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ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

氷艶2025〜鏡紋の夜叉〜

2025-02-22 08:28:35 | 日記

実はnoteの方にもアカウントを作ってちょこちょこ記事を書いていますが、こちらはこちらでひっそりと、よりDeepにやって行こうと思っております。

先日詳細が発表になった氷艶シリーズ最新作について

氷艶2025〜鏡紋の夜叉〜
https://hyoen.jp/

元ネタとなった温羅伝説について、ストーリーの全体像がコンパクトにまとまった資料がありそうでないなと思い、需要があるんじゃないかとnoteの方に記事を書きましたので、こちらにも一応貼っておきます。

温羅vs吉備津彦命〜スペクタクル桃太郎〜
https://note.com/uroko64_/n/n39367733e107?sub_rt=share_sb

最初に公式アカウントから出た匂わせ写真が鬼ノ城だったので、これは「桃太郎」じゃなくて「吉備津彦命」の話かなと思い。「W主演」てとこで、大ちゃんが温羅の方を演じるんじゃないかとは予想していました。
大ちゃんが吉備津彦命なら、普通に単独主演になると思います。婆娑羅の義経様と同じヒーローポジションだし。そうではなくて大ちゃんが温羅だからこそ、対峙する吉備津彦命をもう一人の主演として立てることにも意味があるのではないかと思いました。

そうなると、単純な勧善懲悪の話にはならないはず。
「温羅」は桃太郎の鬼のような単なるやられ役ではないはずです。
大和勢力が日本各地の他の勢力を制圧し、王朝として統合して行く過程の物語で、「正義と悪」ではなく「歴史の勝者と敗者」の物語だと思います。
恐らく各地にこういう話は残っているはずで(出雲の「国譲り」とか、ヤマトタケルの熊襲討伐とか)、それが吉備では「温羅」というキャラクターに統合されて行ったのかなと勝手に考えております。

「真金吹く」が枕詞になっているくらい、古来吉備は鉄の採れる地として有名でした。古代の日本では鉄はそのまま軍事力につながるくらい重要なはずで、それを巡っての争いがあったであろうことは想像に難くありません。「温羅」の正体は製鉄技術を伝えた渡来人であったという説もあります。

***

上に貼った記事は私の書いたものとしては桁違いにアクセスを頂いておりまして、やはり需要があったんだなと思いました。お役に立てて頂ければ幸いです。

実は元々同じような記事を2001年くらいに書いていたのですが、何分にも四半世紀くらい経っているためとっくの昔にデータが消えており、記憶を頼りに今回書き直した次第です。
当時の戦隊モノに「ウラ」という悪役が出ていまして、これが如何にも「名前だけ借りました」みたいな、名前以外に「温羅」要素はどこにもないキャラでして。当時私も若かったので短気を起こして、「本物の温羅を教えてやるよ!」とばかりに書き上げたのが実は当時の記事でした。

地元には温羅の伝承の残る場所が点在していますので、各地の伝承を時系列順に並べてみたところ、予想以上に面白いストーリーが浮かび上がって来てびっくりしたのを覚えています。
製鉄を背景に吉備が栄え、勢力を増し、やがて大和王権との争いに破れて統合されて行くその過程が「温羅」という人物に集約されて行ったのかなと思い、それだけ「温羅」という存在に強い求心力があったのではないかなと感じました。

そのくらい個人的な思い入れがある題材なので、それが「氷艶」の題材になる…大ちゃんが「温羅」を演じる…て正直まだちょっと現実として受け止め切れていないかもしれません。
これ私の願望が見せてる幻なんじゃないかな。

***

脚本家の方は現地取材にも同行されているようなので、上に貼った記事のようなことは既にご存知だと思います。そして公式サイトを見る限り、そこからまたかなり大胆なアレンジを加えてるみたいですね。桃太郎が殺戮兵器って、その発想はなかったわ。若い人の脳みそって柔らかい。
そもそも「氷艶」シリーズ自体原作(というか原案)そのままだった事例がないので、ここからまたどんな新しいストーリーが生み出されるのか楽しみにしています。

***

以下、とっちらかりそうだったので上記の記事には入れなかった、使えるかもしれない小ネタです。

◼️倭迹々日百襲姫命
やまとととひももそひめのみこと、と読むらしい。吉備津彦命の同母の姉と言われています。
こちらは奈良の大神神社に祀られている大物主神と縁が深く、巫女的な女性と伝えられています。

◼️稚武彦命
わかたけひこのみこと。吉備津彦命の弟。日本書紀には名前しか出て来ませんが、古事記の方では「若日子健吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」の名前で、兄と共に吉備平定に派遣された記録があるそうです。

◼️犬・猿・雉
モデルと言われている人たちには2説あるそうです。
(1)犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)
(2)犬養縣主(犬)・猿女君(猿)・鳥飼臣(雉)
メジャーなのは(1)の方ですが、(2)は地域の豪族とされているらしく、それぞれ所縁の神社があるとか。
(1)に関して言えば、楽々森彦命の娘が吉備津彦命の妻になった(高田姫命)説があるそうです。
そしてあの、5.15事件で知られる犬養毅が犬飼健命の後裔と称していたのだそうですが…これは多分ネタとしては使えませんね。

◼️たぶん使えないネタ・「吉備津の釜」
「雨月物語」の中の有名なエピソードですが、時代が違うので無理でしょう。鳴釜神事による占いを効果的に使っていますが、温羅や吉備津彦命は余り関係ない話だし。
しかしこの話は、私が知ってる怪談の中でもトップクラスに恐ろしい話です。
「四谷怪談」のお岩さんは実はそんなに怖くないんです。あれはむしろ、恨まれる方の民谷伊右衛門が非道過ぎるので。鶴屋南北先生は多分、「幽霊なんぞより生きた人間の方がよっぽど恐ろしいってもんでさあ(江戸っ子)」みたいな考えを持ってるんじゃないかなと思います。お岩さんが伊右衛門を恨む気持ちはよくわかるし、寧ろ応援したくなって来ます。
一方、上田秋成先生は全く別の考えをお持ちのようで。こちらの正太郎も確かに悪いんですが、だからっていくら何でも。と言いたくなるくらい、磯良の仕返しが怖すぎます。

***

その他、音楽は元LUNA SEAのSUGIZOさんが担当されるそうなので、「うらじゃ」の歌(晴れバレ大空吉備の国〜)はまず不採用だと思いますが、梁塵秘抄(うしとらみさきはおそろしや〜)はどこかで使われる可能性はなくもないなあと思っています。
ていうか、使おうよ。みんな、好きでしょ梁塵秘抄。

***

ひとまずここまで書いて「滑走屋」に行って来ようと思います。ありがとうございました。

 

 


氷艶〜十字星のキセキ〜

2024-07-11 20:19:55 | 日記

ご無沙汰しております。

滑走屋の感想もまだまだ書き足りないまま行って参りました。横浜アリーナ。

 

色々言いたいことがあり過ぎて何から語ればという感じですが、滑走屋と氷艶はある意味真逆のコンセプトでありながら、実はしっかり繋がっていたんだなと思いました。

 

 

そもそも今回、幕が開く前に急遽予定変更のニュースが入って来て、裏で色々あったようなのですが、まずはその事で。

もちろん私はただの観客なので、報道などで表に出て来ている情報しか知り得ません。

でもこっそり今から言うと、当初トキオ役を演じる予定だった役者さんに関しては、実は一抹の不安を抱いていました。

配役が発表されて一発目のインタビューからあんまり熱量が感じられないというか、フィギュアやスケートに余り興味ない方なのかなという印象で。

その不安も稽古を重ねて行けば払拭されるのかなーと思っていたら、違う形で払拭されてしまったっていうね。

 

そして急遽代役に決まった大野拓朗さん。

イケメンでスタイル良い。だけでなく、何か言動がパワフルだしスケーターへのリスペクトもしっかり感じるしスケートへの取組も前向きだし上達早いし大ちゃんや他のメンバーとも速攻で打ち解けてるし。

X(旧Twitter)で反応しているファンの方たちも雰囲気が良くて、こんな人たちに応援されている大野さんもきっといい人に違いないと思ったものです。

 

歌子先生のお言葉「大輔はいつも必要な人を連れて来る」を思い出したのは私だけではないはず。

なので、今回の事で初めて知った方にも関わらず、「待ってました!」って思いました。

 

 

今回のテーマは「自己犠牲」。

宮沢賢治作品では避けて通れないものとは言え、私は正直余り好きな言葉ではありません。

どこか、犠牲になって「あげた」という恩着せがましさを感じるというか。

(因みに宮沢賢治作品も良く読むと必ずしも自己犠牲を賞賛するものでは無い…はず)

 

私の好きな言葉は、別のエントリーにも書いた「利他」という言葉。

これは自分を犠牲にするというより、視野を広く持つという事と解釈しています。

自分のことだけ考えて他人を蔑ろにしていると、人から恨みを買って却って辛い事になります。それこそ富豪夫人のように。

視野を広げて、他人の事まで配慮した方が、自分にとっても良い流れを呼び寄せる。

これが本当の「情けは人の為ならず」

 

でもプログラムでの大ちゃんのコメントには、「やってあげた」じゃなくて「自分がやりたくてやった」と考えるようにしているとあって、ちょっと安心しました。ちゃんとわかってるというか、大ちゃん、それが「利他」なのよ。

 

 

そんな訳で、私としては何の不安もなく迎えた本番なのですが。

最初、少年時代のトキオとカケルが出てきて、やけにスケート上手いなと思ったら友野一希くんと島田高志郎くんでした。上手い訳だよ。

滑走屋ではリンクの上で活躍するだけでなく、大ちゃんを積極的にサポートして舞台裏でも頑張っていたという友野くんと、直前の降板で悔しい思いをしたであろう島田くんが、この後の場面共々とても頼もしく見えました。

 

彼ら二人だけでなく、アンサンブルスケーターにも滑走屋メンバーがかなり入っていて、そのせいもあってか、今回は今まで以上にスケートのスピード感を活かした演出になっていました。

 

スケートと舞台を融合し、他ジャンルとのコラボでストーリーを主体に見せる氷艶。前回までは、プロジェクションマッピングや大掛かりな舞台装置での演出が目立っていました。

あれはあれで面白かったけど、今回は銀河鉄道のスピード感も、燃え盛る炎もスケートで表現されていて、「スケートとストーリーの融合」という意味では一歩先へ進んだ感がありました。

 

滑走屋のコンセプトは純粋に「スケート」そのものの魅力を見せるというもので、その中心にあるのは原始的な身体感覚とも言うべきスピードの快感でした。

 

そのスピード感を、今度はストーリーを見せるために使う。それが出来たのも、若いスケーター達が正に、滑る職人「滑走屋」として育っていった過程があってこそではないでしょうか。

 

 

「滑走屋」は傍目に見てても大変そうだなとは思っていたのですが。

出演したスケーターからの後からの発信を見ると思ってたより数倍大変そうで。でもその大変だった思い出を、みんな目をキラッキラさせながら語ってるんですよ。次があるなら是非出たい、と言いながら。

みんなそれぞれ苦労しながら、それを乗り越えて得る物が本当に大きかったんだなと思いました。

 

体調を崩して出られなくなったスケーターは島田くんだけではなかったし、他にも色々予想や予定と違う事もあっただろうし。

でもみんなでフォローしあって最後まで走り切った。成長できた、その手応えを感じました。

そのメンバーが大勢参加しているので、きっと今度も大丈夫だろうと思えました。

 

「滑走屋」は決して、後輩に恩を売るためにやった訳ではないと思いますが、でも自分「だけ」の為でもなかったはず。結果的に今回の「氷艶」を成功させる上で大きな力になって帰ってきたと思います。

「利他」というなら、今回の一連の状況がまさにそれで、「滑走屋」を含めて大ちゃんが過去にやって来た事が繋がり、「十字星のキセキ」を起こしたと思います。

 

 

スピードと言えば、今回もアンサンブルにはショートトラック出身の松橋さんが参加していましたが、今までは松橋さん一人が昔取った杵柄で爆走してたのに、今回はフィギュア組も負けずに爆走。正に「滑走屋」たち。

などと思っていたら、何と松橋さんは台詞付きの役で登場。まるで、「名バイプレイヤーとして長年舞台やドラマで活躍」してる人みたいに違和感なくさらっとハマっててびっくりしました。

 

とはいえ一番印象的だった爆走はやっぱり主役…蠍座での(元)富豪夫人とカケルの攻防、ペアやアイスダンスとは違う、男女シングルの頂点を極めた者同士という感じ。

真のスケート巧者はジャンプもスピンもなくてもただ滑るだけで魅せられるというか。

この2人だから出来るんだろうなと思うような爆速と滑らかなスケーティングでギュンギュン滑る追いかけっこが、場面の緊迫感と相待ってすごくスリリングでした。

 

 

ストーリーについて言えば、「銀河鉄道の夜」を含めた宮沢賢治作品を踏襲しつつ、でも「銀河鉄道の夜」の構図を敢えて外しているんじゃないかと思いました。

ジョバンニとカムパネルラがそのままトキオとカケルなら、トキオが主役でカケルは脇役じゃないの? 大ちゃんが主演なのに? と不思議に思った人も多いはず。

 

でもトキオとカケルの関係性は、ジョバンニたちとは全然違うんですよね。

 

まず「夜」にない要素としてユキの存在、そして3人の夢がある。

 

トキオの夢はカケルとワンセットというか、カケルと一緒にいる事が彼の本当の望みと言えるようなものなのに対して、ユキの夢はトキオともカケルとも関係ない。

ユキは本来、自立心の強い女性なんだと思います。病気が無ければきっと、トキオにもカケルにも頼らず自分1人で羽ばたいて行けた。

夢を絶たれたことで一度は折られた翼を、カケルが寄り添うことで再び取り戻す。だからこそ、夢は叶わなかったにも関わらず、命を使い切った者として、白鳥座で羽ばたいて行ったのではないでしょうか。

 

実は今回、中々生で見る機会がなかったかなだいのアイスダンスを、カケルがユキに寄り添うシーンで初めて見ることが出来ました。今更ながらかなだい良い…すごく良い…と思いました。シングルの良さとまた違う。アイスダンスの美しさがそこにある。

 

そしてこの場面が良かったからこそ、白鳥座での再会が切ない。

トキオを挟んであんなに美しくシンクロしているのに、決して触れる事ができないなんて。

「かなだいのアイスダンス」を是非また生で観たいので、FOIに行くことにしました。

 

 

「夜」と「十字星」のもう一つ大きな違い、それは切符です。

鉄道をモチーフとする以上、切符はとても重要なアイテム。

 

ジョバンニとカムパネルラは、それぞれに切符を持っています。

つまり二人は並列の存在。しかし二人の切符は違うものなので、行き先は違えます。

カムパネルラは他の乗客と同じ小さな灰色の切符なのに、ジョバンニは大きな緑色の唐草模様の切符を持っていて、それこそが何処へでも行ける切符だと言われます。

カムパネルラは他の乗客と同じ脇役で、特別な切符を持ったジョバンニが主役だとここで示されています。

 

一方トキオの切符は、カケルから引き継がれます。しかもそれは、カケルの夢の原点ともいうべき隕石の欠片。

カケルがそれをずっと持っていたという事は、彼が夢の原点をずっと大切にしていたという事です。

 

カケルは空から見なければわからないナスカの地上絵に興味を示さず、地面に転がる石ばかりを見つめている。

でもその石は隕石で、宇宙からやって来たもの。下ばかり見ているようで彼の視点は広く、地に足を付けながらも自分以外の人を思いやり、人を幸せにする事がカケルの真の望みだったのかも知れません。

 

その隕石をトキオに渡したという事は、即ち夢を託したという事になります。

トキオの研究がいずれ宇宙へ届き、人を幸せにし、そしてトキオ自身が幸せになる事。その望みをトキオに託し、その望みがトキオを導くという事です。トキオが隕石の欠片を、その夢を手放さない限り、カケルはいつでも一緒にそこにいる。

 

これまでの氷艶では、大ちゃんは主役として挫折し、悩み、成長する役を演じて来ました。でも今回はその役割をトキオにスライドする事で、物語をリードし、トキオを助け、導き、想いを継ないで行く新しいポジションをカケルとして見せてくれました。

「氷艶」ではこれまでも大ちゃんの発声の良さやセリフまわしの上手さに驚かされて来たけど、カケルの軽やかで気負わない感じはまた一歩進んだ自然な演技。銀河鉄道に乗ってからは特に、この世のしがらみから解放された存在としての軽やかさを演技とスケートで見せてくれたと思います。

 

「自己犠牲」といいつつ、最終的には「生命」そのものが大きなテーマになっていましたね。

銀河鉄道はあの世とこの世の間(はざま)を走る。

古来、彼岸と此岸の間に流れるのは「三途の川」ですが、夜空を流れる天の川をこれに見立ててロマン溢れる世界観を構築したのは、宮沢賢治の天才たる所以だなと改めて思いました。

 

 

今回、劇中の歌曲はすべてゆずの曲という形でした。ゆずの曲って爽やか系の曲ばっかりっていう印象だけど大丈夫?とちょっと思っていましたが、今回初めて聞いた曲は意外と短調主体だったり強い調子の曲もあったりして、アレンジの違いもあるのか上手く場面に合っていました。

 

最後に御本人が出て来て3曲披露してくれるのが、そこだけ見るとちょっとしたライブみたいで、それはそれで得した気分だったのですが。

 

全体で見ると、1曲めは今回のための書き下ろしテーマソングなのでエンドロールとして聞こえるし(アーティストご本人たちによる生歌エンドロールって超贅沢ですね)、2曲目はフィギュアスケートにも縁の深い冬季五輪のテーマ曲。そして3曲目でスケーター、キャスト陣総出で歌って踊るのでこれがグランドフィナーレ(アーティストご本人以下略)と、上手くショーの中に馴染んでいました。

劇中で歌う役者の皆さんがまた上手くて、しかも声質がゆずのお二人に似てるんですよ。だから余計、最後に急に違う人が出て来たという感じがなく、スムーズにラストの盛り上がりに繋がって行ってました。

 

 

因みに私、初演しか(生では)見ていなんですよ。

だから「初演ではちょっと硬かったけど、2回目以降は良くなった」みたいなご意見には声を大にして言いたい。

 

初演から良かったですよ?

 

前情報が余りない状態で始まったけれど、ストーリーには最初から引き込まれたし、「あの人があの役を?あんなことを?」みたいな驚きも色々あったし。

いきものがかりとコラボしてた「イロトリドリ」をここでこういう解釈で使うのか、とか、大ちゃんが高志郎くんと組んで滑るまでは予想できたけど、リフトまでやると思わなくてびっくりしたし、人を皆で高く持ち上げて運ぶリフトは氷爆や滑走屋でも見たけど、まさかその方法でゆずの岩沢さんが運ばれて行くとは思わなかったし。

ゆずのファンの人たちは多分、私たち以上に何を見せられるのかよくわからずに現地に来ていたと思いますが、最後は楽しそうに盛り上がっていたし。

今回席が結構後ろの方だったのですが、会場全体が見渡せて、客席の盛り上がりも良く見えて楽しかったです。

横浜アリーナは後ろの方でも見やすいけど、その分傾斜が急で、足の弱いお年寄りは大変そうでしたが。

私の隣の席にはお洒落なステッキを持った老紳士が座っていて、席に着くのに苦労されている様子でした。でも、始まってからは食い入るように熱心に見ている様子が伝わって来て、最後は音楽に乗ってとても楽しそうでした。

 

他にも色々思うことがありすぎで全ては書ききれないのですが、長くなったのでここで終わります。

ありがとうございました。


アスリートの究極の夢~高橋大輔現役復帰とメガロボクス~

2018-10-06 08:58:00 | 日記
大変ご無沙汰しております虹川です。
このブログに関しては、特にやめたり休んだりという意識は私にはなく、日頃単なる怠慢でほったらかしてるだけなので、たまに思い出したようにこういう記事を上げます。

今回のは、アスリートが本当に求めているのは、実は勝利じゃないんじゃないかという話です。

ひとつ前のクールですが、久しぶりに楽しんで見てたアニメがありました。

■メガロボクスー「あしたのジョー」連載開始50周年企画ー
https://megalobox.com

詳細はリンク先を参照ください。
全13話を見終わって、その内容を改めて反芻している時に飛び込んで来たのが、「高橋大輔現役復帰」の電撃的なニュースだったため、この2つが私の中でがっちりと結びついてしまったのですね。ということで、その辺りのことを書いておこうと思います。


■ギアレス・ジョーの手にしたもの

メガロボクスがどういう話だったのか、ちりばめられた伏線や演出や絡み合う登場人物たちの感情など、語り出したらキリがないのですが、キリがないのでここでは一旦置いておきます。
「あしたのジョー」とは全く関係ない話ですが、「ジョー」の影響は濃厚に見て取れます。

「メガロボクスとは、ギアという道具を使うことで、階級の差がなくなった近未来のボクシングである」という事くらいわかっておいて貰えれば、多分この記事は理解できます。

結論からいうと、これはアスリートが、何を求めて戦うのか、を表現した物語だと思いました。

アニメでも漫画でも映画でも、ストーリーの基本は「目的」です。
主人公には「目的」がある。どうにかしてそこへ辿り着こうとする、その過程がストーリーになる。
ワンピースの「海賊王におれはなる!」はその最たる例のひとつです。ゴールが分かりやすく提示されているので、読者もストーリーに入って行きやすいですね。

これがスポーツ物だと、大抵の場合「勝利」がゴールとして提示されます。野球だったら甲子園とか、サッカーだったらワールドカップとか、誰もが目指すわかりやすい目標がある。

でも、それが本当に、究極の目標なんでしょうか。

「メガロボクス」には、「メガロニア」という大きな大会が出て来ます。
そして、「メガロニアの頂点を目指す」という目標が掲げられます。でもこれ、主人公であるジョーの、本当の目的ではないんですね。

では彼は、何を求めていたのか。
メガロボクスとは、突き詰めればどういう話だったのか。

それはこういう事だと思います。

「アスリートの究極の夢は試合に勝つ事ではなく、試合で自分の最高のパフォーマンスを見せること」

しかしメガロボクスは対戦競技。自分一人でどんなに頑張っても「最高のパフォーマンス」にはなりません。全力を出し切った最高の試合をやるには、それ相応の相手が必要。

物語の冒頭。ジョーと、ライバルとなる勇利(力石ポジションの人)は対局の立ち位置にいます。
地下の賭け試合で生計を立てるジョーと、絶対王者として君臨する勇利。でも実は、2人は同じジレンマを抱えています。

「ここいらじゃお前は強すぎるんだ」と南部(丹下段平ポジションの人)に言われ、八百長を強いられるジョー。
「敗北という言葉を知らないようね」とゆき子(葉子ポジションの人)に言われ、格下の対戦相手しかいないっぽい勇利。

対戦相手に恵まれず、全力で戦うということができていない。

そんな二人が、偶然に出会う。
そこで何かを感じたのか、一度はジョーのいる地下の闘技場に現れる勇利。
「俺はもうお前のリングでは戦わない。戦いたければ、俺のリングへ上がって来い」
その言葉を受けてメガロニアを目指すジョー。つまり彼の目的は最初から「メガロニアで優勝したい」ではなく、「勇利と戦いたい」なのです。

何故か。その理由は第11話、決勝進出を決めた勇利へのジョーのセリフで語られます。

「俺はあんたと掛値なしの試合がしてぇんだ。あんたとだったらどこまでも行けそうな気がしてよ」

勇利と対戦することで、自分は最高のパフォーマンスを発揮できる。それを信じて、それを目指してジョーは走って来たのです。
それは勇利にとっても同じなのでしょう。
最終回での勇利の「俺たちは、出会えたんだ」というセリフから、勇利もまた、ジョーという対戦相手を得て、自分の持てる力を出し尽くすことができたことが伺えます。

■真っ白な灰になった後

そしてこの「結論」は、このストーリーの根源とも言える「明日のジョー」の、あの有名なラストシーンへのひとつのアンサーなのではないかと思いました。

試合終了後、真っ白な灰になってしまった矢吹丈。その後、丈はどうなったのか?灰になったってどういうこと?
全ては読者に委ねられたまま、丈の物語は幕を下ろします。

「真っ白な灰になる」ってどういうことなのか。
その答えは、実はそれより前のシーンにあります。

「そこいらの連中みたいにブスブスとくすぶりながら不完全燃焼しているんじゃない。ほんの瞬間にせよ まぶしいほど真っ赤に燃え上がるんだ。そして、後には真っ白な灰だけが残る…。
燃えかすなんか残りやしない…真っ白な灰だけだ」


「真っ白な灰になる」は、世間的には「力尽きて倒れる」みたいなニュアンスに使われることが多いですが、このセリフを読むとそうではないことがわかります。

「不完全燃焼」と「まぶしいほど真っ赤に燃え上がる」・「燃えかす」と「真っ白な灰」が対比させられています。
「真っ白な灰」しか残らないのは、「まぶしいほど真っ赤に燃え上が」ったからなのですね。
自分の力を出し切ることができず、不完全燃焼のままに終わると、燃えかすという心残りが残る。
自分の全てを出し切って真っ赤に燃え上がることができれば、悔いも何も残らない。

そうして全てを燃やし尽くした後、どうなるのか?
それが最終回、決勝戦後のジョーと勇利の姿として描かれています。

ネタバレですが、物語のラストでは「メガロボクスのチャンピオンは空位」だと語られます。
つまり、ジョーも勇利もチャンピオンにはなっていない。チャンピオンになりたくて戦った訳ではないことが、ここで現れていると思います。
どちらが勝ったか、決着が描かれているのか否かは最後まで見てのお楽しみですが、勝敗それ自体は、二人にとってそれほど重要なことではないのではないでしょうか。

■高橋大輔現役復帰

「俺たちは、出会えたんだ」
出会えて、戦えて、最高の試合が出来て、全てを出し尽くすことができた。
その幸運をしみじみ噛みしめるジョーと勇利を見ながら、ふと思い出したのは、自分が最も応援していたアスリートのことです。

彼は燃え尽きることができたんだろうか。
大きな怪我を引きずって、本来の力を発揮することができず、不完全燃焼のまま、勝負のリング…じゃなくてリンクを去ることになってしまったのではないかと、ふと心が痛んだのでした。

そんな矢先に目に飛び込んだ「現役復帰」の文字。誰のこと?と調べて見れば高橋大輔。
余りのタイミングに、自分の願望が見せた幻覚なのかと思いましたよ。

ボクシングと違ってフィギュアスケート(のシングル競技)は一人で戦うスポーツです。
「自分の演技の時間は、会場すべてを独り占めできる」と大ちゃん自身が語っています。
だからジョーや勇利のように、理想の対戦相手を探さなくてもいいはずなのです。
自身の強い意志さえあれば。
そう、強い意志…本当に、この人は強烈だな。

アスリートの目的が「勝利」だと思っている人には、大ちゃんの復帰の意図は分からないでしょう。
でも実は、「勝利」よりももっと大切な、本当の目的がある。
実は「勝利」とは、その本当の、究極の目的のための「手段」のひとつに過ぎないのかもしれません。

大ちゃんがそのことに気づいたのが、去年の全日本ということなのでしょうね。

それにしても、彼がその真の目的を遂げた時、私たちは何を目にするのでしょうか。
「真っ白な灰」しか残らないほど、「まぶしいほど真っ赤に燃え上が」る炎は、きっと外野の目にも美しい。

「メガロボクス」の最終回、ジョーと勇利の戦いを前に盛り上がる周囲。
あの時、「これから最高の試合が観れる!」とワクワクしていたキャラクターたちの、あの感じ。
あの気持ちを、自分自身で味わうことになろうとは。

願ってもいないことでした。
ありがたや。

XOIというかスケートその他についての雑感

2016-01-10 20:58:00 | 日記
前回の記事上げて、ああそうだせめてツイッターでお知らせするくらいしないと誰にも気づいて貰えないなーと思って超久しぶりに(変なリツイート以外の)ツイートしたら、何やらすごい勢いで(自分比)リツイートされるしお気に入りされるし、以前から大ちゃんの記事上げたらカウンター200くらい回ってたのが、今回さくっと4桁に乗ったし。
…やっぱりみんな大ちゃんに飢えているんだな、と思いました。

一方私の方はというと、前回のXOIみて、大阪のSOIみて、そして神戸チャリティーを見て…ちょっと大ちゃん離れというか、スケート離れしてました。
意識してそうした訳じゃないけど、なんか、自然に興味なくなって。
もちろん大ちゃんへの興味が薄れた訳じゃないけど、今は追いかける時じゃないな、と思ったので、うっすら情報を追いながら別の事やってました。
何せフィギュアスケートというものに関して、自分でもびっくりするくらいどうでもよくなってたので(何故か自分で滑る方のスケートにさえ興味が失せて、かれこれ1年くらいスケート靴履いてないのがヤバいです。こっちもそろそろ復帰しないと)。

まず何よりテレビを見ない。
もともとあんまり普段の生活でテレビを見る習慣がなくて、大ちゃんが現役の時にはテレビも録画機材もほぼ大ちゃん専用機だったので。
大ちゃんが引退した辺りで録画できる機械も処分して、そうしたらテレビ自体ほとんど見なくなりました。
そしてテレビを見なかったら、フィギュアって本当何も情報なくて、つくづく「テレビのための」競技なんだなあ…と。

最近ネットの記事の方で、「元フィギュアスケーターがテレビで大活躍!!」みたいな記事が出ているのを見て、それって喜んでいいことなの?と思います。
なんだかまるで、フィギュアスケートっていう競技自体が、テレビをはじめとするマスメディアに取っての、都合の良いタレント育成・発掘システムとして扱われているような気がし出したんですね。

最近のテレビって、タレントの知名度で手取り早く視聴率を上げるような番組が多くて、タレント事務所の力がやたら強くなる。見る方にもいい加減それが分かってるから、「このタレントが良く出てくるのは事務所の力」って、冷めた見方が広がって来ている。
そんな中では、タレントよりは「実力で出ている」形にできる有名アスリートやアスリート出身のタレントはテレビに取って何かと都合がいいんだろうなと思います。

中でもフィギュアは。
競技人口が少ない割に選手の知名度は高く、アマチュアの段階で(あくまでも一部の選手は、だけど)有名タレント並み。
現役の間はCMタレントとしてスポンサーマネーを引っ張り、引退後はバラエティーの雛壇を埋めるのに便利に使うなんて事も可能というか、実際そのように使われている人がいる。

その上で、思う訳です。
でもそれ、本当に実力なの?って。
今や、レコ大も日本アカデミー賞もベストジーニストやら何やらも、所詮事務所の力関係であってタレント本人の実力ではない、とみんなが思い始めている。
で、フィギュアはどうなの?「スポーツ」だからガチの実力?本当に?

不正な採点がなされている、という証拠はありません。というか、どんなに探しても「証拠」なんて出てこないと思っています。
でもそれは決して、不正な採点が「されていない」という証明にはなりません。
だってこのスポーツ、よくよく見ると一切の証拠を残す事なく、結果をコントロールできる構造になってるんですね。

明確に見えるジャンプの成否ですら、エッジのイン・アウトや回転の過不足等、審判の判断に委ねられる余地が十分にあります。
それにスピンやステップのレベル判定、1つのエレメンツにつき最大6点もの差をつけられるGOE。その上、「スケート」に於いて最も重要な「スケーティング」の評価は100%審判の判断によるPCSという点数で評価されます。

一見すると客観的なように見えて、実は極めて主観的というか、審判の独断による採点が可能なのが新採点というシステムなのだな、というのが、どうやらド素人の私にも分かって来ました。

ぱっと見には厳密な採点基準が設けられているように見えますが、それらの基準が「適切に」適用されているか否かを第三者がチェックする仕組みが見当たらない。

「ジャッジミーティング」という密室の中でどんな話し合いが行われているのかは部外者にはわかりません。そこで全員が口裏を合わせる事ができれば、或いは全員でなくともある程度の人数を予め「味方」として抱き込んでおければ、そこまでしなくとも、「この選手を勝たせなければならない」という同調圧力だけでも作り出してしまえば…。

疑い出せばキリがない。

採点競技に比べると、審判の判断の入る余地が少ない球技などでさえ、審判の判定に不満があれば競技者の側から抗議が入るし、ビデオ判定などで裁定がひっくりかえる事もある。サッカーのワールドカップなど大きな大会では、判定の是非を巡って世界中で議論が起きる事さえあります。

しかしフィギュアは、これだけ審判に全権が委ねられているにも関わらず、審判が一度出した判定は覆りません。抗議した選手に対して、次の試合から判定が辛くなる「報復採点」の恐れがあるから、選手側から意義を申し立てる事もまずない(これまた「証拠のない」不正採点ですが、「そのような可能性」がある限り選手側はリスクを犯せない)。

なんともまあ、「審判」がまるで神ででもあるかのような、すごい絶対の信頼の下でないと競技として成り立たない競技があったもんだなあ…と改めて思ってしまいました。

私がフィギュアを見始めたというか高橋大輔を「発見した」のは2005年だからかれこれ10年前になりますが、新採点が出来たばかりの当時は、まだ手探りで、でも審判もそれほど無茶はできないという空気感があったような気がするんですが。

あれから10年。もう何やったって文句は言われないぞ、と審判の側が気づいてしまった。ような気がしてしょうがない。

個人的に、どう考えてもこれはおかしいと思い始めたのは2013年くらいかな。
多分2014年の4CCだと思うんですが、あの大阪であった「月光」初披露の大会。
あの試合、試合の前にわざわざ日本スケート連盟のお偉い方からご挨拶があったんですよ。
「審判は皆ちゃんと公平に審査しています」って。
本来、競技が競技として成立ための大前提とも言えるこんな事を、わざわざ言葉にしなければならない段階で、既に語るに落ちている。
「疑われている事を自覚しています」って白状しているようなものじゃないですか?
それに、上に散々書いてきたように、「不正の証拠は発見できない。そして同時に不正を「やっていない」という証明もできない」競技である以上、いくら言葉だけで「公平」ですと言われた所で、「口ではどうとでも言えるわな」としか申せませぬ。

信じて欲しいならば、見た者が「なる程これなら公平だ」と思える結果を出し続けるしかないと思うのですよ。信頼って、事実の積み重ねでしか得られないものですから。
(「公平だ」と思える基準は人それぞれに異なるでしょうけど。自分以外の全員が納得していたって、自分に取って納得できないものは納得できない。「腑に落ちる」という言葉の通り、腹に落ちなければ納得できないのです。頭だけ、理屈だけでは足りません)

しかしフィギュアスケート界は、実際には逆の事をやって来ました。
この4CCの前、2012年の全日本。「採点に納得できなかった」多くのファンに対して、まるでそれが「悪」の所業であるかのように書き立てたのは、スケート連盟に極めて近い場所にいる一部の記者たちだったと記憶しております。
そしてその直後の4CCで、これ。お偉いさんの有難いお言葉とは裏腹に、実際の採点は、到底公平だと思えるものではありませんでした。
(あの試合、私は現地で生観戦しています。生だからこそ、基本のスケーティングの上手い下手は見ればわかる。もう、理屈じゃなくてですね、下手なスケーターは滑ってないんですよ。ターンの際にスピードが出過ぎるとコントロールできないから、(多分無意識に)スピードを抑えている。アクセルとブレーキを同時に踏んでるようなスケートで、見てて微妙にイラっと来る。でもそんなスケーターのSSが全選手の中でもほぼトップ。誰とは言わないけど。笑うしかない)

スケート連盟の姿勢として、審判の公平性を担保する為の、第三者のチェックは一切受け付けないし設けない、と。表明されたようなもんです。
「信頼に価する」採点をする代わりに、採点に疑問を呈するファンの声を押さえ付ける事を選んだ。
「採点に疑問を表明するのは悪である」
という「ルール」を作ってしまったのだから、後はもう、やりたい放題ですよね。

もちろん、今のフィギュアスケートを純粋な「スポーツと芸術の融合」だと信じて、高い点数が出ているのは素晴らしい演技なのだと思っている人を非難する気もないし、そんな資格も権限も私にはありません。
私が一人で勝手にシラけて興味を無くしている、それだけだ!!
(一応、今の「アマチュアの」スケーターにも応援したい選手はいるんですよ。でも彼らがどう扱われるのかと思うと、正直、見るのがツラい。宇野昌磨選手は、某選手がいなければきっともっと大きく扱われていたでしょうね。なんかもうマスコミが、その辺のさじ加減を気にしながらスケーターをどう扱うか考えている、その感じがすごく、嫌)

前置きが長くなりました。
要するに何が言いたいかというと、私は大ちゃんが今のフィギュアスケートの世界から距離を置くのは賛成。というか、距離を置きたくもなるよね、と勝手に思っています。
大ちゃんが引退を宣言したとき、あんなにもマスコミ各社が色めきたったのは、大ちゃんを「タレント」として自分たちの業界に引っ張れると思ったからなんだろうな、と思います。
でも大ちゃんがその道を選ばないで、さっさとアメリカに行ってしまったのはある意味爽快でした。大ちゃんが見れないのは寂しいけど、しょうもないバラエティーのひな壇で賑やかしに座らされたり、現役選手のヨイショ要員に使われるのを見たい訳じゃないから。

しかも行った先がアメリカ。特にニューヨーク、ブルックリン。
やっぱり私、この人の感性が好きだな、と思いました。

思えば約10年前。まだ初々しかった大ちゃんが倉敷イオンで「フランス、パリがオシャレで好き」と言ってた頃。
あの頃確かにパリはちょっとしたブームだったと思います。
ルーブル美術館だけじゃなくて、ポンピドゥーセンター行ってから小さい路地裏に散在する小さなギャラリーを巡るのが、当時最先端のアートの楽しみ方とか言われていたような記憶があるんですね。

で、今はブルックリン。実は私がここに来てる「波」を知ったのは某ミスドのキャンペーンからだったりするんですが(笑。思わずミスドのお皿とマグカップ買っちゃいました)。
古い物が逆にオシャレ。
古い建物群が残っている所へ、センスのある若者が集まる。古い建物を、その味わいを残して改装し、カフェやギャラリーや雑貨店が生まれる。
日本でもその流れが出来ていますよね。京都や奈良や倉敷の町家を改装したカフェやショップ。秋に行った鎌倉も相当なものでした。これが神戸に来ると乙仲通りやトアウエストの古い雑居ビルになります。
その流れの、ある意味世界の最先端がブルックリンなんだな、と。
大ちゃんがインスタグラムに載せていたメリーゴーランドは、あれは遊園地とかにあるものではなくて、一人のアーティストがコツコツとレストアして復活させたヴィンテージ物だというのですよ。

大ちゃん、多分分かってあそこへ行ってる。単に英語を学ぶだけではなく、世界中の、感性が豊かな人たちが集まる場所で、時代の最先端の空気を吸収しようとしているんだな、と思いました。

フィギュアを好きな人は趣味が保守的な人が多いから、(ある意味「やんちゃ」な人たちが担い手になっていたりする)新しい物に拒絶反応を示す人も多いと思いますが。

私が大ちゃんを好きになったのは、ある意味彼を追う事が、いろんな意味でライブ感がある事、常に、その時々の「今」という瞬間を彼がそのスケートで具現化している事も大きいんだろうなと思います。

だから、究極スケートでなくてもいい。彼の感性から出てくるものは、それがなんであっても、私を満足させてくれると思います。
今のフィギュアスケートの世界には(上記の理由で)胡散臭さしか感じないし、個人的に今年のXOIの全体のクオリティが昨年よりずっと高かったのは、去年出た一部のスケーターが今年はいなかった事も大きいだろうと思うので。
有体に言うと、上に書いたような曖昧な採点基準の中で、「タレントとして」価値が高くて高い点数を貰っているけど、スケートには全く魅力を感じられない選手。そんなスケーターには出て欲しくないのですよ。

しかし同時に、大ちゃんの感性を最も強く表現できるのもスケートなんだろうな…というのが悩ましい所でもあります。
私が子供の頃、その辺の道路でローラースケート履きながら夢想してた事。

…スケートの「滑る」という動きを「踊り」に上手く融合させたら、地上で普通に踊るのとは又違う素敵な「踊り」になるんじゃないか?という夢。

でも実際に、テレビで見たフィギュアスケートは全然違ってたんですよね。
足はスケートを滑りながら、申し訳程度に音楽に合わせて手を動かして、そして徐にジャンプとかスピンが始まる。或いは、爪先のギザギザで「滑らずに」踊る。
なんか、期待してたのと違うな、と思ってたんです。大ちゃんの、あの「ノクターン」に出会うまでは。

何度も言うけど、スケートって重心なんですよ。全身でバランスを取らないと滑れない。だから、踊りながら滑るって、実は全く違う事を全身で同時にやるって事なんです。
それが中々できないから、大抵の人は「上半身で踊って下半身で滑る」か、「滑る時は滑る、踊る時は踊る」状態になる。
でも大ちゃんはすごく自然に(見えるように)全身で踊りながら全身で滑るんですよね。
まさに私が見たかったスケート。

だからまあ、やっぱり大ちゃんもスケートに戻って来たんだな、と思いました。
彼の感性を、最もストレートに表現できるのはスケートだから。
今後の事は未定との事ですが、多分ショーの方を主体に活動して行くのかな、とぼんやり思っています。テレビには出なくていいよ。私見てないから(笑)。

今の時代の流れとして、テレビの視聴率が落ち続けている、CDもまともに売れなくなって来ている。
でも音楽業界そのものはある意味活気付いていて、それが何かというとフェスだというのですよ。
言われてみれば確かに、年々フェス系のイベントは増えていて、音楽の現場がメディアを通したものからライブへと移っているのを感じます。
大ちゃんは色んな意味でタイムリーな人だから、そういう時代の空気感もきっと感じてるだろうし、そして大ちゃん自身もライブとすごく相性がいい。

今回のXOI、宣伝が少なかった事に不満なファンの方もいるようですが、一応イベントを主催した事もある人間から言わせて貰うと、宣伝なしでチケットが売れるっていうのは主催者に取って理想なんですよ。

広告・宣伝費って結構バカ高いから、いくらチケットが売れても、宣伝にかかる費用でごっそり持って行かれたら儲けにならない(そして同じ理由で、協賛スポンサー大事です。イベントによってはチケット収入より、協賛収入の方が大きいくらい)。
だからこのショー、主催者に取っては笑いが止まらんレベルの大成功だったんじゃないかな、と思います(そういう訳で是非来年以降も大阪でやってください正直新横浜遠いです)。

思えば荒川さんのFOIも、最初は平日の1公演だけだったし、最初の2~3年くらいはチケットも余裕で取れていました。一度見た人が「来年もみたい」と思って、年々リピーターを増やして行ったからこそ10年続いたし、チケットを取るのは年々難しくなって行きました。

みなさん、大ちゃんのスケートをもっと信じましょう。ライブで見に来た人に「良いものを見た、また来たい」と思わせて、宣伝しなくても口コミでチケットが売れる。それが理想のイベントの形です。
そして大ちゃんには、それができると思っている(だからこそ、「名前」が大きいだけで、ショーのクオリティを落とすようなスケーターをゲストに呼ぶのはやめて欲しいです誰とはいわんけど)。

また長々と書いてしまいました。
結論を言えば、楽しみにしているのです、私は。
これから大ちゃんが何をやってくれるのかっていう事に。

***

▪️拍手コメントへのお返事

▫️2015/12/23 22:28
こんにちは。人それぞれに事情がありますから、誰もが生でショーを見られる訳ではないですね。私にも見られないショーや試合はたくさんあります。
ただ、多少無理してでも見たい!と思わせる人もいれば、そこまでしなくてもいいや、という人もいる。大ちゃんは前者です。それが彼のショーに人が集まる原動力だと思います。

▫️2015/12/30 12:15
こんにちは。やはり大ちゃんの演技は良いものですね。
昔あるクリエイターの方が、創作するという事は自分の内面をさらけ出すという事だと仰っていました。少なくとも大ちゃんの演技には、彼のその時々の内面が強く現れていて、だからこそ、「今」見なければと思わされます。まさに「ライブ」ですね。

XOI感想

2015-12-23 15:10:00 | 日記
というか、XOIにおける高橋大輔の感想。

結論から言うと、フィギュアスケートの本質って結局はスケートなんだな、と思いました。
スケートを見て何を感じるか、感じさせるか、それが全て。
当たり前の事なんだけど、本質から外れた事ばかり声高に取りざたされて、その当たり前の事を私たちは忘れていたんだと。
そう思いました。

エッジと重心がよくコントロールされた、優れたスケートというのは、何より目に快いものだと思うのです。

敢えて順番を無視しますけど、まず2部のクリスさんとのコラボプログラム。
これ見るとスケートの柔らかいタッチとか、上半身動かす時に、肩甲骨からどんどん末端に向かって関節が連動して動いて行って最後に指先がほんっとーに繊細にふわっと余韻を残していくのとか、それでいてステップではすいすい(ぐいぐい、ではなかったな今回)進んで行く感じとか、表現の美しさがそのまま技術の高さの証明になってるな、という感じだったのです。

あと、即席ペア2組とのコラボでは、何故が出てきた瞬間「劇場支配人」という言葉が頭に浮かびまして、終始「僕の用意したステージへようこそ!」みたいな空気感を出してまして、この人本当に一部であの怖いプログラムを滑ってたのと同じ人なんだろうか…と思わされました。

あと、オープニングとかフィナーレとか、自分の出番じゃない待ち時間の時に踊りでアドリブ入れるのマジ反則です。陸ではこんな風に踊ってるのね…(うっとり)。
かっこ良すぎて、メインの人を見逃してしまうじゃありませんか…。
今回、年上スケーターが多かったせいか、唯一(?)年下のデニス・テンくんとの絡みが兄弟のようで可愛らしかったです。

そういう訳で、1部のプログラムです。新プロです。
曲とか良くわからない。モーツァルトのレクイエムの一部?
でも正直そんな事どうでも良かった。
エラいものを見てしまった。

スケートの技術が高いからこそ表現の幅も広くなる。
スケートの上手さで魅せられるスケーターは、世界には多分たくさんいる。
そこに美しいダンスを乗せてくる事ができるスケーターも。

でもそこに更に、ここまで「感情」を乗せてくるのは、私が知る限りこの人だけだ、と思いました。
「高橋大輔はフィギュアスケートを超えている」と言われる所以。
「フィギュアスケート」に於いて要求される「表現」のレベルを軽く飛び越えている。
音楽に合わせて踊るのではなく、音楽を、そのスケートの力で「感じさせる」事ができるのは、多分彼だけだと思います。

息を詰めて、じっと固まったまま見てしまいました。何か、そうしなければいけない気がして。そして気がつくと、会場全体がそんな感じでした。
そうして身じろぎもできなかった私たちが見たもの。

何なんでしょう。
高橋大輔のスケートは、とにかく目に快い。
その快さを実現するために、繊細なバランス感覚によるエッジのコントロールと、体そのものの「踊る」技術を駆使しているのだと思われますが、そんな事は最早どうでも良く。

その「快い」スケートが視覚情報として目から入ると同時に、「音楽」は単なる聴覚からの情報を超えて、自分の内面にまで入って来る、そんな気がしたのです。
(表現力のないスケーターが滑ると、なんか良さげな音楽が遠くの方で鳴っているような気がする、その反対に)
そして浮かんだイメージは、きっと人それぞれの記憶や体験によって違うのだろうなとは思うのですが、ともかく音楽が、自分の内面に入り込んで、記憶の底からイメージを引き出し、感情をかきたてる。

その時私の頭に浮かんだポエムは、こんなような感じでした。↓

血と泥に塗れて地の底から叫ぶ、
怒りと諦めと呪詛が込められた、
届かない祈り。

こんな血生臭くなった理由は、今私がハマっているあるもの(書けたら書きたい。うう)と関係あるんだろうなと思うんですが…。
ここの所自分の中を占めている血生臭さの中に救いを見出そうというイメージを、自分の代わりに形にして貰えたようで、恐ろしいけれど妙な充実感というか満足感みたいなものがあるのです。
怖いのに、満たされる。何だこの感じ。

ぶっとんだデザインの衣装も、実際に見ると、「この曲でこの振り付けなら」と納得してしまう説得力(そして上半身の筋肉の付き方が個人的に理想の細マッチョ)。

行って良かった。
そして本当に毎回きっちりと、「この人のファンで良かった」って思わせて貰える。これだからやめられませんな。

他にも色々書きたい事あるけど、キリがないのでとりあえずここまで書いときました。