月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

あるスーパーの女の子━「過剰」の危うさ

2009-12-13 22:42:07 | コラム
人の見せる様々な行動。その様子。模様。いずれも、何らかの説明ができるわけですね。その行動をとった心理面のことなど。どのような場合についても、その行動理由は、例え理由はない場合でも、その場合の説明はつくということになるでしょう。自身のことを、思ってみればね。分かり易いと思います。
心理学では分析をして、われわれに普段は気づかずにいるようなことを、あれこれと説明づけたりなどしてくれます。例えば、非常に真面目でおとなしい中学生が殺人事件を起こす。誰しもが、一体何故にそのようなことが起きたのか、理解のし難さを感じる。でも、心理学者はなにがその子に起きたのかを、説明できるはず。その子の中に生じていた憎しみの背景。
そうした心理面のことを巡ってか、私はひとりのスーパーの女の子のことが、ちょっと気になっているんですね。住まいから歩いて2分程度の処にあるスーパーで、よく寄る場所なんです。そこにこの夏頃からですか、勤めるようになって6台並ぶレジのひとつに立つようになったのですが、その最初の印象。まだ二十歳になるかならない位の年齢なんだけれども、過剰なほどに丁寧、マナーの教科書通りのような応対を見せることに感心させられた、というところになるのかな。小柄でちょっと細身の方の、化粧をしない眼鏡の女の子なんだけれども、客にはにっこりと笑顔を見せ、済んだ時には、両手を前に組んで合わせて、「有難うございます」と、丁寧過ぎるほどに丁寧な姿勢。そういう彼女をその店で見るようになって、その気持のこもった客への丁寧過ぎるほどの応対に、とても良い印象を覚えたし、他の客たちも同じように感じているんだろうな、とこちらも思っていたわけです。気持が、とても良い子なんだろうな、と思って見ていたわけです。
そのうちにかな。彼女を見ていて、このようなことを思うようになった。というより絵のようなものが、見えるようになった。自宅。自分の部屋の中の彼女。店で見せている模範のような姿とは全く別な、溜まったストレスを吐き出さずにはいられずに、誰にともなく悪態をついている彼女。汚い言葉でね。表で見せている顔とは全く別な彼女が、その向こうに見えてきてしまうようになったようなんですね。実際のところは、分からない。そのようなことは、ないのかもしれない。だが、あの作られ過ぎたような模範的姿には、どこか過剰なところがある。自身にとっての自然な部分を、表面で型に嵌めることで、抑え過ぎているところがある。それを感じさせる。だから、その反動は大きいのにちがいないな、などということを思わせるようになったんですね。
実は、ある大手のスーパーで夜アルバイトをしていた男子高校生で、このようなことがありました。この男の子が、ちょっと変わった感じの、かつ非常に真面目そうなタイプ。教科書通りのような丁寧さ、態度で、その年でよくぞそのようにできるものだと感心させられたものなんですが、それから何カ月か後でしたか。近隣のファーストフードの店に午前の時間、コーヒーを飲みに入った時に見覚えのある子がいるなと思ったら、そのアルバイトをしていた高校生で、学校に行っているはずのその時間。学校に行く身なりで横に長い椅子の上にだらしなく体を投げ出している。その態度の悪さ。店で見た姿とのギャップの大きさに、唖然とさせられたことがあったんですね。もう、彼の内面にあるストレスがどれほどのものであるか、態度に歴然と見えてしまう、というところですか。
なにかを、抑えている。心の中で、抑えている。表面、外に意識的に適応しようとすれば、それだけ多くを抑えることになるということですから、そのスーパーの女の子にあっても、反動はそれと想像して自然なところだと思うんですね。こちらの思うことがそのままであるかのように、ここのところの僅かな間に、彼女が変化を見せてきてしまっている。心的なことの影響を思わせて、顔の肉が落ちてきて、顔立ちが、変わってしまっているんですね。別人のような外見になつてしまっているわけです。そうしたおどろくほどの変化。柔らかみが、消えた。けれども、彼女は同じような、客に対する丁寧な心のこもった態度をとりつづけている。そこのところが、なにか痛ましいような。

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