言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

音楽室のバッハの絵

2005-06-22 23:26:01 | Classic
ヨハンセバスティアンバッハ、というと
親しみ易いというよりお固いイメージが浮かぶ。
音楽室に飾ってある絵のせいじゃないかな。
肖像画が決定付けるイメージは写真とはまた違う力がある。




マタイ受難曲とかカンタータなどにある
荘厳で厳めしいキリスト教的なフンイキも色濃い。

しかしバッハはどこか「宗教」に対してあんまり
重きをおいていなかったようにも思う。
じゃなければ「神聖」とされた女人禁制の教会に
後に妻となる当時の恋人、マリアをヘーキで連れて行って
大怒られした上に逆ギレして司教と喧嘩して
教会オルガニストをクビになったりしないだろう。

当時の音楽表現における宗教は
崇拝とか信仰というより聴衆の感情を惹き付けるための
手段だったように思うし、娯楽的な意図や要素も感じられる。

そう思えば深刻なシーンを演出する時に使われがちな
あの仰々しい「トッカータとフーガ ニ短調」の後半にも
かなりデジタルなビートやグルーヴを感じる事も出来る。

意外な事に、バッハの曲とデジタルな音とは相性が良いのだ。
現に、最近エレクトロニカでアレンジされているものを耳にするし
ジャズやポップスへの引用は今日も続き、増え続けている。

以前(キリスト教徒の国の)アメリカ人で、
趣味でオーケストラでフルートを弾いている男性と
クラシックの話をしたことがあった。

彼に私はバッハが好きなんだけど、と言った途端、
独特な苦笑いをして「バッハ?オ~、、、(少なくとも僕はノーだね)」
といったふうに、首を横に振っていたのが印象深く
互いの好みの違いについ大笑いしたものだ。
そして彼は、ストラヴィンスキーが好きだと言った。
一見新と旧とで相反するようにも思える2大作曲家。


「バッハの音楽はすべての人にとって永遠に汲み取るべき源泉」
といったのはシューマンだ。

バッハの音楽は派手でもないし特に華やかでもなく
爽やかではあってもベートーベンやチャイコフスキーの
フルオーケストラの演奏のように大音量の
高揚感やスッキリ感もない。
私はむしろ日本人のああいった演奏を目の当たりにすると
興ざめしてしまうのだけど。

日本人の多くが好きなショパンの音楽が持つ
ロマンティックさもない。

そのショパン本人は演奏前に自分の曲は弾かず
もっぱらバッハの曲ばかり弾いていたそうだ。
バッハの曲が弾けるのなら自分の曲は
問題なく弾けるという法則のもとに。

そして「バッハへ還れ」と言ったその人こそ
じつはストラヴィンスキーなのだった。


ついでに、バッハはほんとは美男子だった。
音楽室に飾られてる絵の10年前の姿。

じゃ~ん!


感覚と理論と結婚

2005-06-16 13:55:01 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
6月14日、
多忙の友人から突然連絡がありランチを誘われる。
半年ぶりに会った。

梅雨の晴れ間のこの日、最近発見した
京橋の優良な某蕎麦店で食事。

気がつけば全てごちそうになったうえに
何故か花とお菓子を頂く。
元気そうな顔を見られて良かった、と言ってくださる。
短くもゆったりとリラックスした時間だった。
とてもうれしかった。頂いた花の絵を描いてみた。
稚拙な絵になってしまった、、、




タイトル

<梅雨の晴れ間に花を愛でる>



6月15日 映画美学校 音楽美学講座 楽理初等科
講師<菊地成孔>

テーマは前回に引続きテンション

今日は体調が悪くて会社を休み
普段ぼ~っとしている思考が更にぼ~っとしていて
物事が頭に入らない。そのせいか途中講義中の言葉が
宇宙語に聴こえて来る。マズい、、テンション低すぎ。
この時点で未だこの楽理の考え方に対してピンときていなかった。

楽理を学ぼうと思ったのは
そもそも音楽に対して感覚的だった部分を
論理で理解しなおすためだ。
このだらだらと書いている日記はそれを実感するのに役立っている。
こうして講義を振り返って書く事も履修として多少は有効なのだ。

感覚的にこういうフレーズ、ああいうかんじのグルーヴ、
リズム、曲調、流れ、構成、雰囲気、、、
良いな、気になる、素敵、と思うその曖昧な全てについて
感覚を残しつつ、この講義を通して
理解の再構築が出来ればと思う。

今日の発見は3つの質問からだった。

菊池さんがテンション付きのコードを3つ弾く。
このコードの特徴はその響きを各自が捉えた上で自分の好みで
レイアウトを変え、音を抜く事が可能だ、
つまりある規則性のもとでデザイン出来る。

これは広義で「イコライジング」と同概念であると
菊池さんは説明された。なるほど、と思う。
こういった喩えがあるかないかでやはり理解度は変わる。

それがどんな構成で作られているか踏まえた上で
音楽的「崩し」は可能となるのだ。

質問内容はこうだった。テンション付きの同じコードの
レイアウトを変える。タイプは3つ

タイプ1:広がったテンションが内部に折り込まれたコード
タイプ2:規則的で順等な並びのコード(レギュラータイプ)
タイプ3:オクターブを超えて拡張されたもの

以上の3つに対して生徒の好みを挙手で示す

それぞれに該当者が同数程度あったようだ。

私はタイプ3の響きが好きだった。

菊池さんはこれに対して説明した。
これはラテンに良く出てくるピアノのフレーズで
このデザイン力に優れた弾き手によって
よく使われるやり方だと言うことで
こんなかんじ、と弾いてくれた。
おお、なるほど、、、!自己内部的勝手な発見(笑)に
思わず首と心が大きく頷き心はときめく。
こういったピアノのリズムとサウンドがずっと好きだった。
腑に落ち、納得出来た今日の発見。
感覚と理論がマリアージュした。

エンターテインする芸術

2005-06-08 00:25:49 | ART
前回の日記の続き

<あるCDのレビューより>


彼と知り合いだった人と偶然再会すると、
私はいつもこの部分を思い出すのだ。彼の生前でさえ、
われわれは幸運な仲間どうしなのだという自覚が皆にあった。
あの優しく、愉快で、才気あふれる人物と知り合いなのだということが
どれほどに恵まれているかを理解していたのである。
そして今日、歳月を重ねるほどに、彼と過ごした時間はますます貴重に
(そして妙に神話的に)なっていく。

なぜ彼はこうした魅力を保っているのだろう?
まず第一に、ごく当然の話だが、彼が大変に偉大な音楽家だったことが
理由に挙げられる。彼が「偉大」なのは、よく知られた名曲に
新しい深みをーーーときにはまったく新らしい皮相性をーーー
見出す能力があったからだ。(略)
さらに重要なのは、彼の演奏を聴いた人や、各種の電気的な成果を
聴いた人と、深い繋がりを持てる能力だ
(この「電気的成果を聴いた人」というのは、まさに私自身に該当する)
結局のところ、彼の成し遂げたことのすべてを気に入るかどうかは
大した問題ではない。彼は厳然と存在するのであって、
無視はできないほどである。しかし、彼が公衆の目から隠れて長い時間を
過ごしたのは逆説的な話ではある。

彼が魅力を保っている第2の理由は、彼が、一言でいえば、
エンターテインのできる人、つまり他人をたのしませることの
できる人だったからである。とてつもないユーモアの持ち主だったのは
事実だか、必ずしも「ファニー」という言葉で形容できるわけではない。
もっと深い、根本的なところで他人を楽しませるすべを
心得ていたのである。

芸術を(アート)と娯楽(エンターテイメント)をどう区別するか
という議論が昨今活発になされているが、私は、個人的には、
この区別を認めていない。
何らかの次元でわれわれをエンターテインしない芸術は
葬られる運命にあるのだから。

その点、彼は確かにエンターテインしていた。
それも多種多様な次元においてである。
彼は忘我の境地になれるエンターテイナーだった。
もっとも、そうした視覚的要素を抜きにしても、
彼の音楽は立派に成り立っている。
彼には視覚の助けなどいらないのである。

彼の魅力の最後の理由は、彼が独自の世界を
築き上げた人物だったという点である。

自分が手にしたさまざまな手段を用いて、
型にはまらない生き方を確立した、真の意味で洗練された、
教養ある人物であり、まさに英雄の信じられなくなった時代の
英雄なのである。時間はかかったにせよ、彼は
自分の天才と、それが求める物を受け入れられるようになり、
そこに自分を適応させた。彼の生前に書かれ、いまなお
最高の論である、とある著書の著者Jは、いみじくもこう語っているー

「彼は、抜群に優れた人物で、友好的で思いやりもある。
実はエキセントリック(常軌を逸した)でも
エゴセントリック(自己中心的)でもない。
自分がどう生きたいかを悟り、そのとおりに
実践している人物なのである」

映画美学校@情熱大陸

2005-06-02 23:55:01 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
6月2日の映画美学校の音楽美学講座レポート。

今日はいつもと違うこと&素敵な予感が2つあった。
いつもと違うこと1つめは、揺れた。講義中に地震があった。
美学校の建物が古いせいなのか、揺れる前に地響きがして怖かった。

2つめはいつものように教室でスタンバっていたら
いつもと違う人たちが入ってきた。
テレビカメラのクルーと番組スタッフだった。
講師である菊池成孔氏が7月6日放送の
情熱大陸に出演するという事を本人の日記で読んでいたけど
まさかホントに今日来るとは。

これから1ヶ月間、情熱大陸のカメラマンやスタッフが
菊地さんに密着するらしい。大変そう、でもそんな生活は面白そう。
しかし私なら数日でうんざりしそうだが。
放送が楽しみ。それにしても、この番組はメジャーで知名度も高く
人物描写の内容にも魅力があるようだ。

周りの人から「○○という人を情熱大陸に出ていたのを観て
知ったとか、好きになった」などという言葉を何度か耳にした事がある。
素敵な予感、、、

何度か見た事のあるこの番組の売りが「情熱」なのだとしたら
初めて目の当たりにした番組スタッフの動きや話し方などの様子や、
1ヶ月アーティストに密着するという腰のすえ方から、それは垣間見られた。

思えば公式発売日の数日前に手にした「憂鬱と官能を教えた学校」の
初めのページを読んだ時、バークリーメソッドの講義録でありながら
稀有なジャズメソッドの教則本といった内容で、

実際にこれとほぼ同様の講義をこれから受けるという事に対する期待と
映画美学校でそれを学ぶ、という事自体にも
潮流のような力を感じていた。

世界が広がり、楽しくなるような音楽に限定されない広範囲の教養
(言語学、精神分析学、記号学、現象学etc…)が
ジョークと共にいたるところに織り込まれ、
時にはその概念に楽理自体がアナロジーされたりする。
かつポップな軽さも持っている。

実際に菊地さんの講義には音楽のようにグルーヴとダイナミズムがある。
彼の講義を一度でも経験した人はわかると思うけど
聴講していると本人の強いエネルギーと共に
(生への肯定力というか・笑)超人的な頭の回転の速さと記憶力、
物事に対する思慮とが伺える。そして常に人を楽しませようとしている、
それが生徒であっても。講義中、終始起こる笑いには
そのことを表していると思う。
こんな風に相手に呼応するテレパシー(!)を持っているような
アーティストの存在と共に、
そういった教え方をする教師に出会えるのはとてもラッキーだ。

今日の音楽美学講座のテーマはテンションと
リ・ハーモナイズ(=コードの付け替え)

DCPRGの曲、ミラーボールズを裏コード進行へとリハーモナイズしてみる。
菊地さんがリハーモナイズ前とどちらが好きか皆の挙手で確かめる。
結果は半々。音楽的趣向というのはそういう事になっているらしい。
そして私はやはり裏コードのケーデンスが好きなのだった。
1度ずつ下降していく響きを含む進行。これはジャズに近いそうだ。
以前書いていた音楽の物語性という日記に
そういった嗜好性が記してあったしこうも書いてある。
『一つは半音ずつの下降について。これは昨日も書いた
ジョビンのchildren's gameにも使われているフレーズなのだ。
私はそこに「奇妙な魅力」を感じていた。もしかして、
何かの恣意的からくりがあるのかもしれなくて、そこに私が感じる
この曲への魅力が潜んでいるように思えてきた』

こうして当時素朴な疑問だった色々な謎が理論によって検証されていく。

それと講義の途中でさらっと触れられた事に気持ちが動いた。
「リズムにもドミナントという概念(役割)がある」と言っていた。
そしてこれはまだ仮説で理論的証明には至っていないとのことだった。
気になったのでメモ。

コード世界の概念の学習も終わりに近づいている。
もうじきモードの世界に入る。
マイルスデイビスにお近づきになれるだろうか。
また新たな世界を知ることが出来る「素敵な予感」パート2。

「テンション」の部分で私の当講義における
「無知ゆえの日々、目から鱗なお祭り騒ぎ」的な
ところも一段落してきたように思う。
残念なような寂しい様な気もするが
きっとここからは良くも悪くも一歩前進なのだろう。
それと、テンションのついたコードの響きに対して
コレコレ!というものがあった。

あるCDのレビューを読んでいたら
今回書いた菊地さんの事と少しかぶったのでメモろうかと思う。
長くなりそうなので更新はまた次回に。