<動画(音源?)を発見したので、追記します!>
先日のペン大の講義で菊地さんが楽理のほかに
ジョビンの曲の詩の美しさについても触れたことが
ずっと記憶に残っていた。
で、口調がとても想い溢れていていっそう気になっていた。
『「空の鳥、地上の鳥」ってね。泣けますよ』
なんて仰るし、、、。
(最後のほうに訳詩を発見したので転載します)
ジョビンについての大著を1月ほど前に
読み終えていたのでなおさらだったのかも。
作家である実妹が書いた分厚い本で、いつか読むだろうと
思っていたけれど、よほどの思い入れでもないとこういった本に
入り込めなさそうだったので様子を見ていた。
どこにでも置いてあるという著書でもなくて
(なんとなくネットで買うのは避けたく思っていた)
様子を伺っていたのだった。
殊に愛する音楽にまつわる、
もうこの世には存在しないけれど
そのことによって一層顕わになるように
音楽や音楽家の存在を純粋に著した書を読む時には
出会いのタイミングを大切にしている。
早すぎても遅すぎてもいけない。(ジョビンの音楽のようだ)
こういった音楽家の死の場面を扱っている著書を読むと
それを自分でも追体験することになるので
移入が強くなりすぎて辛い場合がある。
グールドの著書のときもそうだったけど
音楽を通して私の中に存在している彼らもやはり
別な意味でもう1度死んでしまうかんじがするからだ。
それはとても哀しい。だってもういないのに(笑)
また不在を感じるなんて
でも、そのあと聴く音楽の中にこれまでよりいっそう
存在を強く感じてその輝きにまた泣けてしまう、、
という風に感情が溢れ過ぎるので。
そういう意味ではこの本を読むのには
良いタイミングだった。十分すぎるほど
移入の準備は整っていて(笑)
彼は時代とその流れと全ての出会いとに、
完璧なタイミングで出現したアーティストの一人だった。
そしてボサノバが生まれた。
自らを「エレーナ」「彼の妹」と、兄ジョビンを
「アントニオカルロスジョビン」「トムジョビン」と
ずっと三人称で書かれていたこの本、
終章にきて突然「私は」という一人称になり
実妹の視点で締めくくられる。胸が苦しくなった。
帰宅途中の電車で読んでいたら、あっという間に
目の前が霞んできたので(笑)終章は寝る前に
ベッドで読んだ。起きたら顔がすごいことになっていた(笑)
ジョビンの音楽を、何故こんなにも、世界中の人々をして
ずっと聴いていたいと思わせるのかを確信した。
何故、皆がカバーしたり、こうしてその魅力を
もっと知りたいと思うのかを。
彼の音楽に他の音楽にはない、遍在性を感じる。
そして、じっさいに「遍在」してるのだ(笑)
彼の音楽の数曲は世界で最も演奏されている曲だ。
私のお気に入りの駅前の酒屋さんでも流れていて
意味なくお店の人に微笑みかけたくなる、極上の笑顔で(笑)
言ってみればブラジルと反対側に位置する
この日本のスーパーやカフェ、エレベーターにまで(笑)
彼は居るのだ。永遠に消えない抽象物となってそばで微笑み、
寄り添っているようにすんなりと耳に入ってくる。
とても哀しいことを知った人が「笑いを忘れる」という事は多い。
でも、ジョビンの音楽にある感情はちょっと違っていて
「それが故に哀しみのほうをすっかり忘れてしまった人」の
微笑み、のようだと思う。
実際に、彼の微笑みは「抽象的な微笑み」と文中に称されている。
笑っているようにも泣いているようにも見える微笑、、、
ここで、さらに先日のペン大の講義で
菊地さんが言っていた言葉が思い浮かぶ。
この曲に時折現れる特殊なコードと、その響きについて。
分析するとそのコードの「機能」はSdm(サブドミナントマイナー)で
「全部、これ、といってもいいんじゃないかという気すら、する」と。
映画美学校の講義のときに、サブドミナントを
「暗い人の切なさ」とするとサブドミナントマイナーは
「明るい人の切なさ(暗さ)」のような、と表現していたことも。
(手元にノートがないので記憶違いの場合もありつつ書いてます)
たとえば私がジョビンの曲でとても美しいし
ちょっと変わった質感を持っていると思う大好きな曲、
Children's Game(歌つきだと「バラに降る雨」)には
Antonio Carlos Jobim - Children\'s Game
サビにいくときのつなぎ目のコードが
Fメジャー(だったかな)のトライアドなのに
どうしてもマイナーコードのように聴こえるところがある。
きっと曲の展開とメロディーとの兼ね合いなんだろうけど。
この曲も明るいというわけでもなく
かといって特別暗いわけでもない。
曖昧、というわけではない。喜びも情動もちゃんとある。
、、、というかんじで(ここで以前菊地さんが日記に
書いていた「ちょっとうれしい」「ちょっと哀しい」
=「グレー」についての言及を思い出す…)
なんていうか、そういう謎がジョビンの音楽にはある。
彼の言葉は、こんな風に表されている。
「ユーモアとメランコリーを越えた、
しかし常に知的な言葉、優秀な観察者のフレーズだ」
また、トムの親しい友人の言葉で
ボサノバについてこんなことが書かれている。
「ボサノヴァは制御された陶酔だね、
音の節約、ゲリラ戦てとこだ」
私もJazz対BossaNovaとか二項対立で考えはしないけど
JAZZミュージシャンである菊地さんも確信的に
「ジョビンの音楽(の複雑さや優秀さ)は
僅差で当時のJAZZを超えていた」と書いてあった。
それによって得た憂き目も。
あとがきに書かれている山下洋輔氏の文章が
優しさが溢れていて秀逸だった。
菊地さんは音楽理論においてもジョビンの音楽を
「樹木的」という。ジャングルのようだ、とも。
擬態しているのだ。美しい葉、と思って触ると
じつはカマキリだったりする(笑)
実際のコードもそうなっていてメロディーだけ聴いていると
稚拙に聴こえないでもない。よく耳を傾けると緻密なズレと
捩れのようなものが 見事な織物のように美しくも頑丈に
でもなんだか儚くはためいている。
(儚む、という文字は何故「人」に「夢」と書くのだろう?)
ジョビンの死について親しい友人が寄せた言葉を
憶えの悪い私でも反芻することが出来る。
「彼の死は1本の大木が倒れたのではなく
ひとつの森全体が消滅したのだ」
ジョビンとアメリカ、自然(地球)破壊と森林伐採、そして
ボサノバとジャズ、の関係性とその象徴性について
ぼんやりと考えていた。坂本龍一がなぜクラシックアプローチで
ジョビンへのオマージュともいえるCDを出したか、とか
ない頭でいろいろと(笑)いまさら納得していた。
こんな画像を観ても(シナトラもアンディの歌も
素敵だけどやはり私はジョビンのヴォーカルのほうにひかれる。
こんな表情をして歌う人をかつて見たことがない。)
森に行くと曲のメロディーが最初から最後まで聞こえる事があり
病気を樹液で治したりしていたジョビン。
本当に森の化身だったのかも(笑)
ちなみにブラジルでいう三月の水(雨ともいう)は
夏の終わりと秋の訪れを告げるもの。
輝きと楽しさに満ちた雨のようです。
そして東京も三月。
もうすぐ桜が咲きそうですね。
<三月の水>訳詩
Antonio Carlos Jobim
棒切れ 石ころ 道はおしまい
切り株に腰掛けて 少しばかり寂しくて
ガラスの欠片に 命と太陽
それは夜 それは死 それは糸 それは釣り針
ぺローパ樹木の 幹には「うろ」
カインガ-にランプ マチッタ・ペレイラ
嵐を呼ぶ木 崖崩れ 庭の深い神秘
望もうと望まいと 吹き捲く風 坂道は おしまい 梁に屋根裏
棟木のお祭り 降りしきる雨 せせらぎのお喋り
三月の雨が 疲れを洗い流してゆく
大地を踏みしめて しっかりと歩く 手には小鳥を パチンコのつぶてを
空を飛ぶ鳥 地に堕落した鳥 小川に泉 一切れのパン 井戸の底
道はおしまい 顔に失望を浮かべ 少しばかり寂しくて
棘と釘 それは尖端 それは点 滴がしたたる それは結束 それはお話
魚の仕草 輝く銀 朝の光の中 煉瓦が運ばれてくる
薪が燃えて 一日の始まり 山道のはずれ 酒瓶を足元に 寝床に
身を横たえて 泥道の真ん中で 故障した車 はじめの一歩
橋を架けて カエルが鳴く ヒキガエルが鳴く 朝日の中で 輝く森
三月の雨が降り 夏もおしまい 君の胸に宿る 新たな命の約束
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先日のペン大の講義で菊地さんが楽理のほかに
ジョビンの曲の詩の美しさについても触れたことが
ずっと記憶に残っていた。
で、口調がとても想い溢れていていっそう気になっていた。
『「空の鳥、地上の鳥」ってね。泣けますよ』
なんて仰るし、、、。
(最後のほうに訳詩を発見したので転載します)
ジョビンについての大著を1月ほど前に
読み終えていたのでなおさらだったのかも。
作家である実妹が書いた分厚い本で、いつか読むだろうと
思っていたけれど、よほどの思い入れでもないとこういった本に
入り込めなさそうだったので様子を見ていた。
どこにでも置いてあるという著書でもなくて
(なんとなくネットで買うのは避けたく思っていた)
様子を伺っていたのだった。
殊に愛する音楽にまつわる、
もうこの世には存在しないけれど
そのことによって一層顕わになるように
音楽や音楽家の存在を純粋に著した書を読む時には
出会いのタイミングを大切にしている。
早すぎても遅すぎてもいけない。(ジョビンの音楽のようだ)
こういった音楽家の死の場面を扱っている著書を読むと
それを自分でも追体験することになるので
移入が強くなりすぎて辛い場合がある。
グールドの著書のときもそうだったけど
音楽を通して私の中に存在している彼らもやはり
別な意味でもう1度死んでしまうかんじがするからだ。
それはとても哀しい。だってもういないのに(笑)
また不在を感じるなんて
でも、そのあと聴く音楽の中にこれまでよりいっそう
存在を強く感じてその輝きにまた泣けてしまう、、
という風に感情が溢れ過ぎるので。
そういう意味ではこの本を読むのには
良いタイミングだった。十分すぎるほど
移入の準備は整っていて(笑)
彼は時代とその流れと全ての出会いとに、
完璧なタイミングで出現したアーティストの一人だった。
そしてボサノバが生まれた。
自らを「エレーナ」「彼の妹」と、兄ジョビンを
「アントニオカルロスジョビン」「トムジョビン」と
ずっと三人称で書かれていたこの本、
終章にきて突然「私は」という一人称になり
実妹の視点で締めくくられる。胸が苦しくなった。
帰宅途中の電車で読んでいたら、あっという間に
目の前が霞んできたので(笑)終章は寝る前に
ベッドで読んだ。起きたら顔がすごいことになっていた(笑)
ジョビンの音楽を、何故こんなにも、世界中の人々をして
ずっと聴いていたいと思わせるのかを確信した。
何故、皆がカバーしたり、こうしてその魅力を
もっと知りたいと思うのかを。
彼の音楽に他の音楽にはない、遍在性を感じる。
そして、じっさいに「遍在」してるのだ(笑)
彼の音楽の数曲は世界で最も演奏されている曲だ。
私のお気に入りの駅前の酒屋さんでも流れていて
意味なくお店の人に微笑みかけたくなる、極上の笑顔で(笑)
言ってみればブラジルと反対側に位置する
この日本のスーパーやカフェ、エレベーターにまで(笑)
彼は居るのだ。永遠に消えない抽象物となってそばで微笑み、
寄り添っているようにすんなりと耳に入ってくる。
とても哀しいことを知った人が「笑いを忘れる」という事は多い。
でも、ジョビンの音楽にある感情はちょっと違っていて
「それが故に哀しみのほうをすっかり忘れてしまった人」の
微笑み、のようだと思う。
実際に、彼の微笑みは「抽象的な微笑み」と文中に称されている。
笑っているようにも泣いているようにも見える微笑、、、
ここで、さらに先日のペン大の講義で
菊地さんが言っていた言葉が思い浮かぶ。
この曲に時折現れる特殊なコードと、その響きについて。
分析するとそのコードの「機能」はSdm(サブドミナントマイナー)で
「全部、これ、といってもいいんじゃないかという気すら、する」と。
映画美学校の講義のときに、サブドミナントを
「暗い人の切なさ」とするとサブドミナントマイナーは
「明るい人の切なさ(暗さ)」のような、と表現していたことも。
(手元にノートがないので記憶違いの場合もありつつ書いてます)
たとえば私がジョビンの曲でとても美しいし
ちょっと変わった質感を持っていると思う大好きな曲、
Children's Game(歌つきだと「バラに降る雨」)には
Antonio Carlos Jobim - Children\'s Game
サビにいくときのつなぎ目のコードが
Fメジャー(だったかな)のトライアドなのに
どうしてもマイナーコードのように聴こえるところがある。
きっと曲の展開とメロディーとの兼ね合いなんだろうけど。
この曲も明るいというわけでもなく
かといって特別暗いわけでもない。
曖昧、というわけではない。喜びも情動もちゃんとある。
、、、というかんじで(ここで以前菊地さんが日記に
書いていた「ちょっとうれしい」「ちょっと哀しい」
=「グレー」についての言及を思い出す…)
なんていうか、そういう謎がジョビンの音楽にはある。
彼の言葉は、こんな風に表されている。
「ユーモアとメランコリーを越えた、
しかし常に知的な言葉、優秀な観察者のフレーズだ」
また、トムの親しい友人の言葉で
ボサノバについてこんなことが書かれている。
「ボサノヴァは制御された陶酔だね、
音の節約、ゲリラ戦てとこだ」
私もJazz対BossaNovaとか二項対立で考えはしないけど
JAZZミュージシャンである菊地さんも確信的に
「ジョビンの音楽(の複雑さや優秀さ)は
僅差で当時のJAZZを超えていた」と書いてあった。
それによって得た憂き目も。
あとがきに書かれている山下洋輔氏の文章が
優しさが溢れていて秀逸だった。
菊地さんは音楽理論においてもジョビンの音楽を
「樹木的」という。ジャングルのようだ、とも。
擬態しているのだ。美しい葉、と思って触ると
じつはカマキリだったりする(笑)
実際のコードもそうなっていてメロディーだけ聴いていると
稚拙に聴こえないでもない。よく耳を傾けると緻密なズレと
捩れのようなものが 見事な織物のように美しくも頑丈に
でもなんだか儚くはためいている。
(儚む、という文字は何故「人」に「夢」と書くのだろう?)
ジョビンの死について親しい友人が寄せた言葉を
憶えの悪い私でも反芻することが出来る。
「彼の死は1本の大木が倒れたのではなく
ひとつの森全体が消滅したのだ」
ジョビンとアメリカ、自然(地球)破壊と森林伐採、そして
ボサノバとジャズ、の関係性とその象徴性について
ぼんやりと考えていた。坂本龍一がなぜクラシックアプローチで
ジョビンへのオマージュともいえるCDを出したか、とか
ない頭でいろいろと(笑)いまさら納得していた。
こんな画像を観ても(シナトラもアンディの歌も
素敵だけどやはり私はジョビンのヴォーカルのほうにひかれる。
こんな表情をして歌う人をかつて見たことがない。)
森に行くと曲のメロディーが最初から最後まで聞こえる事があり
病気を樹液で治したりしていたジョビン。
本当に森の化身だったのかも(笑)
ちなみにブラジルでいう三月の水(雨ともいう)は
夏の終わりと秋の訪れを告げるもの。
輝きと楽しさに満ちた雨のようです。
そして東京も三月。
もうすぐ桜が咲きそうですね。
<三月の水>訳詩
Antonio Carlos Jobim
棒切れ 石ころ 道はおしまい
切り株に腰掛けて 少しばかり寂しくて
ガラスの欠片に 命と太陽
それは夜 それは死 それは糸 それは釣り針
ぺローパ樹木の 幹には「うろ」
カインガ-にランプ マチッタ・ペレイラ
嵐を呼ぶ木 崖崩れ 庭の深い神秘
望もうと望まいと 吹き捲く風 坂道は おしまい 梁に屋根裏
棟木のお祭り 降りしきる雨 せせらぎのお喋り
三月の雨が 疲れを洗い流してゆく
大地を踏みしめて しっかりと歩く 手には小鳥を パチンコのつぶてを
空を飛ぶ鳥 地に堕落した鳥 小川に泉 一切れのパン 井戸の底
道はおしまい 顔に失望を浮かべ 少しばかり寂しくて
棘と釘 それは尖端 それは点 滴がしたたる それは結束 それはお話
魚の仕草 輝く銀 朝の光の中 煉瓦が運ばれてくる
薪が燃えて 一日の始まり 山道のはずれ 酒瓶を足元に 寝床に
身を横たえて 泥道の真ん中で 故障した車 はじめの一歩
橋を架けて カエルが鳴く ヒキガエルが鳴く 朝日の中で 輝く森
三月の雨が降り 夏もおしまい 君の胸に宿る 新たな命の約束
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いつも楽しく観覧しています。
あなたのように音楽を想っている人が世界にいるんだなと嬉しくなります。その熱量や愛情を可視化して知覚できることはとても素敵なことですね。
レイヤーが幾重にも重なって、一つの美しい物理を体現しているような楽曲を好んで紹介されている印象を受けます。
そして、「そうそう僕もそう思っているんだよ」胸がいっぱいになり。とても爽快になれます。
文章でしかあなたのことを知りませんが。
いつかあなたの曲も聴けるといいなと思っています。
豊かな音楽的体験をありがとうございます。
たった一人でもいいと感じてもらえれば
うれしいのかもしれないな、と
思ったことを思い出しました。
でも、それじゃあ商業音楽家には
なれないんですよね~
好きな音楽は大曲より小作品のほうが多いし、
私の音楽も小品ばかりなんです(苦笑)
いつの日か多くの方の耳にしてもらえるよう、
音楽や、この備忘録も続けたいです。