予告してたので私的高橋大輔暴走感想書きます。本当は「ノクターン」から順番に書こうと思ったんですが、映画「ムーラン・ルージュ」の放送があったみたいなので、タイミング的にこっちを優先。
予告に書いたように、スケートは多分ほとんど関係ありません。
何度も言いますが、例によって痛い長文が続きます。
***
まずこの演技ですが、私の手元に画像がありません。
観たのはたった一度だけ、フレンズ・オン・アイスでの生観覧(つまりボーカル入りバージョンの方)。
なので改めて、あの時感じたことを思い出しながら語ってみますね。
あの時の私の席は東側ちょい南寄り、しかも前から二列目※
(※ちなみに氷の上の席ではありません。その後ろ、フェンスのすぐ後ろになるので、近いけど選手の足元は見えにくい、という席でした)
この場所ってどうも、一番まともに攻撃を食らう席だったみたいです。
……あれは正に、衝撃を受けたっていうより「攻撃を受けた」ような経験でした。
あれはなんていうか、一言でいうと「圧力」です。
真っ赤な照明の中に浮かび上がるシルエット。音楽が流れ、最初の振付けで大きく腕を動かす……その瞬間、何か見えない空気の塊に押されるように感じたんですよね。
「気圧される」とか「圧倒される」とか良く言いますが、本当に物理的な圧力をかけられているように錯角したのはあれが初めてでした。
同時に何か、踊ってる高橋くんがぐわっとこちらに迫って来るように感じる。格闘マンガとかに良くある、強大な敵が大きく見えて迫って来るように見える、あれに近い感じかもしれません。もしくはUSJのT2:3Dの立体映像みたいな。
周囲のお客さん皆どよめいてました。
正直に言うと、技や振付けをひとつひとつ見て、認識してはいないのです。ひたすらあの圧縮されたような空気に圧倒されてて、それをする余裕が無かったというべきか。
照明が赤くて妖しい色だったせいなのかなんなのか、殺気ともフェロモンとも付かない何かが陽炎のようにゆらゆら立ち上っているように見えました。
これ、スケートとしてどうこうっていう問題じゃないだろうと。
どんな手段を選ぶにしろ、この「表現」は普通じゃできない。「表現者」としての天性の才能なんだと改めて痛感。
***
映画「ムーラン・ルージュ」のレビューをネットで見てた時に、こんな一文を見つけました。
「この映画の登場人物たちは、歌を歌っているのではなく感情を歌っているのだ」と。
高橋くんの演技を見る度思うのは、「この人は演じてるんじゃなくて感じてるんだな」ということ。その感覚と、この映画のレビューは妙に符号が合います。
この曲は、私が見た事のある三つの高橋くんの使用曲の中では、唯一その背景にはっきりしたストーリーのある曲。
ユアン・マクレガー演じる若き舞台作家であるクリスチャンが、恋人のパトロンへの嫉妬の感情を露にする場面の曲です。
でも私が見た感じ、彼はそのままクリスチャンという「キャラクター」を演じている訳ではないような気がします。
クリスチャンは純情で世間知らずなおのぼりさんの文学青年(そのウブな青年が初めてドロドロした感情を見せたのがあの場面なんですが)。それに対して高橋くんのあの曲でのキャラは、もっとしたたかというかワルな男に見える。そのワルい男が絶望に打ちのめされて行く様子がたまらなくエロいんですよ☆(←変態)。
それはともかく、よくスケートの演技の解説で「○○を演じる」とあるんですけど、別に無理して物語(曲の元になってるオペラとかバレエとか映画とか)のキャラクターを演じる必要はないと思うんですよね。
その曲のイメージを借りて来ているだけなんだから、元のストーリー自体に捕われずに、自由に発想を広げるのもアリかと思います。
そもそも、物語を作る方の立場から言えば、本当に伝えたいものは「キャラクター」ではないし「ストーリー」でもない。伝えたいメッセージ、言わばその物語の「魂」みたいなものがあって、ストーリーやキャラクターはそれを表現するための手段に過ぎないのです(この「魂」が入ってるかどうかが、その物語が「ほんもの」かどうかを分けると私は思ってます)。
その「魂」の部分が伝わりさえすれば、手段はどんな方法でも良い。
高橋くんがあの曲の中から感じ取った「魂」、それが、あの見てるこっちに物理的な圧力すら感じさせてしまう程の、言葉にならない激しい感情だったのかも知れません。
今にして思えば、彼がもっと大人で余裕があれば、見てるこっちももっと余裕を持って楽しめるような演技になったのかも知れないですね。わかりませんけど。若くて未熟だからこそ、あの曲の持っている強烈な毒まで観客にモロにぶつけるような演技になってしまったのかな、という気もします。
でも同時にやっぱり、あの曲の「魂」を伝えるにはやはりあの表現が一番正しいんだろうとも思います。
「ムーラン・ルージュ」の映画自体、「付いて来れない奴は付いて来なくていいよ、俺ははとことんやりたいようにやるから」みたいなとんがった心意気のある映画ですよね。
人間の感情は、決して美しいものばかりではない。卑怯で醜くて身勝手で欲深い。けれどその愚かさこそが、やっぱり純粋で美しい。そういう映画だったと思います。
ていうか、ほんものの芸術って、少なからず毒を含んでいるものだと思うんですが、その話はまた別の機会に……するかも知れないししないかも知れません(弱気)。
予告に書いたように、スケートは多分ほとんど関係ありません。
何度も言いますが、例によって痛い長文が続きます。
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まずこの演技ですが、私の手元に画像がありません。
観たのはたった一度だけ、フレンズ・オン・アイスでの生観覧(つまりボーカル入りバージョンの方)。
なので改めて、あの時感じたことを思い出しながら語ってみますね。
あの時の私の席は東側ちょい南寄り、しかも前から二列目※
(※ちなみに氷の上の席ではありません。その後ろ、フェンスのすぐ後ろになるので、近いけど選手の足元は見えにくい、という席でした)
この場所ってどうも、一番まともに攻撃を食らう席だったみたいです。
……あれは正に、衝撃を受けたっていうより「攻撃を受けた」ような経験でした。
あれはなんていうか、一言でいうと「圧力」です。
真っ赤な照明の中に浮かび上がるシルエット。音楽が流れ、最初の振付けで大きく腕を動かす……その瞬間、何か見えない空気の塊に押されるように感じたんですよね。
「気圧される」とか「圧倒される」とか良く言いますが、本当に物理的な圧力をかけられているように錯角したのはあれが初めてでした。
同時に何か、踊ってる高橋くんがぐわっとこちらに迫って来るように感じる。格闘マンガとかに良くある、強大な敵が大きく見えて迫って来るように見える、あれに近い感じかもしれません。もしくはUSJのT2:3Dの立体映像みたいな。
周囲のお客さん皆どよめいてました。
正直に言うと、技や振付けをひとつひとつ見て、認識してはいないのです。ひたすらあの圧縮されたような空気に圧倒されてて、それをする余裕が無かったというべきか。
照明が赤くて妖しい色だったせいなのかなんなのか、殺気ともフェロモンとも付かない何かが陽炎のようにゆらゆら立ち上っているように見えました。
これ、スケートとしてどうこうっていう問題じゃないだろうと。
どんな手段を選ぶにしろ、この「表現」は普通じゃできない。「表現者」としての天性の才能なんだと改めて痛感。
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映画「ムーラン・ルージュ」のレビューをネットで見てた時に、こんな一文を見つけました。
「この映画の登場人物たちは、歌を歌っているのではなく感情を歌っているのだ」と。
高橋くんの演技を見る度思うのは、「この人は演じてるんじゃなくて感じてるんだな」ということ。その感覚と、この映画のレビューは妙に符号が合います。
この曲は、私が見た事のある三つの高橋くんの使用曲の中では、唯一その背景にはっきりしたストーリーのある曲。
ユアン・マクレガー演じる若き舞台作家であるクリスチャンが、恋人のパトロンへの嫉妬の感情を露にする場面の曲です。
でも私が見た感じ、彼はそのままクリスチャンという「キャラクター」を演じている訳ではないような気がします。
クリスチャンは純情で世間知らずなおのぼりさんの文学青年(そのウブな青年が初めてドロドロした感情を見せたのがあの場面なんですが)。それに対して高橋くんのあの曲でのキャラは、もっとしたたかというかワルな男に見える。そのワルい男が絶望に打ちのめされて行く様子がたまらなくエロいんですよ☆(←変態)。
それはともかく、よくスケートの演技の解説で「○○を演じる」とあるんですけど、別に無理して物語(曲の元になってるオペラとかバレエとか映画とか)のキャラクターを演じる必要はないと思うんですよね。
その曲のイメージを借りて来ているだけなんだから、元のストーリー自体に捕われずに、自由に発想を広げるのもアリかと思います。
そもそも、物語を作る方の立場から言えば、本当に伝えたいものは「キャラクター」ではないし「ストーリー」でもない。伝えたいメッセージ、言わばその物語の「魂」みたいなものがあって、ストーリーやキャラクターはそれを表現するための手段に過ぎないのです(この「魂」が入ってるかどうかが、その物語が「ほんもの」かどうかを分けると私は思ってます)。
その「魂」の部分が伝わりさえすれば、手段はどんな方法でも良い。
高橋くんがあの曲の中から感じ取った「魂」、それが、あの見てるこっちに物理的な圧力すら感じさせてしまう程の、言葉にならない激しい感情だったのかも知れません。
今にして思えば、彼がもっと大人で余裕があれば、見てるこっちももっと余裕を持って楽しめるような演技になったのかも知れないですね。わかりませんけど。若くて未熟だからこそ、あの曲の持っている強烈な毒まで観客にモロにぶつけるような演技になってしまったのかな、という気もします。
でも同時にやっぱり、あの曲の「魂」を伝えるにはやはりあの表現が一番正しいんだろうとも思います。
「ムーラン・ルージュ」の映画自体、「付いて来れない奴は付いて来なくていいよ、俺ははとことんやりたいようにやるから」みたいなとんがった心意気のある映画ですよね。
人間の感情は、決して美しいものばかりではない。卑怯で醜くて身勝手で欲深い。けれどその愚かさこそが、やっぱり純粋で美しい。そういう映画だったと思います。
ていうか、ほんものの芸術って、少なからず毒を含んでいるものだと思うんですが、その話はまた別の機会に……するかも知れないししないかも知れません(弱気)。