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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

<追記2010>坂本龍一 PLAY THE PIANO

2010-03-09 00:33:33 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
2006年の今頃に備忘したこの記事に
割と多いアクセスを頂いているようなので
(美学校の初等科の記事に、ということだと思うのですが)
YouTubeの動画付きでちょっと詳細に追記してみます。


久々に坂本龍一のピアノ演奏をまとめて聴いた。

去年の22日に国際フォーラムで開催された、
<坂本龍一 PLAY THE PIANO 2005>
BSデジタルの番組をチェックしていたら偶然放送を発見。

豊かなのに余計な力が抜けていて素晴らしい演奏だった。

happyend / RyuichiSakamoto




以前雑誌を読んだとき矢野顕子が言っていた言葉を思い出す。
彼は演奏家としても素晴らしいのだけど
最近は、それを聴けなくて残念だ、と。あれから数年・・・

殊に、2台のピアノを使った(片方は自分の演奏を
記録してあるMIDIピアノ)ご本人いわく
一人時間差(笑)デュエットは圧巻。この手法で
演奏したい人って居るだろうな、フルコンサートのピアノ
2台持ってなくちゃいけないけど、、、

「Tibetan Dance」at a rehearsal(090417 Toyama)




そういえば、このコンサートが行われた
12月22日は2005年最後の映画美学校の講義だった。

あの日、事前に用があって有楽町から美学校に向かう途中、
国際フォーラムの裏手を通ったら
巨大なトラックが何台も止まっていて
ものものしかった事を思い出した。
(CO2フリーコンサートでピアノの上にはキャンドルが置かれていた)

トラックに坂本龍一の名が刻まれていて、
このコンサートに行きたいなと思っていたので
「ああ、今日がそうなんだ」と心の中で呟き、通り過ぎたのだった。

私が坂本龍一の存在を知ってから、
実に人生の半分を越えていたことに気がつく、、、(笑)

これまでも日記に何度か触れたけど、
私が『作曲/編曲』という事に具体的な関心を持ったのは
この人の存在を知ってから。

私はフツーに子供の頃から昭和歌謡(笑)や
洋楽や、イージーリスニングやディスコなどの
POPSと同様にクラシックを聴いていて、
その何れも同じくらい好きだった。

好きな音楽はカテゴリーを超えて
いつでも自然に耳に入って来たのだ。

だから、坂本龍一のような人は鮮烈だった。
クラシック畑でいて、歌謡曲の編曲もする。
そして、それが決して邪道にならなくて王道になる。
誰にでも出来る事ではないと思う。

そして日本におけるテクノポップなる音楽の創始に関わり
美しくポピュラリティーのある曲を作り
編曲もして、前衛的だったり実験的な現代音楽も、
(以前日記に書いた、「千のナイフ』に代表される)世に残している。


私はこの人が持つ和声(ハーモニー)やメロディの感覚が好きで
ピアノを弾く人ならではの編曲だ、と思う。

ピアノはオーケストラの音階を持っている。
一人でオーケストラ的な演奏をする事も可能。

彼のオーケストレーション、
特にストリングスのアレンジは秀逸だ。

10代の頃YMOのRYDEENを聴いて、
編曲の力というものを初めて知った。
(これを作曲したのは高橋幸宏だったけど
編曲をしたのは坂本龍一だった)

初めて聴いたのは、初代ウォークマンで。
初めて体験するこのデジタルな音は、
後の私に音楽的な影響を与えた。

当時、欧米では日本発の、このテクノポップを
確か「バロックテクノ」とか
呼称されていた事を記憶してる。

今でもなお後世に続く世代のミュージシャンに影響を与えていて
カヴァーされ、その音楽の魅力は常に変容し
増大して未だ衰えていない。
当時、リアルタイムに一つの『潮流』を感じた。

カノン形式と思われる、たぶんにクラシカルな構成を持った
デジタルなこの曲は、10代の私にとってかなり強烈だった。

今聴くとやりすぎなくらいの(笑)テクノで
デジタルな展開のリズムのあと、曲の後半の
3:17のあたりから、楽器が一つずつ増えていきます。

[RYDEEN〔YMO〕



(曲をご存知の方は、よければ3:18あたりから、
文面と一緒にどうぞ)

ピッコロの装飾的なフレーズが加わり、
1オクターブ下のユニゾン、3度下のコーラスが加わって
ロマンティックなピアノの伴奏が入ったところで
全てのリズムが止まる、、、
という王道的で正統派のアレンジと、
デジタルの組み合わせに当時、ぐっときた(笑)
今でも魅力的。

50代になってなお坂本龍一氏は一層、素敵で、
演奏と共に魅力的に映った。

そして、先日の映画美学校の楽曲分析の講義は
坂本龍一繋がりがあった。

待ちに待ったアントニオカルロスジョビン。
3パターンのアレンジの中、菊地さんが楽曲分析のために
メインに取り上げられたのは坂本龍一のものだった。
「お馬鹿さん」としても有名な名曲「How Insensitive」

A DAY in new yorkより)

insensatez morelembaumx2&sakamoto














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記憶と時間

2006-02-01 00:00:28 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
2006年1月25日

目の前で鳴る音楽を聴いたり記憶の中の音楽を辿ったりして
受講していた、第8回目 映画美学校 音楽美学講座


前回に引き続き、バートバカラック「雨にぬれても」

1回で終わる予定だったけれどさすがバカラック
情報量が多いのだろうか2度に渡ってたっぷり分析。


菊地さんは、最後の方のまとめで「雨にぬれても」を
或る意味で子供っぽいと感じるほど
シンプルで童謡のような曲、と仰った。
ただ、本当の子供っぽさと決定的に違う部分は

「何でも出来る状態でいる上での(教養主義的な)我慢」

という言葉がバカラックの音楽性の魅力を言い表していて
とても納得出来たのだった。


キーワード:『奇数節で曲が展開する』

今回、腑に落ちた学習内容は
シンプルなダイアトニック環境に収まったこの優れた曲を
モードに置き換えて考えた時(リハーモナイズ)
これこそが『アレンジメントである』と菊地さんが言った時。

うっすら、ずっと目の前に在った霧が高速に晴れていった。

コード展開から成る作曲とアレンジの違いを知りたかった。
今迄よりも明確に感覚を捉える事が出来た。


前回ちらりと触れられた後奏部分の割り算の余剰部分みたいな
「ポンポンッ」(2拍でカウントする)という
ユーモラスなフレーズは曲中でサビに展開する
9小節目に該当する、ということに理論的に納得する
(ぼんやりとフラクタルという言葉を思い出した)



好きな曲を聴くといつでも初めて聴いた時の
鮮烈な印象と感情を記憶から引き出す事が出来る。

簡単には忘れられないし、忘れない。でも、
楽曲に個人的な感情を抱くのは楽ではない、
何故ならその曲を気軽に聴けなくなってしまうから。
記憶の中で漂う香りのように
強い感覚を伴って記憶にずっと、刻まれる。

(↓そんな「心情」について松本隆が巧い表現をしてた)
…と思ったら畠山美由紀本人でした、歌詞。
松本隆のはハナレグミ「眠りの森」のほうでした。

愛し過ぎた歌が
時に残酷に
記憶の海
照らし出す面影
消えるはずもない恋

畠山美由紀(耐え難くも甘い季節)
富田ラボ シップビルディングより


鮮烈なイメージは記憶の時間の中で
常に円環しているという事に気がついて、

ここのところ感じていた時間の概念や垂直性に対する
違和感を拭うことが出来た。
時間はただ進み、流れていくわけではない、と考えていた。


物理的時間と違って記憶にある時間は上から下へ
こちらから向こうへ進んでいるのではなく、むしろ
(序曲で始まり序曲で終わり円環する
ゴールドベルク変奏曲のように)
始まりも終わりもない…
何も始まっていないし何も終わっていない、
と認識するとしっくり来るという事にも。


■ 記憶と忘却について(引用)

生々しいと感じた過去さえもそこでは
実は不安定な輪郭の曖昧なもの、絶えず
雲散霧消の予感に覆われたものでしか、おそらく、ない。

或る記憶、或いは感覚が異常な鮮明さで蘇って来ることがあっても、
その鮮明さには不安な曖昧さが含まれていて、
ほんの少しの動揺で、一挙に無根拠の中に崩れて行ってしまうだろう。

サミュエルベケットはプルーストについて、
その「失われた時を求めて」について、次のように語っている。

「記憶の良い人間は何も思い出さない。
何故なら彼は何も忘れないからである。」


つまり、思い出すという行為は「忘却」の恐怖において
発動されるものであり、言い換えれば想い出に耽る者、
想い出の中に生きる者は記憶の確かさの中に
救いを見い出しているのではなくて、
その不確かさ、忘却の恐怖の中に生きているのである。

松浦寿輝 詩集より








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師も走る映画美学校

2005-12-09 00:53:16 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
12月8日(木曜日)

今日は4回目の楽理講座。
2週間に1度のこの講義と映画美学校。

会社や仕事でストレス感じてるつもりもないんだけど
仕事のあとにこの学校に来て、
顔見知りになった人々とちょっとだけ挨拶を交わしたり
音楽の話しをしたり

菊地さんの情熱的な楽理講義に集中し、
理論と感覚を照らし合わせたり
そんな事を繰り返しているうちに
ふと、自分がとてもリラックスしている事に気がついた。

水を得た魚とでも言うんだろうか。
やっぱりこの楽理講義は楽しい。
音楽の仕掛けがわかればわかるほどに。

で、講義の前、モードのスケールの練習を鍵盤でしながら
先日、中川五郎氏とライブで共演をした
同じクラスのミュージシャンK君と
彼が歌詞をつくる時のことを訊いたり
コーネリアスの2010(アルバム:FANTASMAに入ってる)や
レイハラカミ、矢野顕子、やはり良いよね、などなど
とても短い時間なのに話が盛り上がる。

現役で活動しているミュージシャンの感覚は
そうでなくて音楽をやっている人間とはやはり違う事を感じる。
音楽的な軸がしっかりしていて
物事を見極めていながら、外に開かれた何かと
音楽表現を生業としている人が持つ
感覚のブレの無さを感じる。

中川五郎氏の翻訳がとても好きなので
ここで繋がるなんて、と思いつつライブに行けなくて残念。
でもまた次回行こう、きっとそんな日が来るだろう。

音楽的共通感覚を他の人と共有出来る事は
とても幸せだ。言葉にする必要がない部分が多く、
属性などを越えた信頼感が生まれる。


私はこの楽理の講義を『勉強』とは特に思っていない。
幾分の集中力と理解力、そして想起力を必要とする
楽しい遊びだと思っている。

自分の中に眠っていた「知りたくて知らなかった事」を
紐解いているようで、今初めてというより
既にあった感覚や経験、記憶を参照したり駆使、総動員して
臨んでいる、というかんじ。だから殊更に楽しい。
考古学者のように時間を遡行し
行ったり来たり発掘したりの冒険をして楽しんでいる。

菊地さんは風邪を召していてマスク姿で時間通りに登場。
でも、講義に熱くなるあまり(苦しいのだと思う)
マスクを外して菌が一部、蔓延した模様(笑)

先週に引き続きモード2の概念を念入りに踏襲。
正直、初等科ではぴんときていない部分も多かったので
この高等科の懇切丁寧で復習的講義で改めて
認識しているだめな私。

講義の中で前々回の特別講義で高山さんが
「良い編曲をするには、上方倍音を聴く事が大切」
と言った言葉で気になっていた「上方倍音」の事が
また触れられた。しかしまだちゃんと解っていない。

前回宿題だったモードスケールを弾けるように、という事で
あれこれ練習していたのだけど
どうやら私が最も憶え易く弾き易いやり方というのは
講義で言われたホールトーンスケールでの乗り換えでも
スケールの丸暗記でもなく、
鍵盤で半音を押さえる場所を明確にする、という
単純な方法だった。どうやら私は論理よりも
鍵盤に対して視覚感覚的に弾いているようで
かつ音符を同時に数字に置き換えて認識するやり方が
良いらしい。もしかしてこれはクラシック的なんだろうか?

そんな発見もあったり、菊地さんの久々の
ハイテンションモードの講義という事もあって、
講義を終えて外に出てもあまり寒さを感じなかった(笑)

次回は、前回の楽理講義日記に書いた
「モーダル・メロディ」
「1コード/1モード」「コード&モード」

そして、いよいよモード概念の核心「コード/モード」
『総てのスケールがモードと等しくなる次元』について
学習して、来年からはいよいよ楽曲を具体的に聴いて
分析を始める。目白押しに楽しみ満載。体力と知力勝負だ。

風邪などひいていられない師走が始まった。

POPSの境界

2005-11-30 23:45:50 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
11月24日 第3回音楽美学講座

楽理高等科 講義録
間が開いて約1ヶ月ぶりの講義。

モードの概念についてPart1とPart2に分けて学習。
その境界はPOPSであるか、そうでないかの境界となる。

※モードの概念についてはこちらを参照。
尚、コードについてはこちら


コードの概念で作られた曲の中に展開される
モード的な進行について、気になっていた。
私が、いつか音楽の上で表現したい事でもあるけれど
未だ自分で実践してその事を試した事はない。

「モード」というのはある意味で抽象表現的な世界。
(例えば色彩的な差異があるという程度で
情動は強くは存在していないという意味において)
ただ、その色彩的差異から生まれる独特な美しさを感じられる。

但しモードを多用したものは必ずしも万人向きではない。
つまりヒットチャートには入らない。

「コード」の世界というのはモードと違って
感情移入しやすく展開も「分かりやすい」
という意味で絵画に喩えると具象的なイメージ。
もしくは表現主義的と勝手に喩えておく。

21世紀の今日でも、未だこてこてのダイアトニック的
コード展開の曲はヒットチャートの中に存在している、
との事だった。たぶん、私が楽曲として良いと感じられる曲は
少ないように思う。


但し、コード世界の表現で例え単純なものでも
印象深く、時代が変わっても、その曲が持つ魅力は
色褪せないものもある。

この事もいつも気になっているので
『魅力的な謎』として頭の中にイメージを置き
まだ解かずに置こう。

編曲によるところも大きいのだろうと思う。

、、、と思ってここで、「編曲と作曲の境界」についても
考えてしまう。曲において、どこまでが作曲の力で
どこからが編曲になるんだろう…
きっと、これは一人で両方をやる場合と
それぞれ別々にやる場合とは違ってくるんだろうなと
漠然と考えるけど、明確な境界というものはあるのだろうか…?


<モードを弾いて味わう>

確かリディアのスケールを菊地さんがコードで聴いたとき
あ、今年出たLITTLE CREATURESの新譜に
これで始まる曲があった、、、と反射的に感じる。
(注:モードにはドからシまでの白鍵から始まる
7つのスケールが存在していて、それぞれの特徴が違う、
その違いは色彩的な差異に喩えられている)

こうして、実在の曲に喩えて
感覚的に覚えていくと印象に刻まれて理論に繋がり易い。

POP史の中のモード

→’70→’80辺りに→モードへ移行する
(おおざっぱな捉え方)

※私の記憶の覚え書きでは、モードに移行したのは
Classicのほうが早くてドビュッシーが
確か20世紀の初め頃取り入れた。

その後、JAZZが続きマイルスデイビスが
最初に取り入れたのは'50年代だったと思う。
但し、この両者のモードが「教会旋法」という事で
同じものなのか、ちょっと知識が未だ曖昧…

古代まで遡る教会旋法とは
別のものだという事がわかったけど
中世あたりのそれとは同じなんだろうか?詳細こちら


・モードにおける2コードの提示
・コードにおける(例)CM7→Dm7

以上の2点は見た目(音としても)は全く同じなんだけど
その基本概念は全く違う。

そして、ここまでが「モード1」のライン。
ここがPOPSの境界点だ。


で、

芸術的、という方向に向かうものは
徹底的にその事を掘り下げる。
従って、そこから先の概念はモード2


特性音の軽い順に並べてドリアからは
マイナーゾーンだけれど
それ以降になるとスケールとしてあまりにも
突き抜けているのでマイナー(暗いスケール)には聴こえない

確かに、抽象的で感傷を挟む余地がない美しさがあって
心惹かれる。

ただ、POPSでもよく練られたものは
コードだと思うと突然モードの概念が入っていて
双方は混ざり合う事なく
マーブル状に混在している、との事だった。

マーブル状、、、、この事にとても心が動く。

保坂和志が「小説の自由」で
ジャズにおける「モード奏法」について書いていた文章が
とても印象的だったので引用してみる。


たとえばジャズ。マイルス・デイビスや
ギル・エヴァンス(ビルじゃなく)の音楽を聴くと、
「ああ、これはジャズだ」と感じる何かがある。
彼らのジャズは、それまでのジャズとは明らかに違ってはいるが、
まちがいなくジャズの魂のようなものがある。
それをあえて形容すれば、「逸脱する精神」ということに
なるだろうか(これはあくまで私の言い方で、
読者はべつな言い方を考えてほしい)

たとえばマイルスデイビスは、'50年代のコード奏法から
「逸脱」して、「モード奏法」というものを考え出した。
そして、'70年代になると、リズムはさらに小刻みになり、
エレクトリックなジャズへと逸脱していった。

表現というものは、たえず何か逸脱するものを孕んでいないと、
やがて滅んでいく。表現とは本質的にそういうものだ。
'20年代から'60年代にかけてジャズに活気があったのは、
ジャズがたえず逸脱し続けていたからで、だからその時代に
録音されたレコードは、そこに逸脱する精神があるために、
いま聴いてもジャズに聴こえる。
けれども、現在、'60年代と同じスタイルで演奏された
ジャズを聴いても、その音楽は逸脱する精神がないから
ジャズに聴こえない。それは過去の模倣にすぎない。
小説も、かならず既成の小説から逸脱するものを
孕んでいない限り、今書かれる意味はない。

引用文は以上。

ところで、BGMは(たぶん)コーネリアスの2010を
聴いていたのだけど(バッハの小フーガト短調を引用した曲)
良い具合に逸脱してる。でもバッハの豊かな音韻情報は
全く消えていない。今更こんな曲を聴いて感心。


というわけで

次回以降は、具体的に先述のような概念を持った曲を
実際に聴いて分析していく。待ち遠しい。


デュアリズム

2005-10-14 00:57:32 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
10月13日 木曜日 高等科講義初日
(近々、この日記のタイトルも変えてみよう)

卒業制作もほぼ完成した状態で
簡単には消えてくれない幾許の憂鬱を抱えいざ映画美学校へ。

ところで憂鬱と憂愁の意味は同じだろうか?
英語だとどちらもmelancholyだけど
日本語は少々表現が違うようだ。
憂鬱は「気がふさぎはればれとしないこと」で
憂愁は「うれえもだえること。悲しみなげくこと。うれい。」
そうだ、憂愁は「嘆き」。こちらのほうが
どちらかというと能動的なかんじがするし
「歌」とか「踊り」とかいう表現に結びつく
行動的なイメージがあるので「鬱」より
「愁」のほうが良いなと思う。

とにかく短調が好きな私。

そういえば、ミシェルルグランが言っていて
印象的だったのは「僕の人生は不幸ではなくどちらかというと
幸福だけれど、僕が作る音楽は暗いメロディーも多いんだ」という
言葉はまさに憂愁的。

そういえば、ここ最近知ったのだけど
ルグランのお姉さんは何と!私が大好きな
Swingle singersのメンバーの一人だそうだ。
全然知らなかったのでこの大好きな両者が結びついたので
うれしい発見だった。

で、秋になるとお気に入りの「Song For Europe」、
邦題は「ヨーロッパ哀歌」(RoxyMusicの中でも
かなりコアなナンバー)が似合う季節になってきた。

後半のピアノソロとブライアンフェリーの流暢な
おフランス語のシャンソン風哀歌&泣きのSAXが涙を誘う。
気を抜くと本気で泣ける'80年代風の大げさな仕上がりが
恥ずかしくも痛い。デヴィッドシルヴィアンのヴォーカルとも
ちょっとカブる濃い歌声、もれなく胸毛付き。

そんな泣ける欧州的憂愁に相反して好きなのは
逆に笑おう、踊ろう、もしくは怒ってるというかんじの
上向きな黒人の曲。簡単には拭えないような
表出した哀しみ、のような何かをポジティブさが
包みこんだように力強いビートの曲だ。
いつ聴いてもポジティブな嘆きを感じる。

さて。今日、講義で最も印象に残った新たなキーワード
「デュアリズム」

アンビバレントとか両義性などの言葉と類似性があるのだろうか。
内部に2つの相反するものがあってこそドラマが生まれる、
という発想から展開される音楽理論の論証(だったと記憶している)

確か、長調と平行短調の関係を説明していたと
思うんだけど、デュアリズムという概念に気を取られて
加えていつもの蛍光灯の寒々しい教室と違う
IDEEの意匠による柔らかい白熱灯の試写室での
第1回講義だったので寝不足も手伝って
何故か妙に柔らかく聴こえる菊地先生の声色にうっとり、
(風邪を召していた?)何度か
こくり、こくり、とお船を漕いでしまった、、、ので
内容が曖昧になってしまったけど概念が印象に残る。

流石に、講義内容は初等科とは全く違った。
初日の今日は、初等科で学んだ事を
バークリーメソッドの概念以外にも
LCC(リディアン・クロマティックコンセプト)や
ラングメソッドの概念も取り入れながら進められていく。

初等科と違うのはそれだけではなくて
特に講義の内容は決定していないそうで
生徒の要望や、学習度に合わせて内容が変わっていく、
という事なのだった。(前回の初等科と高等科が
ほぼ同レベルになってしまった伝説はここから)

早速、相変わらず親身な菊地先生は
生徒全員の表情を読み取りながら決を採る、
試験で最も回答にバラつきのあった「テンション」について
「テンションのわからない人」
「ハ~イ!」と元気よく手を挙げた私を含める数名が居たので
次回にそれについて再度触れられる。

最初に言われた言葉も印象的だった。
「こういった根本的に学習するという行為は
(物理でも数学でも)場合によっては、
なんだ、こんなだったのか!と目から鱗の場合もあれば
絶望する場合もあるので、それは氏とか生まれとか
そういった事に関わる、、、、という事を仰っていて
私も激しく同感。学習するということは
良くも悪くも自分の能力の限界を学ぶ事でもある。

よく、自分探しとかやりがいとか生き甲斐とか
そういうものを探す事もあるようだけど
そんなものを探しに旅に出るとか(笑)
まあ、ありがちな話ではあるけれど、たまたま友人と
そんな話をしていて、たぶんそれは探すものではないだろう、
と友人は言っていた。あるとしたら、それは
既に自分の中に在るものじゃないか、と言っていて
その事に私もなるほどな、と思ったのだった。

この楽理の講義を受講するようになって
つくづく感じるのは、ここに至るまでの動機は
少しずつ自分の中に積み上げられていたんだな、と
思える事があった。それは子供の頃から既に
始まっていて、振り返れば片時も忘れた事のない事だった。
それはやっぱり私の中に在る
決して消えない音楽の存在なのだ。

そんなものが在ると無いとでどちらが良いとか悪いとか
幸せだとか不幸だとかは自分が決める事だけど
別に無いなら無いで、良いと思うし
在れば在ったで自分の限界を必要以上に思い知る事にもなり
同じく自分という存在にかなり強烈に向き合う事にもなる。
それは時に絶望感を生む場合もあるだろうし
逆に喜びをもたらす事もあって、やはりそれは
自分次第だし、それを才能と言うのかもしれない。




1年在籍した事で初等科で一緒だった
何人かの顔見知りの友人たちと短い談笑をして
(知ってる女子が二人居た。初等科の時よりも女性が多い)
卒業制作の仕上げに地下のいつもの教室へ。

その途中、音楽美学講座ではなくてたぶん
映画のほうの講座を受けている数人の若い
派手な男女のグループの一人が、
察するに菊地成孔ファンらしく、尋常じゃないテンションで
待ち受けていたけれど、生徒の質問に
熱心に答えられていた菊池氏に遠慮して
「また来週もあるし」と諦めて帰る場面に出くわす。

そういえば、私の日記も日々(更新していないにも
かかわらず)「憂鬱と官能を教えた学校」とか
「バークリー・メソッド」「官能 映画」「憂鬱と官能」
「音楽美学 私塾」とかいうキーワードに
ほぼ毎日該当していてアクセスがある。gooのほうは
多いときで一日120プレビューされているようだ。
内容が拙くて申し訳ないんだけど。

菊地さんは11月にとうとう国営放送NHKに出られるそうで
菊地人気は最近凄いな~と思っていた。

ところで、3拍子って日本古来の音楽には
ないリズムだそうだ。
私はその3拍子が好きだということに最近気がつく。
で、卒業制作の曲は3拍子となった。
恥ずかしい曲になっていると思うけど
初めての作/編曲なのでしょうがないか・・・











合格通知と誕生日

2005-10-11 15:59:32 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
朝自分のmixiのトップ画面を見て
(こんなサービス去年は無かったと思う)
誕生日だということを思い出したのに
出勤したら再び忘れ、会社で言われて思い出した。

哀しいかな誕生日の当日って忙しい大人になると
都合上後日になったりして味気ない日になる場合もある。
家族や友達と過ごした
子供の頃の誕生日というのが一番幸せな誕生日の
記憶なのかも、などと考えていた。

今日も仕事の締めと卒業制作の締めが重なって
身動きが取れず、いつもの日と同じ、
まだ仕事&そのあと卒業制作で学校へ。地味~~(笑)
しかし自分では誕生日を忘れてたけど
憶えてくれていた会社の人手紙とかメールを含め
おもいがけないプレゼントが届く。
誕生日の不意のプレゼントはたとえあんぱんでも(笑)
うれしいものらしい。私もいつか誰かにしてあげよう。

晴れていて会社のすぐそばなので
昼休みに以前アートフェアで観て好きになった
岡崎乾二郎展に行く。
http://www.nantenshi.com/exhibition.html

つかの間の時間だったけどじっくり見ていたら
あっという間に30分が経過していた。
風景でも具象でもないのに全く見飽きない魅力的な絵。
資料にあった岡崎氏のコメントも興味深かった。

絵の具の質感、色や透明感、構成、タッチの強弱など
とても美しい。何だかとても音楽的だなと思った。
好きになった作品のうち
2つは音楽美学講座の入学金で買えた、、、!(笑)
不合格だったらやけくそで(笑)即購入したかもしれないが
じつはつい先日、学校で合格したことを知らされる。
岸野先生にがんばってね、とお言葉を頂く。うれしい。
1日早いプレゼントとなった。

卒業制作で学校に行っていたので
スタッフ富樫君が気を利かせてくれて
初等科の講義に来ていた菊地さんにその場で渡してくれたので
菊地さんが採点し、即OKとなり
岸野先生から直接通知を受けたという次第。

3回不合格でやっと合格した、とかいう人の話を聴いていたし
私の場合は期限ぎりぎりだったので
もうそれも間に合わないのでダメだったら
諦めるしかなかった状況だったので焦りました。

良かった、、、
去年の誕生日の日記での決意を思い出す。
1年間はあっという間だった。

来週からまた音楽美学講座がスタートする。
今度は高等科、やることも全然変わってくるだろう。

以下、映画美学校 音楽美学講座
菊地氏コメントより

高等科は事前に郵送される試験用紙による自宅受験により、
入科審査に合格した方のみ対象としたカリキュラムになっており、
一般楽理(古典的な楽典およびバークリー・メソッド)を
理解、咀嚼しているという前提で楽曲分析から始め、
作曲、編曲、批評の実習、バークリー・メソッド以降の
音楽理論への越境的な学習、比較理論ラボ的な研究などに及びます。

武者震い~(笑)

卒業

2005-10-03 16:05:27 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
好きで履いてる二足のわらじが脱げそう。

どちらもピークを迎えていてハードな週を過ごしてた。
先日やっと菊地さん出題の高等科の試験を提出完了。

難しさのあまり驚愕し発熱する。回答に偉く時間がかかった。
とてもその場ですぐに回答出来る代物ではない。
たまたま最初から高等科を希望してきた
果敢な人が居てその人が同じ試験を受けていた場面に私も
卒業制作のため、居合わせた。けれどその人は
10分も立たないうちに高等科に入れないと実感した模様で
書き込みのないままギブアップしていた、恐るべし難問。
(でもそんな方は初等科から始めて正解です)

多分、クラシックなどをやっていて或る程度自信があって
来たんだろうと思う、私も多少の自負心があって
去年初等科の試験を受けたけど数秒で撃沈し現在に至る。

たしかに去年初等科に入るときの試験も難しかった、
クラシックをちょっと齧ったくらいの私には
知らない語彙もたくさんあった。
クラシックを多少やると音楽の全てを
知ったような気になるのは権威主義的な
日本のクラシック教師の教育のせいかも。
私の二人のクラシックのピアノ教師は
独特な日本的クラシック界の因習に収まりきれず
そこからはみ出しちゃったマイノリティとも言える、
なのでちょっと魅力的な人たちなのである。

音楽の世界はまだまだ未知のことが多い、
当たり前だけど全く一筋縄じゃない。

私にとっては今回の試験も1年間学習して、やっと何とか
回答にこぎつける事が出来る、という状況で
このことは一朝一夕で頭に入る事ではないということも
いま実感としてとてもよくわかる。
蓄積された既知の知識をベースに、そこにプラスして
少しずつ積み上げるように理解出来たことなのだった。
この幾分の難問をソラで回答出来るくらいなら
むしろ楽理を学びにくる必要はないでしょう。

ただ出題されている事がどんなものなのか
多少推測したり、たとえ間違えたとしても
今こうして回答出来るということを
過去の状態から遡って思考してみると
この楽理の門を私は叩いて、
とりあえず今くぐったんだな、と実感する、、、
そしてやっとスタート地点に立ったのだ。
試験の結果はまだわからない。
講師菊地氏の採点と判断によって
実力不足で高等科へ進学出来ない可能性もある。

正直難しくて1年間私は何をやっていたの!?と
理解不足を痛感してちょっとヘコむ。
演奏で或る水準まで行く事もかなり難しいけど
作曲や編曲の道も更に険しい。
少なくともこの卒業制作に関しては
どんなに体力や時間を割いても不思議に
イヤにはならず(時々逃避行したくなる時はあるけど…)
結局事に向かっている。途中試験でテンションやら
スケールやらが夢に出てきてうなされそうになっても
やはりもっと知りたい、もっと理解したい、と
紐解きたく思う気持ちは更に強くなる。

試験問題に悶々としていた時
これってまるで恋愛感情みたい、と考えていた。

かなわぬ恋愛。完全な片思い。
理解出来なくて切ない、
いや、理解出来ないんじゃなくて
敢えて完全には理解したくないと思う部分もあって
常に憧れて、対象と距離を置いて
神秘的にしておきたいかんじ。
その状態はちょっと辛くて切ない。
まさにサブドミナント、、、

ちょっと大人になればこうして人工的な
恋愛感情のしくみを知ってしまうものだけど
対象が音楽でよかったと思う、、、いや、良くない?
(笑)確かに私は音楽を好きで愛していて
しかも現時点ではまだ独りよがりの状態。

私が好きな音楽を作る人たち、もしくは
奏でる人たちには一方的片思いじゃなくて
音楽のほうにも愛されているイメージがある


さて、現実問題として試験を提出して
とりあえず一安心、そして次の難関は、卒業制作、
私は数少ない未提出者のうちの最後の一人、、、

ここのところ2、3週間仕事の後に
美学校で作業をしていて
(会社が学校から歩いて1分のところで幸い)
時々は終電近くまでやる事もあって
あんまり若くないので体力的にはしんどいけど、
苦にならないので不思議。
しかし気持ちに対して体が多少悲鳴をあげている模様。

徐々に色彩や輪郭を帯びてくる曲に接するのは
まるで飽きる事がない。多少体調が悪くても苦にならないのは、
律動や、水平に運動する音符がふとした瞬間に奏でる
垂直の運動が耳に残るような
つまり意図的に作ったコードとメロディーと

逆に意図的でない所に生まれる、たとえば
倍音の残像ハーモニーが奏でる煌めく星が偏在する
無限宇宙的音楽美、という風に
「魅力的なメロディー」というのは
必然的に存在している気がする。
で、それは決まりきったものでもなく
自己完結型の独りよがりで自閉的なものでもない。

例えばそれはどの国の、どんな人の心も
捉える事が出来るような普遍的でありながら
魅力的なメロディー。
作曲者を知らないのに、誰もが知っているような、

だから私が好きな曲は(アレンジによる部分も大きいけれど)
どの部分からちょん切ったとしても
美しいハーモニーを感じられるように
どこから切ってもポッキン金太郎飴状態なもの(笑)

そんな風に名作となる音楽というのは
もしかすると作為だけじゃなく(それもなくてはならないが)

必然と偶然の両方のエネルギーが働いて
生まれるものなのではないかと思う

さて。
卒業制作のリミットは延ばしに延ばして頂き
(まるで予備校の先生のような
皆の頼れるアニキ富樫君に感謝&感謝)

とうとう金曜日いっぱい。
現状は残念ながらまだ曲に対する明確な自信はない

フラーと盆栽

2005-09-22 02:59:18 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
卒業制作の作曲作業に勤しんでいる中
逃避行日記&久々の夜更かしモード。

偶然によって知った
とある印象に残っていた曲を聴いていた。
編成からして取り入れやすそうだったし
何となくずっと頭の片隅で意識してた。
(しかし実際は全然簡単な曲じゃなかった)

この曲との出会いは確か2年ほど前
たまたま昼休みに当時通っていたカフェで
食事が終わってレジに並んでいたとき
流れていた大抵の曲がすてきなのは
滅多にないことなのでお店の女性に訊いたら

たまたま後ろに並んでいた男性が
てきぱきと「○○番のCDだよ、気に入ってくれた
お客様なら渡してしまっていいよ」
などと一緒に探し指示を与えてくれた結果、
カフェ特製オムニバスCDは今も私の手元にある。

あの日は桜が咲いていて
バックミンスターフラーという人が書いた
(このとき初めて知る、おそい。)

「私は地球で生きているけれども
私が何者か今も自分でわからない。

カテゴリーなんかでないことは
それでもちゃんと知っている。

私は名詞なんかじゃない。
どうやら私は動詞のようだ。
進化していくプロセスだ。
宇宙の積分関数だ。
名詞化を拒む人生があった。」

などという詩をたまたま雑誌で読んで気に入りその足で
「宇宙船地球号・・・」を買った麗らかな日だった。

かくしてそのとき出会った曲は今こうして
卒業制作の際の参考になっているので
人生なんて予測がつかないものだ。
意匠に気がつかずに通り過ぎれば
ただのダサいインスト曲で済んでしまいそうな
この曲の魅力が今なら多少はわかる。
出だしはいきなりドミナントモーションしていた。

イントロは少し寂しいような中に滑稽な雰囲気。
メロディーの音源は何故か愉快なカリプソ風(笑)
ノスタルジックな弦や管の音も入ってる。
シンプルなのに妙に耳に残る。
ギターフレーズが入る、リズムはボサノバ、テンポ早め。
とてもポップな雰囲気のインストゥルメンタル。
全体的にレトロな音質なんだけど多分意図的、
何故かというとリズムは打ち込み。
一瞬ジャングル気味なフレーズあり(笑)
それとももしかしたらDJにリメイクされてるのかも。

ベースラインはよく動いていて
主旋律はスチールドラムの音、
合の手には気の抜けたサックス、

何度も同じフレーズを繰り返すけれど
間にサンバで吹く笛が入っていたりと
聴き手が飽きないような配慮あり。

単調から長調へ移るときの橋渡しにある
フレーズがとても綺麗でスマート。
意匠的で優れたセンスを感じる。

1時間半ほどあるCDの曲中で
この曲の他に好きなのはたった1曲。
こんなに思い入れがあるのに未だ作者が誰なのか
わからない、、、

そしてとても
思い描く曲と実際に自分が作った曲とのギャップに
激しく悩ましい、、、しかも
PCがメモリ不足で思うように動かない。
私の思考も容量オーバー・・・

http://a.parsons.edu/~christine/organicHTML/

で、こんなHPを教えてもらい
しばらくハマる。

わたしのブログは写真1




写真2
野宮マキのサイトはお洒落でカラフル




写真3
たまたま通りすがりのAmazonのヨンさまが咲かせた花
ゴーヂャス。マダムが虜になるわけだ、、、



なかなか当人とのイメージあるな~と思ったら
ページソースのカラーとか
Javaとかのデータを拾っていると見た。
(時々ハエみたいなのが飛んでたりする)


こんなふうにURLによって
勝手にデザインされるウェブサイトの機能に
魅力を感じる理由ふたつ。

・意外性
・変化

魅力的な音楽にも共通してる。

『恋の面影』魅力の謎

2005-09-16 00:08:12 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
なんと本日最後の講義は『恋の面影』で締めくくられた。

バートバカラックによる名曲中の名曲。
(アカデミー賞にノミネートされた)
これが一番好きなバカラックの曲なので
最後の講座で分析出来るなんてとてもうれしかった。
Look of Loveとして知っていてどちらかというと
迂回してカバーを良く聴いていた。
意外にもオリジナルを聴いたのは遅くて
2003年3月のこと。どうして具体的に憶えているかというと
それはあまりにも私的なことなのでここでは触れないが
私にとって極めて印象に残る『恋』の曲。



あなたの瞳の中の 恋の面影
微笑みじゃ 隠せないわ
恋の面影
それは
どんな言葉よりも雄弁
あたしのハートがそれを受け止めた瞬間
あたしは息が詰まってしまった

こんなにもあなたを抱きしめたい
この腕であなたを感じたいの
あなたと恋するために
どれだけ待っていたかわかる?
そしてやっと出逢うことができたの

あなたの横顔に浮かんでる 恋の面影
それは永遠の物
今夜をあたしに頂戴
こうやって二人で過ごす夜の
これはほんの始まり
恋人の誓いを立てたら
キスでそれに封をしましょう

焦がれるほどあなたを抱きしめたい
この腕であなたを感じたいの
あなたと恋するためだけに
どれだけ待っていたかわかる?
そしてやっと出逢うことができたの
だから

行かないで 行かないで
愛してるから

南米のエリザベステーラーより『恋の面影』
訳:大和田俊之氏


菊地さんも自ら演奏していたしメロディーの
出だしの音程が完全4度ということで
ディグリーの判別に慣れるため
よく授業の最初のほうに取り上げられたりもしていたのだけど
(長7度の『マイウェイ』と共に・笑)
まさか音楽美学講座のラストを飾る曲になるとは
思いもよらなかった。
これは私の「切ない」曲NO.1でもある。

そんな背景もあるところに実際に演奏し
歌っているご本人を目の前にした状態で聴く
『恋の面影』は不意打ち的に良かった。
無声映画に声と音楽が付いたり、
モノクロ映画に色が付いた瞬間のよう。

論理的分析過程で以上のような感情を抱く理由が
明らかになっていく。

音楽美学講座のサブテキストのタイトルと
同様のイメージをこの曲が最初に
象徴したといってもいいくらい。
隠された受講動機であった憂鬱も
受講が終わりに近づくにつれ少しずつ軽くなり始めた。

ちなみにここで言う『官能』を例えると
一番しっくりとくるイメージは『ダンス』のようなもの。

さて。講義で菊池さんは初めに自身のアルバム
南米のエリザベステイラーより
『京マチコの夜』を分析に取り上げた。

まさに「憂鬱と官能」がちりばめられた楽曲。
そしてそこに隠された旋律は・・・意外なことに
『いい日旅立ち』(作詞作曲:昴などでお馴染み谷村新司)
菊地さんは『京マチ子の夜』を弾きながら
さりげなくいい日旅立ちのメロディーを歌うので
生徒一同爆笑する。

…ふと気がつく。アーティスト本人の音源を
本人と共に聴きながら本人の説明と
本人による実際の演奏によって進められて行く
この時間の何と魅力的なこと!
CDをかけながらキーボードを菊池さんの音頭で
曲に合わせて演奏しただけでシビれたので
心のイメージの中で私は
踊れないはずのラテンのダンスをした。


で、『恋の面影』の分析はバカラック節と共に
素晴らしい内容だった。
この曲は先に分析された京マチ子の夜より
ずっとずっと前に作られたものだけれど
京マチ子の夜が日本人の心の琴線をくすぐるのと同様
(これはベースラインが半音階ずつ下って行く<=クリシェ>
マイナーの旋律なんだけど
(視点を変えると)例えば歌謡曲では「いい日旅立ち」や
中森明菜(笑)「スローモーション」
古くはタンゴの名曲で使いまくられている
美しいコード進行なのだった。
な~るほど!と膝を叩くかんじ。

しかしバカラックの恋の面影はそれとは少し違う。
レトロな感じが漂いつつ今聴いても変わらずモダン。
明晰で上品、強く漂う切なさがあって鮮烈さもある。

・プレゼンテーションの違い
・フランスで音楽を学んだ独特のセンス
・メロディーが上方に動けばコードは下方を向く
・多少リズムがズレている

などの緻密な特性と論理がそこにはある。
コード展開にも斬新過ぎて「え!?」という
ほどではないけれど驚くような使い方が隠されているのだ。

まだまだ色々な分析は可能だけど
残念ながらここで制限時間となってしまう
・・・で、その具体的謎ときは高等科で(笑)
ということになった。

最後に菊池さんも交えてロビーで軽く懇親&パーティー。
多忙のスタッフT樫君に頼まれ(銀座を庭にするOLだし)生徒全員から
先生に渡す花束を買う。日記を読んで知っていたお好きだという花、
カサブランカを花束にしたものを手渡す。花の色は全て白。
花をもらうのもうれしいが
人に花を選び差し上げるのはこの上なく楽しいものだ。
銀座の街を闊歩しつつ抱えて来た道中の
甘くてキツい香りのゴージャスさと
無垢さは何故か菊池さんに良く似合う(笑)と思う。

菊池さんはインタビュアーとカメラマンを暫し待機させての参加。
紅茶とオレンジジュースを割って飲んでいた。(面白!)

ケーキをむさぼり歌舞伎揚げやらお菓子をつまんで
談笑している間も彼の思考は止む事無い様子。
きっと人一倍疲れるんだろうな~と思っていたら
今日は整体に寄ってから美学校へ来たそうだった。

あんな風にリラックスして楽しげなテンションで
話している人って精神的ストレスを生まない分
身体に何か貯まって行くようなイメージがある。

きっと身体の色々なところが凝るのだろうな~と
ぼんやり思いつつ、若者たちと私も談笑。
16才の高2天才系生徒H君に年齢を聞かれて
『君のママに近いわよ』とか『少なくとも君より倍以上は
行ってるわよ』とか言おうと考えていたら
大人の男子でミュージシャンの神森くんと優秀勤労生徒K原君が
口を揃えて『女性に年齢を訊いちゃだめだよ』と
止めて頂きました(笑)偉いな~お気遣いアリガトウ!

とにかく、菊池さんは今後も目を離せないアーティストで
商業音楽の楽理の先生、たぶんこれからもずっと。
心から楽しくワクワクした。学ぶ事の多い講義だった。

1年間1度も休まずに続けられた事は、
当初の憂鬱の固まりだった頃に想像出来なかったけど
こうして無事初等科の講義は終わりを迎える事が出来た。

ありがとう。という気持ちでいっぱいだったので
寄せ書きの色紙にそのことを書く。

音楽というものは憂鬱(哀しみ)を官能(喜び)に
変えられるという事を実感出来た1年間の終わりとなった。

最後にもう一人の先生、岸野雄一さんの挨拶で
初等科講義最後の日記を締めくくりたい。

『皆さん、これを持って後はもう会えないわけでは
ないので、今後も人生相談を含め、何かあったら
いつでも相談してください。そして
皆さんの近くに常に音楽がある事を望んでいます。』





第23回音楽美学講座

2005-09-09 01:19:37 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
第23回講義は菊池先生が
矢野顕子の真似を…愉快。

先日滅多に行かないカラオケを
ここのところ友人と行く機会が何故か増えて
矢野さんの『ごはんができたよ』を熱唱した
矢先だったので感慨深い。他の熱唱曲

・さよならを教えて 戸川純ヴァージョン
・Endless summer nude  真心ブラザーズ
・真夜中は純潔 椎名林檎と東京スカパラ
・This Masquerade  カーペンターズ
・Hello again  My Little Lover

なんだかんだ歌うのはたとえカラオケでも
楽しいのであった。

矢野顕子のメロディは4度ずつ進行したり
着地の度に転調(?)していたりして
ぐるぐる変わっているそうな。
3度だとありふれているからといって
敢えて4度ずつ、というのが特徴ということで
菊池先生自ら実演してくださって、大変にわかり易く
あまりにも楽しくて生徒一同大爆笑、素敵過ぎます。

菊池さんの判断で残りの2回の講義は、
今日の前半を『モード』の概念に充てて
楽理をそれ以上は進まず後半と最終回は
曲の分析をすることに決定した。

結果はまたしても願ったり叶ったり的講義で
メロディーに触れた辺りから後半の分析は
もう知りたかった事だらけで目がギンギンに。

優秀T大生Mちゃんに
卒業制作曲で判断不能だったコードを聴く、
優秀なMちゃんは私より全然明晰であった。

以前美学校頼れるスタッフ兄さんT樫くんにも
自分が弾いていてわからなかったコードにアドバイスをもらった。
それは「Bm(-5)/D」=Dm6(omit5) ということだったけど
今回はMちゃんによるコードの分析の結果、
私はオルタードを使っていたらしい。
(意識的に使おうよ)
そして、この事はこの後の分析に多いに役立った。

分析曲1曲目は
リッキーリージョーンズのmy one and only love。
これは、わかり易いということ、
つまりダイアトニックスケールの曲。
幾つかコード進行が同じ部分があった。

メロディーからメジャーっぽいイメージの曲の途中で
ふと質感が変わる魅惑的な瞬間
『キミは誰?どこから来た?』的に出現した
あるコードについて分析。
考えられるあらゆるパターンを考え
結果的に出所はAmから展開される
ハーモニックマイナースケールから、という事が判明。
一応、アタマでわかったけど、自分でやってみないと
まだ実技的(身体的)にはわかってない。

分析の途中でドミナントモーションを幾つか発見。
しかもダブルケーデンス、そして初めて聴く概念
パッシングディミニッシュ。あ~
感覚的だった事が今理論と合致していく。
この曲、とても耳障り良くポップなのにかなり奥が深い。
まったく単純じゃない。
グラミー賞を取ったアルバム、POP POPより。

そして、途中に出て来たケーデンスの中で
あれ?ひっかかる少し音が濁る瞬間があって、それは
まだ今ひとつ不明だった概念「オルタード」だった。

菊池さんは、これは高等科でやる予定だけど
ちらりとそれについて話してくれた4コード(?)について。
そして曲中で使われているコードは
Dm7→G7♭9alt…

あ、これは、さっきMちゃんに分析してもらった
わからずに使っていたコードと同じ。
一部分の進行も同じだった。
なるほど、あれがオルタードなんだ、と
使ってみて初めて音の感触を掴めた。

しかしやはり天然で(苦笑)作っているコード進行と
解っていてやっているものとの違いを痛感する。
天然ボケと確信犯ボケの違い。

着眼点は良かったものの、、、というかんじで
まだまだ私の詰めと理解力は甘い。

私はこのG7♭9alt…を曲中で2回、うち一つは
ベースがEになる。あとは同じくG7に♭9と♮13が付く
オルタードのコードを使っていたようだ。

そして菊池先生がメロディーについて触れた。



1.コード界の伴奏によるコーダルなメロディー

2.コード界の伴奏によるモーダルなメロディー

3.モード界の伴奏によるコーダルなメロディー

4.モード界の伴奏によるモーダルなメロディー

ひと味違えるために狙われがちなのは3番のやり方。
でも、結構安直だと、、、(笑)

私の定義では
コード界は少々直情的(感情豊か)
モード界はクールな抽象性を持つ(意匠的)


意外にのせにくいのは3番のやり方だそうだ。

私が惹かれるのもこのやり方。
曲を作る時に思い浮かべていたイメージは
「コードだけが情動的に動いてメロディーは
あまり動かない」というものだった。

しかし実際の曲はそんなに思うようにはいかないけど
今迄聴いて来てとりわけ好きだと思う
色々な曲のメロディーの特徴が思い浮かぶ。

明日は外山さんに続いて
菊池さんによる特別講義:律動パート2
特別講義は明日で今期は最後となる。