11月24日 第3回音楽美学講座
楽理高等科 講義録
間が開いて約1ヶ月ぶりの講義。
モードの概念についてPart1とPart2に分けて学習。
その境界はPOPSであるか、そうでないかの境界となる。
※モードの概念についてはこちらを参照。
尚、コードについてはこちら
コードの概念で作られた曲の中に展開される
モード的な進行について、気になっていた。
私が、いつか音楽の上で表現したい事でもあるけれど
未だ自分で実践してその事を試した事はない。
「モード」というのはある意味で抽象表現的な世界。
(例えば色彩的な差異があるという程度で
情動は強くは存在していないという意味において)
ただ、その色彩的差異から生まれる独特な美しさを感じられる。
但しモードを多用したものは必ずしも万人向きではない。
つまりヒットチャートには入らない。
「コード」の世界というのはモードと違って
感情移入しやすく展開も「分かりやすい」
という意味で絵画に喩えると具象的なイメージ。
もしくは表現主義的と勝手に喩えておく。
21世紀の今日でも、未だこてこてのダイアトニック的
コード展開の曲はヒットチャートの中に存在している、
との事だった。たぶん、私が楽曲として良いと感じられる曲は
少ないように思う。
但し、コード世界の表現で例え単純なものでも
印象深く、時代が変わっても、その曲が持つ魅力は
色褪せないものもある。
この事もいつも気になっているので
『魅力的な謎』として頭の中にイメージを置き
まだ解かずに置こう。
編曲によるところも大きいのだろうと思う。
、、、と思ってここで、「編曲と作曲の境界」についても
考えてしまう。曲において、どこまでが作曲の力で
どこからが編曲になるんだろう…
きっと、これは一人で両方をやる場合と
それぞれ別々にやる場合とは違ってくるんだろうなと
漠然と考えるけど、明確な境界というものはあるのだろうか…?
<モードを弾いて味わう>
確かリディアのスケールを菊地さんがコードで聴いたとき
あ、今年出たLITTLE CREATURESの新譜に
これで始まる曲があった、、、と反射的に感じる。
(注:モードにはドからシまでの白鍵から始まる
7つのスケールが存在していて、それぞれの特徴が違う、
その違いは色彩的な差異に喩えられている)
こうして、実在の曲に喩えて
感覚的に覚えていくと印象に刻まれて理論に繋がり易い。
POP史の中のモード
→’70→’80辺りに→モードへ移行する
(おおざっぱな捉え方)
※私の記憶の覚え書きでは、モードに移行したのは
Classicのほうが早くてドビュッシーが
確か20世紀の初め頃取り入れた。
その後、JAZZが続きマイルスデイビスが
最初に取り入れたのは'50年代だったと思う。
但し、この両者のモードが「教会旋法」という事で
同じものなのか、ちょっと知識が未だ曖昧…
古代まで遡る教会旋法とは
別のものだという事がわかったけど
中世あたりのそれとは同じなんだろうか?詳細こちら
・モードにおける2コードの提示
・コードにおける(例)CM7→Dm7
以上の2点は見た目(音としても)は全く同じなんだけど
その基本概念は全く違う。
そして、ここまでが「モード1」のライン。
ここがPOPSの境界点だ。
で、
芸術的、という方向に向かうものは
徹底的にその事を掘り下げる。
従って、そこから先の概念はモード2
特性音の軽い順に並べてドリアからは
マイナーゾーンだけれど
それ以降になるとスケールとしてあまりにも
突き抜けているのでマイナー(暗いスケール)には聴こえない
確かに、抽象的で感傷を挟む余地がない美しさがあって
心惹かれる。
ただ、POPSでもよく練られたものは
コードだと思うと突然モードの概念が入っていて
双方は混ざり合う事なく
マーブル状に混在している、との事だった。
マーブル状、、、、この事にとても心が動く。
保坂和志が「小説の自由」で
ジャズにおける「モード奏法」について書いていた文章が
とても印象的だったので引用してみる。
たとえばジャズ。マイルス・デイビスや
ギル・エヴァンス(ビルじゃなく)の音楽を聴くと、
「ああ、これはジャズだ」と感じる何かがある。
彼らのジャズは、それまでのジャズとは明らかに違ってはいるが、
まちがいなくジャズの魂のようなものがある。
それをあえて形容すれば、「逸脱する精神」ということに
なるだろうか(これはあくまで私の言い方で、
読者はべつな言い方を考えてほしい)
たとえばマイルスデイビスは、'50年代のコード奏法から
「逸脱」して、「モード奏法」というものを考え出した。
そして、'70年代になると、リズムはさらに小刻みになり、
エレクトリックなジャズへと逸脱していった。
表現というものは、たえず何か逸脱するものを孕んでいないと、
やがて滅んでいく。表現とは本質的にそういうものだ。
'20年代から'60年代にかけてジャズに活気があったのは、
ジャズがたえず逸脱し続けていたからで、だからその時代に
録音されたレコードは、そこに逸脱する精神があるために、
いま聴いてもジャズに聴こえる。
けれども、現在、'60年代と同じスタイルで演奏された
ジャズを聴いても、その音楽は逸脱する精神がないから
ジャズに聴こえない。それは過去の模倣にすぎない。
小説も、かならず既成の小説から逸脱するものを
孕んでいない限り、今書かれる意味はない。
引用文は以上。
ところで、BGMは(たぶん)コーネリアスの2010を
聴いていたのだけど(バッハの小フーガト短調を引用した曲)
良い具合に逸脱してる。でもバッハの豊かな音韻情報は
全く消えていない。今更こんな曲を聴いて感心。
というわけで
次回以降は、具体的に先述のような概念を持った曲を
実際に聴いて分析していく。待ち遠しい。
楽理高等科 講義録
間が開いて約1ヶ月ぶりの講義。
モードの概念についてPart1とPart2に分けて学習。
その境界はPOPSであるか、そうでないかの境界となる。
※モードの概念についてはこちらを参照。
尚、コードについてはこちら
コードの概念で作られた曲の中に展開される
モード的な進行について、気になっていた。
私が、いつか音楽の上で表現したい事でもあるけれど
未だ自分で実践してその事を試した事はない。
「モード」というのはある意味で抽象表現的な世界。
(例えば色彩的な差異があるという程度で
情動は強くは存在していないという意味において)
ただ、その色彩的差異から生まれる独特な美しさを感じられる。
但しモードを多用したものは必ずしも万人向きではない。
つまりヒットチャートには入らない。
「コード」の世界というのはモードと違って
感情移入しやすく展開も「分かりやすい」
という意味で絵画に喩えると具象的なイメージ。
もしくは表現主義的と勝手に喩えておく。
21世紀の今日でも、未だこてこてのダイアトニック的
コード展開の曲はヒットチャートの中に存在している、
との事だった。たぶん、私が楽曲として良いと感じられる曲は
少ないように思う。
但し、コード世界の表現で例え単純なものでも
印象深く、時代が変わっても、その曲が持つ魅力は
色褪せないものもある。
この事もいつも気になっているので
『魅力的な謎』として頭の中にイメージを置き
まだ解かずに置こう。
編曲によるところも大きいのだろうと思う。
、、、と思ってここで、「編曲と作曲の境界」についても
考えてしまう。曲において、どこまでが作曲の力で
どこからが編曲になるんだろう…
きっと、これは一人で両方をやる場合と
それぞれ別々にやる場合とは違ってくるんだろうなと
漠然と考えるけど、明確な境界というものはあるのだろうか…?
<モードを弾いて味わう>
確かリディアのスケールを菊地さんがコードで聴いたとき
あ、今年出たLITTLE CREATURESの新譜に
これで始まる曲があった、、、と反射的に感じる。
(注:モードにはドからシまでの白鍵から始まる
7つのスケールが存在していて、それぞれの特徴が違う、
その違いは色彩的な差異に喩えられている)
こうして、実在の曲に喩えて
感覚的に覚えていくと印象に刻まれて理論に繋がり易い。
POP史の中のモード
→’70→’80辺りに→モードへ移行する
(おおざっぱな捉え方)
※私の記憶の覚え書きでは、モードに移行したのは
Classicのほうが早くてドビュッシーが
確か20世紀の初め頃取り入れた。
その後、JAZZが続きマイルスデイビスが
最初に取り入れたのは'50年代だったと思う。
但し、この両者のモードが「教会旋法」という事で
同じものなのか、ちょっと知識が未だ曖昧…
古代まで遡る教会旋法とは
別のものだという事がわかったけど
中世あたりのそれとは同じなんだろうか?詳細こちら
・モードにおける2コードの提示
・コードにおける(例)CM7→Dm7
以上の2点は見た目(音としても)は全く同じなんだけど
その基本概念は全く違う。
そして、ここまでが「モード1」のライン。
ここがPOPSの境界点だ。
で、
芸術的、という方向に向かうものは
徹底的にその事を掘り下げる。
従って、そこから先の概念はモード2
特性音の軽い順に並べてドリアからは
マイナーゾーンだけれど
それ以降になるとスケールとしてあまりにも
突き抜けているのでマイナー(暗いスケール)には聴こえない
確かに、抽象的で感傷を挟む余地がない美しさがあって
心惹かれる。
ただ、POPSでもよく練られたものは
コードだと思うと突然モードの概念が入っていて
双方は混ざり合う事なく
マーブル状に混在している、との事だった。
マーブル状、、、、この事にとても心が動く。
保坂和志が「小説の自由」で
ジャズにおける「モード奏法」について書いていた文章が
とても印象的だったので引用してみる。
たとえばジャズ。マイルス・デイビスや
ギル・エヴァンス(ビルじゃなく)の音楽を聴くと、
「ああ、これはジャズだ」と感じる何かがある。
彼らのジャズは、それまでのジャズとは明らかに違ってはいるが、
まちがいなくジャズの魂のようなものがある。
それをあえて形容すれば、「逸脱する精神」ということに
なるだろうか(これはあくまで私の言い方で、
読者はべつな言い方を考えてほしい)
たとえばマイルスデイビスは、'50年代のコード奏法から
「逸脱」して、「モード奏法」というものを考え出した。
そして、'70年代になると、リズムはさらに小刻みになり、
エレクトリックなジャズへと逸脱していった。
表現というものは、たえず何か逸脱するものを孕んでいないと、
やがて滅んでいく。表現とは本質的にそういうものだ。
'20年代から'60年代にかけてジャズに活気があったのは、
ジャズがたえず逸脱し続けていたからで、だからその時代に
録音されたレコードは、そこに逸脱する精神があるために、
いま聴いてもジャズに聴こえる。
けれども、現在、'60年代と同じスタイルで演奏された
ジャズを聴いても、その音楽は逸脱する精神がないから
ジャズに聴こえない。それは過去の模倣にすぎない。
小説も、かならず既成の小説から逸脱するものを
孕んでいない限り、今書かれる意味はない。
引用文は以上。
ところで、BGMは(たぶん)コーネリアスの2010を
聴いていたのだけど(バッハの小フーガト短調を引用した曲)
良い具合に逸脱してる。でもバッハの豊かな音韻情報は
全く消えていない。今更こんな曲を聴いて感心。
というわけで
次回以降は、具体的に先述のような概念を持った曲を
実際に聴いて分析していく。待ち遠しい。