かつて特に読んだ記憶のない吉本隆明(1924-2012)の著書。今読んでいる筑摩書房2015年9月10日刊(偶然にも私の誕生日と同じ日)「詩はどこまできたか」は講演集であるので、書かれた評論ということではないのだけれども、とくにタイトルになっている「詩はどこまできたか」の一篇は1995年4月の慶應義塾大学文学部での講演からのもの。朗読することの困難な詩人たちの作品が各所に挟まれていることからしても、講演そのままの形からのものというより、講演内容を軸に構成されたもの、ということになる内容。
ここに書いてみたくなったのは、明治以降の詩の流れを見、昭和に入っての西脇順三郎、金子光晴、三好達治、中原中也、宮沢賢治、鮎川信夫、吉岡実、黒田三郎、田村隆一、谷川雁、吉増剛造と作品がとりあげられていく中で、「意味も解らない、なにも解らない詩」である吉増の作品などを言葉の格闘に於いて最も先端を行っているものと見、また例えば田村の「四千の日と夜」にしても、吉岡の「僧侶」にしても、「読んでいてもなにを言っているんだかさっぱり分からない」という領域に入っている現代詩の流れ、その意味するところなどについても書いているわけだけれども、この講演文の一番最後にある一行、最も最先端にあると彼が言う吉増詩表現のある位置について、「多分それは現在の日本の社会の状態を象徴するに足る場所だと僕は思います」の言葉。それに刺激をされてしまったことによる。
吉増作品をとりあげ、「全然分からない、分からないということだけが確実」と評するあとにくる吉増の詩表現の意味、日本語での言語的幅、その詩的到達世界、諸々書かれているのを読みつつ、かつてほんの少しながら吉増詩、自身にっては彼の特別な才能、知性、表現能力、超えた表現世界を知る思いだけだった詩誌に掲載されたある作品に触れた時のことなど、思い浮かべていた。吉本さんの言うような「最も先端」とするような見方。それは一般的に世界において詩表現の分野で、やはり同じように意識されるものなのだろうか、興味深い部分。科学技術他の改良あるいは発見が現時点における最先端と認識されるもののように、文学、その詩においても、これが最先端というような見方も、評価として普通に出てくるものなのか。純粋に文学畑の人間は、最先端というような認識とは別の、把握表現をしても良いように思うけれども。
いずれにしても、「現在の日本の社会の状態を象徴するに足る場所」という形で吉本さんが結びつけたことに対する自身の、思わぬことに出合ったような感覚。瞬間、何か捉えどころのない対象の何処に焦点を向けて考えたらよいのか、皆目分からないような戸惑いを覚えたのだけれども、象徴されるのは「混沌」ということになるか。混沌も、それを表現として形成すに当たっては多様な仕掛けも、意匠も、配置も必要。その詩作品となった形は、「全然分からない。分からないといことが確実」という窮極、謎の構築物と言うべきもの足らざるを得ない? 社会状況を象徴する場とも映る、言語表現の極み、のような詩作品。というとりあわせ・・・・・・・。むづかしげな世界、覗いてみますか?