ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

おしらせ

2037-12-31 23:59:59 | ノンジャンル

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氷艶〜十字星のキセキ〜

2024-07-11 20:19:55 | 日記

ご無沙汰しております。

滑走屋の感想もまだまだ書き足りないまま行って参りました。横浜アリーナ。

 

色々言いたいことがあり過ぎて何から語ればという感じですが、滑走屋と氷艶はある意味真逆のコンセプトでありながら、実はしっかり繋がっていたんだなと思いました。

 

 

そもそも今回、幕が開く前に急遽予定変更のニュースが入って来て、裏で色々あったようなのですが、まずはその事で。

もちろん私はただの観客なので、報道などで表に出て来ている情報しか知り得ません。

でもこっそり今から言うと、当初トキオ役を演じる予定だった役者さんに関しては、実は一抹の不安を抱いていました。

配役が発表されて一発目のインタビューからあんまり熱量が感じられないというか、フィギュアやスケートに余り興味ない方なのかなという印象で。

その不安も稽古を重ねて行けば払拭されるのかなーと思っていたら、違う形で払拭されてしまったっていうね。

 

そして急遽代役に決まった大野拓朗さん。

イケメンでスタイル良い。だけでなく、何か言動がパワフルだしスケーターへのリスペクトもしっかり感じるしスケートへの取組も前向きだし上達早いし大ちゃんや他のメンバーとも速攻で打ち解けてるし。

X(旧Twitter)で反応しているファンの方たちも雰囲気が良くて、こんな人たちに応援されている大野さんもきっといい人に違いないと思ったものです。

 

歌子先生のお言葉「大輔はいつも必要な人を連れて来る」を思い出したのは私だけではないはず。

なので、今回の事で初めて知った方にも関わらず、「待ってました!」って思いました。

 

 

今回のテーマは「自己犠牲」。

宮沢賢治作品では避けて通れないものとは言え、私は正直余り好きな言葉ではありません。

どこか、犠牲になって「あげた」という恩着せがましさを感じるというか。

(因みに宮沢賢治作品も良く読むと必ずしも自己犠牲を賞賛するものでは無い…はず)

 

私の好きな言葉は、別のエントリーにも書いた「利他」という言葉。

これは自分を犠牲にするというより、視野を広く持つという事と解釈しています。

自分のことだけ考えて他人を蔑ろにしていると、人から恨みを買って却って辛い事になります。それこそ富豪夫人のように。

視野を広げて、他人の事まで配慮した方が、自分にとっても良い流れを呼び寄せる。

これが本当の「情けは人の為ならず」

 

でもプログラムでの大ちゃんのコメントには、「やってあげた」じゃなくて「自分がやりたくてやった」と考えるようにしているとあって、ちょっと安心しました。ちゃんとわかってるというか、大ちゃん、それが「利他」なのよ。

 

 

そんな訳で、私としては何の不安もなく迎えた本番なのですが。

最初、少年時代のトキオとカケルが出てきて、やけにスケート上手いなと思ったら友野一希くんと島田高志郎くんでした。上手い訳だよ。

滑走屋ではリンクの上で活躍するだけでなく、大ちゃんを積極的にサポートして舞台裏でも頑張っていたという友野くんと、直前の降板で悔しい思いをしたであろう島田くんが、この後の場面共々とても頼もしく見えました。

 

彼ら二人だけでなく、アンサンブルスケーターにも滑走屋メンバーがかなり入っていて、そのせいもあってか、今回は今まで以上にスケートのスピード感を活かした演出になっていました。

 

スケートと舞台を融合し、他ジャンルとのコラボでストーリーを主体に見せる氷艶。前回までは、プロジェクションマッピングや大掛かりな舞台装置での演出が目立っていました。

あれはあれで面白かったけど、今回は銀河鉄道のスピード感も、燃え盛る炎もスケートで表現されていて、「スケートとストーリーの融合」という意味では一歩先へ進んだ感がありました。

 

滑走屋のコンセプトは純粋に「スケート」そのものの魅力を見せるというもので、その中心にあるのは原始的な身体感覚とも言うべきスピードの快感でした。

 

そのスピード感を、今度はストーリーを見せるために使う。それが出来たのも、若いスケーター達が正に、滑る職人「滑走屋」として育っていった過程があってこそではないでしょうか。

 

 

「滑走屋」は傍目に見てても大変そうだなとは思っていたのですが。

出演したスケーターからの後からの発信を見ると思ってたより数倍大変そうで。でもその大変だった思い出を、みんな目をキラッキラさせながら語ってるんですよ。次があるなら是非出たい、と言いながら。

みんなそれぞれ苦労しながら、それを乗り越えて得る物が本当に大きかったんだなと思いました。

 

体調を崩して出られなくなったスケーターは島田くんだけではなかったし、他にも色々予想や予定と違う事もあっただろうし。

でもみんなでフォローしあって最後まで走り切った。成長できた、その手応えを感じました。

そのメンバーが大勢参加しているので、きっと今度も大丈夫だろうと思えました。

 

「滑走屋」は決して、後輩に恩を売るためにやった訳ではないと思いますが、でも自分「だけ」の為でもなかったはず。結果的に今回の「氷艶」を成功させる上で大きな力になって帰ってきたと思います。

「利他」というなら、今回の一連の状況がまさにそれで、「滑走屋」を含めて大ちゃんが過去にやって来た事が繋がり、「十字星のキセキ」を起こしたと思います。

 

 

スピードと言えば、今回もアンサンブルにはショートトラック出身の松橋さんが参加していましたが、今までは松橋さん一人が昔取った杵柄で爆走してたのに、今回はフィギュア組も負けずに爆走。正に「滑走屋」たち。

などと思っていたら、何と松橋さんは台詞付きの役で登場。まるで、「名バイプレイヤーとして長年舞台やドラマで活躍」してる人みたいに違和感なくさらっとハマっててびっくりしました。

 

とはいえ一番印象的だった爆走はやっぱり主役…蠍座での(元)富豪夫人とカケルの攻防、ペアやアイスダンスとは違う、男女シングルの頂点を極めた者同士という感じ。

真のスケート巧者はジャンプもスピンもなくてもただ滑るだけで魅せられるというか。

この2人だから出来るんだろうなと思うような爆速と滑らかなスケーティングでギュンギュン滑る追いかけっこが、場面の緊迫感と相待ってすごくスリリングでした。

 

 

ストーリーについて言えば、「銀河鉄道の夜」を含めた宮沢賢治作品を踏襲しつつ、でも「銀河鉄道の夜」の構図を敢えて外しているんじゃないかと思いました。

ジョバンニとカムパネルラがそのままトキオとカケルなら、トキオが主役でカケルは脇役じゃないの? 大ちゃんが主演なのに? と不思議に思った人も多いはず。

 

でもトキオとカケルの関係性は、ジョバンニたちとは全然違うんですよね。

 

まず「夜」にない要素としてユキの存在、そして3人の夢がある。

 

トキオの夢はカケルとワンセットというか、カケルと一緒にいる事が彼の本当の望みと言えるようなものなのに対して、ユキの夢はトキオともカケルとも関係ない。

ユキは本来、自立心の強い女性なんだと思います。病気が無ければきっと、トキオにもカケルにも頼らず自分1人で羽ばたいて行けた。

夢を絶たれたことで一度は折られた翼を、カケルが寄り添うことで再び取り戻す。だからこそ、夢は叶わなかったにも関わらず、命を使い切った者として、白鳥座で羽ばたいて行ったのではないでしょうか。

 

実は今回、中々生で見る機会がなかったかなだいのアイスダンスを、カケルがユキに寄り添うシーンで初めて見ることが出来ました。今更ながらかなだい良い…すごく良い…と思いました。シングルの良さとまた違う。アイスダンスの美しさがそこにある。

 

そしてこの場面が良かったからこそ、白鳥座での再会が切ない。

トキオを挟んであんなに美しくシンクロしているのに、決して触れる事ができないなんて。

「かなだいのアイスダンス」を是非また生で観たいので、FOIに行くことにしました。

 

 

「夜」と「十字星」のもう一つ大きな違い、それは切符です。

鉄道をモチーフとする以上、切符はとても重要なアイテム。

 

ジョバンニとカムパネルラは、それぞれに切符を持っています。

つまり二人は並列の存在。しかし二人の切符は違うものなので、行き先は違えます。

カムパネルラは他の乗客と同じ小さな灰色の切符なのに、ジョバンニは大きな緑色の唐草模様の切符を持っていて、それこそが何処へでも行ける切符だと言われます。

カムパネルラは他の乗客と同じ脇役で、特別な切符を持ったジョバンニが主役だとここで示されています。

 

一方トキオの切符は、カケルから引き継がれます。しかもそれは、カケルの夢の原点ともいうべき隕石の欠片。

カケルがそれをずっと持っていたという事は、彼が夢の原点をずっと大切にしていたという事です。

 

カケルは空から見なければわからないナスカの地上絵に興味を示さず、地面に転がる石ばかりを見つめている。

でもその石は隕石で、宇宙からやって来たもの。下ばかり見ているようで彼の視点は広く、地に足を付けながらも自分以外の人を思いやり、人を幸せにする事がカケルの真の望みだったのかも知れません。

 

その隕石をトキオに渡したという事は、即ち夢を託したという事になります。

トキオの研究がいずれ宇宙へ届き、人を幸せにし、そしてトキオ自身が幸せになる事。その望みをトキオに託し、その望みがトキオを導くという事です。トキオが隕石の欠片を、その夢を手放さない限り、カケルはいつでも一緒にそこにいる。

 

これまでの氷艶では、大ちゃんは主役として挫折し、悩み、成長する役を演じて来ました。でも今回はその役割をトキオにスライドする事で、物語をリードし、トキオを助け、導き、想いを継ないで行く新しいポジションをカケルとして見せてくれました。

「氷艶」ではこれまでも大ちゃんの発声の良さやセリフまわしの上手さに驚かされて来たけど、カケルの軽やかで気負わない感じはまた一歩進んだ自然な演技。銀河鉄道に乗ってからは特に、この世のしがらみから解放された存在としての軽やかさを演技とスケートで見せてくれたと思います。

 

「自己犠牲」といいつつ、最終的には「生命」そのものが大きなテーマになっていましたね。

銀河鉄道はあの世とこの世の間(はざま)を走る。

古来、彼岸と此岸の間に流れるのは「三途の川」ですが、夜空を流れる天の川をこれに見立ててロマン溢れる世界観を構築したのは、宮沢賢治の天才たる所以だなと改めて思いました。

 

 

今回、劇中の歌曲はすべてゆずの曲という形でした。ゆずの曲って爽やか系の曲ばっかりっていう印象だけど大丈夫?とちょっと思っていましたが、今回初めて聞いた曲は意外と短調主体だったり強い調子の曲もあったりして、アレンジの違いもあるのか上手く場面に合っていました。

 

最後に御本人が出て来て3曲披露してくれるのが、そこだけ見るとちょっとしたライブみたいで、それはそれで得した気分だったのですが。

 

全体で見ると、1曲めは今回のための書き下ろしテーマソングなのでエンドロールとして聞こえるし(アーティストご本人たちによる生歌エンドロールって超贅沢ですね)、2曲目はフィギュアスケートにも縁の深い冬季五輪のテーマ曲。そして3曲目でスケーター、キャスト陣総出で歌って踊るのでこれがグランドフィナーレ(アーティストご本人以下略)と、上手くショーの中に馴染んでいました。

劇中で歌う役者の皆さんがまた上手くて、しかも声質がゆずのお二人に似てるんですよ。だから余計、最後に急に違う人が出て来たという感じがなく、スムーズにラストの盛り上がりに繋がって行ってました。

 

 

因みに私、初演しか(生では)見ていなんですよ。

だから「初演ではちょっと硬かったけど、2回目以降は良くなった」みたいなご意見には声を大にして言いたい。

 

初演から良かったですよ?

 

前情報が余りない状態で始まったけれど、ストーリーには最初から引き込まれたし、「あの人があの役を?あんなことを?」みたいな驚きも色々あったし。

いきものがかりとコラボしてた「イロトリドリ」をここでこういう解釈で使うのか、とか、大ちゃんが高志郎くんと組んで滑るまでは予想できたけど、リフトまでやると思わなくてびっくりしたし、人を皆で高く持ち上げて運ぶリフトは氷爆や滑走屋でも見たけど、まさかその方法でゆずの岩沢さんが運ばれて行くとは思わなかったし。

ゆずのファンの人たちは多分、私たち以上に何を見せられるのかよくわからずに現地に来ていたと思いますが、最後は楽しそうに盛り上がっていたし。

今回席が結構後ろの方だったのですが、会場全体が見渡せて、客席の盛り上がりも良く見えて楽しかったです。

横浜アリーナは後ろの方でも見やすいけど、その分傾斜が急で、足の弱いお年寄りは大変そうでしたが。

私の隣の席にはお洒落なステッキを持った老紳士が座っていて、席に着くのに苦労されている様子でした。でも、始まってからは食い入るように熱心に見ている様子が伝わって来て、最後は音楽に乗ってとても楽しそうでした。

 

他にも色々思うことがありすぎで全ては書ききれないのですが、長くなったのでここで終わります。

ありがとうございました。


三日月よ、怪物と踊れ 〜男性作家の描くフェミニズム〜

2024-06-08 10:13:20 | 読書感想文

藤田和日郎先生と言えば「うしおととら」。

30年くらい前に友達に借りて全巻読みました。名作です。

 

「スプリンガルド」「ゴースト&レディ」に続く黒博物館シリーズ第三弾で前2作も面白かったのですが、順番を無視してここから感想文を書きます。

この記事のサブタイトルにあるように、男性作家、それも少年漫画の王道ど真ん中みたいな作品を描いてたあの藤田先生がフェミニズムを題材にするなんて、という驚きがありましたので。

 

今回の主人公はメアリー・シェリー。

ゴシックホラー御三家の一角、「フランケンシュタインの怪物」の産みの親です。

このメアリー・シェリーの母親のメアリー・ウルストンクラフトという人を私は今回初めて知ったのですが、「女性の権利の擁護」を著し、後にフェミニズムの先駆者と呼ばれるようになった社会思想家という事で、避けては通れない題材だったのでしょう。

結論から言えば大納得&大満足でした。

 

以下、私の個人的かつ基本的な考えです。

 

(1)フェミニズムとは、つきつめれば「当たり前を疑うこと」である。

(2)女性差別(を含めたあらゆる差別)とは、つきつめれば弱いものいじめである。

 

(1)フェミニズムとは当たり前を疑うこと

 

別のまんがですみませんが、「ミステリという勿れ」から台詞を引用します。

“しきたりとかルールとか伝統とか それって天から降ってきたわけじゃないんで”

“(中略)その当時 誰かが都合で決めただけなので”

洋の東西を問わず、社会を支配し動かして来たのは大多数が大人の男性なので、世の中のルールも彼らに都合よく決められているものが多い。

多くの人がそれを当たり前に受け入れている中で、「ちょっとその前提取り払って、一回ゼロから考えてみようか?」という発想ができる人は、男性であっても自然と思考がフェミニズム的になると思います。優れたクリエイター=柔軟な思考ができる人は当然そこに含まれるのではないでしょうか。

残念ながら逆もまた然りで、その象徴として描かれているのが後述する校長先生だと思います。

 

この作品、テーマがテーマなだけに、メアリー先生やもう一人の主人公・エルシィなど魅力的な女性キャラがたくさん登場します。

それも若くて美しい女だけではありません。メアリー先生は当時45才くらいだし、エルシィは傷だらけの顔で登場して怪物扱いされてるし。料理長のアトリーさんとか、家政婦長のウィルキンズ夫人とか、若くも美人でもない「怖いおばさん」だけど、仕事が出来てかっこいい女性たちも出て来ます。

 

そんな中、ほとんど唯一、徹頭徹尾醜悪な存在として登場する女性が2巻で登場する寄宿学校の校長マイラ・エイマーズ。

学校とは名ばかりの劣悪な環境に貧しい少女たちを集め、なけなしの仕送りまで懐に入れる紛う事なき悪者キャラ。

この校長先生が繰り返し主張する訳です。

 

“女は男と結婚して生きてくのが幸せってもんなのさ”

「インターナル・バイアス(内なる偏見)」という言葉があるそうです。女性同士の場合、古い価値観で自身を規定している女性が、変わろうとする女性と連帯できない現象のことになるのだとか。

女は男の経済力に依存して生きるしかない。そのためには男に従属しなければならない。

絵に描いたような「古い価値観」でありますが、今なお根強く生き残っているのは、ある意味それが現実でもあるという事で、メアリー先生は中々反論できません。が、その一方でエルシィの切れ味は鋭い。

 

“アンタは神サマか…?”

“神サマでないのなら 黙れ”

 

メアリー先生は母親の思想の影響で女性の権利や自立について意識は高いけれど、同時に上流階級の女性として「淑女は慎み深くあるべき」みたいな規範も守ろうとしてよく板挟みになっている。

一方のエルシィは「怪物」として社会の規範の外にいる、ある意味自由な存在なのです。

この2人の関係と、その変化もストーリーの重要なテーマではあるのですが。

 

(2)女性差別(を含めたあらゆる差別)とは、つきつめれば弱いものいじめである。

 

校長先生には3人の粗暴な息子がいて、何かあったら息子たちの暴力で相手を押さえつけている。

この息子たちがエルシィにボコボコにされた時に、校長先生はこう言います。

 

“女のくせに男たちによくもそんなヒドいことを〜!!”

エルシィはそれにこう答えます。

“男はヒドいことをすんのに 女はしちゃ…ダメなのか…”

 

実際に女「だけ」に暴力が禁止されている訳ではありませんね。有体に言うとどっちも良くない。

ただこの場合、女の側から暴力でやり返されることなど全く予想していなかったから、「女の暴力」を理不尽に感じて思わず口走ったのでしょう。

 

この時はエルシィに守られた形のメアリー先生も、この後色々あって5巻では自ら危機に立ち向かいます。

 

“男は 女を利用する”

“女が男より劣っているから…  低級な生き物だから…”

“違う! 女が立ち向かえないからだ!!”

 

正しい意見でなくとも、力で反論を押さえつければ通ってしまう。

力のある方が、自分の都合の良い理屈を力で押し通した結果、不正が罷り通る。

〇〇差別、〇〇ハラスメントと言葉は山ほどありますが、結局のところはそういうことじゃないかなと思います。

 

この漫画に出てくる「卑怯な男」が女に暴力をふるったり暴言を吐くのは、相手が絶対に反撃して来ないから。

安全な立場で、安心して好き勝手にできるという訳ですね。

 

そこでパーシー・フローレンスです。

メアリー・シェリーの息子で大学生。

「うしおととら」の潮が大人になったらこんな感じかなと思うような純粋熱血くん(そしてちょっと天然)。

終始一貫して「差別しない男」として描かれている彼の対戦相手は

1.ウォルター(fromスプリンガルド)

2.ハイウェイマン(強盗団)

3.「父」(黒幕)

見事に自分より強い相手としか戦ってない。

 

ああ、そういうことなのね。

 

藤田先生にとって、「フェミニズム」を描くのは特別な事ではなかったのかもしれない。

最初からずっと、ヒーローは弱いものいじめなんかしなかった。

潮もとらも、弱い者たちを守るため、自分より強い相手に立ち向かう。その姿をずっとかっこよく描いてきた。

実はそれこそ、フェミニズムの真髄だったのかもしれませんね。

 

「うしおととら」は昔の少年漫画だから、女の子のパンツやら裸やらバンバン出て来ます(このシリーズにも出て来ます)。

でも見ててそれほど不快じゃないのは、男性側からの性的な視線よりも、戦い、立ち向かう女性たちのかっこよさが前面に出てたからかもしれません。

「三日月よ、怪物と踊れ」にもかっこいい女性(一部男性も)が沢山出て来ます。

本当はもっと色々書きたかったけど、ここまでで長文になってしまって書ききれなかった。

最終巻、メアリー先生とエルシィの関係も良いけど、「また明日」のコール&レスポンスも最高に感動的。そして怒涛の華麗なラストバトルと見どころしかありません。

自信を持っておススメできる作品です。


滑走屋

2024-02-10 17:53:01 | ノンジャンル

「滑走屋」の本番を観た感想については、今更私が語るまでもないよね、という話。

初日の初回、行って参りました。
全く新しいコンセプトのショーでこれが本当の最初の最初。
そのせいもあってか、終始心臓がバクバクしっ放しで、短いショーなのに今までで一番観てて疲れたかも知れません。見てるだけの(はずの)こっちも激しく集中力を要求されます。観客の皆さん体力大丈夫ですか?

オープニンングが始まってスケーターが登場する時には拍手で迎えるのですが、その後手は拍手の形をしたまま固まって硬直したまま固唾を飲んで見入ってしまった。

一般的なアイスショーからイメージされる華やかでゴージャスが雰囲気とは違い、ビートの効いたダークな音楽、それに合わせたダークでハードな世界観。
それがずっと続くというか、最後まで続きます。

もちろんそこにはメリハリがあって、ハードモードがふっと和らぐ叙情的な雨のシーンとか、モノクロームの世界でそこだけ色を咲かせる村上佳菜子ちゃんの演技とかある訳ですが、根底に流れているトーンは揺るがない。

試合ではまず着ないであろう裾の長い衣装を、男性も女性も同じように纏って滑るのがかっこいい。
アイスダンスのように男女が組む場面だけでなく、男性同士・女性同士と自由自在に様相を変える。
ダンスやペアのように踊る場面もあれば、シンクロのような集団の技が出るところもある。
スケートではあまり見たことないような動きもあれば、「滑る」感覚にひたすら身を委ねるようなスケートの原点を見せられる瞬間もある。

アイスエクスプロージョン後半の、個々のプログラムをシームレスにつないだ形をさらに発展させ、遂にオープニングからフィナーレまで全部一つづきにしてしまった形。
だからこそ、アンサンブルスケーターたちもただソロ演者を引き立てるだけではなく、「滑走屋」という一本の作品を構成する重要な要素になっていると思いました。
そしてソロの演者も、自分のソロの場面以外ではグループの一員。
大ちゃん自身がアンサンブルの一人として溶け込むような振り付けも多く、「大ちゃんどこー!」となっちゃう場面も結構ありました。

そしてだからこそ、ソロの「ハバネラ」がかっこ良い。三宅星南くんと山本草太くんのハバネラが始まって、男子二人のラテンかっこいい男の色気良い〜と思っている所へ大ちゃん登場。
立ち姿、腕の使い方指先までの余韻の出し方すべてが色気の塊。

最後の挨拶を聞いても、大ちゃんがすごくこのショーに気合いを入れていて、前例のない試みを色々取り入れて、やりがいもあるけど無茶苦茶心配事も多かったんだろうな…というのが伝わって来ました。
クリエイティブな人というのは、何かやってやろうと頭をひねって考えるのではなく、あれもやりたい、これもやってみたいと次々アイデアが湧いて来るものなのです(妄想とも言う)。
もちろん、それを全部は実現できない。というかほとんど実現できない。
それをここまでできたというのは、今まで彼が競技で頑張って積み上げて来た有形無形の財産の賜物だと思います。

大丈夫。いきなり100%は無理でも、ここまでやれれば勝ったも同然。
後は体に気をつけて、最後まで頑張って走り切ってください。

あと、村元哉中ちゃんと大ちゃんがすごくバディ感がありました。
アイスダンスの競技の中でのパートナーというだけでなく、ショーを作る場面でも、滑る場面でも色んな形でバディを組める頼もしい相棒。そんな感じ。
今回哉中ちゃんのソロもヤバかったです。必見。


滑走前夜

2024-02-09 09:18:21 | ノンジャンル

滑走屋を観る前から、実は私は感動している。という話。

私がスケートのショーを初めて生で観たのは2006年。記念すべき第一回のフレンズオンアイス。
あれでEX版ロクサーヌの初演を観て激しく衝撃を受けて今に至る訳ですが。

当時からずっと思ってた事がありました。
アイスショーって、基本試合のエキシビジョンをショーアップしたような形式だけど、そこにこだわる必要はないんじゃないの? スケートってもっと色んな事ができるんじゃないの?

クリマスオンアイスで、「クリスマス」という共通のテーマを設けて一つのショーにするのはその中では面白い試みでした。
その辺りからプロのミュージシャンを呼んでの生歌・生演奏コラボも増えて来ましたが、コラボのプログラムは特にアマチュアスケーターだと、1シーズン滑り込んだプログラムに比べて即席感が否めない事がちょくちょくあるのも正直な所でした。

そしてもう一つ新しい動きとして「氷艶」が誕生。ショーの中で芝居仕立てのグループ演技が入る事は元々ありましたが、本業の役者さんと交えて丸ごと一本のお芝居にするのは過去余り例がなかったんじゃないかと思います。

これは先代市川染五郎さん(現在は松本幸四郎さんだけど、ここは当時の名前で呼びたい)がディズニーオンアイス観ながら「これの歌舞伎版できないかなー」などと妄想してたのもきっかけの一つと聞いてます。
先代染五郎さんは他にも数々の妄想を形にしているアイデアマンでもいらっしゃるようですね。

この成功があって(だと思うけど)、次に出てきたのがいわば「氷上の2.5次元」。
残念ながらコロナの影響で頓挫してしまったセーラームーンとか、昨夏大盛況に終わったワンピースとか。

そして今回の「滑走屋」ですよ。

やっぱり大ちゃんは、私が考えるくらいの事はとっくに先に考えていた。
フレンズオンアイスの中の1プログラムを任される所からスタートして、東日本大震災を受けて、本人曰く「発起人の一人」として手作りでチャリティーショーを立ち上げ、そしてアイスエクスプロージョンで少しずつ自分の見せたい世界を前面に出しながら、色んなアイデアを温めていたんだなあと思って、しみじみ感動しています。

海外ではわかりませんが、日本ではショーを本業としている(はずの)プロスケーターよりも、試合が本分であるアマチュアスケーターの方がショーでも主役になることが多くないですか?
理由もなんとなくわかりますよね。
だってアイスショーはテレビでやらないというか、やっても目立つ所では余り流れない。試合の方が大きく扱われるし、大きな試合はニュースに取り上げられて何度も演技が流れたりする。

結果的に、ショーにしか出ないプロよりも、試合で活躍するアマチュアの方が広く認知されるしお客さんも呼べるから、ショーの方でもアマチュアが目出つという箏なのでしょう。
私も昔、小さいですがイベントに携わる機会があったとき、その道のプロの方に言われたことがありました。
人を呼ぶために最も手っ取り早くて確実なのは、有名人を呼ぶことだと。

でもその流れも少しずつ変わって来ているのかも知れません。

大ちゃんは、一度は引退してテレビやなんかの仕事もしながらショーに出ていた。
そこからもう一度現役に復帰する理由の一つに、技術を衰えさせないことがあったと思います。

昔はショーに出てお金を貰うと試合に出られないから、試合に出るアマチュアとショーに出るプロできっちり線引きがされていた。
でも大分前からアマチュアスケーターがショーに出られるようになっています。試合がメインだから、彼らが中心のショーはエキシビションの延長のようになりがち。でも試合に向けて滑り込んでいるのでジャンプなどのクオリティは高い。

一方でプロは、アマチュア時代に比べると練習時間の確保が難しく、技術の維持が中々できない。
大ちゃんはそこに危機感を感じていたのではないかと思います。
試合じゃないから手を抜いて良いのではなく、試合に出られるくらいのクオリティを、ショーだからこそ見せなければいけないと。

彼は名前でお客さんを呼べるスケーターだけど、名前だけで来て貰って良しとはしない。「観に来て良かった」と思わせる中身を見せないと次に繋がらないと分かっている。
シングルで2年、アイスダンスで3年。プロでありながらアマチュアみたいな、「生徒」としてコーチに着いて師事しながらショーに出るという新しい在り方だったのじゃないかと思います。

そして今回。

何より素晴らしいなと思ったのは、客寄せのためではなく、ショーの中身のためにアマチュアのスケーターたちを採用した事だと思います。
「大きな試合で活躍し、顔と名前が知られてお客が呼べるトップスケーターじゃなくても、良いものを持っている子がたくさんいる」
以前から何度か口にしてきた事を実行に移したんだなと思いました。

今回、低予算でやってみようという目的にも合致したのだとは思いますが、それだけではない。こういうショーにしたい、だからこういうスケートをするスケーターを集めたい、そういう意図がちゃんと見えるのが素晴らしい。

「アイスショーとはこういうもの」から少しずつ脱却し、「スケートでこういう事ができるんじゃないかな」というアイデアを大ちゃんは色々持っているような気がします。

その一端がいよいよ観られるという事で、本当に楽しみな幕開けです。