言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

「憂鬱と官能を教えた学校」忘年会

2004-12-22 01:16:14 | 作曲理論講義/受講録
今日は映画美学校の合同忘年会だった。
相変わらず幅広い顔ぶれ(笑)

菊地さんはピットインでライブという事で
残念ながら不参加。

映画美学校絡みの会は2度目という事もあり
何人か顔見知りの人が出来ていて嬉しい。
会社の宴会と会場は同じでも(笑)
カイシャノリとは全く違うのが面白い。

おヒゲの未亡人もいらした。
相変わらず独自の存在感が煌めきを放っている。
横川理彦さんとは初対面。
いつか行きたい青い部屋(笑)
ヒゲミボさんが用意してくれた2枚組の講義用
音源が解説付きで全員に配られる。
次回の特別講義まで聴いておくように、との事。
ああ、解説を読むだけでひどく楽しい気分になる。
しかし、なぜ未亡人なのか…!?謎である。
いつかご本人に訪ねる場面を夢想した。

こういった、好きな事への希求の手段だけ同じで
その参加者の社会的立場や
年齢がバラバラ(笑)という場は
なぜか常に異邦人な気分でいる私にとっては
居心地が良い。

異国に旅した時に、互いに異邦人である事を
暗黙のうちに了解し合っている、
例えば空港などのような場所で
妙に安堵感を抱く時のことを思い出す。

互いが全て違うという事を前提とした場。
単一民族国家の日本では
「あなたもそうよね、私もそうです」的発想が
前提な場や会話が多いので、ほぼ日本人だけの
そんな意識が充満した超・ドメスティックな雰囲気を
成田空港に降り立った瞬間に感じる時、
いつもその事に対して
奇妙さと違和感に囚われる。

それも時には良かったりするんだろうけど。
海外に移住した時などには
きっとすっかり逆転して
その記憶が安心感になったり、
きっとするのだろうな、と想像してみる。

今日は久々に乾燥してピリリと寒い
冬らしく、気持ちの良い天気だった。

楽しいひとときを過ごした忘年会だった。

もうじき今年も終わる。
あまりにめまぐるしかったので
その印象は濃く、
短くも長くも感じられるような年だったと
早くも今年を振り返ってみた。

そして更にここ数年間を振り返ると確かに
大きな喪失と獲得はあった。

今年も笑って泣いて怒って喜び
食べたり歩いたり好きだったり嫌いだったり
飲んだり歌ったり働いたり眠ったり遊んだり、沢山した。
そしてまた
年は変わっていく。
憂鬱と官能…

つづく。









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ピアニスト

2004-12-17 01:15:05 | Classic
ヴォロドスの演奏を聴きにサントリーホールに行った。
彼は新進気鋭の若手のピアニストで新日本フィルにタクトを振るのは小澤征爾、
演奏曲目はかの有名なラフマニノフのピアノコンチェルト第3番。

実在するピアニスト、ディヴィッド・ヘルフゴットの半生を綴った映画
「シャイン」
のテーマとなる音楽だったのでたまたま知っていた。

会場のサントリーホールは前評判を聞き付けてか冷たい強風の中
キャンセル待ちに並ぶ客も居た。私がここに来られたのは
私にないある社会的地位を持つ知人のおかげだ。

私はクラシックマニアではないので21世紀の今聴いてもシンプルで、
強い構造性と豊かな音韻を持ちつつ、ポップなバッハの音楽性は好きでも
ラフマニノフには特に興味はなかった。

彼のイメージといえば驚異的なまでの超絶技巧的な曲を作り
それを自らも完璧に弾いた人で身体能力的に優れており
手が大きく実際に2メートル近くの巨人だったという事…程度しかない。

この曲もCDで聴く限りは華美なロマンティシズムと
過剰な抑揚に溢れていてあまり魅力を感じない。

ところがロマンティックな旋律の奥深くに
決して感情に左右される事のない強い構造力と、豊かな音韻を感じた。

曲の変化の繋ぎ目に突如現れる、短い幻のようなフレーズ。
完璧なアーティキュレーションと共に更なる音韻を生む。

意味は衰退と増幅を繰り返しやがて消えてゆく。
このコンサートを勧めたピアノ教師はきっとこのような
音楽性を私に伝えたかったのだろう。来てよかった。

特に小澤征爾さんの指揮のファンではないが小柄な体型とは反対の、
この存在感の大きい魅力的な指揮者は、
今回の演奏では光に寄り添う影の役割を演じていたようにも見えた。

ヴォロドスは唯一彼が見いだしたピアニストだそうだ。
強烈な存在感がある。自らのこの先の演奏をしっかりと予見し、
それを確認すべく弾いているようにも、戯れ、
楽しんでいる余裕すら感じられる。
控えめで繊細なオーケストラと好対照を成す見事な演奏だった。

外に出てみるとアークヒルズは夜道を照らす
ルドルフの鼻のように赤くて明るいクリスマス色に彩られていた。









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展覧会

2004-12-13 01:11:59 | ART
憂鬱と官能を教えた学校は
来月5日までお休み。
美学校の楽理編曲講座のない週は
少々寂しい。

この日曜日、
解り難いとされる現代アートの展覧会を観に
府中市美術館へ。

解り難い事も、続けて観つめれば
自分の思考のうちの
何かが変わり広がる事もある。

府中ビエンナーレ『来るべき世界に』

現在ロッテルダムにArtist in residence中の
磯崎道佳さんが出展している。
いきなり美術館の入り口に作品が。
横たわる巨大ぞうきん象。
非常に感触が良くて寝心地も良い。
ベッドだったらいいのに。

ほぼ同じ様相と質感を呈した
ミニチュアが思い浮かぶ。
手にして触ってみたいと思う。

シンポジウムでは
学芸員とアーティスト達の
やりとりを目の当たりにする事が出来た。
日本の公的美術館の在り方の脆弱さも
垣間見たような気がする。

トークでは
エゴを剥き出しにする作家もいれば
二元論的思想、逸脱した思想や
ニュートラルでまっとうな意見もあったりと、
それぞれの作家の思想の差異が
素人オーディエンスとしては興味深かった。

私自身はニュートラルな考えへ
気持ちが傾く事が多いが
作家としてのエゴも理解出来なくもない。

でも、創作が強いエゴから出発するとしたら
その作品に私は魅力を感じるだろうか…
存在を際立たせる為に
そう見せる必要性もあるのかもしれないけれど
むしろそれを失くしても
なお残る表現のほうに魅かれる。

アートに興味があり
創作に憧れを抱きつつも
実際には才能や表現に
無縁の立場にある者から見れば、
困難が多くても
常に創作へ向かうアーティストの存在は
いつも憧憬的風景の中にある。










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方法マシン

2004-12-12 02:10:03 | 作曲理論講義/受講録
先週の日曜日、谷中のSCAI THE BATHHOUSEにて
中ザワヒデキさんが名付け親の
「方法マシン」第一回定期公演があり
有識者の友人達と出掛けた。

作品と公演の内容は
クールでユーモラスでテクノだった。
方法と思想は同義だ。

ある人の存在によって現代アートなるものを
知るようになってから
まだ月日も浅い。

決して万人にはわからない。
私にも、殆どわからない。

でも、わからない物事というのは必要で
そこには理解不能なものではなく
未来が在る。
世界を違った目で観る事が
出来る始まりでもある。

全てをわかったと思ってしまっては
閉塞感を生むだろう。

そう思いがちな意識を
こういったアートの存在は
容易に消し去って、
また私の「わからない」が始まる。

でも、わからない事は
いつか必ずわかる事の
スタートでもある、
が、わからなくてヘコむ事の方が多い。

以前、中ザワヒデキさんに
図々しくもメールをした。
以前どこかで彼がポリフォニーの概念や
バッハの(確か「音楽の捧げもの」)カノンについて
触れていたのを読んだ事があって
とても印象に残っていたので。

私はバッハがポップに聴こえるのです、
どうしてなのかわかりませんが、と問うたら
彼は自分の解釈を書いてくださり、
その内容はとても明解で
腑に落ちて嬉しかった。

初めてお会いした中ザワさん、
思っていた以上に大きくて
想像通りに素敵。

そういえば、我が講師、菊地成孔さんも、
同じく方法マシンの名付け親である
松井茂さんの量子詩について
先日の日記で触れていたっけ。







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2004年最後の音楽美学講座

2004-12-09 01:06:33 | 作曲理論講義/受講録
色々な物事が交錯した年、
そんな今年最後の音楽美学講座。

来年も引き続き何事も無く受講したいと
切に願う。

菊地さんは風邪を召していて
とても辛そうだった。
雨に濡れた子犬のように(笑)

それなのに、相変わらずのハイテンションで、
8度ほど熱があるので何言うかわかりません、との事。
バッハの時代の古典的調整から下ネタを含め(笑)
ヤマタツのクリスマス…迄
相変わらず振幅の大きい講義だった。

そうだ、この授業の最大の魅力は
全く「惰性」がないという事だ。
大抵の教師の教え方は「惰性」が先走っていて
それが生徒の眠気を呼ぶ(笑)

昨今叫ばれている教育崩壊も
それが要因ぢゃないか。

菊地さんの講義は脱線するし
果てしなく広がって行きそうな時もあるし
(生徒の目の輝きを感じて)
どこに行くのかわからないようなスリルや
先が読めないライブ感がある。

通例とか一般にはない、例外的な魅力。

いっぽう、教わった事によって着実に
これまで漠然とバラバラで
ただ感覚的に配置されていた音の在処が
然るべき場所に整然と
並び始めているようなイメージが浮かぶ。
理論によって、曖昧だった感覚に
強度が生まれるようだ。

そしてこのメソッドは、合理的、論理的、記号的
そしてとても視覚的。
いつの間にか自然に思考に組み込まれる。








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松前公高さんライブ

2004-12-05 00:56:21 | 作曲理論講義/受講録
松前公高さんのライブに初めて行った。

ある偶然から(過去に聴いていた音楽繋がりなど)
やりとりをさせて頂いているうちに、
今回12月4日のライブに行く事に。

私はそもそもYMO世代(笑)
その頃に聴いていたバグルズ(トレヴァーホーン)
そしてトッドラングレン繋がりのロジャーパウエル
こういった嗜好の流れが私の中にあり、
松前さんのライブに行く事になったのだった。
初めて見聞きする、松前さんとその音楽。

柔らかさと共にシャープさを感じた。

彼のライブが始まる前からにわかに
会場の客が増え、層がバラエティに富んで
厚みが出始めた。

それまでは、いかにもイマドキのトランス系をやっていた。
トランスは確かに気持ちいい。
脳みその同じ部分を繰り返し刺激されるような
快感はある。

松前さんのライブが始まる頃から
何となく雰囲気が変わり始めた。

まずVJのクオリティがあからさまに上がり
松前さんがステージに上がると
よく通る声のせいもあって
場がクリアになったような気がした。



何だか笑いも起きたりしてリラックスモード。
楽しいお話のあとに音楽が始まった。

さっきまでの脳の同じ部分を
繰り返し刺激されるのとは逆に、
脳のこれまで通じていなかった部分に
シナプスが走り、脳内で新らしい
ネットワークが開通したような快さ。

諦観を垣間見たような気がする反面、
楽しく、理性的なポップ。
洗練度と力量の高さを感じた。

絶えず思考させられるつつ
意味を手放す快感や
拡張する自由な発想や運動性も感じられた。







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情動・律動

2004-12-02 01:03:19 | 作曲理論講義/受講録
菊地成孔さんによる
音楽美学講座は、教え方からして音楽的だ。
私の思考も拡張する。

それはボキャブラリーを増やしたり
知らなかった概念を思考に組み込む事が出来たり
耳が傾かなかった音楽を好きになったり
交遊を広げたり
沢山の知らない人たちの中で
安堵を感じたり
初対面の人と突然に
親密なコミュニケーションが生まれる事だったり、
といったダイナミズムのようだ。

少しのズレ…
不確定さから生まれる情動、律動。

先日のピアノのレッスン時に
苦手なモーツァルトを弾いていた時の
教師の言葉が不意に思い浮かんだ。

「フレーズを均一に弾いてはいけない。
それは、聴き手に感動を与えないし
音楽的感動は伝わりにくい」

これは、講義の初回時に菊地さんが
言っていた内容とほぼ同じだという事に気がついた。

「不均等なものからこそ、情動的な感動が生まれやすい」

まさに音楽的。

この講義自体も、私の心情も、
菊地さんの在り方、言葉や身振り手振り、
無常に浮き沈みし、運動する日常も、
予測不能な明日の憂鬱と官能のよに。

今日、菊地さんは言った。
このメソッドを習得したからといって
作曲が出来るようになるかは全く別もので
それは「作曲根拠の有無」に関わる事だと。

僕には沢山あります、イヤな事とか
山ほどあるので(笑)
そして、そんなものが無くて
作曲なんか出来ないほうが幸せなんじゃないかと
思う事もある、と。

たぶん、今の私にも作曲根拠だけはあるだろう。
不確実さの中にもこれまで知らなかった
輝きを感じる事が出来る。

喪失と獲得
憂鬱と官能

例えば、憂鬱な出来事と感じられる事も
「変化」とか「拡張」とか
「官能」とかいう新たな意味に変換可能なのだと。

決して「学校では教えない事」を
教わっている事を改めて実感。

私が長い間求めていたのは
こういった、複眼的な視点を持った、
自分自身の考えを硬直させることなく
常に拡張へ向かうような教えだ。










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ソレルスによるバッハ

2004-12-01 01:59:31 | Classic
バッハの音楽や創造性についての文学的表現で
いいな、と思われた文章を記録。

Philippe Sollers/Theorie des Exceptions より
(一部中略)

バッハの音楽には「年齢がない」。なぜだろう。
バッハの音楽は年とともにますます時間と喧騒を越え、
あらゆる性質の、数かぎりない録音をものともせずに
超然としている。どうしてだろう。
世俗の世界を離れたあのすがすがしさはどうだ。
あの、荒々しさと喜びに満ちた父性の源にあるものは何か。
言葉を話す神。

神は一個の観念ではないし、たんなる法でもない。
神とは、音楽上の事件なのである。
極度の単純さと極度の複雑さが同居する事件。
この事件を説明できるまでには、まだ無限の時間が必要だ。
なにかが暗示され、なにかがざわめき、それが静寂に跡をとどめる。
あるいは、逆に、なにかが荒々しく、ふいにあふれだす。
リード管に雷鳴がとどろき、パイプオルガンと、
持続の翼の演じるフーガが耳を襲う。

だが、それにもまして、
執拗さが持続しているところが重要なのだ。
それがいちばん根本的なリズムだからである。

ぼくらのなかにバッハがいる。
ぼくらはバッハを感じる。バッハを呼吸する。
バッハはきみたちの記憶より先を行っている。

バッハは活動状態におかれた
きみたちの記憶なのである。

こちら、真実と自由のバッハ放送…。

復活のことが忘れられていたとしても、
それはいつものことではないか。

バッハは必要なだけ自己を反復する。

何度も繰り返す。この世は退屈だ。
策略と恋愛、陰謀と欲情など、永遠におなじことが
生起するわけだから。

バッハは限りなく聴きなおすことのできる音楽家なのである。










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