月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

詩-Space  ゆるせない

2009-11-30 22:18:26 | 
        



        ここに
        このばしょに
        とどめたいもの
        なのに
        あれ
                あれなんなの
        なんなの
        なに
        なんなの
        しらぬまに
        はなれてる
        まるで
        まるで
                    わるいゆめ
              のように
        あるべきばょから
        はなれ
        はなれて
        もう
        もう
        もう
        もどらない
        などということが
        あるなんて
        のめない
               のめない
                      のめない
        のみたくない
        どうしても
        なんと
        しても
        ここ
        ここ
        ここに
        もっと
        もっと
        もっと
        さきまでここに
        なければ
        ゆるせる
        わけ
        ない

                     from Six Poems No.1 2000  
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ある日のマインドフルネス

2009-11-28 22:32:18 | Weblog
さる日ーーー。
教室に入ると、事務室の職員とおぼしい女性がすぐ右側に立っていて、小さなアルミ銀の受け皿に何やら小粒の甘納豆めいたものの載ったものを、渡してくれる。んん? と思いつつも、訳良く分からず、瞬間こちらの思ったことを言ったのだけれども、相手には通じない。じつは、その直前の同じ教室の講義にも私は出席していて(同じ教室で続けてその別講義を受けているのは、私のみ)、その2カ月ほど前、むろん担当教授が一緒の親睦を兼ねたような勉強旅行をクラス希望者でやっていたんですね。私は参加をしなかったんだけれども、そのお土産か何かがそこに出てきたのか、とで咄嗟に思ったわけなんです。ほんの一口だけの何かしら、というように。他に思い当たることがなかったものだから。
そんなわけで、その女性とちょっとだけおかしなやりとりをしてしまうことになったんですが、ともかく・・・。その小さなアルミの受け皿に載っていたのは、良く見ると、レーズン。僅か、4粒ほど。
その日以前に、心理学専門の名誉教授であるH先生から、体験していただきたいことがある旨、言われていたこともあり、それが始められることは分かっていたわけですが、そのレーズンがそれとどのように結びつくのか、こちらは皆目分からない。まるで知識なしで、そこにいたというわけですね。
そのレーズンを受け取った時に、テーブル上に置かれたその日の資料も手にしていたわけですが、「「マインドフルネスに基ずくストレス低減プログラム」の健康心理学への応用」というタイトルが、そこに見える。そのプログラム、アメリカのjon Kabat-Zinnが開発したもの、ということなどは彼の経歴的なことと共に教えられて、その授業の性格柄、向かう方向は呑み込んでいたわけではあるのですが、さて、先生がこちらにしてもらいたいというものは、どういうことなのか?
A4サイズのアンケートファイルが配られる。8ページほど。ページには質問が並ぶ。5つの中からひとつを選ぶ。例えばの質問。「一つのことをやりながら、他のことへの注意を向けることができる」、というようなものに対して、「充分にできる」から「全くできない」というところまで、5つの返答内容が分かれているという具合になっているわけです。びっしりと質問が並んでいて、前半4ページほどの質問にすべて答える、ということに先ずはなりました。
そのあとで、レーズン登場、ということになったという次第で。
H先生。「先ず、レーズンを一粒、口にして下さい」と始めて、こちらに口にした後、瞑目することを要求する。それを口にした時に波及的になにか体内に起きたことがあったか。その味、あるいは感覚、何であれなにか覚えたことがあったか否か、追ってみてもらいたいと先生は、言っている。なにも感じなければ、それはそれでいいですよ、とも。更にまた、一粒。すぐに呑み込まないで、口中に留めたままにしてておくことを求められる。なにか、覚えてくるものはあるか。また、呑み込む。体の内に、なにか感じる変化があったか。覚える感覚があったか。先生は、言葉にする。また、感じることがなければ、それはそれで良いと。更に、一粒・・・・・。
ひと通り終えた後で、次にアンケートファイルの後半の質問に答え、最終ページのいくつかの項目の質問への、こちらは言葉で答える形での記述で、終了。

プログラムの中の、「咀嚼瞑想」というものだったんですね。
「訓練の最初の日には必ず咀嚼瞑想といって、レーズンをゆっくり食べることをやる。この目的は日常食べる時には、無意識に咀嚼したり、話をしながら、あるいは新聞を見ながら食べたりしているが、そうではなくて食べることに注意を集中することで、味わいを感じてみるのである。この訓練は今行っていることに注意を集中し、そこで起こっていることを意識するという瞑想の基本を知ってもらうために行うのである」、ということのようで。

後日、「レーズンエクササイズにおける結果報告」というのをいただいて、その結果を興味深く拝見したわけですけれどもね。
「エクササイズ前後の集中力の変化」については、
クラス平均は、得点63から64程度に、僅かながら上昇しているのに対し、私は70から、54と急落模様。
どうも、私は、レーズンを口の中に留めてくように言われた時に、多少苛々したところがあったようです。早く呑み込んでしまいたいくなっていたんですね。その記憶と、この結果に結びつくものを感じなくもないのです。
「あなたとクラス平均の気分の変化」ということについては、
私の場合、「安定度は落ち着いた状態」、更に「活性度は生き生きした状態」
との結果。

この結果を見た時に、エクササイズ前と後の自身の変化の大きさに、可笑しさを感じてしまったというようなことはあったけれども、こうした注意の集中、意義の先にあるものには、関心を覚えるようになりましたね。
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詩-Space 追ってもこない

2009-11-27 22:49:49 | 
                          拡大
               されすぎた
       絵模様は
       あのぶぶん
       その細部まで
       見えすぎるほどに
       見え
       眼前を
       おおうばかりだが
       あぶない
       あぶない
       見えている
       どれもが
                       ふんわり
               ふんわか
       そよぐ風の
       やわらかな
       撹拌に
       揉み解されて
       はるかこちら
       こちらの方に
       遠退いて
       見れば
       至近の
                        避けようなく
                見える
       細部が
       眼を
       芯を
       じんじん
       じんじん
       炙りたて
       じんじん
       じんじん
       焼き上げもする
       細部が
       ぶらん
                    ぶらん
       ぶらん
                    ぶらん
       軽やかに
       ゆれる
       枯れた蔓みたいに
       しがみつきも
       しない
       追っても
       こない

                                2001          
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詩-Space  告白

2009-11-26 22:52:12 | 


          むかしあいした者共が
          壁をかすかに引っ掻いて
         シャラシャラ
         現われる 
         なつかしげな色
         やわらかな光沢帯びて

         だれに話しても分からない
         あのことはあちらで
         そんなふうでその先が
         まるで見えなくて
         とても遠くで
         切り裂かれていて
         キャアアアア
         あのことはあちらで
         キャアアアア
         とても遠くで

         手の指
         むかしの動きを覚えていて 
         あたりの様子を少し乱すと
         刷り込まれた習性のように
         通路を走り抜け
         あのkeyをたたき
         甦りを果たしそうだ

         フィールドには
         夜も昼も見えない
         半世紀ぶり
         顔を合わせる
         ビスケットのような
         瓦礫がつらなり
         カサカサ
         踏むと音がする
         「そのひと」に
         事の次第を打ち明ける


                            October 1991      

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「みじめ依存症」のことなど

2009-11-25 23:08:02 | Weblog
三つ前の記事に書いたベルリンに住む、メル友のこと。
メイルが途絶えたことで、何かあったことを感じたのだけれども、軽い肺炎で入院していたとのこと。昨日のメイルで知る。
病院ではPCも携帯も禁止であったとのこと。そんなことだったのだろうな。メイルを読んで感じたことでありました。
それにしても、入院。というようなことで、自身の日常生活が分断されること。そうしたことを、これまで経験したことがない。変化を望まない傾向強い自身としては、そういうことはできるだけ避けたい。何年くらい前だろう?  持病のことで医者に入院をしますかと聞かれたことがあったけれども、仕事があるのでとても入院などはできませんと、返事をした。現在の健康状態、全くその方面の不安はないけれども、いつか現実にそうしたことがないとも限らない。充分にあり得ること、と考えた方が良いのだろう。
日々の中の習慣的なこと。自身に慣れたそうしたことがあっての生活。それを否応なく変えさせられてしまう事態というのは、それは誰しも苦痛なものでしょう。でも、そうしたことが場合によっては避けられないのが人生だしね。なんであれ受け入れる気持の準備は、しておかないといけないのかもしれません。

ところで、何日か前だったかな。ラジオの「テレフォン人生相談」というので、その日は加藤諦三先生がパーソナリティをやっておられた日で、相談者は五十代位の女性だったと記憶する。ともかく、話をきいていると夫に人間扱いされていない状況なんですね。なにかといえば暴力を振るう。殺されるのではないかという恐怖を覚えることのあるような日常。解決はと言えば、そういう虐待する夫とは別れて安心できる生活に入ることしかないところでしょう。とはいっても、その夫に住む場所を知られれば、なにが起こるか分からないという恐怖があるのかもしれないのだけれども。
その相談者のことそのものだなと思ったのは、丁度いま、早稲田大学のエクステンションセンターで加藤先生の講座を受講していて、その話の中にAddiction to Misery 、「みじめ依存症」という本のことなどがでてきたからなんですね。
人間には、変わることへの不安。予測不能なことへの不安や恐怖があって、どこまでも予測可能な世界に生きていたいというところがある。その不安や、恐怖の方が強いことから、実際の自分の感情を抑えるいうことになるということなんですね。なにかと理由をみつけて。例えば、子供のことだとか、虐待夫のことにしても、アルコールをやらない時にはやさしい時もあるとか。
先生の言い方によれば、「死にもの狂いで不幸にしがみついている。命がけで不幸にしがみついている人は、いっぱいいる」、ということになるんですが、考えさせられるんですね。人間にとっては、不幸と不安のいずれか、選択を迫られた時には不幸の方を選ぶ、という現実模様。いかにすることがベストか自明のような状況でも、選択はその変わることへの感情的恐怖から、現状にとどまることを選んでしまう。そのような事実。
個人的には、そうした状況とは無縁な生活を送る者であるけれども、苦痛な生活にあえぎ耐えつづける人々のあること、思ってしまいますね。
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ふいとよみがえる音

2009-11-23 23:01:14 | Weblog
近辺での移動は、概ね自転車で。今日、いつもその脇の道路を通る運動公園辺りを過ぎながら、キュッキュッというような音の感じを思い起こした。何故かは解らない。そういう音ではなかったのかもしれない。微妙に異なる音か。ただ、感じとしてそのような音。今はそのようにしか言えなくなっているほどに、遠い記憶になってしまっている。  
雪国育ち。生まれてから、冬は雪の中で過ごした。ゴムの長靴。雪の上には、くっきりと靴底の跡の形が残る。常に眼にするものとしての、その形。真っ白な雪の上に刻まれる。そんな生活を、いま懐かしく感じる。交通機関などはないのである。黙々と雪の上を歩く。今は昔のような積雪量ではなくなったようであるけれども、豪雪地帯と言われて、私は学校からそう離れた処に住んでいたわけではなかったものの、遠方から通っている生徒たちは、それは大変だったはず。大量に降った雪の山道を、やってこなければならないのである。腰まであるほどの雪の中。
よみがえったキュッキュッという、晴れた雪を踏みしめて行く時の音。ああいう音のある生活だったんだなあ。などということを懐かしく思い。中学校を卒業するまでの時代の。
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詩-Space  壁

2009-11-22 23:00:33 | 
       
       実のところを言えば
       それらの壁
       おそらくはパンでできている
       ナイフで抉り
       味を愉しめるのにちがいない
       触れることなく長いこと
       ただ眺めていると
       石でできている
       などとは思えなくなるのだ
       時空を超えて
       それは立ちはだかるもの
       のように思われている
       困惑の大元
       それが現われた日の
       空の色など知らないのである
       それにまたなぜに
       最後まで見えるはずもない
       そのような無情の謎が
       地の上に仕掛けられるのか

                             May 1995
                           
       



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どうしたんだろうな?

2009-11-22 08:53:31 | Weblog
ここのところずうっと毎日、メイルをやりとりしていた友人。
ベルリン在住のメル友。
予定では今日、フランクフルトにイタリア人画家ボッチェチェリの展示会を見に行くことになっているんですね。5日前のメイルで、もう今から待ちきれないというほどに、たのしみにしていることが書かれていた。朝一番の電車で出かけるんだってね。
じつは、その前の日だったか、夜、持病を発症して救急病院に運ばれたということだったんだけれども、それは一時的なもので、一晩だけいて戻れたということだったんですね。
それで、その今日22日の日曜日が待ち遠しい、というメイルの翌日、病院で点滴を受けている、戻れるのは朝になりそう。というメイルがあって、そのあと今日までメイルが途絶えている。なにかなければ、必ずメイルをしてくるはずのメル友なので、持病が悪い状態になっているとか、なにかともかく良くないことになっているのではないかな、と。いや、当人だけのことでもなくて、その妻も介護を必要とするような状態にあるので、そちらの方になにかあったのかもしれない、ということも考えられなくはないし・・・・・・。
メイルが来るまで、どういうことになっているのか、分からない状態。
正月には、日本に来るということになっているんだけれどもね・・・・。
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詩-Space  雨の音

2009-11-21 23:09:47 | 
      窓をひらくと
      そこに
      太古のけぶる密林が
      見えてくる
      ようである
      しめやかに降る音が
      きこえる
      雨
      の朝
      既に亡いひとが
      未だいる日々の
      なかにいるようにも
      感じられる

                    September 1994
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詩-Space   どんなことにもおどろかない

2009-11-15 22:42:13 | 


人が当然予想するような道をこちらは行かない、辿らない。そういう方針なのだそうである。原理的に、などという分かりにくい言い方を持ちだして、なぜならば面白みを味わうためには、先ずなんにしてもぎりぎりまで外れた方角にPOUWWNと、弾け飛んでしまうことなのだという。なるほどなるほど、飛んでいくことがお好きなのだということは、良く分かりました。それに大体のところ、ありふれたことはきらいなんだろうな。どこかしらの与太者連中も、概ねそんなものらしいけれども、そこのところはまた、話がちがう。というのも普通の与太者は、地の上にしがみついている側である。光の帯のような虹の上を、強引に愉しげに歩こうとするようなタイプではない。
などというような、何に結びつこうとするのか分からないたぐいの話を持ちだして、わざと行き先を見えなくしようとするようなこちらの悪い癖。そのあたりで止しておいたほうが良いぜ。と言われ求められても、治るものではないんだな。
地平線は、ほぼ五キロ先にあるものなんだというけれども、見えない向こうの手前あたりに立ってこちらの模様など遠望してみれば、どちらもこちらも同じように見えるし、どのように飾り立てなどしても、全く分かるものではない。そうした位置に年柄年中いるとい分身が、そこには変わらずにいるというもののようです。
何も、些かなるものもその分身なる者に影響を及ぼすことはできない、という厳然たるものがそこにはあるということでありました。なるほどなるほどと、頷くしかないわけですね。それ、じつに真実であるはずのもので。

ふらんすの作家パトリック・モディアノ(1945~)、1972年発表の「パリ環状通り」の中に、「我々は、もうどんなことにも驚かない時代にいきているのだ」の言葉が、見える。そのように、そちらには「驚かない時代」なるものがあるんでしょう。それにもう、過去に例えばホロコースト、あまりにも悲惨なものを見過ぎてしまった我々に、もう驚くものなどありようがないはずであると見る方角も、またあるわけでしょう?
それとは別なこちらの方の分身のように、「驚くこと、驚くもの自体が初めからない」という超現実的認識に深くのめりこむ人の住む地帯というのもあるらしいのでありまして、もうなんとも。

                                2007
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詩-Space Daily life

2009-11-10 22:36:02 | 


簡単に折り畳める家に住んで、人の多くいる街に出て行く。手に掴めない湧き立つ音のことは忘れて、絵模様のような風景の中を伝う。次第に風景に溶けて、透明に成り変わっていくように感じる。そうして帰途につくころには、幻想の街にまぎれこんでいたかのように、不思議な思いをもって自身の靴音をきくのだ。いつも、目論見から少しばかり外れて戻る、振り子。異常に高い入口のドアーに、必死で手をかける。

                                1990 
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詩=Space    Solution

2009-11-08 22:26:14 | 

         ここから
         出ていくのは
         簡単
         立ち上がれば
         いい
         外にでれば
         いい
         その先に
         なにが
         待ち構えていても
         ぐにゃぐにゃ造りの
         アーケード
         通り抜けるように
         思いのまま
         歩いて
                           どんどん
                   どんどん
         白ずんで
         その色もなくして
         空にもなり
         土にもなり
         家にもなる
         なにものかとなって
         そのままに
         元の姿に
         戻らないことでも
         いい

                           2002
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さんぶん詩  ある家主   

2009-11-02 22:49:21 | 


あちらの乗り心地良い手のひらに転びこんでいたら、どのような眼の色をしていたか。残念ながら見えないようにできている。あのお方も、意地の悪いことをする。とはいえ、どちらに転んでも、さして変わりのないこと、やっていたのだろうさ。

この男、盗っ人。ランランと眼を光らせるのである。愚か者のひとつ覚えのように。覗き見厳禁の立札掲げて、妖術使いなどにも変身する。珍奇なことでもない。好き者がいるのである。腹に一物もって透かし見したがるのが。その方面に過剰に熱心なのが。棒切れを真珠に見立てたり、犬の死骸を美味なフルーツのごとく受け入れる奇特な者が。解りにくいことに、血が求めさせるのだとか。その言う魅惑含みの風景の中から、欲掻き立てるもの掠め取ってきて、ゆったりと腰据え、壁面に映しだしたりなどするのである。

ひとりいる隣人、不死のひと。となりの男の正体など知らないし興味もない。空気ほどにも見ていない。こちらは、世界がツンツルテンにできていると信じている。街などというのも、幻影。プラタナスもクルマもレズビアンバーも、言葉からしてありはしない。些かなりとも頭もたげるもの見えたりなどすれば、微かな指の動きひとつをもって、やんわり圧し去ってしまう。真っ平でなければならないのである。かなた、不変の地平線が彼の眼に映る。そのいかにも強情そうな面構え。とはいえ、当人は透明人のつもり。
白い壁を隔てて彼ら、となり合わせ。

                   *

家主がいて、盗っ人と不死のひと。共に白い壁乗り越えにかかるときまって、哀れにも異様なうめき声あげ、引き攣りを起こすのである。

                                1986
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