ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

自尊心と虚栄心

2022-05-14 21:49:45 | ノンジャンル

とっかかりはフィギュアスケートですが、話の内容としては一般論です。

 

昨今ネットのニュースやSNSを見てて、違和感を感じる事が多い言葉が「プライド」です。
プライドの日本語訳は「自尊心」のはずですが、「虚栄心」の意味で使われていませんか?という場面。

「あの人はプライドが高いから間違いを認めない」「ここで謝るのは俺のプライドが許さない」

このような場面に当てはまるのは自尊心ではなく、虚栄心ではないかと思います。

辞書を引くとこんな感じ。

じそん‐しん【自尊心】
〘名〙 自尊の気持。自分を尊び他からの干渉をうけないで、品位を保とうとする心理や態度。プライド。

きょえい‐しん【虚栄心】
〘名〙 うわべだけを飾ろうとする心。 自分を実質以上によく見せようとする心。

自尊心の項目に「他からの干渉をうけないで」とあるのに対して、虚栄心の「自分を実質以上によく見せようと」する相手は「他人」であるというのがポイントだと思います。

ニュースなどで話題になる人の言動を見て、「何でこの人はこんな事を言う/やるんだろう?」と思った時、この人は自尊心ではなく、虚栄心で行動していると思うと色々腑に落ちると最近気づきました。

直接の付き合いがある訳でもない、マスコミを通してしか知らない相手に対して、それが「自尊心」なのか「虚栄心」なのかわかるんか?という話ですが、寧ろマスコミを通すからこそわかりやすいと思います。

普通の人には、マスコミを通して自分の発言が広く報じられる機会はあまりありませんが、有名人、例えば五輪に出るようなアスリート等になると取材を受ける機会が出て来ますよね。それに対するスタンスは割とわかりやすいポイントだと思います。

自尊心の人は、言行の不一致を恥ずべきものと思うから、発言には慎重になります。言った以上は実現させなければならないと考えていたら、マイクのある場所では軽々しく思った事をなんでも口にする訳にはいかないですよね。

こういう人は、大きな目標を口にするとき、あくまで「目標」であり、必ずしも実現できるものではない、というお断りの言葉が入っていたりします。予防線を張っているのが一見気弱ではっきりしない印象を与えますが、実はこう言う人の方がプライドが高いんじゃないかと私は思います。

一方虚栄心の強い人にとっては、マスコミの取材は絶好の自分アピールのチャンスです。とにかく大きなことを言ったもん勝ち、みたいな。それがしばしば言いっ放しになってるのは、「言ったからにはやらないと、嘘をついた事になっちゃうぞ」という意識がないからかな、と思います。自分の発言に責任を取るという発想がなければ、いくらでも話が盛れますよね。大げさな言葉や不自然に美しい言葉が多いのも盛りまくってる所以でしょうか。また、背伸びして難しい言葉を使おうとして文法間違えるのも、自分を実際以上に賢く見せようとするこの手の人にありがちです。

本当に賢い人は、平易な言葉でわかりやすく話します。

美しい言葉でご立派な事を宣ってるけどよく見るとやってる事が微妙だなと思ったら、その人は虚栄心の人ではないかと疑ってみるのがオススメです。

例えば、オリンピックに出て、団体戦では3位内に入ったけれど個人戦では23組中22位(後半戦に進めなかったという事は、公式には順位が付かないという事になるのかな)とかだったとしましょう(団体戦の他のメンバーがよっぽど優秀だったんですね)。

ここで自尊心が高い人なら、「銅メダルです」なんて恥ずかしくて言えないと思います。

天知る、地知る、我知る、人知る。

競技に詳しい人なら実情を知っているし、そうでなくても少し興味を持って調べたらすぐわかる。何より自分自身が、本来の実力は3位相当ではなく23組中22位だと分かっているはず。

3位相当だと「誤解」されるのは、寧ろ屈辱なのではないでしょうか。

でも虚栄心が強い人なら逆で、ここぞとばかりに「銅メダルです」とアピールしそう。3位相当の実力だと誤解されても構わない。いや寧ろ誤解して欲しい、くらいの勢いで。

でもここで3位相当だと誤解するのは、競技について無知で、尚且つちゃんと調べないような人たちです。そんな人たちに評価されてもねえ…と思うのか、そんな人たちでいいから褒め称えられたいと思うのか。

こうしてみるとよくわかりますが、「自尊心」と「虚栄心」は両立しません。

虚栄心が強い人は一見プライドが高そうに見えますが、実はプライドなんて持っていないし、正しい意味でのプライドを理解していない確率も高いんじゃないかと思います。

ゆえに、両者は噛み合わない。

自尊心の人が「そんな人たちに評価されてもねえ…」とドン引きしているのを、虚栄心の人は「そんな人たちに褒め称えられている私が羨ましくて嫉妬しているんでしょ!」と受け取る。永遠に交わらない気がします。

 

そしてもう一つ、被害者アピールが好きなのも虚栄心が強い人の特徴かな、と思います。

普通なら、被害者なんてなりたくないじゃないですか?

被害者として扱われる、同情される、哀れみの目で見られるのも、自尊心が高い人にとっては屈辱です。

自尊心が高い人は嘘をつくのを嫌いますが、自分が被害者の立場になりそうなときには、「いえ、自分は被害者ではありませんよ」と多少強がってでもそちらの方向に持って行こうとする傾向があるなと思います。

逆に虚栄心が強い人ほど、「こんな事された、ひどいひどい」と騒ぐ傾向がありますよね。同情や哀れみであっても、注目されてちやほやされると嬉しいものなんでしょうか。よくわかりませんが。

ただ思うのは、「こんな事された、ひどいひどい」と騒いで問題の解決には繋がることはあんまりないよね、ということです。

本当に被害を受けているなら、加害者に直接訴えて解決を図るなり、加害者が分からないなら突き止めるなり粛々とやれば良いと思います。でもそれをわざわざ不特定多数の部外者にお知らせする必要はないと思うのですよ。

大抵の人にとっては、「そんな事私に言われましても」なのですが、自分が部外者であることに気づかずに「けしからん、懲らしめてやる」とトチ狂った正義感を燃やす人も一定数いる訳で。無駄に騒ぎが大きくなるだけなのですが、虚栄心が強い人ほどこういう無駄な騒ぎを起こしがちだな、と思います。

「こんな事された、ひどいひどい」と騒いで2次災害を引き起こすことを俗に「ファンネルを飛ばす」と言うこともございます。

昨今ではファンネルを飛ばす行為にも風当たりが強いため、跳ね返ってきた火種で当人が炎上したりもするわけですが、それで「ひどい!」と騒ぐのも、大抵ファンネルを最初に飛ばした側だったりします(だったらやらなきゃ良かったのにね、という考えには至らないらしい)。

だから何?と言われればそれまでですが、世の中には自分と全く異なる行動原理を持っている人もいるという事で、理解の一助となればと思って書いてみました。

※ ファンネルの意味がわからない方はこの辺を参考にしてください。

ファンネル - ピクシブ百科事典
https://dic.pixiv.net/a/ファンネル

やっぱりキュベレイは良いですねえ。全MSの中でもトップクラスに美しい造形だと思います。色は若干ちょっと派手過ぎですが。


ミステリと言う勿れのドラマ化は何故失敗したのか

2022-05-11 08:30:17 | 漫画

ミステリと言う勿れ 田村由美
https://amzn.to/3vJjQo1

失敗って断言して良いのかどうかはさておき、思ったほど盛り上がらなかったと感じたのは私だけではないはずだと思いまして。

端的に言うと、伊藤沙莉が演じる風呂光刑事が不評だった訳ですが、原作からのキャラ変が受け容れられなかった人と伊藤沙莉が気に入らない人は別だよね、という話です。

前者の話として、原作の風呂光さんは、紅一点キャラのステレオタイプである「かわい子ちゃんポジション」の否定からスタートしているキャラだと思います。
それがドラマでは典型的な「かわい子ちゃんポジション」に収まってるんですから、原作ファンから反発食らうのは当然のことと思います。

この「かわい子ちゃんポジション」の否定は、作品全体の大きなテーマの一つである「固定観念を捨てて違う角度からものを見る」事に通じています。

(因みに、「固定観念を捨てる」という思考を突き詰めると高確率でフェミニズムに繋がってしまいます。なぜというなら、固定観念は権力を握った人たちが、自分たちの属性に都合が良いように作り上げて来たものだから。社会の中で権力を握っているのは多くが「大人の男性」すなわち「おじさん」ですね。故に、この漫画ではしばしば「おじさん」に矛先が向いてしまうのです)

風呂光さんのキャラ変が意味するもの、それはこのドラマの製作陣が、原作の大事な所を理解していないという事ではないでしょうか。

 

尚、伊藤沙莉が気に入らない層は「かわい子ちゃんポジションなんだからもっと可愛い子を出せ」と言ってる訳で、「かわい子ちゃんポジション」そのものは何の疑いもなく受け容れているという意味で、前者とは相容れないというか寧ろ真逆の層だと思います。

 

何故こんな、誰も得しない改変が行われてしまったのかというと、やっぱりテレビ局なり制作現場のお偉いさんの「おじさん」たちが、無自覚に固定観念にどっぷり浸かっているからなんだろうなと思います。

中身は旧態依然の「かわい子ちゃん」キャラになってしまってるのを、外側だけ実力派(という事に世間ではなっている)伊藤沙莉にして新しいことをしたつもりになってたらそりゃ盛大に滑るよねっていう話。

 

漫画原作からドラマ化する際、改変が必ずしもダメな訳ではないと思います。
そのまんま忠実に実写化とか物理的に不可能だと思いますし。

例えば「岸辺露伴は動かない」はその辺上手くやっていますよね。バトルもの要素が入った少年漫画なので、実写化のハードルは少女漫画より高いはずですが。
原作ではバラバラの話を大胆に組み合わせて連作に仕立てていますが、原作ファンからも原作未読の人からも概ね好評。

原作では「富豪村」にしか出ない泉京香をレギュラー化しても、露伴先生と京香のキャラや関係性は原作のイメージを壊していない。出番の寡多は問題じゃないんですね。

原作をしっかり読みこんで理解して、変えて良い所とダメな所をちゃんと見極めていれば、原作ファンから無闇な文句は出ないのです。

まあ、一番大きいのは脚本家の力量の差だと思いますが。

 

ドラマオリジナルで追加された風呂光さん→整くんの恋愛ネタってすごく雑な印象でした。どっかで見たような場面をキャラだけ変えて適当に切り貼りしてる感じで。
この部分はじめ、原作のままの部分とドラマのオリジナル部分のクオリティの差に、脚本家の力のなさが残酷なくらいに現れていると思いました。

原作では、整くんの恋愛ネタはライカさんとの間にしかありません。

どっちも恋愛しそうにない男女が少しずつお互いを探りながら心を開いて行く過程がすごく繊細に描写されていて、恋愛ネタにあんまり興味ない私ですら、「整くんがんばって」と思わされてしまった。
これが少女漫画の大御所・田村由美の実力か…と恐れ入ってしまいました。

 

風呂光さんも、原作では出番は少ないながら、地に足のついた仕事ぶりで着実に活躍しています。そもそも警察の採用試験に合格して、警官になって、刑事課に配属される段階で十分優秀なはずなので。

だけど配属された先に、薮さんのような上司がいたらその優秀さも発揮できないというのがエピソード1のテーマのひとつ。怒られて自信を無くし、萎縮して積極的に動けなくなり、さらに怒られて…の悪循環から脱出できたのは、整くんの言葉(そしてそれがきっかけの過去事件犯人逮捕)もあるけど、薮さんがいなくなったのも大きいのだろうと思います。

バスジャック以降のエピソードでは、やる気と自信を取り戻した彼女の姿がちょこちょこ登場します。原作10巻の誘拐事件のエピソードとか、最早勇姿と言って良い。

 

個人的に原作のバスジャック事件の時の風呂光さん好きなんですよね。

原作では犬堂家での出番は2コマくらいですけど、小さい絵でもわかるくらいすごくやる気のある表情をしていて、それだけで頑張ってるんだなっていうのが伝わって来ます。こういうのをさらっと描けるのが流石の田村由美。テレビ局の偉い人にはそれがわからんのです。残念ながら。