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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

<3年後の追記>偏在する樹木の如き音楽

2010-03-06 23:06:30 | 作曲理論講義/受講録
<動画(音源?)を発見したので、追記します!>

先日のペン大の講義で菊地さんが楽理のほかに
ジョビンの曲の詩の美しさについても触れたことが
ずっと記憶に残っていた。

で、口調がとても想い溢れていていっそう気になっていた。
『「空の鳥、地上の鳥」ってね。泣けますよ』
なんて仰るし、、、。
(最後のほうに訳詩を発見したので転載します)

ジョビンについての大著を1月ほど前に
読み終えていたのでなおさらだったのかも。

作家である実妹が書いた分厚い本で、いつか読むだろうと
思っていたけれど、よほどの思い入れでもないとこういった本に
入り込めなさそうだったので様子を見ていた。
どこにでも置いてあるという著書でもなくて
(なんとなくネットで買うのは避けたく思っていた)
様子を伺っていたのだった。

殊に愛する音楽にまつわる、
もうこの世には存在しないけれど
そのことによって一層顕わになるように
音楽や音楽家の存在を純粋に著した書を読む時には
出会いのタイミングを大切にしている。
早すぎても遅すぎてもいけない。(ジョビンの音楽のようだ)

こういった音楽家の死の場面を扱っている著書を読むと
それを自分でも追体験することになるので
移入が強くなりすぎて辛い場合がある。
グールドの著書のときもそうだったけど
音楽を通して私の中に存在している彼らもやはり
別な意味でもう1度死んでしまうかんじがするからだ。
それはとても哀しい。だってもういないのに(笑)
また不在を感じるなんて

でも、そのあと聴く音楽の中にこれまでよりいっそう
存在を強く感じてその輝きにまた泣けてしまう、、
という風に感情が溢れ過ぎるので。

そういう意味ではこの本を読むのには
良いタイミングだった。十分すぎるほど
移入の準備は整っていて(笑)


彼は時代とその流れと全ての出会いとに、
完璧なタイミングで出現したアーティストの一人だった。
そしてボサノバが生まれた。


自らを「エレーナ」「彼の妹」と、兄ジョビンを
「アントニオカルロスジョビン」「トムジョビン」と
ずっと三人称で書かれていたこの本、
終章にきて突然「私は」という一人称になり
実妹の視点で締めくくられる。胸が苦しくなった。

帰宅途中の電車で読んでいたら、あっという間に
目の前が霞んできたので(笑)終章は寝る前に
ベッドで読んだ。起きたら顔がすごいことになっていた(笑)


ジョビンの音楽を、何故こんなにも、世界中の人々をして
ずっと聴いていたいと思わせるのかを確信した。
何故、皆がカバーしたり、こうしてその魅力を
もっと知りたいと思うのかを。

彼の音楽に他の音楽にはない、遍在性を感じる。
そして、じっさいに「遍在」してるのだ(笑)

彼の音楽の数曲は世界で最も演奏されている曲だ。
私のお気に入りの駅前の酒屋さんでも流れていて
意味なくお店の人に微笑みかけたくなる、極上の笑顔で(笑)

言ってみればブラジルと反対側に位置する
この日本のスーパーやカフェ、エレベーターにまで(笑)
彼は居るのだ。永遠に消えない抽象物となってそばで微笑み、
寄り添っているようにすんなりと耳に入ってくる。




とても哀しいことを知った人が「笑いを忘れる」という事は多い。
でも、ジョビンの音楽にある感情はちょっと違っていて
「それが故に哀しみのほうをすっかり忘れてしまった人」の
微笑み、のようだと思う。

実際に、彼の微笑みは「抽象的な微笑み」と文中に称されている。
笑っているようにも泣いているようにも見える微笑、、、


ここで、さらに先日のペン大の講義で
菊地さんが言っていた言葉が思い浮かぶ。
この曲に時折現れる特殊なコードと、その響きについて。
分析するとそのコードの「機能」はSdm(サブドミナントマイナー)で
「全部、これ、といってもいいんじゃないかという気すら、する」と。

映画美学校の講義のときに、サブドミナントを
「暗い人の切なさ」とするとサブドミナントマイナーは
「明るい人の切なさ(暗さ)」のような、と表現していたことも。
(手元にノートがないので記憶違いの場合もありつつ書いてます)

たとえば私がジョビンの曲でとても美しいし
ちょっと変わった質感を持っていると思う大好きな曲、
Children's Game(歌つきだと「バラに降る雨」)には

Antonio Carlos Jobim - Children\'s Game




サビにいくときのつなぎ目のコードが
Fメジャー(だったかな)のトライアドなのに
どうしてもマイナーコードのように聴こえるところがある。
きっと曲の展開とメロディーとの兼ね合いなんだろうけど。

この曲も明るいというわけでもなく
かといって特別暗いわけでもない。
曖昧、というわけではない。喜びも情動もちゃんとある。

、、、というかんじで(ここで以前菊地さんが日記に
書いていた「ちょっとうれしい」「ちょっと哀しい」
=「グレー」についての言及を思い出す…)
なんていうか、そういう謎がジョビンの音楽にはある。


彼の言葉は、こんな風に表されている。
「ユーモアとメランコリーを越えた、
しかし常に知的な言葉、優秀な観察者のフレーズだ」

また、トムの親しい友人の言葉で
ボサノバについてこんなことが書かれている。
「ボサノヴァは制御された陶酔だね、
音の節約、ゲリラ戦てとこだ」

私もJazz対BossaNovaとか二項対立で考えはしないけど
JAZZミュージシャンである菊地さんも確信的に
「ジョビンの音楽(の複雑さや優秀さ)は
僅差で当時のJAZZを超えていた」と書いてあった。
それによって得た憂き目も。

あとがきに書かれている山下洋輔氏の文章が
優しさが溢れていて秀逸だった。


菊地さんは音楽理論においてもジョビンの音楽を
「樹木的」という。ジャングルのようだ、とも。

擬態しているのだ。美しい葉、と思って触ると
じつはカマキリだったりする(笑)

実際のコードもそうなっていてメロディーだけ聴いていると
稚拙に聴こえないでもない。よく耳を傾けると緻密なズレと
捩れのようなものが 見事な織物のように美しくも頑丈に
でもなんだか儚くはためいている。
(儚む、という文字は何故「人」に「夢」と書くのだろう?)


ジョビンの死について親しい友人が寄せた言葉を
憶えの悪い私でも反芻することが出来る。

「彼の死は1本の大木が倒れたのではなく
ひとつの森全体が消滅したのだ」

ジョビンとアメリカ、自然(地球)破壊と森林伐採、そして
ボサノバとジャズ、の関係性とその象徴性について
ぼんやりと考えていた。坂本龍一がなぜクラシックアプローチで
ジョビンへのオマージュともいえるCDを出したか、とか
ない頭でいろいろと(笑)いまさら納得していた。

こんな画像を観ても(シナトラもアンディの歌も
素敵だけどやはり私はジョビンのヴォーカルのほうにひかれる。
こんな表情をして歌う人をかつて見たことがない。)



森に行くと曲のメロディーが最初から最後まで聞こえる事があり
病気を樹液で治したりしていたジョビン。

本当に森の化身だったのかも(笑)

ちなみにブラジルでいう三月の水(雨ともいう)は
夏の終わりと秋の訪れを告げるもの。
輝きと楽しさに満ちた雨のようです。


そして東京も三月。
もうすぐ桜が咲きそうですね。


<三月の水>訳詩

Antonio Carlos Jobim


棒切れ 石ころ 道はおしまい

切り株に腰掛けて 少しばかり寂しくて     

ガラスの欠片に 命と太陽

それは夜 それは死 それは糸 それは釣り針

ぺローパ樹木の 幹には「うろ」

カインガ-にランプ マチッタ・ペレイラ

嵐を呼ぶ木 崖崩れ 庭の深い神秘

望もうと望まいと 吹き捲く風 坂道は おしまい 梁に屋根裏

棟木のお祭り 降りしきる雨 せせらぎのお喋り


三月の雨が 疲れを洗い流してゆく

大地を踏みしめて しっかりと歩く 手には小鳥を パチンコのつぶてを

空を飛ぶ鳥 地に堕落した鳥 小川に泉 一切れのパン 井戸の底

道はおしまい 顔に失望を浮かべ 少しばかり寂しくて

棘と釘 それは尖端 それは点 滴がしたたる それは結束 それはお話

魚の仕草 輝く銀 朝の光の中 煉瓦が運ばれてくる

薪が燃えて 一日の始まり 山道のはずれ 酒瓶を足元に 寝床に

身を横たえて 泥道の真ん中で 故障した車 はじめの一歩

橋を架けて カエルが鳴く ヒキガエルが鳴く 朝日の中で 輝く森

三月の雨が降り 夏もおしまい 君の胸に宿る 新たな命の約束



































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追記<High heelsのこと>

2010-03-01 00:40:54 | 作曲理論講義/受講録
前回書いた備忘録ですが、坂本龍一氏による
アルモドバル監督の映画のサウンドトラック、
Hiheelsについて、こちらのほうが先だろうと
書いていたのですが、

氏のアルバム、ハートビートに入っている「song line」のほうが
先だったのかもしれません、スコアには'91とあり、
サントラは'92とあったのと、

同じく過去に聴いていて好きだった美貌の蒼空ですが、
未だ記憶に新しい「バベル」で使われていたんですよね。

BIbo no Aozora - BABEL




過去の楽曲を、それよりあとの映画の
サントラに使うのって全然、ありだけど
何となく不思議にひっかかって、
今はまだわからないけど、このことが興味深いので
美貌します、じゃなくて、備忘します(笑)















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ブルーなのに、する。いい予感

2008-10-20 01:26:09 | 作曲理論講義/受講録
カイロか講義か?で、大いに迷った夜。

というのも日頃の不摂生がたたってか
ひさびさの発熱や原因不明の身体の
(主に胸部と背部の)痛みを抱えていた。

そういうわけで

<心身のブルー>



よーし。こうなれば気持ちのほうで身体を治癒しようと(笑)
講義に向かった夜の備忘録です。


楽曲は

Steely Dan - Peg (HQ)(このライヴのほうがCDのより良いかも、笑)



<Pegの中のブルー>


初めて聴くPeg。(名盤Ajaすら持ってない私)
「前々回やった<Deacon Blues>と

Steely Dan- Deacon Blues



前奏部分のコードの動き方が似ている」ということから、
両者を比較しながら分析が始まる。


<青い時代に遡る>

そういえば当時の私が聴いていた音楽って
多彩的に分裂していたて、うまくまとめきれない。

生まれ育った環境も関係する。商売が家業だった私の周りには、
割と面白くて元気のいい大人たちがいた。

仲良しの年上のいとこが流行のディスコのステージに、
ヴォーカリストとして立っていた、バンドを引き連れて。

その時流行っていたのはドナ様~のホットスタッフや、
Donna Summer - Hot Stuff



いとこに教えてもらった初めてのファンク、
E W&Fの「ファンタジー」踊り方も教わった(笑)
(音だけ聴いてください)
Fantasy - Earth Wind & Fire




当時の私の年代ではリアルタイム視聴は
少なかったんじゃないかなー。

ちなみに姉が聴いていた愛しのエリーとかは
受け入れ難いものがあった(笑)
(曲に対して、というより爆発的ヒット曲を
好んで聴くという素直極まりない行為に、笑)


自身の好みで聴いていたのはロビンスコットの
m pop muzik



バグルズのラジオスターの悲劇など、

Video Killed the Radio Star
http://www.youtube.com/watch?v=XWtHEmVjVw8&feature=player_embedded

初めて聴いたときの「乾いたかんじ」は
のちの’80年代的ポップかつエレクトリックな
(のちにテクノポップと呼ばれる)音楽性の予兆だった。
ほぼ並行するようにYMOに傾倒していた。



<閑話休題>


前述のDeaconBluesとPegの2つの曲の歌詞についても比較。
まとめると、こうなる。

前者は詩的かつ奥深く哲学的。
意図的と思えるほど構造も凝っている。
曲調はさわやか。

いっぽうの(私が推す)Pegの詩は
モデルの彼女に恋するおばかな男の心情(笑)
脳天気なかんじ。

前者は思索的でどこか悲観的(文学的)、
後者は楽観的でどこか短絡的、とでもいいましょうか!

いや、そうでもないのかも、と思い始めたのは
この曲の特徴に「ブルース」と関係する部分があった。
そうともとれないことのない動きをしていて
講義はそんなブルースのことに言及される。


<ブルーと秋>

ポップスではあまり触れられないであろう
ブルースは、全てが7thコードから成り、
シンプルだけど難しい特徴がある、とのこと。
突っ込むと、果てしないくらい。。

特徴に、長調でも短調でもない、という
多調的なところもある。

「明るくもなく暗くもなく」というのは
「明るくて暗い」とか「暗いようでいて明るい」とも言える。
これって好み!(笑)

師は「サクっと聴いているものに
根源的なものがあったりする」と、喩えられた。

思い出したのはドナルドフェイゲンの名盤
ナイトフライのとある楽曲。

この曲の前奏であるピアノの出だし数秒の動きに魅了されて
当時やっていたバンドで「この曲をやりたい!」と言って
バークリーメソッドを習得していたであろうメンバーに
「無理ですよー」と失笑された記憶がある(笑)

音をとってコピーしたけど
普段自分では絶対にそのようなところに指のいかない
想像もつかない音色と動きに、四苦八苦したことを憶えている。

曲はMaxineという曲で、

Donald Fagen - Maxine


たった1、2小節のあいだに流れる異なった感情。
聴き始めは短調のようで哀しげだけど
途中、陽の射すような明るさもあって
そういえば聴くといつも秋の感じがしてた。


講義をとおして、それまでは
そこにあることを知らなかった「好き」の
何かについてを知ったようだ。

このこと自体がとても音楽的と思える講義は
不調だったけど来て良かったと思えたのでした。














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月夜の音楽的愉悦

2008-10-18 00:11:33 | 作曲理論講義/受講録
満月の晩の先日、抽選による
招待制のライヴに行ってきました。


会場が帰り道の途中である
東京湾岸埋め立てエリアだったということと
抽選に当たる気がしてしかたがなかったので
確かめるべく応募したら、ほんとうに当たった!


ラスト演奏の師のバンドを含む
4つの出演アーティストの演奏を聴いて

作曲理論を学ぶのならためにならない
ライブなどないとわかってはいるけれど
もし「席を立ってダンスをしてください」と言われれば

前半では苦痛だったかもしれない。でも
後半では席にじっと座っているのが
拷問のように感じられたライヴだった。


ドラムとコンボとボーカル、SAXが生で
DJがバックトラックを、
キュートな女性二人が振り付きヴォーカルを、
ノリのいいメンズが「イェ~イ」のような(かけ声的な)
グルーヴを醸し出してるアーティストが1番目

2番目は割愛(私的意見ごめんなさい)

3番目はDJ Sylva

Sylvaといえば倖田未来より前に
エロカッコイイと言われていたはずの
関西出身の威勢のいい女性ヴォーカリスト

DJをやってるんだ。饒舌だったイメージの彼女、
MCもなしにステージでDJ操作に余念がない。

好きな事に夢中になっている人を
ステージ上に観ている観客、という
不思議な図になっているなか

ライヴではリズム感や繋ぎのセンスが良ければ
(DJしながら唄うんだけど)良い音環境のなか、
それが生演奏でなくカット&ペースト
リミックスだとしても中途半端な生演奏を
じゅうぶん超えて身体が動くようだ。


ラストは先生のバンド。

6人編成になってからのライヴは初めて。
ジャンルはとりあえずジャズということは言えそうだけど
これまで聴いた事のない音楽とライヴになる予感がした。


ジャズは、自由なようでいて実際は
教養主義的なところがあるし形式主義的とも言える。
メソッドを知らないと(天才でもなければ)
きっとああいった演奏は出来ない。

なのに、どこか形式を逸脱していて、
脱構築とでもいうかんじもするうえ、
音楽的愉悦がたくさん。


私は曲をCDでしか聴いた事がなかった。


今日(ワンマンライヴでないとはいえ
招待客のほとんどはこのバンド目的だったよう、
受付に積まれたハガキの量でわかる)
初めてライブで聴いて何故彼らの音楽のファンが
じわじわと増えていくのか、わかった気がした。


この音楽をライヴで聴くことに、抗えない魅力がある。
場合によっては中毒性のあるような。


生で聴く、高度な技術を持った演奏者による、
コンディションの良いアコースティック楽器の演奏。
これだけでも大抵いい気持ちになれるのに
エフェクターが綺麗な音を引き延ばしたり、
ゆがめたり、遅らせたり強いグルーヴを
保ち続ける大音量のリズム隊と

冷静でスリリングかつ攻撃的なSAX、トランペットの演奏に
初めて聴く人なら「何が起こっているんだろう?」と
これまで聴いた事のあるライヴと比較するのではないか。


きっと、この演奏はどれにも当てはまらない。
1STアルバム「THE REVOLUTION WILL NOT BE COMPUTERIZED」
(コンピューターには革命は起こせない)というタイトルに
ライヴを聴いて納得した。


ステージの上の先生は、講義のときとまったく変わらず、
終止リラックスしていて状況を楽しんでいて
(衣装はクール・ストラッティンのスーツでしたが)
演奏も、とりたててがんばってるふうでもなくかっこよく

そんなはずはないのかもしれないけど
そんなふうにみえることは真実かもしれなくて


帰りの電車の中で、4つ打ちの正確なリズムの音楽が
物足りなくなって初めて、彼らの音楽を生で聴いて
改めて私はこうしたかつて聴いたのない音楽に
分節されたのだと思えた。

演奏されなかったけど
好きなINVOCATIONを聴きながら帰途に着いた。


ジャズに於ける年齢と体重とは?という
タイトルで自身の速報にライヴのことを書いておられました)









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微細な変化、研ぎすまされる耳

2008-10-14 23:33:27 | 作曲理論講義/受講録
KIRINJI TV Vol.6~家路~


という曲を聴いていた数分間のうちに駆け抜けた
ヘンな雑感を捕まえてみた。


ホルンが入ったアレンジが印象的なこの曲。

聴いていてバックトラックの変化に、二度
耳がとらわれた。ベースの動き、妙にかっこいい。

いずれも最初のテーマのときにはなかった動きで

1度目は2回目に唄われるメインテーマ
(1:36秒のとき。歌詞は「唄ってみせて」)

2度目は3回目に唄われるメインテーマ
(2:51秒のとき。歌詞は「君の髪のなかに」)の部分


たった1小節のなかで4回コードが変化(たぶん)していて
それは、聴くたび研ぎ澄まされていく言葉のようでもあり
二度と後戻りできないような気分にもなる。


何でもPOPSを作曲しようという人は、
こうした楽曲の微細な変化にこだわる人が多い、
と言っていたのは菊地さん(ジャズはそれも含みつつ
「何でもあり」だから、また違うとのこと)


***以下、妙な雑感****


キリンジのヴォーカルって、魅力的だ。けれど
鼻にかかったようで、なかなかに独特なヴォーカルだな~と
顔がぼんやりと浮かんで

なぜか銀座で贔屓にしてる美容師さんの顔が浮かび(笑)
(若干、堀込兄弟に顔の系統が似てるスキンヘッズの男子)

次に、この夏の終わりに2度目にデビューした
新宿二丁目のゲイバー(というのだろうか?
ゲイのママ(パパ?)がカウンターに居たバー)に行くため


なぜか縁あってノンケの私にカミングアウトしてくれた会社の
ゲイの友人らの引率で(山本太郎似のイケメン)
新宿二丁目へ訪れたときの会話がよみがえった。
そしてゲイバーのママは、銀座の美容師さんに似ていた(笑)


イメージの繋がりをまとめると
キリンジ(弟)→ 銀座の美容師さん → ゲイバーのママ
ということになる。


どういう会話の順だったか、何故か結婚の話題になったときのこと


ママがかつて男だったとき、或る女性と結ばれて
「子供が居るのよ」と言ったことを思い出した。

その、ことの始まり、経緯、顛末や関わったであろう
見知らぬ人々のことが浮かんで、とりとめのない
妙な雑感の動きは止まった。



風邪の病み上がりの三連休が終わる今夜

旅行したわけでもないのに
時差ぼけ状態になるであろう

ひさびさの出勤の憂鬱を吹き飛ばすべく
2つめの曲は昭和歌謡の香り漂う美しく希有な曲


キリンジ弟君が唄う(こないだ初めてデビューしたゲイバーのママ似)
「愛のCoda」 ライブヴァージョン

愛のcoda













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鳴っていないものを鳴らす

2008-02-07 00:43:06 | 作曲理論講義/受講録
新しいアルバムThe revolution will not be computerized
「革命はコンピューター処理されない」を聴く。




私がとりわけ気に入ったのは5番目のInvocation


残念ながら全部が耳に入るほど
JAZZ耳には未だなりきれていないPOPS耳の私(笑)


これまでなら、難解なことをやってる音楽、とか
やっぱりJAZZは難しいな~と通り過ぎるか、
あんまり耳に入ってこなかったかもしれない。


でも、今回のこのアルバムの
(特に)「Invocation」を何度か聴いているうち

サックスとトランペットによるユニゾンの、
魅力的なフレーズに魅きこまれて
幾つかの箇所が耳に残り始めた。



音楽を聴いていて、
旋律やリズムが耳に残る、ということは
普通によくあるけど


簡単に口ずさむことは出来ないのに
いつまでも記憶に残るような、
ポリフォニー(多旋律)から成る旋律同様、



やはり簡単に口ずさめない、複雑な「リズム」が
この曲からは耳と感覚(理論というよりも
身体的記憶)に強く残るのだった。


こういうの、他の音楽では感じたことがない。



「リズム」と書いたけれど、それだけじゃなく、
演奏的「タイミング」とか「間合い」とか、
「呼吸」と言ってもいいのかもしれない。


そういった絶妙なタイミングによる音楽的な何かが
それまでになかった自分の感覚に
刻まれていくかんじ、、、?が、する。



聴いていて癒される音楽、という
ものではないと思うけど

別な意味で癒される、というか
脳が刺激的にマッサージされているみたい(笑)


これってバッハの音楽を聴いていても
感じるんだよな~フーガとかに。。。


バッハの音楽に在るのは
ポリリズムじゃなくてポリフォニーのほうなので、
だからそれのリズム版というか(笑)



ポリリズムな音楽とは、3拍子でも、
4拍子でもビートを取ることが可能なのだけど、、、


といった私の拙い説明よりも(笑)


映画美学校時代に菊地さんによる「律動」の
もっとも記憶に残った特別講義のノートを
ざっとひも解いてみる事にしましょう。

・与えられた単位時間(1拍)を
自力で(3、4、5拍子に)等分出来る能力(※)


※この能力は「「ダンス」する能力」にたとえられ、
「自分で作った秩序に融和出来る能力」とも表現された。
(以上、2005年:映画美学校音楽美学講座、特別講座
私のノォトより)


自分で作った秩序に融和出来る能力・・・って
何だかものすごく魅惑的な響きじゃないですか?(笑)



Invocationを聴いていると
3拍子とも4拍子とも捉えようと思えば捉えられる、
複雑な調子のリズムの中に、
(4拍子の要素のほうを強く感じられる
ベース、ドラムから始まり、
どちらかというと3拍子のほうを強く感じられる
サックスとトランペットのユニゾンが重なっていく。
ピアノは双方を結んでいるかんじがする。)


偶数的(=割り切れる)リズムが現れて、
(ピアノのソロのところで一瞬きれいな
4拍子に変わる部分がある)その調和感のあと


再び顕われる奇数的(=割り切れない)リズムが
交互に繰り返されて


聴いていくうち、そのリズムを知った耳には

もはや割り切れないリズムをも

自らのリズムで刻むことが
可能となっている、というように感じる。


そして双方のリズムを結ぶように
調和的に奏でられる美しい
ピアノのフレーズとタイミングに心を奪われます。
何よりドラムとベースの演奏が凄い。よく
リズムをキープ出来るな、と思うくらい。

(と思ったら同時演奏はしていないのではないかと思われます。
以下の記事で実験的試みだと知りました。)

記事を引用します。

「ジャズアルバムとは、メンバーが同じ場所で同時に演奏した音を
そのまま封じ込めた作品、そんな常識をひっくり返したかったという。
録音時には曲のモチーフだけを用意して、自由きままに演奏。
編集作業で音の断片を切り張りし、原形をとどめないほど
整然としたジャズにしたてあげた。ちょうど映画の編集作業のように。」

「音・切り張りでジャズ 菊地成孔、新グループ始動」
<朝日新聞記事より>

*****

自分の感覚を新たにされるような一瞬を
曲が流れる数分間のうちに感じたのでした。


こうした音楽に在る時間には



無いはずの「鼓動」を感じたり



脈のないかのような物事に脈を感じたり



不在の中に存在を感じたり



生のないかのような人に生を感じるような

(こうしたことは「官能的」と言ってもいいと思う)

もっとも、今を生きていると思える
ジャズ的表現なのでした。


普通に聴くと骨太でカッコいい
お洒落なジャズ、なのもまた素敵(笑)



先述の律動講義で赤字で書かれていた
「ポリリズムの効用」とも言える
菊地さんの言葉で締めくくりましょう。


それは

「鳴っていないものを鳴らす能力」

ということで、やっぱり官能的(笑)

そう、官能的なアルバムでした。

ペン大はこのアルバムの編成による
ダブセクステットのツアーなので、
春を感じられる頃までお休みです。
ライヴいいだろうなぁ。Invocationも
演奏されるのだろうか。この超絶技巧的な演奏、
生で、出来るのだろうか。
だとしたら凄い時間に立ち会うことになりそう。
行きたい・・・(笑)

春が待ち遠しいな。










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カエル王子

2007-11-18 01:38:39 | 作曲理論講義/受講録
今日は木枯らしが吹いたとか吹かないとかで、
急に寒くなりましたね。星空もクッキリ。

そんな今夜は色々な事が微妙にいつもと違う夜になりました。

諸事情によりいつもと違うスタジオで急遽開催された
ペン大こと菊地成孔氏の私塾は、
いつものスタジオとは違う狭さと新しさのせいで、
先生と生徒の間にいつもと違う距離感があり、新鮮。

その帰り、いつもと違う帰り方がしたくなり、

新宿三丁目発の、比較的家に近いところを通る
バスでかへる。
その帰り道のバスのなか、いつもは考えないことを考へる、

いつもと違う道のせいか、講義で言われた

菊地さんの色々な言葉が浮かび反芻しつつ

浮かんだキーワードは、夢のなかの見知らぬ場所、
(耳元から流れてきたマーヴィンゲイの、
アイウォンチューを聴きつつ、笑)
この曲をきくといつも感じられる恋愛感情、
(タイトルがタイトルだし)

いま目にしている目の前の見知らぬ風景を横目に、

ポップスと恋愛感情の何が似ているのかとか、
(以前の講義で確かメロディーは欲望されるものとされ、
転調は憧れにたとえられていた)

見知らぬ風景や物事への不安と、それに相対するよな
奇妙な親しみとか、とか、とか、、、


帰宅してバスルームでもとりとめないことを考えていた。
明日も晴れなのでお洗濯。冬に向かいつつある空を観ながら、

シーツやコンフォーターケースなど干していた、冬に備えて。


髪を乾かしてさて眠る前に部屋の空気を入れ替えようと
玄関をあけて目を見張る、、、ありえなーい(笑)

マンションの廊下には何が!?(笑)


この時期のこの場所(ここは実質四階)には
出現しないはずの何か、、とは
これ如何に?(笑)

普通なら驚くところ、あまりにありえないので(笑)
どうしようかと考えながらつい吹き出す。
ぷっと笑いながら話し掛けてしまった
その生きものは、大抵は忌み嫌われる(なぜ?)
カエルさんでした。デカッ!





なんでキミ、ここに居るのというくらい、

家に入って来そうな位、ドアのすぐそばに居て、

寒さのせいか、殆ど身動きもせず
ガスメーターに入ろうとお尻をもぞもぞさせていた。
触ってもめがとろんとしてボーっとしていたので、
つかまえてビニールの袋に入れて
近所の緑がある庭に離した。廊下でカエルの干物には遭遇したくないし(笑)
っていうか、、、

こんなにいつもと違うことは、どの位の確率で
起きるの?まるで漫画のようなユーモラスさじゃないの。


帰宅して愛する友人が丁度ペン大がおわった頃、
近くまで来たからと、電話をくれていた事を知る。

スタジオは地下だから携帯が入らず、
私は彼が用があって来ていた場所の
すぐ目の前の、巨大なモナリザがよく見える
バス停に居たにもかかわらず、数分の差で
私たちはすれ違っていたのでした。

暖かいディナーを共に出来たのに残念だったねーと

電話でこのカエル事件について話す、この事が
いかにありえないか、ついでに私には、
ありえない事、多いよね、と言われて
はい、そのとおり。と答える。でも。

友人と夜ご飯はまた食べられる、しかし今夜、
私たちがすれ違わずに一緒に食べていたら
デカいカエルにも見知らぬ風景にも出逢わなかっただろう(笑)


もぅひとつの写真は11月6日の、有楽町の初冬の風景。



それにしてもこれ、いったい何ガエル?(笑)






















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花を贈り、すれ違い、語る

2007-08-28 01:06:43 | 作曲理論講義/受講録
先日はペン大でした。


我らが菊地先生、少々遅れて登場。半分に減った
冷えたエヴィアン1Lサイズを携えて。

いつものように、マイクとCDJのラインを繋げていて、

いつものように、顔見知りの人と談笑したりして待つ。




マイク繋がる。




いつもと違ったのは、、、


マイクを通して開口一番に菊地さんが発した言葉に、




耳を疑う!!!(笑)



「○○さん。」←私の名字




、、、何故?


呼ばれる理由を考える。心当たりなし。
かつて「先生に呼ばれた」記憶を思い起こす。
褒められて呼ばれたためしはなく、
むしろ逆なので反射的にドキっとする(笑)

それに講義で名前を呼ばれる確率は極めて低いのだ。


たとえば私が、菊地さんの助手のように楽曲分析し、
楽譜を起こしているM君のように、普段から


「このBdim7はG7の転回形じゃないですか?」
などというコアな会話が成り立つ(笑)
優秀な生徒なら話は別だけど


考えてみたらこの3年、実際に私が
菊地さんとした会話といえばほんの数回で、
ショコラがどうとか、最もおいしいフランス料理の
レストランはどこですか?とか



食べ物の話ばかり(苦笑)
音楽のお話は出来たためしがないダメ生徒である。


で、やはり今回も、食べ物に絡む話なんです(笑)



しかも、私は気づかず菊地さんの前でありえない
失態を演じていたのでした・・・とほほほほほ。



「○○さん。土曜日クレ○○○○ール付近にいませんでした?」


「え!?・・・?
 居ました。先生、、菊地さん。も、いらしたんですか!?」
(そんなはずは。何度も店内を観たけれどいらっしゃらなかった。)

「いや。目の前をす~っと○○さんが横切ったんですよ(笑)
「○○さーん」って声かけたんだけど(笑)
気づかずに通り過ぎたからソックリな人だったのかな~と、
この辺の界隈、の(笑)」


「ええ~~~~!?ほ・本当ですか!?
あたしどうして気がつかなかったんだろう・・・。
失礼しました。いや。本当にガッカリです(笑)」

「いえいえ、失礼なんてことはないですけど」

「菊地さん、どこにいらしたんですか?」

「ファー○○キッ○ンのところに」

「そうですか、、、あぁ。まったく気がつきませんでした。

 本当に失礼致しました。あの日、クレ○○○○ールに行ったのです」

「お一人で?」「いえ、友人と」
「そうですか~」「カモを頂きました」

---生徒の皆さん、やりとりに(笑)---

「夏のカモ、どうでした?」「・・・」
「痩せてたでしょう?」「ええ。あまり・・・(笑)」
「夏は鱸とかのほうがいいですよ」


私は菊地さんは土日は自由が丘の自宅でスローライフ(笑)という
勝手なイメージを抱いていて、新宿には居ないような気がしていた。
見た顔が(笑)プライヴェートな食事の時間を
邪魔してはいけないと土曜日を選んだのだった。


それにしても、、、不思議なくらい
店に入るまで、全く人の気配を感じていなかった。
というかその場の事だけ記憶から抜け落ちているようなのだ。
人は視界にも入っていなかった。
何故気がつかなかったのだろう?マヌケすぎる。。。


暑さのせいで普段以上のボケっぷりだったであろう。とはいえ、、、
誰かのすぐ目の前を通り過ぎて、その「誰か」が
敬愛する音楽家で教師でもある菊地さんだったというのに
声を掛けられて気がつかないなんて、自分でも信じがたい、、

もう一度、あの場所に戻ってやり直したーーーい!(笑)


よーし。また行こうっと(笑)



あの日、私は待ち合わせに15分ほど遅れる、と
友人に連絡を入れたものの、実際はほぼ時間通りに着いていて、
そのまま向かおうとも思ったがふと思い立った、花を贈ろうと。
友人は来月早々誕生日を控えていた。

このタイミングで会うのは珍しかったから
是非にと伊勢丹の別館に足を向けたのだった。

それで、少々迂回した格好で結局15分遅れで目的地に着いた。
もし花を買わず、予定通りの時刻にお店に向かっていたら
菊地さんと、すれ違うこともなかったかもしれない。


音楽に関すること同様
菊地さんの「食」に関する言及にも絶大な信頼を寄せている。
だからご自身の速報に出てくる実在の(笑)レストランには
行きたくてたまらなかったのでした。


味のほうは前菜からデザートにいたるまで絶品でした。
前菜のにんじんのサラダとリエットはまた食べたい。
くりいむしちゅーの上田さんを上品なかんじにした
ソムリエ氏のサーヴィスも素晴らしく
あんまり居心地が良いもので3時間半も長居してしまった…

美酒と美味に話は弾み、男女について、
愛だの恋だの、かごの中の幸福か、泥沼の自由か、とか(笑)
映画や音楽や憂鬱と官能の話をたくさんした。


左は夏の痩せた(笑)カモ。右上、前菜盛り合わせ。右下、デザート

さて。そんなこんなの講義前の出来事のせいか、
なんとなくいつも以上に私自身もスタジオ内も
愉快な雰囲気になった気がしてなんだか嬉しくなって(笑)
講義どころじゃないのではないかと思っていたら、
逆にいつも以上に集中して身が入ったのだった(笑)


優秀なM君の指摘により、実際は
もっとも美味な(笑)サビの部分の分析は
まだ終わっていないことが発覚。
すれ違いを起こさなかった明晰な判断に感謝(笑)


何度か日記に書いているけれどLILICUBのSous un parapluie
私はとても気に入っていて、「この曲をすごーく好きって人は
そんなに居ないと思いますが(笑)」という菊地さんの推測をよそに、
分析した人は「1曲でもうおなかいっぱい」と言っていたのに、


私は、この曲をアレンジや適当さ、ヌケ感(笑)とともに
Comme au Paradi(楽園みたい)といいながら
最後の方でほんの一瞬だけマイナーになる小技とか(笑)
聴くと幸福な気持ちになるので
すっかり愛してしまったのだった。
自宅でピアノでも何度も弾いていて
歌詞を諳んじながら歌って味わって遊んでいた(笑)
(CDは絶版でプレミアになっていますが
 Sous un parapluieはiTMSに売っています♪)



そのせいか、他の、そうしなかった曲よりも音への感覚が強まって
複雑なため、菊地さんが何度も説明してくれても
なかなか頭に入ってこなかった理論も、いつもより
1段階(笑)深く浸透したのでした。

この曲にはフランスという国の適当さ(笑)が
いいかんじで出ているよう、とのこと。
前回のジャネットジャクソン(アメリカ)の曲にすら
そんなテキトー感はない、ということで
私はそんなフランス的な適当さが好きなのかもしれない。

で、今回の教訓。

・分析対象曲は聴くだけじゃなく実際に演奏して味わうほうが
 そうしなかった曲よりも音への感覚が強まって学習力UP(笑)

・新宿で菊地先生の庭といえる場所では万が一お会いした時に
 非礼のないよう目を皿のようにして歩く(笑)

・菊地さんを知っていると新宿シティ自体と
 お友達になった気がする(笑)

・夏のカモはスリムだ


スタジオを出ると昼間と違って涼しい風が吹いていた。
だから地下鉄に乗らず、駅まで10分弱を歩いた。

裏道を、通る。夥しいほどの人人、飲食店。
歓楽街独特のChaosな雰囲気。

歩きながら、ここに住む菊地さんの事を思い出し、
そのやりとりが響いてきた。音楽みたい。

いつもならよそよそしい一見茫漠とした新宿シティが
身近な親しい場所に思えてきて
不思議に心地よい新宿の夜となりました。












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傘の下 太陽に妬かれて

2007-07-20 01:46:57 | 作曲理論講義/受講録
件の、嵐の沖縄に行ってました。


五年ぶりでしたが、前代未聞な強い勢力の台風と共に上陸、という
希有な旅になりました(笑)

悪天候の中、那覇空港で羽田にひきかえすかも、という
条件付きフライトへの杞憂をよそに、さして揺れもせず
上空では美しい虹をみたりも。

無事着陸した沖縄には輝く太陽、南国特有の香りと光は顕在で
束の間を喜びつつ、 じつは嵐の前の静けさで、風だけは不穏に強かった。


翌朝、13日の金曜日!
ジェイソンも逃げ出しそうな強い嵐の二日目、日がなホテルに軟禁、、、

ガラス張りのベランダから猛り狂う風、自然の猛威に見とれたり、
美しい海が視界不良で見えなくて、ここはどこかと切なくなったり。




でも、そこは晴れ女でした(笑)夏の海を愛しているので
神様に、入れずとも、あの、透明な沖縄らしい
碧いエメラルドグリーンの海をみせてください!と祈ったら、
最後の日は嘘みたいに晴れました。夏の神様ありがとう(笑)





写真は降水確率70%の予報の中、奇跡的に晴れた海なのです。


台風で洗い流された海は予想に反して透明で
太陽に照らされて波間に揺れる水面を映す、海底の砂が
今でも記憶映像に浮かぶほど美しかった。
海中って瞬間、奇跡みたいな魅惑的情景を映し出します。


蛍光的にまばゆい青い魚や、1センチ程のモノトーンのボーダーの小魚、

透明な稚魚の群れ、紫、緑、黄、ピンクがちりばめられた不思議なエビ、

つがいのハリセンボンの微笑んだような表情に誘われて後を追ったり

ストライプのバリエーションを配した色とりどりの魚など、

異界の美を垣間見、堪能することが出来ました。


旅の醍醐味って異質な物事との出会いですよね。


とはいえ、魅惑的なひとときを楽しんだ享楽の代償のように(笑)
珊瑚で足を切って流血したり、夢中のあまり

日焼け対策を怠った身体の背面のほとんど全てが
茹でダコのように真っ赤になってしまったり(笑)

旅の記憶の細部は時間が経てば忘れても、

南の島における夏の情熱は、とうぶん身体から消えそうにありません、
一週間経ってもまだ赤みが消えず…


夏好きで行動的、運転上手な友人の力を借りながら楽しみ、
旅の前後においても色々なことを掻い潜った(笑)不思議な旅でした。


さてさて。束の間の休暇を振り返る今宵は久々のペン大、

菊地成孔氏による講義でした。新しい分析対象の楽曲は、
私の三大歌姫(笑)の一人、大貫妙子さんともつながる
伝説のフレンチポップストリオ、リリキューブの、雨の曲。

太陽に焼かれて、というのはLILICUBがアレンジした
彼女のMon Doux Soleilの詩からです。私の背中も焼けた、、
というより焦げちゃいました。


南の島、沖縄では太陽より比率的に雨や風に妬かれましたが(笑)


美学校有志の生徒さんが訳した詞の内容が

夏を感じた沖縄の情熱と、未だ梅雨が明けない
憂鬱な東京に戻った気分にシンクロしたので綴ります。


この詩についての菊地さんの解釈、魅力的で面白かったんです、

隠喩、喚喩のことや、傘の下はパラダイス、といいつつ、
実は意味的に恋の地獄、と掛け合わされていたり、

ルーブルの絵画作品の引用、仏文学的な言葉の表現についてとか興味深い。
そして、とてもいい曲。

パリを初めて訪れた時、ルーブルとテュイルリー公園辺りの
雰囲気が気に入ったので 聴きながら懐かしく思い出して
イメージを膨らませていました。


って、、何だか夏がすっかり終わった気になってますが(笑)
まだまだ、これからなんですよね。待ち遠しい夏の訪れは!

Sous un parapluie
By LILICUB

LILICUB - SOUS UN PARAPLUIE



<雨傘の下 >


天国のように
かさの下
真昼に
雨傘の下

僕らの「禁じられた遊び」への抜け道のように
パリの真ん中に


太陽の下

僕らにとって
白昼と二つの不安の間にある「詩」には
フォトフィルが好む気まぐれに満ちていて


雨傘の下

失われた片隅のように
同類のふたりはお互いをむさぼる

雨傘の下

テュイルリーに舞い降りたふたりの天使を

太陽の下

神の、許されざるパーティーへと僕らを誘う太陽の下
まともな人たちの目には映らない
美徳の価値を持たない
彫像のもとでの恋

雨傘の下


突然訪れる恋の下
暗い空の片隅の下
ダークグレーの空のかけらが恋へ影を落としていく
去っていく
慌しく巡り、巡る
その空に、恋を成している時間に服従する
あるいは逃げていく時間に

雨傘の下
天国みたい

太陽の下
僕らにとって
白昼と二つの不安の間にある「詩」には
フォトフィルが好む気まぐれに満ちていて

雨傘の下

















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