言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

POPSの境界

2005-11-30 23:45:50 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
11月24日 第3回音楽美学講座

楽理高等科 講義録
間が開いて約1ヶ月ぶりの講義。

モードの概念についてPart1とPart2に分けて学習。
その境界はPOPSであるか、そうでないかの境界となる。

※モードの概念についてはこちらを参照。
尚、コードについてはこちら


コードの概念で作られた曲の中に展開される
モード的な進行について、気になっていた。
私が、いつか音楽の上で表現したい事でもあるけれど
未だ自分で実践してその事を試した事はない。

「モード」というのはある意味で抽象表現的な世界。
(例えば色彩的な差異があるという程度で
情動は強くは存在していないという意味において)
ただ、その色彩的差異から生まれる独特な美しさを感じられる。

但しモードを多用したものは必ずしも万人向きではない。
つまりヒットチャートには入らない。

「コード」の世界というのはモードと違って
感情移入しやすく展開も「分かりやすい」
という意味で絵画に喩えると具象的なイメージ。
もしくは表現主義的と勝手に喩えておく。

21世紀の今日でも、未だこてこてのダイアトニック的
コード展開の曲はヒットチャートの中に存在している、
との事だった。たぶん、私が楽曲として良いと感じられる曲は
少ないように思う。


但し、コード世界の表現で例え単純なものでも
印象深く、時代が変わっても、その曲が持つ魅力は
色褪せないものもある。

この事もいつも気になっているので
『魅力的な謎』として頭の中にイメージを置き
まだ解かずに置こう。

編曲によるところも大きいのだろうと思う。

、、、と思ってここで、「編曲と作曲の境界」についても
考えてしまう。曲において、どこまでが作曲の力で
どこからが編曲になるんだろう…
きっと、これは一人で両方をやる場合と
それぞれ別々にやる場合とは違ってくるんだろうなと
漠然と考えるけど、明確な境界というものはあるのだろうか…?


<モードを弾いて味わう>

確かリディアのスケールを菊地さんがコードで聴いたとき
あ、今年出たLITTLE CREATURESの新譜に
これで始まる曲があった、、、と反射的に感じる。
(注:モードにはドからシまでの白鍵から始まる
7つのスケールが存在していて、それぞれの特徴が違う、
その違いは色彩的な差異に喩えられている)

こうして、実在の曲に喩えて
感覚的に覚えていくと印象に刻まれて理論に繋がり易い。

POP史の中のモード

→’70→’80辺りに→モードへ移行する
(おおざっぱな捉え方)

※私の記憶の覚え書きでは、モードに移行したのは
Classicのほうが早くてドビュッシーが
確か20世紀の初め頃取り入れた。

その後、JAZZが続きマイルスデイビスが
最初に取り入れたのは'50年代だったと思う。
但し、この両者のモードが「教会旋法」という事で
同じものなのか、ちょっと知識が未だ曖昧…

古代まで遡る教会旋法とは
別のものだという事がわかったけど
中世あたりのそれとは同じなんだろうか?詳細こちら


・モードにおける2コードの提示
・コードにおける(例)CM7→Dm7

以上の2点は見た目(音としても)は全く同じなんだけど
その基本概念は全く違う。

そして、ここまでが「モード1」のライン。
ここがPOPSの境界点だ。


で、

芸術的、という方向に向かうものは
徹底的にその事を掘り下げる。
従って、そこから先の概念はモード2


特性音の軽い順に並べてドリアからは
マイナーゾーンだけれど
それ以降になるとスケールとしてあまりにも
突き抜けているのでマイナー(暗いスケール)には聴こえない

確かに、抽象的で感傷を挟む余地がない美しさがあって
心惹かれる。

ただ、POPSでもよく練られたものは
コードだと思うと突然モードの概念が入っていて
双方は混ざり合う事なく
マーブル状に混在している、との事だった。

マーブル状、、、、この事にとても心が動く。

保坂和志が「小説の自由」で
ジャズにおける「モード奏法」について書いていた文章が
とても印象的だったので引用してみる。


たとえばジャズ。マイルス・デイビスや
ギル・エヴァンス(ビルじゃなく)の音楽を聴くと、
「ああ、これはジャズだ」と感じる何かがある。
彼らのジャズは、それまでのジャズとは明らかに違ってはいるが、
まちがいなくジャズの魂のようなものがある。
それをあえて形容すれば、「逸脱する精神」ということに
なるだろうか(これはあくまで私の言い方で、
読者はべつな言い方を考えてほしい)

たとえばマイルスデイビスは、'50年代のコード奏法から
「逸脱」して、「モード奏法」というものを考え出した。
そして、'70年代になると、リズムはさらに小刻みになり、
エレクトリックなジャズへと逸脱していった。

表現というものは、たえず何か逸脱するものを孕んでいないと、
やがて滅んでいく。表現とは本質的にそういうものだ。
'20年代から'60年代にかけてジャズに活気があったのは、
ジャズがたえず逸脱し続けていたからで、だからその時代に
録音されたレコードは、そこに逸脱する精神があるために、
いま聴いてもジャズに聴こえる。
けれども、現在、'60年代と同じスタイルで演奏された
ジャズを聴いても、その音楽は逸脱する精神がないから
ジャズに聴こえない。それは過去の模倣にすぎない。
小説も、かならず既成の小説から逸脱するものを
孕んでいない限り、今書かれる意味はない。

引用文は以上。

ところで、BGMは(たぶん)コーネリアスの2010を
聴いていたのだけど(バッハの小フーガト短調を引用した曲)
良い具合に逸脱してる。でもバッハの豊かな音韻情報は
全く消えていない。今更こんな曲を聴いて感心。


というわけで

次回以降は、具体的に先述のような概念を持った曲を
実際に聴いて分析していく。待ち遠しい。


ネコ科日和

2005-11-16 23:58:18 | 日々
今日、通勤途中に微笑ましい光景を三度見た。

二度ある事は三度ある。

自転車置き場に自転車を止めて
駅に向かって歩いていると
東側から射す明るい陽光に照らされて
以前見たことのあるユニークな父子が踏み切りを渡っていた。

夏ごろ一度電車で一緒になって
妙に印象に残っていた父親と娘だった。


ユニークなのは、通勤途中に、
保育所に預けるのであろう3歳くらいの女の子を
その父親はいつも「肩車」して歩いていることだ。
これは朝の通勤時にはとても印象的な光景で
この小さな女の子と両親の関係も同様、記憶に残っていた。

父親はサラリーマン。年の頃は40代半ば、
着古した紺色のクタクタのスーツを着て、手にもクタクタの鞄。
お世辞にもうだつがあがるといった風貌ではない。
少なくとも企業戦士といったイメージはなかった。
ただ、印象的だったのは電車でよくみかける
サラリーマンと違う、その佇まいだった。

力は抜けているけれど彼の表情には
大抵のサラリーマンの顔に漂う
繰り返す日々のうち滲み出てくるような
疲労の色は表れていなかった。
でも、とりわけ生き生きと元気なわけでもなかった。

女の子は天然パーマくりくりでピンクの服を来ていた。
子供らしい子供というかんじで可愛らしい。

最初に見た時は、母親も居たようだ。
どうしてこの親子が印象的だったかというと
二人が乗って電車のドアが閉まったら
父親の肩の上の女の子が

「ハハ が、ハハが来ないよ~~」と言って
火がついたように突然泣きだしたのだ。
どうやら一緒に乗るはずだった母親が
乗り遅れてしまったらしい。

私は咄嗟に妹の子供が母親の不在時に泣いた時のことを
思い出した。この年頃の子はお母さんが戻るまで
ずっと泣いている。
きっとしばらく泣きやまないだろうな、と考えていた。
そんな時は父親では何の役にも立たない場合が多いのだ。

ホームには母親らしき人がぼんやりと
通り過ぎる電車を見送っていた。
私は車内の父親はどんな対応をするのだろうと
見るともなしに耳を澄まして見守っていた。

彼は少しも慌てずに「どうしたの。
ハハは乗り遅れちゃったんだよ。次の電車で来るんだよ」

父親が答えた大人の言い分を幼児が聞き分けるなら
親はどんなにラクだろう、と考えていたら
子供は少しのあいだ泣いていたものの、
不思議にもすんなりと泣きやんだ。

二人の様子をそっと見る。

何事も無かったかのように二人とも同じ方向を見て
黙って過ぎて行く景色を目で追っていた。

朝の通勤の慌しい中、陽光の柔らかさと共に
鮮明に記憶に残った不思議にも物静かな光景だった。


そして今日再び、朝陽の中で再び彼らを見たとき、
記憶の中のある光景にリンクした。

それは意外な記憶だった。
以前通っていた語学学校の図書室で見た
父親と子供のことを私は思い出していた。
同じような年代のフランス人親子に纏わるエピソードだ。

父親と子供は私の向い側の机の角を挟んで座っていた。
最初に見た時、親子だとは気が付かなかった。

二人は特に目線を交わすことも互いを気にする事もなく
読書に集中する父親同様、彼女は夢中になって
フランス語版ポケモン絵本を読んでいた。
歳は4歳位だろうか。

私は彼女に席を空けようと(子供を甘やかす態度で)
荷物をよけたけど、彼女はそれに気づくとも応えるともなく
私が勝手に持つ子供のイメージと程遠い
媚びない態度だったので、少々肩透かしをくらった。
(子供の可愛さに甘えてるのは、大人のほうかもしれない)

暫くすると父親の用が済んだらしく
彼は4歳の娘にそれを伝えた。

彼女は、私はまだこれを読んでいるの、
邪魔をしないで、とでも言いたげに
全くそこを動こうという様子がなかった。

父親は、自分の用を見つけそこを立ち去った。
彼女は、全く動じていない。

10分程経っただろうか、彼女はすっくと立ち上がって
本を片付けて、父親のもとに行って
二人は一緒に帰った。

この光景を見て、日本とは全く違う親子の距離感と
互いに自立した関係性を感じた。

そういえば、欧米の赤ん坊は日本の赤ん坊ほど
無防備で無邪気ではないのは何故だろう?
常に、自分の興味の対象を探していて
その意に介さなければ、我関せず、といった様子。

日本の母親の育て方は母親以外の世界は無い、といった
育て方だと、何かで読んだ事がある。

この二人の小さな子供には、しっかりと発達した自我を感じた。
親子であってもどこか依存し合ってない。
それぞれに世界があって
互いに独立した人格を尊重し合い一体化している、
そんなイメージだった。年齢に関係なく。

いいな、と思った。
そのことを前提とした人々の振る舞いには
以前にも美しさを感じたことがある。

音楽に例えればポリフォニーのようだ。
各声部が各々違いながら平等に独立して存在し、
各々の水平的な旋律線を重視しつつ
相いに和声的連関をもって重ねられていく音の美。

電車で見た親子にも、それに似たものを感じた。
行動に愛情を感じられても、幼い子供との間に
適度な距離感を介して成り立つような信頼関係は
日本ではあまり感じた事がなかったので、
記憶に残っていたのだった。

電車で見た、ちょっと不思議な親子のはなし。
彼らはどんな生活をしているのだろう、と想像をかきたてられる。

あの母親はきっと、大抵の日本の母親が教えないと言われる
「母親以外の世界」を
子供に教える事の出来る人なんじゃないだろうか。
そして父親もそれを了解している。




彼らはあのあと、母親と駅で落ち合っただろうか。



ふと、親子を乗せた電車が出る瞬間、
どこからか視線を感じた。
その方向を見るとホーム近くの古びた家の
中途半端な高さにある窓から陽をさんさんと浴びた
満足げな様子の三毛猫がこちらをじっと見ていた。

こうしてターミナル駅に着く間
二度、微笑ましい光景を見たのだった。


二度ある事は三度ある------



天気も良かったし時間も幾分早かったので
いつもの駅の一つ手前で降りて歩いていたら
女子の好きな某ファンシー系雑貨店のショーウィンドーの前で
ちんまりと両手両足を5センチ四方に行儀よく揃えて
朝陽をさんさんと浴びた満足げな黒猫が座っていた。


(ごゆるりと歩き出したところ)


メロディーの因果律

2005-11-07 23:35:43 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
「理由があってそうなっていること、というのは音楽にもある」
と以前の特別講義で外山明氏が言っていた。

また、音楽の機能として曲の終わり以降に起きる
「未来」のことはある程度予測可能だけど
演奏以前に起きたであろう「過去」を想像するのは
困難だと講義で菊地さんが触れたこともある。

そんなふうに音楽を逆行的に想像出来る人は
ある意味天才的だということだった。
何だかファンタジックな話だなと印象に残っていた。

たしかに何度も聴きたくなる曲には
何故そうなったんだろうと考えさせる魅力的なフレーズがある。

高い所から美しい風景を見渡したくなるように
全曲を通してそれを俯瞰するみたいに
何度も最初に立ち戻って聴き始めたくなる。
そして、またその部分に至るまでの様子を確かめる。
これはたとえば画家が絵から離れたり近づいたりして
また描いていく、という作業に似ていると思う。

心が動くフレーズは、感情を操作する
音の修辞的技術から生むことは可能だけど
聴き手はテクニックに感動してるわけじゃない。

目の前で響く音のアンサンブルが
技術や作り手の作為から完全に独立していて
その時「音楽」自らが自由な運動をしている。

で、初めて聴いた曲がそんなだった場合
感情と関係なく涙腺が緩むことがあるのは
「音楽そのもの」というような存在が
別の次元から立ちのぼってくるのを感じるからだ。

音楽はこうして、ほんの数秒間の短い出来事なのに
言葉で表現不可能な忘れられない何かを残して
駆け抜けて行く。今はまだその残った何かの痕跡を
音で辿ることしか出来ないんだけど、
そんな表象的なことを表現するのに楽理は雄弁なのだった。

さて。先日2回目の講義で再び触れられた
「テンション(※)」、そのおかげで
初等科でわからなかった事がほぼ理解出来た。

以前、講師菊地さんが言っていた事を思い出す。
黒人の考え方は、内容が進めば進む程難しくなるというより
理解しやすくなる、というものだった。小学校1年生の学習より
小学校6年生の学習のほうを難しく考えがちだけど
実は小学校1年で習う事は、無の状態から始まるわけで、
そちらのほうが難しくないとは決して言えない、という言葉に
ちょっと勇気とモチベーションが沸く。
(テンション=4つの音の規則的構造による
7thコードの和音から1オクターブ超えた3つの音。
文字通り、和音的調和に緊張感を生む。
これによって、響きがJAZZっぽくもなる。)


卒業制作のサビのコード進行はとても
ありきたりなものだけど、この進行は
「さよならを教えて」とかフランシスレイやら
ルグランも、最近じゃ椎名林檎のアルバムでも(たぶん)
使ってあるもので、皆が使う素敵な進行だ。
ピアノを弾くといつも手が自然にそこに行くので、これにした。
多分、ダブルケーデンスといって、言葉で言うと
「しりとり」をしているようなイメージ。

<以下、作曲過程とコードメモ>

駆け出し習得の楽理なので
記述間違えの可能性もあり。

進行はこんなかんじで普通。サビの繰り返しは全部で3回
1.|Dm7 G7 |CM7 FM7 |Bm7-5 E7 |Am7 A7


で、これを弾いていたら手が別の所に行きたくなって変化。
(分数コード?)

2.|FM7→Fm7|EM7→Am7/E|Dm7→DFA♭B/G|CM7→C7|

そしてこのサビは2度目のときは、こうなる
(ベースのルート音は1と同じでコードのみが変わる)

3.|FM7/D→FAB♭E/G|EM7/C→DF♭AB/F|Dm7/B→DFA♭B/E|CM7→C7

この時に、解読不明のテンションコードと
思われるものが出てくるのだった。

で、サビのプレゼンテーションの順番は2,3,1で
最後のリフレインは1のメジャーダイアトニックスケールの
まっとうなコードで終わる、というかんじ。

※DFA♭B/Gという不明な分数コードは
レファラシ♭/G(ベース音)という読み方

先日の講義のおかげでやっとテンションを理解。
分析結果を整理してメモる。


※Nはナチュラル記号のこと(何で辞書の記号の中に存在しないの?)

初めのコード→分数コード(通分)→テンションコード

Am7 → CM7/A → Am7N9
D7 → D7/A → Am7N11♯13
Dm7-5 → Dm7/B → Bm7-5♭9
G7 → DF ♭AB/G → G7♭9
FM7 → FM7/D → Dm7N9
G7 → FAB ♭E/G → G7N9♭13
Em7 → Em7/C → CM7N9
Am7 → Am7/F → FM7N9
EM7 → DF ♭AB/E → EM7♭9

最初に浮かんだコード進行

|Dm7 G7 |CM7 FM7 |Bm7-5 E7 |Am7 A7

こう変化
 ↓

|Dm7N9 G7N9♭13 |CM7N9 FM7N9 |BmФ♭9 EM7♭9|Am7 A7


ここでレコーディング技術科の講師高山さんの言葉が思い浮かぶ。


<映画美学校サイトより引用>

高山 博
(アレンジャー・コンポーザー・「ProTools LE Software 徹底操作ガイド」著者)


音楽の好きな人や音楽製作を志す人は多いが、ただ単に
好きなだけや作りたいだけでは、音楽作品をものにすることはできない。
どんな音楽であれ、それを作るには、具体的に手を動かし、
何らかの道具を使って音を出し、頭を使って音を組織化していくことが
必要になる。これは単に、発想とは別に技術が必要だということを
意味するのではない。発想があっても技術が無ければ
それは作品にならない」とはよく言われることだが、実際のところ、
発想と同時に技術や製作の過程が具体的に思いつかないようでは、
実際に製作に役に立つ発想を得ることはできない。

「何かやりたいが、何をやっていいのかわからない」という人は、
本当はアイデアを得る力そのものが貧困なのではなく、
技術が習得できていないがために具体的に
製作に結びつく着想が得られず、最初の一歩が
踏み出せないといった状態に陥っていることが多いのである。






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空想ハイウェイ?

2005-11-05 00:23:51 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
今日は小さい偶然が幾つか。

スティービーワンダーの久々の新譜を聴いていて
感銘日記をアップしようとしていたら、スティービー
来日しているらしい、たまたま普段居ない時間に
家に居て普段見ない番組にチャンネルを合わせたら
丁度スティービーが生で歌うところだった(笑)

スティービーワンダーの音楽の素晴らしさは
マイケルジャクソンのように
悪魔に魂を売ったからだろうか?(笑)
(マイケルの場合本人が悪魔になりつつあるようだけど、残念)
聴いていて少しの狂気をいつも感じるんだけど
それが全てPOPさに還元されているところが
凄いなと思いながら新譜を聴いていた。

椎名林檎が出ていた、彼女、見るたびに違う人みたいだ。
毎回、数秒間、この人見た事あるけど誰だっけ?と思う。
メイクやヘアスタイル、洋服でイメージが全く変わる。
縄文人顔の私としてはああいう薄い弥生式の顔が好ましい。


さて、スティービーのライブに感銘しつつ
これまた、たまたまデジタルチューナーにスイッチを入れて
普段見ないチャンネルに合わせたら
井上陽水が出ていた。この人ってとても独特な存在。
(多分)フォーク出身なんだろうけど
「井上陽水」というジャンルの音楽をやっている人だなと思う。
何を歌っても井上陽水、何を演じてもロバートデニーロ。
そんなかんじ。

結構長い番組だった。ベッドで転寝しながら
観ていてはっと目が覚めたときに菊池成孔という文字が。
そういえば、告知に出演する、とあった。

学校で音楽の師としての菊地さんを主に知る私なので
ミュージシャンとしての菊地さんの姿を生で観たのは
2回だけなんだけど、この番組は4人のミュージシャンと
陽水さんとのコラボレーションをトークを交えてやる、
といった流れの中(菊地さんの前は彼の師匠でもある
山下洋輔氏だった)何故菊地さんがラストに回され、
彼のSAXの印象的なフレーズが流れる中、
エンディングのスーパーが出てきた演出や
ロケ地が他のどの場所よりも特別な
「日本銀行」の美しい中庭だったことが
スタッフの視点を通して理解出来た。
少なからず菊地さんの存在感には潮流が感じられるのだ。

近々英語でしゃべらナイトにも出るらしいし(笑)
時代性は才能のある魅力的な人間を放っておかないらしい。
面白い事になりそうな予感。

菊地さんのSAXは1曲目の「ジェラシー」は決して
彼のヴォーカルにかぶらず、フォロワーの位置に居て
役割をまっとうしていたんだけど

エンディングに流れた「背中まで45分」では
マニュピレーターの坪口氏による
打ち込みをバックに、SAXの存在感は前面に出てきていて
エンディングにかぶっていったそのフレーズはとても良かった。

とにかく井上陽水

       with
 
       菊地成孔

菊地成孔とクレジットされた、その字面だけでも、
彼とセッションしたミュージシャンに対するイメージが
がらっと変わるような感じがしたし、
それを考えると、今後も彼とセッションしたいと思う
メジャーなミュージシャンが増えるんじゃないだろうか
と推測していた、セ・パ交流戦の如く(笑)
そうだ、パ・リーグ優勝したしなぁ~
しかも千葉のアパッチなヤンキーチームだ(笑)

事実、背中まで45分はすっかり新しいイメージになっていた。

井上陽水氏は「東大のアルバートワイラー」を読んで
菊地さんにアプローチをしてきたそうだ。
番組中で、周囲の人に今度菊地さんとセッションをすると言うと
その人たちから「そうなの?彼とやるの?いいですね~」という
反応が聴かれたらしい。

菊地さんはカメラと相性が良いように思う。
私が愛するピアニスト、グールドのことを思い出す。
彼も、変奇と言われつつ、至極饒舌、あの時代にして
マスメディアとの相性が異常に良かったし
彼の存在も音楽的だったし演奏は音楽そのものだった。

そんなこんなで、とても普通の事のようにしている
菊地さんによるこの「憂鬱と官能を教えた学校」での
楽理講座は、全然普通じゃないなという
段階に突入している今日この頃。

事情もわからずにこの講座を受講するようになったけれど
どうしてこの人がそんなに人気があるの!?と
最初つかめずにいたけれど、今や私も
すっかりファンの一員なのか(苦笑)
誰かや何かを好きになったとしても
そういった何かのファンなんて
未だかつてなったことはないんだけど。

菊地さんという人が持つ何かに共感する、というよりは
ただ感銘せざるを得ない、というかんじ。
何せ、楽しくてその楽しさはとても音楽的なのだ。
これは実際に体験しないとわからないと思う。
その存在は強烈な虚構性を帯びながら超現実的。






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