2003年の平凡社発行、植草甚一(1908-1979)|「植草甚一コラージュ日記①」を図書館から借りる時に、手書きによるものであることを知って、余計に興味を覚えた。なにか普通とはちがったちょっと味なこと、そうしたスタイルが彼には合っているように思えることだし、そのあたりからも考えられたものなのだろう。彼自身が清書をした形での自筆であるから、稀にひと文字とか訂正したりしている部分はあるが、丁寧な字体の並ぶページで読みやすい。そうして見ていて面白いと思うのは、彼独特な字体を見るたのしさのようなものもあるのだが、その字体も一定したものでもないこと、その時の気分、状態によってか文字に大小のぶれがあったりするところ。そうしたところなどに、自身がそうであるような一定した型に従っていないその時まかせなものを感じて、親近感を覚える。達筆と言えるようなタイプの文字ではない。なんとか自分独自の型の中で見栄え良く、と考えているような文字。大体普通には、このような形での出版は考えないと思う。手書きでこのように清書をするだけでも、大変なことである。でもともかく、それは一文字一文字、すべて彼の手になるもの。彼の眼が追い、指が走らせたものなのである。非常に近く、間接的ながら彼に、触れることができるものと言える。
個人的には、何人かの(いずれもたまたま詩人であるのだが)意識的に自分の字体を作り上げた人を知っていて、与えられた印象は、かなり強い。自身もその線で行こうかと考えたこともあったりなどする。彼らは、優等生のようなきれいな文字、あるいはいかにも達筆と思わせるような文字などを、全く目指していない。全く無縁である。存分に手足を伸ばし、過大なほどの自己主張をする。そのような字体である。文字が大きい。そのうちの一人の場合には、文字の中の横線、あるいは他の線にも細かな波さえ入れたりなどする、凝りようである。デザインされた文字のようで、例えばペラのパンフレットのようなものの全体を、その字体で巧みに仕上げてしまうというようなこともする。個性のかたまりのようなもの。その種の自由、巧拙を超越した独自の字体で堂々と自己表現していく。それは非常にたのしみ多いことにも思えるし、魅力も感じる。そうなるとワープロ文字などはできるだけ使わず、どこまでも手書きでいきたくなるものなのかもしれない。
そうした場合のことも含めて、手書き文字にはなにかその人の情報がさまざまな形で含まれているようでもあるし、また発することもできるような、ちょっとしたたのしみもあるようで、もっと重きを置いてみようかな、という気になったりもする。植草さんのこうした本などを見ると、またちょっと。
個人的には、何人かの(いずれもたまたま詩人であるのだが)意識的に自分の字体を作り上げた人を知っていて、与えられた印象は、かなり強い。自身もその線で行こうかと考えたこともあったりなどする。彼らは、優等生のようなきれいな文字、あるいはいかにも達筆と思わせるような文字などを、全く目指していない。全く無縁である。存分に手足を伸ばし、過大なほどの自己主張をする。そのような字体である。文字が大きい。そのうちの一人の場合には、文字の中の横線、あるいは他の線にも細かな波さえ入れたりなどする、凝りようである。デザインされた文字のようで、例えばペラのパンフレットのようなものの全体を、その字体で巧みに仕上げてしまうというようなこともする。個性のかたまりのようなもの。その種の自由、巧拙を超越した独自の字体で堂々と自己表現していく。それは非常にたのしみ多いことにも思えるし、魅力も感じる。そうなるとワープロ文字などはできるだけ使わず、どこまでも手書きでいきたくなるものなのかもしれない。
そうした場合のことも含めて、手書き文字にはなにかその人の情報がさまざまな形で含まれているようでもあるし、また発することもできるような、ちょっとしたたのしみもあるようで、もっと重きを置いてみようかな、という気になったりもする。植草さんのこうした本などを見ると、またちょっと。