言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

火星でダンス

2005-10-25 22:57:22 | ピアノレッスン
一見異質な<Classic>と<POPS>音楽体験のお話。

<classic(ピアノレッスン)>

前回の日記でも書いたけど3拍子というリズムは
もともと日本の音楽には存在していないという話を
物理学者でもあるピアノ教師が言っていた。
そして3拍子の曲を演奏するのは日本人は苦手である、
ということだった。

たまたま、私が<POPS>を初めて作曲した卒業制作曲が
3拍子になったので、何とタイムリーな話題、と思って
耳をダンボにして聴いたのだった。

そういえば私が以前日記で取り上げたジョビンの
children's gameも3拍子。ジョビンのボサノバ曲も好きだけど
どのアーティストのものでもインストゥルメンタルの
短めの珠玉な作品が好きで、3拍子の曲も多い。

何故レッスンで3拍子の話になったかというと
今度新しく出来た松涛のサロンで発表会があるらしい。
せっかくなので参加する事にする。問題は曲選び。
バッハは前回弾いたし急な話だったので
特に弾きたい曲のイメージを描いていなかった。
お薦めの作品はないでしょうか、と訊く。

彼はショパンのマズルカはどうだろう、と言った。
私は憂鬱で甘くロマンティックな(あくまでもイメージ)
ショパンよりも同じロマン派でもバッハのように明晰な
メンデルスゾーンの例えば無言歌や
ショパンのモダン解釈的なスクリャアビン、
若しくはラヴェルやドビュッシーの方が好きなのだけど、
そこに至りたいのであれば尚更、順番としてショパン後期作品の
マズルカを弾くのが好ましい、との事だった。
そして師が実際に何曲か弾いてくれた。
彼はマズルカ演奏の名手でもある。(マズルカも3拍子)


マズルカには3種類あるそうで、
1.土着性があってシンプル(民族的なリズム、曲調のもの)
2.内面性を表現したロマンティックなもの
3.以上の2つの要素を兼ね備えた土着的かつロマンティックなもの

という3種類を全て弾いてくれた。演奏も曲も素晴らしい。
前半はよく聴くようなショパン節だったけど
私は3番目に弾いた民族的なリズムを持ちながらロマンティックという
2面性を持ったものが圧倒的に好きだった。
しかしそう告げると一番難易度が高いとの事、、、チャレンジしてみたい。

<POPS(商業音楽)>

卒業制作がやっとやっと、期限を大幅に過ぎて完成。
自主的に点数を付けたところ一番最初の時点では、悲惨なもので
20点くらい、今はやっと50点というかんじ、、、
こういう曲は、きっと楽曲を数多く聴いたり
創作経験豊富な方々から見ると稚拙なんだろうな~と
想像しつつも今はこれしか作れないので、それも踏まえて提出。
POPSになっているのかどうか…(苦笑)

録音技術科の講義を受講していないので
音響的な技術を全く使うことが出来ず当然
ProToolsが使えない、録音機材、MIDIキーボード、
プロフェッショナル仕様の音楽ソフトなどツールがない、
1から自分で全て作るという作曲経験が無い、など
無い無い尽くしだったので、完成しただけでも良かったと思う。

このPCにデフォルトで付いてるようなオマケソフトで
3拍子を選択すると、リズムのループは実際には数百あるのに
4つしか出てこないので、リズムセクションは諦めて
曲を作っていった訳だけど、結果的にはなんだかんだと
やってるうちにドラムパターンも自分で作って入れたし
(出来はともかく…)当初作りたいような雰囲気にどう近付くか
少しずつわかってきたし何より、楽しかった。
1曲なのに時間かかったけど。

最初ピアノで作ったので右手のコードと左手のルート音で
まず録音して、そこから膨らませていったので
こういうかんじ、という漠然とした曲のイメージはあったものの、
そこに向かうというよりやっていくうちにそうなった、
という状態のほうに近い。ダンスしたくなる曲が好きなのだ。

とはいえ、そもそも3拍子でノリノリに踊るのは
ちょっと難しいんだけど、私が好きな3拍子の曲は
多分、180bpm以上の速度のものだと思う。今回のも183bpm。
だと、身体を左右に揺らしてず~っと踊る事が可能になる。
残念ながら今回の曲は3拍子の持つビートを表現できなかったので
踊れる曲ではないんだけど。

<火星人のダンス>

師が言っていた面白い事。
例えば日本の舞踊の動きというのは単調な動きをする
農耕民族的なリズムで、地に根ざすような動きこそ多いけれど、
例えばバレエのように跳躍する動きはない。

3拍子のリズムというのは、バレエや乗馬のように
跳躍して落ちる時までをカウントした時に(付点音符)
初めて発生するリズムで、ああいうスイングした
リズムというのはそもそも日本の音楽にはない、という話だった。
もちろん、音楽というのは「ダンス」から
発生したものだ、という事を前提として。

これを踏まえ物理学者的見地から彼は更に面白い事を言った。
もし、火星人や金星人などの異星人が地球の芸術を見たとき
例えば絵画のように視覚的な表現であるなら
ある程度はそれを理解出来るだろう、しかし舞踏というのは
引力や重力に関係していて無重力の月に行けば跳躍しても
地球と同じような3拍子にはならない。

重力や引力が違えばリズムが変わるので舞踏の表現は
地球のものとは全く異質なものになってしまうだろう、と言った。
マスターヨーダ、例えが面白すぎ。

そして、バレエで何故トウシューズでつま先立ちを
するかというと、上下する両方の動きを可能にするためで、
地上から離れようとする跳躍を強調すると共に
ダンスの動きというのは「飛翔する事へのあこがれ」なのだ、と。
つまり、重力に逆らって浮遊するごとく
それは軽さ…自由への憧れのようなものなのだ、と私は解釈した。
面白い…楽しいなと思う。
とてもクラシックピアノのレッスンとは思えな~い、
センセイの話もとても飛躍的(笑)

火星人や金星人のダンス、見てみたい。

プチ小泉チルドレン戦法

2005-10-19 20:31:18 | 日々
体調のせいで休むはめになったので怠い体と頭を抱え、
テレビをぼんやりと無音で付けていたら
党首討論が中継されていたので何となく音を出す。
ぼんやり見ていた割には、なかなか見応えがあって
ちょっと夢中になる。
前原さんという人は小泉首相という役者に
充分太刀打ち出来るくらいのなかなかの役者ぶり。
政治家の演技力は重要。発言の仕方やタイミングも
従来の野党の党首とは、どことなく違う。
「イデオロギッシュなやりとりをする気はない」と宣言したように
(政治にあまり詳しくない私がこうして
会話に反応出来るくらいだし)発言はなかなかラディカルで
一筋縄ではない。こういう変幻自在な柔軟性も重要。
(政治家ってそれ以外知らないっていう
ガチガチの真面目人間が多いし)

世間的にも言われているようだけど、まかり間違えば
彼の政治的な思想というのは小泉自民党とも多少かぶる
要素もあるようで、(まあ、敵を欺くにはまず味方から、
というかんじもしないでもないけど)
それが当の小泉首相とどんなやりとりになるのかと
ちょっと楽しみだったんだけど。

で、そんな前原さんだからなのか小泉首相の反応はというと
黒と言えば白、と答えるような、ステレオタイプの
従来の野党の党首に対する時よりも心を開き
意見に耳を傾けていた様子が少なからず見て取れる。
やり方を(長引く米国基地問題など)否定的に責められているように
思える言い分にも、目をつぶってうなずいたりしている場面は、
これまでに見た事のない痛い所を突かれた、
といったような表情にも見えなくもない。

前原さんには味方でない相手の懐にも入っていけるような
対話が出来る資質を感じられるし目線が
国民に近い人のように思えた。(若いor世代が近いせい?)
この人には与党の党首だけでなく
そもそも属性を越えた他者とコミュニケーションを
とるのが巧いんだろうな~と思わせる何かがある。(当然国民とも)
そして政治家にそういう「当たり前の事」が出来る人は案外少ない。

感情の昂りによる論点のズレも従来の野党の党首より少なかったし、
それでいて、責める部分は責めていた。いつ靖国参拝に
触れるんだろうと質疑の持ち時間が少なくなってやきもきしていたら
最後の最後に中国との天然ガス問題に触れたのを機に持ち出した、
なかなか絶妙なタイミング。

若者の言い分に耳を傾けるようなベテランの余裕を
演出していたかのように終始落ち着き払っていた小泉首相だったが
『私人としての参拝』を演出し憲法を持ち出したのは
あたかも国民の日本人的な感情を引き込むかもしれないが
冷静に考えればわかるけど(国外から見れば)結果的に政治家という
公人として軽率な行動&参拝儀礼への批判、
A級戦犯と共に靖国に葬られたくないであろう戦没者も居るといった
合祀についてなどの根本的な問題点を提示しつつ
前原さんは巧く小泉首相のヒステリックな感情を揺り動かしたようだ。

アメリカの情報を全面的に疑いもせず鵜呑みにして事実確認を
しないまま日本政府からの声明を出した事(大量破壊兵器の事で)
主体的な独自の情報収集能力に欠けている事や外交不在の小泉政権、
などと集中的に攻撃を受けた我が国の首相は最後の最後には、
やっぱり気違いじみたダークサイドの「激昂」ぶりを発揮していた。
そんな首相の軽薄さを引き出す事に成功した初戦は
フォースを発揮していた前原さんに軍配あり、といったかんじ。

にしても、いつも思うのはいざ報道になると
さすがに自民が正論を言っているような内容に
編集されている事が多い。正統な判断が可能になるので
国会中継は出来れば生で見た方が良いなとつくづく思う。
報道を100%信じちゃいけない。こんな風に
密かに国民は正統な判断力を奪われているようにも思う。

途中で、ベイダー卿(小泉)が
プチ小泉チルドレン前原(ルークスカイウォーカー)に
「Join me.My son!」と言う所を想像して見ていた自分に苦笑。

日本人はやっぱりアメリカにかぶれているなぁ~
まあ、でもシスの復讐はある意味で
ブッシュ批判だそうだけど(日本のメディアは
当然、そんな事には一切触れられず規制があったらしい)
↑こんな事は世間一般的には報道されないのも恐ろしい。

その事に気づいていないアメリカナイズが
当たり前になっていて疑いもしない日本国民のことも、
ちょっと怖いなと思うここ最近、
「ハリウッド映画全面上映禁止」のマニフェストを出した
はちゃめちゃアンチアメリカの太田首相(爆笑問題)
の存在は気になります(笑)

私自身は諸外国で同じ個人主義や自由を掲げるにしても
太田首相も言っていたけど(笑)アメリカのように
善悪や敵と味方というように(ディズニーもそうだ)
一方的に敵を作り出すような大半の二元論的ハリウッド映画よりは、
真の精神性の自由が感じられるような
成熟したヨーロッパ映画の方が断然好きなんだけど
やっぱり日本人は自民党&アメリカという虚像を
少しも疑いもせず大好きな人が多いらしい。

ネットの報道欄(やりとりを忠実に書いていた
朝日新聞のウェブサイトより)


「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と
憲法19条に規定されている。総理大臣である小泉純一郎が
一国民として参拝する、しかも平和を祈念する。
平和と繁栄は現在生きている人だけで成り立っているのではない。
過去の戦場で倒れた方々の尊い犠牲の上にあることを
片時も忘れてはならないと参拝している。
それがどうしていけないのか。私は理解できない。

 〈前原代表〉 誰がいけないと言ったか。
私はA級戦犯が合祀(ごうし)されている間は行かない。
靖国神社が45年まで国家神道の姿として存在していた。
(両手を胸の前で合わせて)これはないですよ。
これはお墓参りだ。神社に行くときは頭(こうべ)をたれるものだ。
しかも、ポケットからさい銭出してチャリン、
こんな不謹慎な話はない。私人としての参り方を
演出したかったのかもしれないが、むしろ亡くなった方に失礼だ。

 憲法には思想信条の自由だけでなく、政教分離も書いてある。
大阪高裁では憲法判決も出ている。中国の多くの問題をトータルに考えず、
この4年半は外交不在の小泉政権だ。

デュアリズム

2005-10-14 00:57:32 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
10月13日 木曜日 高等科講義初日
(近々、この日記のタイトルも変えてみよう)

卒業制作もほぼ完成した状態で
簡単には消えてくれない幾許の憂鬱を抱えいざ映画美学校へ。

ところで憂鬱と憂愁の意味は同じだろうか?
英語だとどちらもmelancholyだけど
日本語は少々表現が違うようだ。
憂鬱は「気がふさぎはればれとしないこと」で
憂愁は「うれえもだえること。悲しみなげくこと。うれい。」
そうだ、憂愁は「嘆き」。こちらのほうが
どちらかというと能動的なかんじがするし
「歌」とか「踊り」とかいう表現に結びつく
行動的なイメージがあるので「鬱」より
「愁」のほうが良いなと思う。

とにかく短調が好きな私。

そういえば、ミシェルルグランが言っていて
印象的だったのは「僕の人生は不幸ではなくどちらかというと
幸福だけれど、僕が作る音楽は暗いメロディーも多いんだ」という
言葉はまさに憂愁的。

そういえば、ここ最近知ったのだけど
ルグランのお姉さんは何と!私が大好きな
Swingle singersのメンバーの一人だそうだ。
全然知らなかったのでこの大好きな両者が結びついたので
うれしい発見だった。

で、秋になるとお気に入りの「Song For Europe」、
邦題は「ヨーロッパ哀歌」(RoxyMusicの中でも
かなりコアなナンバー)が似合う季節になってきた。

後半のピアノソロとブライアンフェリーの流暢な
おフランス語のシャンソン風哀歌&泣きのSAXが涙を誘う。
気を抜くと本気で泣ける'80年代風の大げさな仕上がりが
恥ずかしくも痛い。デヴィッドシルヴィアンのヴォーカルとも
ちょっとカブる濃い歌声、もれなく胸毛付き。

そんな泣ける欧州的憂愁に相反して好きなのは
逆に笑おう、踊ろう、もしくは怒ってるというかんじの
上向きな黒人の曲。簡単には拭えないような
表出した哀しみ、のような何かをポジティブさが
包みこんだように力強いビートの曲だ。
いつ聴いてもポジティブな嘆きを感じる。

さて。今日、講義で最も印象に残った新たなキーワード
「デュアリズム」

アンビバレントとか両義性などの言葉と類似性があるのだろうか。
内部に2つの相反するものがあってこそドラマが生まれる、
という発想から展開される音楽理論の論証(だったと記憶している)

確か、長調と平行短調の関係を説明していたと
思うんだけど、デュアリズムという概念に気を取られて
加えていつもの蛍光灯の寒々しい教室と違う
IDEEの意匠による柔らかい白熱灯の試写室での
第1回講義だったので寝不足も手伝って
何故か妙に柔らかく聴こえる菊地先生の声色にうっとり、
(風邪を召していた?)何度か
こくり、こくり、とお船を漕いでしまった、、、ので
内容が曖昧になってしまったけど概念が印象に残る。

流石に、講義内容は初等科とは全く違った。
初日の今日は、初等科で学んだ事を
バークリーメソッドの概念以外にも
LCC(リディアン・クロマティックコンセプト)や
ラングメソッドの概念も取り入れながら進められていく。

初等科と違うのはそれだけではなくて
特に講義の内容は決定していないそうで
生徒の要望や、学習度に合わせて内容が変わっていく、
という事なのだった。(前回の初等科と高等科が
ほぼ同レベルになってしまった伝説はここから)

早速、相変わらず親身な菊地先生は
生徒全員の表情を読み取りながら決を採る、
試験で最も回答にバラつきのあった「テンション」について
「テンションのわからない人」
「ハ~イ!」と元気よく手を挙げた私を含める数名が居たので
次回にそれについて再度触れられる。

最初に言われた言葉も印象的だった。
「こういった根本的に学習するという行為は
(物理でも数学でも)場合によっては、
なんだ、こんなだったのか!と目から鱗の場合もあれば
絶望する場合もあるので、それは氏とか生まれとか
そういった事に関わる、、、、という事を仰っていて
私も激しく同感。学習するということは
良くも悪くも自分の能力の限界を学ぶ事でもある。

よく、自分探しとかやりがいとか生き甲斐とか
そういうものを探す事もあるようだけど
そんなものを探しに旅に出るとか(笑)
まあ、ありがちな話ではあるけれど、たまたま友人と
そんな話をしていて、たぶんそれは探すものではないだろう、
と友人は言っていた。あるとしたら、それは
既に自分の中に在るものじゃないか、と言っていて
その事に私もなるほどな、と思ったのだった。

この楽理の講義を受講するようになって
つくづく感じるのは、ここに至るまでの動機は
少しずつ自分の中に積み上げられていたんだな、と
思える事があった。それは子供の頃から既に
始まっていて、振り返れば片時も忘れた事のない事だった。
それはやっぱり私の中に在る
決して消えない音楽の存在なのだ。

そんなものが在ると無いとでどちらが良いとか悪いとか
幸せだとか不幸だとかは自分が決める事だけど
別に無いなら無いで、良いと思うし
在れば在ったで自分の限界を必要以上に思い知る事にもなり
同じく自分という存在にかなり強烈に向き合う事にもなる。
それは時に絶望感を生む場合もあるだろうし
逆に喜びをもたらす事もあって、やはりそれは
自分次第だし、それを才能と言うのかもしれない。




1年在籍した事で初等科で一緒だった
何人かの顔見知りの友人たちと短い談笑をして
(知ってる女子が二人居た。初等科の時よりも女性が多い)
卒業制作の仕上げに地下のいつもの教室へ。

その途中、音楽美学講座ではなくてたぶん
映画のほうの講座を受けている数人の若い
派手な男女のグループの一人が、
察するに菊地成孔ファンらしく、尋常じゃないテンションで
待ち受けていたけれど、生徒の質問に
熱心に答えられていた菊池氏に遠慮して
「また来週もあるし」と諦めて帰る場面に出くわす。

そういえば、私の日記も日々(更新していないにも
かかわらず)「憂鬱と官能を教えた学校」とか
「バークリー・メソッド」「官能 映画」「憂鬱と官能」
「音楽美学 私塾」とかいうキーワードに
ほぼ毎日該当していてアクセスがある。gooのほうは
多いときで一日120プレビューされているようだ。
内容が拙くて申し訳ないんだけど。

菊地さんは11月にとうとう国営放送NHKに出られるそうで
菊地人気は最近凄いな~と思っていた。

ところで、3拍子って日本古来の音楽には
ないリズムだそうだ。
私はその3拍子が好きだということに最近気がつく。
で、卒業制作の曲は3拍子となった。
恥ずかしい曲になっていると思うけど
初めての作/編曲なのでしょうがないか・・・











合格通知と誕生日

2005-10-11 15:59:32 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
朝自分のmixiのトップ画面を見て
(こんなサービス去年は無かったと思う)
誕生日だということを思い出したのに
出勤したら再び忘れ、会社で言われて思い出した。

哀しいかな誕生日の当日って忙しい大人になると
都合上後日になったりして味気ない日になる場合もある。
家族や友達と過ごした
子供の頃の誕生日というのが一番幸せな誕生日の
記憶なのかも、などと考えていた。

今日も仕事の締めと卒業制作の締めが重なって
身動きが取れず、いつもの日と同じ、
まだ仕事&そのあと卒業制作で学校へ。地味~~(笑)
しかし自分では誕生日を忘れてたけど
憶えてくれていた会社の人手紙とかメールを含め
おもいがけないプレゼントが届く。
誕生日の不意のプレゼントはたとえあんぱんでも(笑)
うれしいものらしい。私もいつか誰かにしてあげよう。

晴れていて会社のすぐそばなので
昼休みに以前アートフェアで観て好きになった
岡崎乾二郎展に行く。
http://www.nantenshi.com/exhibition.html

つかの間の時間だったけどじっくり見ていたら
あっという間に30分が経過していた。
風景でも具象でもないのに全く見飽きない魅力的な絵。
資料にあった岡崎氏のコメントも興味深かった。

絵の具の質感、色や透明感、構成、タッチの強弱など
とても美しい。何だかとても音楽的だなと思った。
好きになった作品のうち
2つは音楽美学講座の入学金で買えた、、、!(笑)
不合格だったらやけくそで(笑)即購入したかもしれないが
じつはつい先日、学校で合格したことを知らされる。
岸野先生にがんばってね、とお言葉を頂く。うれしい。
1日早いプレゼントとなった。

卒業制作で学校に行っていたので
スタッフ富樫君が気を利かせてくれて
初等科の講義に来ていた菊地さんにその場で渡してくれたので
菊地さんが採点し、即OKとなり
岸野先生から直接通知を受けたという次第。

3回不合格でやっと合格した、とかいう人の話を聴いていたし
私の場合は期限ぎりぎりだったので
もうそれも間に合わないのでダメだったら
諦めるしかなかった状況だったので焦りました。

良かった、、、
去年の誕生日の日記での決意を思い出す。
1年間はあっという間だった。

来週からまた音楽美学講座がスタートする。
今度は高等科、やることも全然変わってくるだろう。

以下、映画美学校 音楽美学講座
菊地氏コメントより

高等科は事前に郵送される試験用紙による自宅受験により、
入科審査に合格した方のみ対象としたカリキュラムになっており、
一般楽理(古典的な楽典およびバークリー・メソッド)を
理解、咀嚼しているという前提で楽曲分析から始め、
作曲、編曲、批評の実習、バークリー・メソッド以降の
音楽理論への越境的な学習、比較理論ラボ的な研究などに及びます。

武者震い~(笑)

卒業

2005-10-03 16:05:27 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
好きで履いてる二足のわらじが脱げそう。

どちらもピークを迎えていてハードな週を過ごしてた。
先日やっと菊地さん出題の高等科の試験を提出完了。

難しさのあまり驚愕し発熱する。回答に偉く時間がかかった。
とてもその場ですぐに回答出来る代物ではない。
たまたま最初から高等科を希望してきた
果敢な人が居てその人が同じ試験を受けていた場面に私も
卒業制作のため、居合わせた。けれどその人は
10分も立たないうちに高等科に入れないと実感した模様で
書き込みのないままギブアップしていた、恐るべし難問。
(でもそんな方は初等科から始めて正解です)

多分、クラシックなどをやっていて或る程度自信があって
来たんだろうと思う、私も多少の自負心があって
去年初等科の試験を受けたけど数秒で撃沈し現在に至る。

たしかに去年初等科に入るときの試験も難しかった、
クラシックをちょっと齧ったくらいの私には
知らない語彙もたくさんあった。
クラシックを多少やると音楽の全てを
知ったような気になるのは権威主義的な
日本のクラシック教師の教育のせいかも。
私の二人のクラシックのピアノ教師は
独特な日本的クラシック界の因習に収まりきれず
そこからはみ出しちゃったマイノリティとも言える、
なのでちょっと魅力的な人たちなのである。

音楽の世界はまだまだ未知のことが多い、
当たり前だけど全く一筋縄じゃない。

私にとっては今回の試験も1年間学習して、やっと何とか
回答にこぎつける事が出来る、という状況で
このことは一朝一夕で頭に入る事ではないということも
いま実感としてとてもよくわかる。
蓄積された既知の知識をベースに、そこにプラスして
少しずつ積み上げるように理解出来たことなのだった。
この幾分の難問をソラで回答出来るくらいなら
むしろ楽理を学びにくる必要はないでしょう。

ただ出題されている事がどんなものなのか
多少推測したり、たとえ間違えたとしても
今こうして回答出来るということを
過去の状態から遡って思考してみると
この楽理の門を私は叩いて、
とりあえず今くぐったんだな、と実感する、、、
そしてやっとスタート地点に立ったのだ。
試験の結果はまだわからない。
講師菊地氏の採点と判断によって
実力不足で高等科へ進学出来ない可能性もある。

正直難しくて1年間私は何をやっていたの!?と
理解不足を痛感してちょっとヘコむ。
演奏で或る水準まで行く事もかなり難しいけど
作曲や編曲の道も更に険しい。
少なくともこの卒業制作に関しては
どんなに体力や時間を割いても不思議に
イヤにはならず(時々逃避行したくなる時はあるけど…)
結局事に向かっている。途中試験でテンションやら
スケールやらが夢に出てきてうなされそうになっても
やはりもっと知りたい、もっと理解したい、と
紐解きたく思う気持ちは更に強くなる。

試験問題に悶々としていた時
これってまるで恋愛感情みたい、と考えていた。

かなわぬ恋愛。完全な片思い。
理解出来なくて切ない、
いや、理解出来ないんじゃなくて
敢えて完全には理解したくないと思う部分もあって
常に憧れて、対象と距離を置いて
神秘的にしておきたいかんじ。
その状態はちょっと辛くて切ない。
まさにサブドミナント、、、

ちょっと大人になればこうして人工的な
恋愛感情のしくみを知ってしまうものだけど
対象が音楽でよかったと思う、、、いや、良くない?
(笑)確かに私は音楽を好きで愛していて
しかも現時点ではまだ独りよがりの状態。

私が好きな音楽を作る人たち、もしくは
奏でる人たちには一方的片思いじゃなくて
音楽のほうにも愛されているイメージがある


さて、現実問題として試験を提出して
とりあえず一安心、そして次の難関は、卒業制作、
私は数少ない未提出者のうちの最後の一人、、、

ここのところ2、3週間仕事の後に
美学校で作業をしていて
(会社が学校から歩いて1分のところで幸い)
時々は終電近くまでやる事もあって
あんまり若くないので体力的にはしんどいけど、
苦にならないので不思議。
しかし気持ちに対して体が多少悲鳴をあげている模様。

徐々に色彩や輪郭を帯びてくる曲に接するのは
まるで飽きる事がない。多少体調が悪くても苦にならないのは、
律動や、水平に運動する音符がふとした瞬間に奏でる
垂直の運動が耳に残るような
つまり意図的に作ったコードとメロディーと

逆に意図的でない所に生まれる、たとえば
倍音の残像ハーモニーが奏でる煌めく星が偏在する
無限宇宙的音楽美、という風に
「魅力的なメロディー」というのは
必然的に存在している気がする。
で、それは決まりきったものでもなく
自己完結型の独りよがりで自閉的なものでもない。

例えばそれはどの国の、どんな人の心も
捉える事が出来るような普遍的でありながら
魅力的なメロディー。
作曲者を知らないのに、誰もが知っているような、

だから私が好きな曲は(アレンジによる部分も大きいけれど)
どの部分からちょん切ったとしても
美しいハーモニーを感じられるように
どこから切ってもポッキン金太郎飴状態なもの(笑)

そんな風に名作となる音楽というのは
もしかすると作為だけじゃなく(それもなくてはならないが)

必然と偶然の両方のエネルギーが働いて
生まれるものなのではないかと思う

さて。
卒業制作のリミットは延ばしに延ばして頂き
(まるで予備校の先生のような
皆の頼れるアニキ富樫君に感謝&感謝)

とうとう金曜日いっぱい。
現状は残念ながらまだ曲に対する明確な自信はない