月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

今夜はBicに困惑する

2010-02-28 23:09:20 | 日記・雑感
この小さな画像の茶のネコがBic。もう3年ほど前、生まれたあと母猫と一緒にいた当時からの運動公園でのつきあい。姿が見えたり見えなかったり。ここのところよく見るようになっていて、何故かあとをついてくるようになった。私は、夜になると走って5、6分ほどの運動公園そばに行って、畑の間の道などでジョギングをすることにしていて、自分に課した45分から1時間程度をやり終えた後、運動公園に入ることにしている。先ずは、キャットJに会うことを考えている。この画像の、トラ毛の方がそのキャットJ。

今夜も、運動公園に隣接する四市合同の斎場わきの植込みからキャットJが現われたので、抱き上げていつも食べものを挙げる場所まで、移動。あげたあとで、斎場脇の道路を下りて運動公園内に入って行ったのだが、おどろいたことにずうっと上の方で別れたキャットJが、気づいたらすぐそばまで追ってきていたこと。先に行く必要があるので抱き上げてそばの石垣の上に置いてから、更に下りて行って、これも何年も前からのつきあいの黒猫が現われたので、食べるものをあげたのである。そして、戻りかけた時に現われたのがこの茶のBic。

素早く動く子なのだが、かつてはよく撫でてあげたりしたものの、しばらく見ない期間などもあったりで、ここのところはそばに来るものの、近づくと走って距離を置いて、またすぐに戻ってくるというような、妙な距離をとるようになっていたところがある。もちろん、こちらが撫でるのを受け入れる時もあるのであるが、そのあたりが、おっとりと構えているキャットJとは、異なる。でも今夜は、そばに寄ってきて、むしろ撫でられるのを待っている方のBic。坂を戻って行くこちらのあとについてくる。立ち止まって撫でてあげると、顔を挙げて催促するようにこちらの手に向けてくる。

行く間にキャットJが姿を見せて、Bicのそばに寄って行く。尻に顔を近づけたりなどしている。Bicは、私の後を追い、キャットJはBicの後を追う、という形勢になった。結局、二匹ともこちらの行く方向についてくるということになったのである。私は、立ち止まってはBicを撫でてあげていました。斎場脇の道路を上がり切った辺りで、ここでBicたちともお別れだなと思って右に折れると、こちらの予想に反して、やっぱりついてくる。テリトリーから外れるのではないか? もうこの辺りでついては来なくなるだろう、と先を行くのだが、ともかくBicはまとわりつくように動いている。

前に進む邪魔になるように、踏みつけそうなので立ち止まるしかないように、至近の前に来る。そんな状態が続き、キャットJはついてく来なくなっていたものの、Bicはどこまでついてくるのかと思える執拗さ。辺り一帯は畑。斎場に沿った道路を行き、左に折れて150メートルほど行くと車の多く通る車道に出る。そのずうっと前の処辺りから、すでにBicたちのテリトリーから離れているエリアではないかと、こちらは思っている。畑と道路しかない。そのような処にBicが来ていること自体、普通ではない眺めに思える。時たま、車もやってくる。気になる。

結局、Bicはその先はありえないだろうと思えた車道までついてきたのだ。その角で止まり、離れてから振り返ると、そこで鳴き声をあげながら、こちらを見ている。連れて帰るわけにはいかない、現実。それにしても、そのBicの動き。どう読んだら良かったのか。今夜の、その行動。また明日も会うことになると思うけれども。
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今は「豚の屁」な感じですかねえ

2010-02-26 22:30:59 | Weblog
ちょっと前のこと、更新される度毎に見ているあるブログのコメント欄にあったある人の言葉に、私は少々興味を覚えてしまったんですね。そのブログ記事というのが、ある音楽についての評論集に対してそのプロがーが思い、感じているところ、印象を書いたものであったのですが、その記事に対するコメントとして、投稿者はこのように書いていたわけなのですね。
                                                                                       「所謂・・・・OO論とは・・・・その方自身の課題なわけで・・・・・若い頃、芝居論、演劇論、演技論・・・・いろんな方に上から押しつけられたものですが・・・・今は「豚の屁」な感じですかねえ。失礼しました!」 

60台半ばの、演劇関係者。舞台に関係し、俳優としてテレビで放映されるドラマなどにも出演している人ですね。過去の評価の高い映画などにも、出演したことがある。そのような人であるわけなんです。そのブロガーとは、お互いにブログを読み合っている関係にある、そのような処からの記事へのコメントであるわけなんです。こちらのブロガーの方は、芝居とは関係のない、音楽方面に関心深い人であるわけなんですけれどもね。
興味深かったのは、私自身がむかし、大学では演劇専攻で、彼の言う方面の勉強に関わり深かったことなどあったものだから、そうしたものに対して今彼が長い経験を経て、「豚の屁」ほどのものとしか実感的に受け止めていないらしいというのを知ったこと。そういうものであるのか、という印象の中に、OO論で演技をするものでもないんだろうな、というのが分かるような思いがある。なんにしても、長年その世界で活動をしてきている役者であり、演劇関係者である彼がそのように言うのである。体験的に知ること、その方に確かなものがあるように思えるのは、どの方面のことについてもね。言えるだろうし。
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詩-Space  今日

2010-02-25 22:35:45 | 文学
                                                   
            しゃぼん玉
            のように浮いていたりするもの
            ではない
            今日
            という見えて見えない
            時間の
            玉
            それは
            転がせる見た目
            たのしいものであったかと
            裏外に来る白黒ネコ
            BBに
            問いかける

                            25 February 2010  
            
                
           
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ある本の中のこのような言葉

2010-02-22 22:46:55 | エッセイ
本には、色々なことが書かれていますね。千差万別。言葉は意味を持つもの。それに触れれば、何かが伝わる。何か伝えるものがある。如何なる本にも、それはあるということでしょう。人が思い、考えたところから出た言葉。それが深い考えからか、思いつきだけのものかの違いはあるだろうけれども、われわれ、その語る処に触れようとすることになるわけなんですね。
ところで、いまちょっと前に思ったことがあり、それである本に書かれていた言葉を思い起こすことになって、その部分を開いてみたところです。こんなことが、書かれているんですね。

 「心しないと人間は自分より力の低い人とくっつきたがる傾向があります。そのほうが
 努力が要らず、楽だからでしょう。しかしそれは自分を堕すことになります。・・・・」

それは、物事をきっちりと考えられる、そうしたタイプの人によって書かれた本の中の言葉であるわけなんですね。私がいま、そのつきあいについて考えているある人間のことを思っていた時に、この著者の言葉が浮かんできたというわけなのですが、思えば「いかに・・・するために・・・をするか」というタイプのものに、こうしたことを説くものが多いように思いますね。ある面に限れば、人の能力の優劣を見ることもできるだろうけれども、人と人の関係は、多面的なもの、事情によっているものだし、そこに物差しや基準を、持ち込めるものではないでしょうからね。選択は、むずかしいはずのものです。
でもまあ、この著者の言わんとしているところ、この場合の意味合い。それは分かりますけれどもね。私の考えていたある人間とのつきあいを巡ることとは、次元が別。結局、この本のこの部分の言葉を見て、そのことを改めて思ったところです。
 
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言葉にしたくなる時間

2010-02-19 22:26:13 | エッセイ
言葉にしたい。けれども、どのあたりを真ん中にして折ったら良いのか、分からない何かを手にしているようで、心許なさがある。つまり、つまりは、こういうこと。と言いたいのだけれどもね。そうそう、経験するようなことでもない。少し、追いつめられたところにいるのかもしれない。だが、そのようなことは、認めたくない。ワタシは、いつもと変わりのない、マイペースで日々を送っているワタシですよ。そのように思いたいし、じっさいにそうであるはずなのだが、そこに入り込んできたなにかがあるわけですね。そのなにかが、言葉にしたい、けれどもどのように言い出したらよいのか、分からないような思いにさせている。その、入り込んできたなにかがね。
それは、何かが、誰かがこちらの心の中に入り込んで、常とは異なる充足したものを残して、去って行ってしまった後のような場合などだったりするのです。なにか、ぽっかりと心の中に穴が空いたような時間。それは、心には不安定なものだし。それをどうにかしたい思いのような時。それを言葉にくるめこんで、鎮めること。そのような方面に気持が向いていくこともあるわけですね。そんな感覚を、言葉にすると、と。率直にそのような時のことを言えば、言葉にもつまるほどのものさみしさに捉えられている、ということになるのかもしれない。日々の中には、そうした時間、経験もまた避けがたくある、と思うしかないことでもあるわけですけれどもね。
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今日の記録 16/Feb/'10 STONE

2010-02-16 22:04:44 | エッセイ
ストオオオオンと落ちたのは、今日という訳ではない。何時のことだったのであろうか?
落ちて我が家の土台となった。地球大の石。などという大袈裟な言い方をするものでないね。せいぜい琵琶湖大、という辺りに収めておきましょうか。そんな土台です。土台として充分なものに思われませんか?
ストオオオオン、はSTONEの音になるので、石、固いもの、落ちる、と繋がり深いので、そこはオトオオオオンでは、すんなりいかないということでしょう。そのことを思います。
この土台があるおかげで、我が家は揺るぎたくても揺るげないということになったという次第で、また明日という新しい日も迎えます。

などということを、たまたまバッグの中に入れていた、昨年の大学エクステンションセンター、近藤申一先生の授業「イスラエルとその隣接アラブ諸国(地域)の内情を探る」の第七回目プリントの裏側に、今日書いてみたのだけれども、「揺るぎたくても揺るげない」という部分、どうなのかな。願望にすぎないのではないかな? 思っているところです。
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詩-Space  壁/幻影

2010-02-13 22:26:27 | Weblog
                                                 
        壁を見ている
        と言いつつ
        見ているのはいつも
        その向こうに
        透いて見える
        空
        雲
        雲が見せる形
        像
        だから壁は
        形無きにひとしい
        方角
        あちらの
        幻影
        と

                             February 2009     
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キャットJは現われる

2010-02-10 23:09:16 | Weblog
降るという夜の予報はきいていたので、傘は持って出た。外は濡れている気配だったし、止んでいる様子でも、あとでまた降りだすかもしれない。傘を持って出ることだし、走る方のことは考えないで、ウォーキングということで今日の運動ノルマを果たそうと、そんな心づもり。
小雨。それも傘が必要のないような降り方でした。運動公園までは、歩いて、6、7分。傘をさして出たものの、じきに引っ込めてしまった。先ずは最低、30分間は歩かないと、というところで着いた後、中のコースをウォーク。所々に照明灯。子供自由広場、間に池などあって、大人自由広場、その向こうにはサッカー場。池の手前の坂を上にあがれば、市民野球場、陸上競技場などある、総合運動公園。もちろん、市立体育館もある。
だが、上には行かずに、下のコースを辿る。雨模様のせいもあるのか、無人。薄明かりの中、普段は数僅かながら、ジョギング、ウォーキングの人を見かける。このように無人だと、あまり明かりの少ない方向には、行きたくない。
私が運動公園に行くもうひとつの理由は、キャットJに会うこと。他にも猫たちはいるのだが、やはりキャットJ。それぞれにテリトリーなどがあって、キャットJも相当に、動く場所を意識している。前にいた場所辺りには、今はいない。というのも、その場所に他のたくましげなのが現われるようになったというのが、あっただろう。今は子供自由広場近辺。その脇の沢の中の何処かで、過ごしている模様。一帯、灌木、樹木でおおわれている。下に降りていて、植込みあたりから、現われることもある。口笛吹かずとも、何故に分かるのかと思うほどに、そこの砂地に入っていくと、キャットJが姿を現わす。本格的に雨が降ったりなどしている時には、現われることがないと思うし、私も出掛けたりなどしないのだが、今夜位なら、たとえ雨模様としてもキャットJはでてくるという予感があった。ウォーキングを予定時間やったあと足を向けると、トラ毛のキャットJ、そばの植込みの中から、こちらの予感通りに出てきましたね。抱き上げる。結構、重い。屋根つきのベンチのところに運んでいく。こちらの胸辺りに足を立てて、下りたそうにする。ベンチまでは我慢させて、一方の手で頭から、鼻の頭など、撫でている。ちょっと、こちらの顔に眼を向けるのだが、だいたいキャットJは、向けていても顔を見ているわけではない。そういう見方をしている。それでも、私という人間は認識しているということ。
雨に濡れることのない屋根の下のベンチ。膝にのせると、こちらの手に両前足をのせて、ゆったりと座りこむ態勢になる。そんなふうにして一緒に過ごす、僅かな時間。気に入っている。後で、ウェストバッグに入れてきた食べものをあげ、キャットJとは別れることになるんだけれども、束の間の一緒の時間をたのしんでいる。キャットJは、膝の上にいたことなど忘れたかのように、また何者にも頼らない、自分の世界に戻る。独立、自立して生きる力、何者もキャットJには及ばない、と思わせて。
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詩-Space  樽の中

2010-02-09 22:23:39 | Weblog


          ずうっと
          それはAだと見ている
          けれどじつはAB
          かもしれない
          とも隙間から覗け
          見える
          瞬間
          あるので足先から
          てっぺんまで疑い無く
          Aだと
          呑み込んでもいない
          ことに不安
          感じるのは何故か
          答えはこちらの
          樽の中
          潜んでいるのも
          これまた隙間から覗け
          見える
          瞬間
          あることで
          これを
          危うく浮いた吊り橋
          と見るのか
          内で
          怯えたりなど
          する

                             9 February 2010
           
          
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シャッターの切れない夢の中の話

2010-02-06 22:18:09 | 日記・雑感
空中に人が、動かずに浮かんでいる。背景、青空。青一色のみ。
それは、驚異に思えるし、映像などで記録に残しておきたくなる。でも、現実にはそのようなこと、有り得ないことですね。空中高い処、身ひとつで動かないままでいることなど。そのようなことができれば、素晴らしいこと。空中を、地上を普通に歩くがごとくに、移動できるものならばね。動いたり、止まったり。
昨夜、夢の中でそうしたたぐいの、人が空間にいる模様を見たんですね。何だったんだろう、あれは。6、7人の若い男女の学生たちであったように思う。運動関係の何かの大会でやってきているふうで、同じ色の運動着を身に着けている。それが空中高い位置に輪を描くようにして、腰を下ろしていたのか、立っていたのか。それは、思い思いだったように見えたけれども、つまり彼らの身以外に背景は青空で、他には全く何もないのである。そうした状態で、空間上にいる。咄嗟に、映すことを考えました。持っているデジカメ。その青空背景、空間の中の輪状の彼ら。こちらに愛嬌など振りまく者もいる。シャッターを押す。だが、ちょっとおかしい。再度押す。なにか、終了感が伝わらない。カチッ、と終えた感じが伝わらない。撮れていないということ? それでは困るので、更に試す。だが、シャッターを押しても、手応え曖昧で、終えられない感じなのだ。というようなことをやっているうち、思わぬことにシャッター部分が、本体から外れ加減になってくる。何故に? 思う間もなく、その部分が本体から離れてしまう。呆気にとられるほど。なんとも無残な姿。あれよあれよという間の、驚くべき現象、模様。最早、撮りたかった上方の被写体。記録すること能わず。
つまり、この夢は、なにを意味しているのか? それが私の思う処なんです。何故にシャッターが切れず、それにシャッター部分が、本体から外れてしまう。そこまで行ってしまったのか、理由が知りたい。考えたくなるのです。昨夜の夢。
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詩-Space  雪化粧/午前

2010-02-05 22:51:16 | Weblog


         地の上
         その日真っ白
         月からもその
         報告あり
         など
         ニュースが言う
         午前
         濁り加減のこちらの
         胸の思いの内側
         真っ白に染めたいものと
         外の空気の
         只中へと泳ぎ出ること
         望ましい選択で
         あるのか
         ティーカップ  
         指先揺らせて
         思った

                              5 February 2010
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詩-Space  今日は切る

2010-02-02 23:04:45 | Weblog

         今日は
         なにも言わずに
         抜ける
         昨日言い過ぎたので
         今日は切る
         停止する
         穴通して向こう
         覗かない
         満杯で
         もう何も受けつけない器
         思い浮かべて
         それはない
         の声を
         聞く
         それは
         多分ないだろう
         の声を
         聞く
         何故ならばとは
         続かない
         そこで切りたい理由が
         ある
         というのも続きの先が
         見えていて
         見えないからと
         分かっていても
         分かりたくない少しも
         あるから
         停止する
         切る
         なにも言わずに
         明日まで
         抜ける

                      2 February 2010
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