ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

オリジナルと二次創作の間には見えない壁がある

2019-04-06 11:43:00 | 特撮
…というのが、「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」を見終わっての私の率直な感想です。

1年間楽しく見ていたはずなのに、最終回を見終わったら突然スッと冷めてしまった。
こんなことは初めてで、自分でもこれは一体何なんだろう?と考えて思い至ったのが今回のタイトルなのでした。
見ている間は楽しめたし良く出来ているとも思っていたけど、所詮「出来のいい二次創作」でしかなかったことに、見終わった後で気づきました。

二次創作、所謂パロディー同人誌ですね。
「ルパンレンジャーVSパトレンジャー」(以下「ルパパト」)の場合、メインの脚本家が女性なのでそういう目で見られやすい、と思いますが、それは本質ではありません。
私の好きな小林靖子さんも、女性だからとそういう目で見られていた時代が長くて、それについては一貫して「違う」と思っています(後述します)。
そもそも、多くの男性が考えている「二次創作(同人誌)=BL=腐女子」という構図が正しくないというか、「二次創作」と「BL」と「婦女子」は必ずしも「=」では結ばれない。
一例として、今話題の「翔んで埼玉」はバリバリのBLだけど、二次創作じゃない立派なオリジナル作品だしそもそも作者男性です。

では、一次創作(=オリジナル・原作)と二次創作の違いはどこか。
突き詰めて言うと、「終わりがあるかどうか」ではないでしょうか。
一次創作として、自分で一から物語を創る。そう、「物語」を創らなければならないのです。それには、「始まり」があり、「終わり」がある。

物語の受け手である読者や視聴者は「始まり」から「終わり」へ向かって物語を享受しますが、創り手は逆に「終わり」から逆算して物語を構築します。
最後に導き出したい結論=「終わり」というゴールに辿り着くためにどこからスタートしてどこを通るのか。そのために必要な舞台装置を整え、登場人物を配置します。
キャラクター一人考えるのも、ただ「こんなキャラが好き」「こんな設定あるとカッコいい」では創れません。
「物語」の構造の中で、どんな役割を果たすのか。そのためにはどんな立ち位置で、どんな思想信条を持っているのか。その思想信条を持つに至る背景は?
キャラクターの見た目も、その立ち位置を明確にするものでなければいけません。創り手の性癖で好き勝手に設定できるというものではないのです。
ヒーロー番組のヒーロースーツや怪人の着ぐるみは、見ただけでそのキャラクターの立ち位置がわかるようにするためのもの。何となく「そういうものだから」ではないと思います。

「ルパパト」を最後まで見終わって気づいたのは、物語の「舞台」の設定の作り込みの甘さでした。
作った設定をすべて物語の中で開示する必要はありませんが、見えない(見せない)部分をきっちり詰めておかないと、見えている部分で整合性が取れなくなります。

・「ルパンコレクション」とはそもそも何なのか?アルセーヌが「人間が使えるように改造する」前はどういうものだったのか?誰が所持していたのか?
・「ルパンコレクション」をすべて集めると何が起きるのか?「すべて」というけど、そもそも幾つ存在しているのか?
・「ギャングラー」とは何者なのか?「ギャングラーの世界」とはどんな世界なのか?
・国際警察とルパン家は裏で繋がっていたとしか思えないけど、結局どう繋がっていたのか?
・裏で繋がっていたなら何故、国際警察とルパンレンジャーは敵対していたのか?

ざっと見ただけでもこれだけ、「これちゃんと設定作ってた?」と問い詰めたくなる事項があるんですよね。

「ギャングラーの世界」がどういう世界なのか、「ギャングラーの世界」の住人がどんな存在で、何を意味するのか。その辺の情報が全くないのに「ノエルはギャングラーの世界の住人だった!」って言われても「だったら何なの?」としか。
ショックを受けているルパレン3人のテンションに全く付いて行けません。

あとこの話、何故か「ルパンコレクション」に固執するのはルパレンだけで、警察は(あと何故かギャングラーも)全く気にしていないので、「VS」なようで「VS」でないですね。
コレクションを巡って争奪戦になるなら「VS」ですが、お互いに「何となく邪魔だから排除しよう」くらいの動機でしか戦ってない。相手を「倒す」必然性がないのです。そもそも争点が存在していないんだから。
その時点で実は「物語」の体を成していなかったのだと今ならわかります。

二次創作ならそれでOKです。
誰かが作った「物語」、そのために用意された舞台とキャラクターを使って、物語の「途中」の「エピソード」を作る。それは物語の本筋を動かすようなものではなく、寧ろ本筋の邪魔にならないものでなければならない。
「ルパパト」中盤から終盤にかけて、サービス回のような話が続き、物語の本筋が動いているように見えなかった理由がそれでわかります。
そもそも最初から「物語」がなかったから、何となくいい感じの二次創作的な「エピソード」がひたすら羅列されるだけで話数が尽きたという事でしょう。

最終回、勝利兄さんたちが怪盗の姿で登場するのは、二次創作としては有りでしょう。
「このキャラクターのこんなエピソードや、こんなコスチュームの姿を見てみたい!」そんなファンの願望を思うままに書き綴るのが二次創作。
でも「物語」として見れば。中盤あれだけ「真っ当な」圭一郎に兄を重ねてコンプレックスを拗らせる隗利を描いたのは何だったのか。「真っ当な」兄と自分は違うと割り切っての怪盗だったはずなのに、「真っ当な」はずの兄がしれっと怪盗やってるの、「物語」の根幹に関わる問題じゃないんですかね?

こういう、「同人誌にありそうな展開を公式でやる」というのをすごく有り難がる人というのが一定数いて、そういう人にとってはルパパトは神作品なんだろうけど、そもそも公式が同人レベルってだけなんだから、本来有り難がるような話ではないと思います。

ルパパトのメイン脚本家だった香村順子氏は、過去の経歴などから小林靖子氏の後継者的な立ち位置という印象があったので、見る前には期待も持っていたのですが、実力的には雲泥の差というか、「作家」と「同人作家」の間の越えられない壁を見せつけられてしまったなと思いました。

例として、小林さんがメイン脚本を務めた「シンケンジャー」では、血筋による身分制度から物語がスタートしています。ならばゴールは「血統主義」の否定です。
そのゴールへ向けて、スタート段階で十分な準備がなされているのが、最後まで見ると良くわかるようになっています。

血統主義を正当化するために、志葉の当主だけが使える「封印の文字」を設定。
その一方で、最初期の第六幕「悪口王」で、丈瑠が影武者だという事が既に示唆されています。この伏線が回収されるのは終盤の第四十四幕です。
もう一方、最終回手前の第四十八幕で、血祭ドウコクが薄皮大夫を取り込む事により「封印の文字」が無効化されます。
血統主義を正当化する理由がなくなる重要なファクターですが、この展開へ向けての伏線も、最初期の第八幕「花嫁神隠」で既に始まっています。何故太夫があんな事をしたのか、最後まで見るととても良く分かります(太夫の業が深過ぎて怖い)。
この回、シーン的には丈瑠と茉子の結婚式や流ノ介の女装(女形)があって一見只のサービス回にも見えるんですが、実は「封印の文字」無効化に至る薄皮大夫の顛末の起点として、物語の中で重要な役割を果たしています。

「物語」とはこのように作られるのだ、というお手本のような完成度。
(ここに挙げたのは一部だけで、他にも様々な伏線が張り巡らされ、綿密に設定が練られています)
これが二次創作ではないオリジナルの作品を作れる「作家」の実力であって、「ルパパト」にはついに存在しなかったものですね。
役者さんたちが頑張っているだけに、誠に残念な事でございました。