月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

谷川俊太郎さんの「詩は滑稽」、とか、「自分の中の言葉の貧しさ」のこととか。

2017-02-07 15:00:29 | エッセイ

名前は眼に触れることの多い人だったけれども、作品の方は少しだけ覗いて見た程度ということになるのかもしれない。つまりはあまり関心を抱いたことがないということなのだけれども、自身にとってはそうした詩人であった彼の「詩を書くということ」という2014年発行の一冊をたまたま手にした。プロローグにある詩「世間知ラズ」の最後の二行、「詩は/滑稽だ」という部分に、それが彼の至った境地のひとつなのか、と思ったりなどしたのだけれども、飛び出てきた言葉がいきなりすぎて、何処にもっていったらよいのか始末に困るような「滑稽」ではありました。詩は、滑稽? 全ての詩なるもの、詩表現そのものが、究極、滑稽なもの? 一時の気まぐれ、その時の直感から詩がその言葉で言い当てられでもした? 彼以外の誰もがおそらくは、「詩は、滑稽」とこれまで放ってはいないのでは? ということと同時に、そうであってもそうでなくても詩は詩ということだから、いずれにしてもその言葉に至るまでの詩行を辿るなどして、それもあり?  という感覚、印象になっても一向に差し支えないということでしょう。理屈ではありません。それが出てきておかしくはない通路というものもまたある、というところで谷川俊太郎さんならではの辿りようがよく表れているんだな、とその生き様、詩人様(ざま)めいたものに触れてみるのも良いのではないか、というところで。

この一冊は彼へのインタビューによるものなんだけれども、中にこんな部分がある。若い時代を過ぎた後のことということになるのだが、「自分の中に言葉がある」とある時期から思わなくった、と。自分の中の言葉が、すごく貧しいと思うようになった。「語彙も関係ないし、経験も少ないし」。そこで彼は、眼を開かされていく。自分の外にある日本語を考えると、これはもう巨大でものすごく豊かな世界。気が遠くなるほどに豊かな世界。ならば、そこから言葉を拾ってくればいい。パラダイムシフト、なること。そういうことがあったんですね、ということを知らされる訳だけれども、彼はその仕事の幅からもひとつ特別な位置にある詩人でもありましたから、その発想、そして実践的な生かし方にしても、ある意味実利的な部分とも結びついていたというのが現実で、狭い立ち位置で詩に対している詩書き人たちとは、別な事情にもあるということは思う。ただ、「自分の中の言葉がすごく貧しい」という感覚、認識、意識状況というのは、大抵の者を脅かすものではないのかな。ということで、実感にくる言葉のように思えて、興味をひかれた部分。自分の使う言葉に繰り返し使われて陳腐さを感じてしまうような状況は、誰しも望まないわけですからね。生きた言葉を使いたい。しっくりとそれの感じられる言葉が使われるべき、表現に真摯であろうとすれば。ということは思いたいもの。

谷川さんには彼の手法というものがあって、言葉の陳腐さ云々の克服はできているものと(彼の為にそう願いたい)思うけれども、それがどのような場にあるものなのか、自身などには良く解からない。時代は常に新しくなり、新しい感性、作品の登場、ということが考えられることだから、旧来のものを乗り越えた何かしらが期待されることになるのだろうけれども、そうしたところからも離れている人間なので、現時点近辺に現われ出ている作品のことも知らない。ただ個々にとっては、「生きた言葉を発すること」(容易なことではないし説明も必要だろうけれども)、それができるか否かだけではないのかな、という尺度のようなものを思うことしか、浮かばない。

 

           

  

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