどもときたら。


                           February 2007
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  トポス- 1

2009-12-23 22:17:33 | 


ああ、その場所はちがう。そこはこちら、声をうまく出せない不都合な場所といことで、それを巡りましてもこちら敬遠したいことのひとつとして、この世で絡んできたものであるので、これをどうしたものか、青い炎がセンター広場の中央でなにものかを閉じ込め消滅させようと、誘い寄せているふうであります。そこです。その場所に深夜、あるいは真昼、好きな楽器など携えて、そこで起きる次第を見届けに行こうではありませんか。言うまでもなく、余計な景色の切り捨てられた景色というものがあるものです。それほど、遠くはない場所に。


                         February 2007
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  眺め

2009-12-22 23:08:58 | Weblog


         そこに見える道は歪んでいる                
         歪みたくもない道の筈なのだが
         視界の悪い日々がつづくと
         レンズで矯正するのに疲れるのだ
         おどろくほどにひとの姿がなく
         歓呼の一隊が抜いていくべき
         枯れた樹はそのまま
         流れの定まらない風が
         幹に枝になぶるように絡み
         そのあたりの風景は
         フィルター無しで見ると
         少しもさらりとしていない


                 *


         見てはいけない場所だとか
         触れてはいけないもののことが
         あちこちの掲示板に焙りだされて
         わずか一度だけの訪問地
         それを強調したがる
         桃の花にはその訳がある
         燦々とかがやく季節は
         はるか境界線をのどかに越えて
         引き伸ばされるべきものなのだ
         空には追いつめられた風船
         その膜を弾け抜ければ懐かしの
         眠りの中のあのメロディ
         幻想曲が戦車のように壁を抜ける


                            June 1995 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャットJ が走ってくる

2009-12-21 22:56:32 | エッセイ
先日も記事で触れたように、夜は運動のために外に1時間余。ここのところは、走らずに、速歩。運動公園近くまでは、それだと10分ほど。
上に小さいながら画像を入れましたが、道の左が三市合同の斎場の広い駐車場。その先は、畑です。ビニールハウスもあったりします。右サイドも、畑。夜で辺りは薄暗いわけですが、ここを行ったり来たり。広い夜空の星を仰ぎ見たりしながらですね。ここに来るときに、することがひとつ。近くにいるにちがいないキャットJ に会うこと。斎場への広い坂道の手前が、ウォーキングのスタート点、かつまた戻ってきての折り返し点になるんですが、その辺りから、歩きつつ口笛を吹いてみる。キャットJ に、そこに来ていることを知らせるためですね。
着いてすぐに知らせることもあれば、暫らくしてからのこともある。そのようなことをいつもやっているわけですね。私は、キャットj が何処にいるのか分からない。昨日は、コースの一方の向こう端辺りに行って折り返そうとする時、後方の薄明かりの中に何やら見えて、良く見るとトラ毛のせいで分かりにくいながら、キャットJ らしい。そばに寄ると、いつもの彼女らしくおとなしく座って動かない。ともかく、ここまで追って走ってきたというわけです。向こうで口笛を吹いた時には、辺りに姿はなかったのにね。
それでいつものように、抱き上げて、この画像の右サイドに青っぽく見えるモーターなどの据えられた小屋まで運ぶ。キャットJ は、結構体が大きくなっているのだけれども、運んでいる間に足をこちらの体に立てて押しつけるようにして、下りたそうにしたりなどする。でも、もうちょっとだからと、その体を離さないように抱いて、目的の場所まで。そこで下ろして、食べものをあげる。その辺りにはメグと呼んでいる、白黒の大将のような大きな猫がいて、これが来るとキャットJ は逃げて行ってしまうのだが、その気配はない。で、小屋の入口でキャットJ は食べ、私はウォーキングをつづけるということになるわけですね。
今夜は、私はキャットJ がすぐには姿を現わさないのを見て、坂道を下りてその先の運動公園の中に入って、広場の手前まで行ったのですが、石垣の上に一匹の猫らしいのが見えて、近づいてみると久しぶりに見るキャットJ の母親のMickyだったんですねえ。ペルシャ・ト―タシェルの。キャットJ は、今はもう、誰とも一緒にいない、単独行動の生活をしている者になっているんですけれどもね。そばに寄ってきたMickyが、急に植込みの方に向かって中に入っていくのでおかしいなと思っていると、メグがやってきている。どうもそれで、敬遠して姿を消したらしい。
こちらは、戻ることにして坂道を上がって斎場の手前辺りまで行くと、薄明かりだと分かりにくいトラ毛の、でもやっぱりキャットJ にちがいないな、というのがそこに来ていて、私はまた、抱き上げました。坂を上がりきるまで、70メートル位。
それから左に曲がって小屋の所まで、70メートル位ですか。結構距離があるわけなんですけれどもね。メグは下にいたので、来る気がかりはないし、というわけで。また小屋のところで、食べさせようと。
下の、公園内の一角には、ごく最近、市の名前の入った立て札が立てられて「公園内のネコに食べものを上げないで下さい」とある。その近くには別の立て札、「ネコを捨てたり、虐待をしないで下さい」というようなことが、書かれている。広い開放的な緑多い公園内のどこかにネコがいたとしても、誰にどのような害を与えるのか。食べるものを与えたとして、どのような悪いことがありますか? あげたい人もいる。そうすることによって、癒されている人もいる。何ゆえにそうした立て札になるのか、説明が必要でしょうね。
キャットJ など、家猫そのその。おっとりとしていて、おとなしい。表情も、かわいい。外で暮らしている猫たち。人間と同じで、みんなそれぞれ。性格もちがう。生まれた場所、環境によって、ちがうものもあるでしょう。その環境によっては、警戒心の強い、歪みのある性格にならざるをえないかもしれない。
なんにしても、私は不憫に思うんですね、いつも。保護され、大切にされている家猫のことを思うにつけ。外で一人だけで生きなければならない、例えばキャットJ のことなんかにしてもね。こちらが戻る時に、ちょっとだけ後を追ってきたりする。そういう時など、意識的に振り向かないことにしますが、やっぱりちょっと辛いような、ね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  点

2009-12-20 22:12:32 | 




         始まりは
         あたり一面の
         どの一点からもあるもので
         それにつづいて
         繋がり
         重なり
         ひとつの生涯のようにも
         膨らむもので
         時間が過ぎるにまかせ
         遠くの景色を眺めるように
         空間のあるあたり
         現われたしなやかな芦毛など
         泳がせていると
         いつの間にやらそれが
         この世界をめぐりにめぐり
         ついには
         天を飾る絵模様に変じて
         星々をたじろがせたりもする
         遠出に立ち会う
         だから
         どこにお出かけですか
         問いかけたりすることも
         でてきて
         漠とひろがる辺りに
         探しものでもあるように
         眼を凝らしてみたく
         なったりも
         するのです


                      from Six Poems No.9 2004
  
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無知だとか食わず嫌いのこと

2009-12-18 21:46:53 | Weblog
1930年生まれの方だから、今年79才になられる、ある人の書いた本を読んでいる。映画の分野の評論などで知られた人、ということになるけれども、長年その人のことは知りながらも、これまで書かれたものを殆ど読んだという記憶もない。なんとなく写真などで見る顔の印象だとか、感じさせる何かに漠然と近づきたくはないタイプ、という印象を与えるものがあったらしいのである。それが今度、たまたま彼の書いた評論、あるいはエッセイと言っても良いものの入った著書を読むことになって、食わず嫌いというのは、こういうものだったのかなと、感じている。彼の知性や、その人の考え方、あるいは心の在り方のようなものまで見えるようで、関心を覚え、とても良いものに思えたのである。もっとその考えに触れてみたいという関心が湧いてきている。こういうことは、他の食わず嫌いとも言えるひとたちの誰かしらについても同様でありうるのだろうし、そこのところは考えないといけないということを、思わされもしますね。
それから、無知のこと。それは、膨大無限に近い諸々の知識教養に対するものとしても良いのだけれども、無知であることは、つまらないという個人的感想も、食わず嫌いとは別にか、今朝辺り浮かんだことでした。つまらない。知る側に、刺激や愉しみがあるからでしょう。そうしたことが浮かんだのは。知らないことで、愉しみを味わえない分、損をしている。という感覚があっても良いのではないかな、と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  垂直の通路もある

2009-12-17 22:34:31 | 



        その
        ことを
        誰にも明かさない
        というのがカウント不能
        なほどの年月
        続いた
        ので
        山の頂上は干からびかけ
        樹の緑
        絶え
        空疎なので鷲でも
        飛ばそうかな
        坊主を
        見る
        好み如何は別にして
        遂には
        明かさないのか
        消え去るまで明かさないのか
        問題とも思えない
        とあそこに立つ
        緑を思えば
        それも流れのひとつで
        もう良いのさ
        良いのさ
        宿命と
        眼


                       17 December 2009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  笑います

2009-12-16 22:36:00 | 



          うっすらと
          訳が見える
          その縁辺りから
          やおら
          弾みをつけて
          お許しいただければ
          笑います
          あそこの黄薔薇
          映す窓
          引き込みます
          そこから見えるあちらの
          剥げて斑模様の
          青い壁
          加えます
          逃げ出しそうな空も
          轟音のような
          笑いに巻き込んで
          お許しいただければ
          共に
          共に
          笑わせていただきます
          外行く黒いコートの
          幻の我が父
          寄り添う可憐な我が母
          向かわせます
          ただ
          ただ
          ただ
          笑いに
          笑おうと
          うっすらと見える訳の縁
          縁辺りから
          丸ごと
          轟音に
          染めこみます


                        from Six Poems No.9 2004
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大正時代「文士の身長くらべ」なるもの

2009-12-14 22:32:31 | コラム
今朝、古いファイルノートを何気なくめくっていたら、あるページの真ん中あたりに、メモが書かれている。
「16 Aug '94」 とそれをメモした日付があって、「大正年間の「文芸春秋」、文士の身長くらべ」、とある。大正時代発行の文芸春秋ということなんでしょう。残念ながら今、そのことについての知識がありません。
ともかく文芸誌に、文士の身長くらべの記事があったということのようで、今の感覚からすると、読者の関心がそのようなところに向くものかと思われるようなものだけれども、でも、こうして今見ると、それはそれで興味に触れてこないものでもないな、という気がする。
メモにあるままに記すると、

徳田秋声、島崎藤村   五尺一寸(154cm)
芥川龍之介       五尺四寸五分(165cm)
夏目漱石        五尺二寸(158cm) 
石川啄木        同上
高村光太郎       六尺弱(177cm)
ラフカディオ・ハーン  五尺一寸余り(156cm)
森鴎外         (161.2cm) 

ということになる。
藤村や漱石、小泉八雲のハーンなど、155センチ前後の身長だったのかと、改めて彼らのイメージを身長から定めてみたりなどする。実際のその人をイメージする場合に、それは身長も知っておいた方がより望ましいのは、確かなところでしょう。150センチ台が眼につくことから、当時の平均身長のおおよそなどを興味を抱いて見てみたけれども、今の感覚からすれば低く感じはするものの、江戸、明治、大正と平均は、その近辺にあったもののようですね。だから、低かったというわけではない。
そのあたりのことから思ってみるのだけれども、漱石の小説の主人公、坊っちゃん。彼も、身長はそのあたりと、想像しておけば良いのだろうか? 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あるスーパーの女の子━「過剰」の危うさ

2009-12-13 22:42:07 | コラム
人の見せる様々な行動。その様子。模様。いずれも、何らかの説明ができるわけですね。その行動をとった心理面のことなど。どのような場合についても、その行動理由は、例え理由はない場合でも、その場合の説明はつくということになるでしょう。自身のことを、思ってみればね。分かり易いと思います。
心理学では分析をして、われわれに普段は気づかずにいるようなことを、あれこれと説明づけたりなどしてくれます。例えば、非常に真面目でおとなしい中学生が殺人事件を起こす。誰しもが、一体何故にそのようなことが起きたのか、理解のし難さを感じる。でも、心理学者はなにがその子に起きたのかを、説明できるはず。その子の中に生じていた憎しみの背景。
そうした心理面のことを巡ってか、私はひとりのスーパーの女の子のことが、ちょっと気になっているんですね。住まいから歩いて2分程度の処にあるスーパーで、よく寄る場所なんです。そこにこの夏頃からですか、勤めるようになって6台並ぶレジのひとつに立つようになったのですが、その最初の印象。まだ二十歳になるかならない位の年齢なんだけれども、過剰なほどに丁寧、マナーの教科書通りのような応対を見せることに感心させられた、というところになるのかな。小柄でちょっと細身の方の、化粧をしない眼鏡の女の子なんだけれども、客にはにっこりと笑顔を見せ、済んだ時には、両手を前に組んで合わせて、「有難うございます」と、丁寧過ぎるほどに丁寧な姿勢。そういう彼女をその店で見るようになって、その気持のこもった客への丁寧過ぎるほどの応対に、とても良い印象を覚えたし、他の客たちも同じように感じているんだろうな、とこちらも思っていたわけです。気持が、とても良い子なんだろうな、と思って見ていたわけです。
そのうちにかな。彼女を見ていて、このようなことを思うようになった。というより絵のようなものが、見えるようになった。自宅。自分の部屋の中の彼女。店で見せている模範のような姿とは全く別な、溜まったストレスを吐き出さずにはいられずに、誰にともなく悪態をついている彼女。汚い言葉でね。表で見せている顔とは全く別な彼女が、その向こうに見えてきてしまうようになったようなんですね。実際のところは、分からない。そのようなことは、ないのかもしれない。だが、あの作られ過ぎたような模範的姿には、どこか過剰なところがある。自身にとっての自然な部分を、表面で型に嵌めることで、抑え過ぎているところがある。それを感じさせる。だから、その反動は大きいのにちがいないな、などということを思わせるようになったんですね。
実は、ある大手のスーパーで夜アルバイトをしていた男子高校生で、このようなことがありました。この男の子が、ちょっと変わった感じの、かつ非常に真面目そうなタイプ。教科書通りのような丁寧さ、態度で、その年でよくぞそのようにできるものだと感心させられたものなんですが、それから何カ月か後でしたか。近隣のファーストフードの店に午前の時間、コーヒーを飲みに入った時に見覚えのある子がいるなと思ったら、そのアルバイトをしていた高校生で、学校に行っているはずのその時間。学校に行く身なりで横に長い椅子の上にだらしなく体を投げ出している。その態度の悪さ。店で見た姿とのギャップの大きさに、唖然とさせられたことがあったんですね。もう、彼の内面にあるストレスがどれほどのものであるか、態度に歴然と見えてしまう、というところですか。
なにかを、抑えている。心の中で、抑えている。表面、外に意識的に適応しようとすれば、それだけ多くを抑えることになるということですから、そのスーパーの女の子にあっても、反動はそれと想像して自然なところだと思うんですね。こちらの思うことがそのままであるかのように、ここのところの僅かな間に、彼女が変化を見せてきてしまっている。心的なことの影響を思わせて、顔の肉が落ちてきて、顔立ちが、変わってしまっているんですね。別人のような外見になつてしまっているわけです。そうしたおどろくほどの変化。柔らかみが、消えた。けれども、彼女は同じような、客に対する丁寧な心のこもった態度をとりつづけている。そこのところが、なにか痛ましいような。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩-Space  黄金の時

2009-12-12 22:45:34 | 

                             地面に
                古びた釘で
        七歳が
        無心で描いている円
        外へ外へと
        ひろがって
        視界を越え
        その向こうの
        未知の日々さえ
        越えてしまいそうに
        埋め込まれていく
                             その未知の
                日々のなかには
        透明な硝子窓
        向こうの景色には
        港だの
        基地
        空から垂れた糸の先
        ひらひら揺れる
        紙に描かれて
        いつも過ぎているのは
        黄金の時
        いつまでも
        どこまでも
        黄金の
        時


                        from Six Poems No.7 2003




        
       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分かってはいるけれども

2009-12-11 23:03:39 | Weblog
分かってはいるけれども、止められない。むかし、植木等が歌っていた「分かっちゃいるけどやめられない」の歌そのまんま。理性では、ちゃあんと分かっている。でも何故なんだろう。誘惑に負けてしまう、というような言い方をすれば宜しいのかな。あるいは、意思が弱いから、などという理由を感じつつ、などということにもなるか。なんにしても、良くないとは思いつつ、知りつつ、超えてしまっているんですねえ、あちら側に。そちら側に。
などということを思わされる私の場合の、医者行きの日。毎月一回。血糖値の検査をし、ヘモグロビンA1cの結果を知る。今日が、その日。結果、あまり良くなし。
分かっているけれども、止められない。というのは、結果が良ければ、そういうことを思ったり感じたりしないで済むというものだが、悪いとなると、自分の意思の弱さゆえのもの、というのがストレートにこちらに向かってくるということになる。無視などはできない。ということですね、やはり。
食事療法というのは、自身の場合、基本的に守るべき。それを継続すべき。日々、運動を心掛け、夜の1時間余のジョギングを欠かさない。ということは続けながらも、食事の方のことも望ましい形でやらなければね。でも、運動の方である程度はカバーできるはずだから、食事の方はちっょとルーズになっても、などと長年のうちには緩みがでたりなどして・・・。朝、昼、夕、と食事は記録をすることにしています。その記録を医者のあとチェックしてみましたが、ちょっとねえ。問題多しでしたね。心を入れ替えて、やらないといけないということになりますか。
こういうことの繰り返しであるんですけれどもね。なんにしても結果が悪い、というのがそれ、なによりのクスリになるんです。本当のところ。実際の薬も飲んでいますけれどもね。これではいけない、と思わせますから。自覚を促す心のクスリの方が効くんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする