月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

今この時、向かえるあらゆる場所、のこと

2007-10-30 23:42:55 | Weblog
知っている場所。その最も良く知る所ということでは、自身の部屋ということになるのだろうか。あるいは自分の住まい、家。どこになにがあるか、眼で覚えているにちがいない。外に出ている時に、例えば自身が不在の自分の部屋を思い描く。机だとかベッド、床。ひっそりとした空気の中にあるそれらを、眼前に見るかのように思い見ることができるはず。
それは、良く知った街の通りであるとしても、同じ。部屋の中にいて、現在のその場、通りの模様を思い描くことができるだろう。横断歩道の手前で待つ人、通りをどこかしらに向けて歩く男女、若者、中年、もっと年上の人々、その身なり。さまざまにその思い描くところに加えていくことができる。細密なまでにやろうと思えば、できることだろう。
良く知った、ということでは人間の世界一般ということについてもそうであろうし、風景ということでも、われわれ、世界中の風景をさまざまな媒体を通して見、その模様について知識として、既に限りなく持っているということが言えるだろう。遠い昔には考えられないほどに。
ある時期、ワタシは南海の島に出かけることが多かった。などと言い出すと突飛に聞こえるかもしれないけれども、仕事の合間など、自身の眼を数千キロも飛ばせているのである。殆ど全感覚をもってその遠隔地に移行し、その南海の島、海、砂浜の只中にいる。そして強い陽射を避けるように一本の木の蔭に入る。そこに腰を下ろし、至近の砂の様子などを眺める。更にはその小さな一粒にじっと見入り、また彼方へとひろがる海の方へと視線を向けている。ワタシの感覚は、殆どある種熟知した風景の中のもの。
それは、例えばのこと。南海の島は、地上の総ての場所に変わり得る。現実にその地に行くことなく、われわれ、総ての地を体験できるということでもあるだろう。人間に与えられた、そうした能力によって。
短く切り上げるところで、アルゼンチンの作家J・L・ボルヘス(1899-1986)の作品「アレフ」などのことも、思ってみていただきたい。向かえるところは、同じようなもののように思えるのである。誰しも、いつでも好きな場所、土地に行ける。それに、偽りはない。
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時間は後向きにも進む?

2007-10-28 23:19:35 | Weblog
後ろ向きに進まない。何故だろう? 何故前にしか進まないのか。自在に動く時間というようなものがあったらどのようなことになるか。三次元在住のわれわれ、四次元なるものがどのような世界であるか、想像不能。もう理解を超えている。そのあたりでは、時間にしてもおよそ考えられない動きをして不思議はないだろうね。一万年後の未来も一万年の過去も同じ、この場所に同在して不思議ではない。つまりはどういうことになる? そのようなことは分かりません。でも、そういうことのあるのがもうひとつ上の次元ではあることなんだろう。現実に在るとは思えない次元ではあるけれども、例えば、このわれわれのいる宇宙、この宇宙と背中合わせにもうひとつの宇宙もあるのかもしれない、という有り得ないとわかっていながらの想像、空想位はしてみたことがあるでしょう? 果てさえ分からないというこのような宇宙にいれば、その神秘、お手上げのことだらけで想像だっておかしなことになっていこうというものらしいですね。
それでまた、時間はなんで前にしか進まないのか。前にも後ろにも動く時間というものがあれば、これから起きることも全部見通せて、未来への不安などというものもなくなるのにね。なんで前ばかりなのか。おそらくは、それ、たまたま。たまたま、そのようなことになっているだけ。などと四次元の手前あたりの感覚を思いつつ言いだしたりしていると、その馬鹿さ加減に腹を立て怒りつつ登場する何者か、ないとも限らないかな。
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表情で人を選ぶ?

2007-10-26 23:01:46 | Weblog
昨年の今頃、月に一回行く病院で診てもらっていたH先生が、開業をすることになって辞められた。彼のあとで診てもらうようになったのが女性のO先生。
ところが、どうもそれ以降、検査の結果などが思わしくない。薬を飲み、運動、食事療法と、前同様に優等生のようにはできないながら、同じようにやっているはずなのに、結果が良くないのである。それについて、先生が考えられることを言う。
「驚かせるわけではありませんが、例えば腎臓にガンなどがあることなども考えられるんですね、こうした場合には。だから、検査をされておいたほうが良いと思いますよ」
何カ月か前に、そのようなことを言い出されるようになった。あまり、耳にはしたくないような言葉である。ガン。そのための検査などというものも、できることならしたくはない。先伸ばしにしたい。
ところが、過日行った今月の医者の日、こちらも検査をしたほうが良いのかなと、受け入れる気持にさせるような結果を見ることになった。ガンなどということはないだろうが、ともかくその方の検査をしよう、と。
ところで彼女、O先生。当然のことながら医師として誠実に接してくれるのだが、全然笑みというようなものも、見せないのだ。それがおかしいということではない。別に、悪い印象も持たなかった。だから、他の医師を考えずにほぼ一年、ここまできたのだが、腎臓のガンの有無というような検査のあとの先生の診療、どうもこれは考えもの、と今、思っている。
つまり、彼女のせいではないが、なぜか彼女に代わってから結果が良くないようになってきている。笑みのない顔。その顔を前にガンの有無の結果などを聞くのは、ちょっとご免蒙りたいという気分なのだ。どうもその顔には、マイナスの結果をもたらすものがあるかのような思いが、こちらにはある。いつもそんな結果を聞かされてきている顔。
時には、柔らかなにこやかな表情を見せてくれるそういう人ならば、印象もまたちがうんだろうな。次回は、彼女を敬遠。週の別の日に行って、別の先生にお願いしよう。今のこちらの気持は、はっきりとその方に向いている。
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あそこまで行ければ、という「あそこ」  4

2007-10-24 23:04:38 | Weblog
今の時期、夕方の5時半位になると、もう暗くなる。その前後の時間に、毎日ウォーキングに出る。目下のところ、行き先は常に近くの運動公園。その表側の入口は車道に面していて、車の通りなども多いのであるが、裏側に回るとその道の脇は田畑。すぐ近辺には殆ど家も見えない、ここが街の中とも思えないような自然の風景しかないような一帯。その裏手の道を通って奥側から運動公園に入ることもある。
その時にも、薄暗い中、その道を歩いていたのである。イアフォーンでラジオをきいていた。聞こえてきていたのが、仏教典のことを話す学者と思しい人の声。なにかいかにもそれらしき沈着冷静、俗世向きではないような性向を感じさせる声音で、経典を読み、また仏典に用いられたパーリ語の原文も紹介し、それについて解説をするのである。誰にも分かるはずのないパーリ語の原文など、聞かされても仕方がないではないか、などと思いつつこちらは暗がりの中を歩いていた。時に車の通ることがある。狭い道なので、脇の草叢に立って避けなければならないほど。いつやってくるか分からないそんな車のことなども、気にしながら。
ラジオの声は、言葉として耳には入ってきたが、こちらは理解をしたいと思って聞いていたわけではない。要するに仏の教えのあれこれである。言わずとも知れてい
るような、帰依する者の行なうべき正しいことのあれこれと感じつつ、殆ど聞き流していたようなわけである。私の関心、たまたまそれを聞いていて持ったとすれば、解説をしているそうした多くの知識を備えた彼の、じっいの人間性のようなものの方のこと。それらの教えは、彼の中で、日常の中で生かされているのだろう。姿勢を律する規範のようなものが与えられているのに違いない。その冷静沈着、俗世に馴染まない印象を与える声からの感じ、その彼として生きている上での。方向が、はっきりと見えている心をもって、日々を送っている人であろうということは想像するに難しくない、などということ。だが、目指す場所までは、容易に行くことができない。そうした変わらない現実の中に常にある、ということだろう、などということを漠然と思ったりなどもしていたのである。
そんなことのあった数日後、比叡山中で9日間にわたり、断食、断水、不眠、不臥で不動真言を唱え続けるという難行「堂入り」に挑んだ僧が、それを成就したということを知った。その肉体を限界、更にその先へと追い込むことによって開こうとする、無我のかなたの扉。それだけの力を与えるものがその教えにはあるということ。究極の実践、その達成を見せてもらえたのかもしれない。
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路上、鳩の死を見る

2007-10-21 23:39:45 | Weblog
ほんの僅かなちがいによって、運命が大きく左右されるという現実をわれわれ、さまざまな機会に思い知らされている。例えばのこと、多数の人の命の失われた電車の脱線事故のような場合など。さまざまな個々の事情が絡んで、避けることができたひと、事故に巻き込まれてしまったひと、分かれてしまう。運命のいたずらのような僅かな差異で、その後の可能性も、夢も、人生の時間もすべて死と共に失う側に振り向けられてしまう人がでてきてしまう。
それは、こちらの場合も同じことなのだろう。例えば夜の路上で車に轢かれてしまったネコの死。時に、目にしてしまう。敏捷なネコのような動物にしては、ヘマなことではないかと思えるほど、クルマの動き、速さに対応しそこねたネコに哀しさを感じる。そこでも、ほんの僅かな距離のズレ、それがあれば助かっていたかもしれないという、瞬間の中の分かれ目ということが考えられる。
その分かれ目によって生じた不運によって、更に加えられてくるようなこともある。死の先に何があろうと、当の者は別の世界に入っているのであるから、もう無関係ということになるのであろうが、現実には穏やかならないこと。その死体を更に轢くクルマもあるわけである。路上のその死体に気づかずに。
前日の朝、自転車で道路を行った時のこと。前方、道路の中央寄りに首のあたりから血をながして、絶息している鳩を見かけた。膨らみのある体、その羽毛の色合いなどの印象から、老いた鳩などではないことが分かった。そんな鳩がクルマに轢かれて命を失っている。鳥がそのような場所で轢かれるということが想像しがたかっただけに、意外なものを目にした思いだった。危険を感じたら、飛び立てば良いだろう? なぜにそれができなかったのか。分からない。
クルマが向かい方向から、一台やってきた。こちらが目をつぶりたくなるほどに、鳩の至近を通り過ぎていく。ほんの僅かなズレで、タイヤの下になっていた可能性もありそうなほどの至近。そこで、本当に別の車に轢かれ、また別のと繰り返されたらどのようなことになるのか。それを思うと、そのままにしておくわけにはいかないと私は、たまたまクルマの通りが途絶えていた道路を歩いて鳩の所まで行き、その体を両手の中に入れたのである。向かい方向から反対側の歩道をやってきた若い女性があった。こちらを見て、ちょっとおびえた表情になっているのが目の端に入る。両手の中の鳩は、やはり小鳥とはちがう大きな鳥の感触。
道路脇の80センチほどの高さの石垣。その先の草叢の上に死んだ鳩を置いた。もう轢かれる心配はない。こちらの気も済んで、そこを離れたわけであるが、私のそうした行動。その時、なにもせずに通り過ぎてしまうこともできたわけであるから、そうしたことがなければ、鳩はどのようなことになっていたのかを、自転車を走らせながら考えていた。その柔らかな体がタイヤに轢かれたら、どのようなことになるか。どのような無残な光景を見なければならなくなるのか。元に戻れば、そもそも何故、そこで鳩がクルマに轢かれなければならなかったのか、ということまで。ほんの僅かなこと、その在る無しで、場合によってはまた限りなく大きなことも左右されることにもなるこの世の、そうした現実。気味悪いもの、と言いたくもありますね。
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あそこまで行ければ、という「あそこ」  3

2007-10-19 21:19:24 | Weblog
ある国のトップになった彼が、言いだしました。「美しい国造りを」と、ちょっとばかりたどたどしいような口調であったような記憶あり。生来のものなのでしょうね。それを言う彼の目が、希望にかがやくようなものであったかどうか、そこのところはなんとも。その言葉に対して、多くの人々が共感できるイメージを抱けたかどうか、そこのところもなんとも。単に、急に突飛なことを言い出したぜ、あの生真面目そうな登板者、と感じただけの向きもあったのかもしれない。
だがいずれにしても国のトップが、目標として口にしたのである。なんの力も影響力も持たない私のような人間が言ったこととちがうのである。その最高権力者の掲げた目標が、如何なることになっていったか。印象としては、時過ぎてその彼がその座から退席する時に至る以前に、霧散してしまったようなもの。
というような、本来その方向づけを決めること重要な立場にあり、それだけの思考力も判断力もあると考えられ、多くに期待されている人のすることからしての、そうした次第。こうしたことは、とても気になる。こちらは駄目だけれども、あちらは全然違うだろう、なぜならば有能なればこそ、あちらはあの位置にいるのであるから、と信じたいこちらが、なあんだ結局変わりがないではないか。あちらにしても、相当に抜けたことをやっているではないか、と思うしかなくなる事態を見る形になってしまう。
たまたま、このトップになった人物に足りないところがあったのだ、本来はそうした人物がその位置に在るはずではなかったところなのである、と言う向きもあるでしょう。それが正しいということが考えられることもあるかしれない。
次なる人物は、「自立と共生」とその目標を掲げる。なんにしても、方向としては現実的、具体的な方向に向けられたものでなければならないところのこと。それが当然のところ、本来求められている形。そうして、常に耳に入ってくる言葉、改革。そこに予想される壁。延々と時代を超えて、改革の必要から解放されることはないあちら、そしてこちらの方面、いつもそこには残されている諸々があるもののようです。
このように書いたことだけれども、これ、ある意味ひとりの人間の中で起きていること、と考えても良いところではないかな?  躓き、惑い、なにやら決心し、不充足な部分を改めようとし、方向を定めようとしながら、なかなか思うように行きたいところに行けないという、ひとり。何処にでもいるに違いない、そうした或るひとりの中で起きていることと。先の流れ、いつも不確か。
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あそこまで行ければ、という「あそこ」  2

2007-10-17 00:16:29 | Weblog
近頃あちらこちらで、これは本当におかしいなと思えるようなことが起きています。ある意味では、それは人間界がたいていの時代経験をしてきたようなことでもあるのだろうが、おかしいと思い感じる側に対して、それを感じさせる側の外れ具合、その際立ちのようなものの生ずる状況が、そこにあるということで、こちらがいればあちらもいるという事情は常にあることなのでしょう。
新しいところでは、大相撲、あるいはプロボクシングの世界のできごと。僅か一年でさえ過ぎてしまえば、そういえばあのようなことがあったなと、はるか以前のことのように感じさせられかねないほど、次々となにかしらが起き、マスコミなどのあちらこちらで忙しく報道などされ、時には過剰なほどにとりあげられるということもあるからだろう。そんな中での「現在」のできごとの模様。
17才の入門間もない力士が、部屋内でリンチのような形で命を失うという事件、事態が起きた大相撲界。外国人力士が増え、国技と言われる形も様変わりしている現状がある。かつてあったものが、崩れている。崩れた先にどのようなものを組み立てていけば良いのか、ここで理想の方向というのは考えられるところだろう。どこをどのように変えていけば良いのか。ところが現実には、ただ成り行き任せのごとき、旧態の意識から変わるところのない無能としか憂える者には映らないような理事長以下をそこに見るしかないままに、ただ先に向かうだけのような気配である。
本当の在るべき姿は、どこにあり、そこからどのように遠いのか、そうした考慮が、なにか空疎に感じられるほど、妙に空しさだけがあるような外からの眺めである。
そしてまた、プロボクシング界でのこと。K親子の受けたセコンドライセンスの無期限停止、一年間の出場停止等の処分。ここに至るまでの彼らの傍若無人ぶりは、
異常なもの。それを増長させたものの存在なくしては、あり得なかったところのものだろうけれども、非常に不快な思いをもってその様子を見てきた人間の私もそのひとり。なんらマナー意識などというもののない人間というものと、われわれが共存することは難しい。そのベースに共通のマナーがない限りは。歪みの中で彼らの行き着いた先は、今度のような崩壊。歪みは、正されなければならなくなった。むろん、彼らだけのことだけに限らない。彼らを増長させた側にも問題がある。
いずれにしても、今回のような結果に至ったことは、K親子にとっても、他の関係者にとっても良すぎるほどの教訓になったはず。生かすしかないだろうね。
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あそこまで行ければ、という「あそこ」  1

2007-10-15 13:36:14 | Weblog
あそこまで行ければ、という「あそこ」というのはある意味、究極の絶対目標の場所、というイメージ。そのような形のものとしての「あそこ」ということをイメージしてしまうような傾向が、先ずはこちらにはあるようなんですね。
それでいけば平和ということにおける「あそこ」とは、世界中が完全平和な世界としてある場所という位置のことになるということで、現実的に思えば、当然のことながら途方もない妄想ということになりますね。でも、どうもそうしたことを現実的に実現可能なもののようにイメージできる人々もいるようです。極端とも思えることを、目標のように思い描けるひとびとが。
というようなことを始めとして「あそこ」という場所はさまざまな場合、さまざまな形をもって目標としてどこかしらにあるわけですが、それが実現したら、さぞかし充足感があることだろう、満足感も得られることだろうと、やはり思ってしまうのが普通に考えられることでしょう。
その試みに、常に敗れつづけているのが、ここにいるワタシ。それも少々強い意志さえあれば届くことができそうな「あそこ」なんだ。これは、相当に腹立たしいことでありますね。もちろん、そうした自身に対して。
こうしたあたりのことは、例えばダイエットを試みているひとをイメージしていただければ、分かりそうですね。似たようなレヴェルのことですから。その場合も、食欲という人間の本能に対する挑戦ということをやろうというわけですから、それは容易ではないでしよう。つづけることの難しさに当面する。「あそこ」のイメージはあるわけです。われわれ、眠っている時以外は、その刻々、一定しない気分や感覚の流れの中にいる。心に決めたことも、ほんのちょっとしたきっかけで、どうなるものとも知れない。そうしてあとで、後悔など。舌打ち、など。
そうしたことを繰り返すというわけですね。
新しい一日の始まり。さてさて、今日こそは。今日からは。絶対に危機感さえもって、あそこに向けて。ある時、別の流れに入ることがあるかも。奇跡のように、とは言わなくても良い。ともかく別の空気の中にいることも、ありうることだろうね。80パーセントは、当てにならない。でも20パーセント、そちらに行きそうな気配も感じますよーーー。
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