私はその頃、小学校の高学年になりかけ。その頃、県道を挟んで向かいにあった家のその人は、高校生。でも、私の住んでいた新潟のその稲作地の町には全日制の高校がなくて、その数も少なかった高校に進学できる者は、長岡や柏崎、あるいは小千谷に出て、下宿などして通うのが常だったんですね。当時は、現在のように道路が整備などされていない。県道は土の道。交通機関を利用して遠い街の高校に、通えるような状態にはなかったんですね。みんな家を出て、下宿。それが普通であったのに、道向かいの家の県立の柏崎高校生だった彼は、自転車で通っていたんです。経済的な理由があったからなんでしょう。下宿をすれば、負担が増える。ところで、私も一度だけ、その頃柏崎の療養所に入っていた友達のところに友人何人かと、道を辿って行ったことがあるのですが、途方もない距離のように思えました。途中、山を越えなければいけない。どれ位の距離か? 20キロ近くになるのか。彼が通学したのは、土の道。雨の日は、どうだったのだろうか。もちろん冬は雪で通えないから下宿をしたのだろうけれども、その大変さを思わせられる。その人は、体を悪くしてしまい、どうしたのだったか。卒業までいかなかったような記憶がある。私は、近くの家には3年ほどしか住んでいなかったのだけれども。
そのようなことを、今度のO先生のこの14日、最初の授業での、先生の自己紹介のお話をきいていて、思い起こした。信州のご出身なんだけれども、町の旧制の中学校に通うために5里の道を歩いて通ったと言われた。20キロメートル近くの道。毎日の、往復。むかし、イタリアでのヒッチハイクで20キロほどの距離を歩いた記憶があるけれども、余程の我慢強さがなければ、通いつづけられないのではないか。先生の旧制中学での成績は、ピリから二番目だったとかで、卒業まで通してビリから二番目のまま。最後までビリにはならなかったと。その通学にエネルギーを要したことが、成績に反映することになったのかどうかは分からないけれども、そうしたことよりも実になることをその体験を通して得たことは、間違いがないんでしょうね。大学に入るのに何年か浪人をし、大学院に入るのにも、浪人をしたとか。それからずうっと相撲をやっていて、70歳まではまわしをつけて相撲をとっておられたのだとか。印象に残るエピソード、色々とありました。
1933年生まれのO先生。早稲田大学大槻宏樹名誉教授のことなんですけれどもね。