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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

猫のレオナール、黄金的日々

2008-06-16 01:25:06 | ART
5月の連休の備忘



4月29日 現代美術作家、MKさんの個展@高島屋

最終日という事もあってご本人を含め
親しい面々数人で新宿でプチ打ち上げ会。

飲み足りない感もあったので(笑)二件目へ。

K氏の提案でDUG(小説、ノルウェイの森に出てくるそう)という
ジャズバーへ。お酒も話も弾んで音楽の話題に花が咲いたので
にわかジャズファンの私は曲のリクエストが出来るのか確認し
リクエストしたのはニーナシモンの魅力的なスキャットや、ジュリアード仕込みの
対位法(=バッハ)的アドリブ満載の
Love Me or Leave Meと
マイルス初期の、聴き易いアルバム
マイファニーバレンタインの中のDear Old Stockholmでした。


半地下でちょっと空気は悪いけれど良いバー。

手作りブラウニーとグランマルニエのミルクティーが美味。


5月2日


ピアノレッスン友達のRに誘われて
国際フォーラムのクラシックイベントへ

http://www.lfj.jp/lfj_2008/

何と夜10時からのイベント。
なのに、2階までびっしり満席!
ホールAでS席3000円なのに優れた演奏家とオーケストラ、
連休前の愉しさもあってか、いいかんじの初夏の熱気を感じる。

こういうイベント、普段からあればいいのにな。


5月4日


親しい友人宅でたこ焼きパーティ、
椎間板ヘルニアで倒れていたTFJ氏の
回復を祝いつつ、笑ったり怒ったり踊ったり闘ったり(笑)
やたら楽しい美味な宴は明け方まで続きましたとさ。


5月6日 マティス&ボナールの展覧会@川村美術館へ




佐倉という場所に降り立つのは初めて。

風光明媚で長閑な良いところ。

展示作品のほとんどはどれも素晴らしく見応えがあり。
マティスとボナールの交友と友愛も興味深い。

マティスのスピード感あるリズムの線や
鮮やかな色彩にハッとさせられ、

ボナールの抽象表現の萌芽を思わせるほど大胆で
かつ繊細な表現にうっとり。


美術館の建物や展示、その周囲の環境もともに秀逸でした。


レストランに入る時間がなくなり、空腹のあまり(笑)
途方に暮れかけていたら付近に居た猫に遭遇。




観た時に藤田嗣治の絵画を思い出したので
レオナールと命名、女の子かもしれないけれど(笑)

こんなに無防備で人懐っこい猫は珍しい。

女性の膝が好きらしく、男性の膝には
なぜか長居しなかった(笑)

何度か膝から持ち上げても戻ってくるし

腕の中で寝てしまうし

私の手にあごをかけてもたれるし…

でも。

よくよく観ると、空腹のあまりに

誰かが落としたポテトチップスを食べたとき

周囲に群がっていたアリンコが一匹
アゴ髭についてるわよぅ、お馬鹿さーん!(笑)



あぁ可愛い。また逢いたいな。


そんなこんなで連休明け、五月病の季節ですが(笑)
それなりに楽しい休暇だっと見えて

日常と仕事にうまく気持ちが切り替わりました。


身体はかなり疲れているはずだけど頭もまあまあ働き
久々に会う職場の仲間や仕事に向かううち

また日々のリズムが生まれていくのでした。


日常を金色に彩る錬金術は絶える事のない

自分以外の人々との関わりや外界の出来事に始まって、
最終的には内面とされていたり記憶とか

そんなところに還元されながら
ずっと抱き続けてゆける幸福な感情なのかも。

一年のうちで最も鮮やかで爽やかな季節を
満喫した休暇となりました。


















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冬だというのに中南米、インドとガーナ、ヒルズ六本木

2007-01-31 23:26:42 | ART
こんな真冬にサンバやボサノバなどの
ラテン音楽ばかり聴いている。
苦手なこの時期を逃れたい気持ちの表れ!?(笑)

それにしても嬉しいのは陽が長くなったこと。
夕方4時には真っ暗だったのに
今じゃ5時でも明るい。

<ここ数日の備忘録>

珍しくも普段あまり縁のない六本木に
週のうち2度足を運んだ。

26日

「笑い展」@森美術館


タワーリングインフェルノな(出展している友人の美術作家、
磯崎道佳さんが言ってた・笑)雰囲気のオープニング。
無駄にゴーヂャスなところとか!?(笑)シャンパン美味。

魅力的な作品の1つ。いきなり入り口でご対面。
チムチムチェリーをモティーフとした磯崎氏の作品。
「はねぼうきとそうじにん」
製作エピソードをちらりと本人からお聴きしていたので
作品から迫ってくるものがある。存在感がある…というか
そっくりだ!(笑)

チムチムチェリーという曲の楽しさと哀しさは
子供のころから好きでした。


ご本人とパチリ。わ~い!


作品は素人な私がささっと観ても純粋に視覚的に
魅力的なものがいくつかあった。

個人的に嬉しかったのは、持っていた著書の装丁にもあって
とても好きだった絵の実物を
思いがけなく観れたこと。



29日

磯ちゃんの奥様(私と同じ北国の方!)が上京されたので
愉快な仲間たちと歓迎&真冬のインドカレー@南新宿
本当に激ウマで食べ過ぎ…幸せ。





最近気に入ってるチョコ。
そもそもチョコではガーナが一番好きだったのだけど
これは大人風味。




今日会社でお土産に頂いたお菓子。
妙にふわふわで可愛かったので食べにくかったけど
食べました(笑)





忽然と市場から姿を消してしまった
不二家のミルキーが恋しい…
ぺこちゃんよ、早く帰っといで。



























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大竹伸朗「全景」展

2007-01-02 02:26:11 | ART
11月8日

大竹伸朗「全景」展

ヴォリューミー(笑)な作品数ということで勇んで
ランチをたらふく食べてゆく。昼間から焼肉を頂く!←この時点で既に大喜び♪

現地についてのっけから楽しげな雰囲気とともに
作り手の「創作エネルギー」のようなものを感じてワクワクする。
やはり作品ってエネルギーを持っているのだ、と思う。

印象的だったのは初めて実物を観た「網膜」シリーズ。
なめらかで飴のようなスイーツのような質感と大きさ
独特な美しい色合いにずっと観て居たい想いが沸く。
素描も素敵だったしとりわけ印象的だったのは
朽ちかけた船の残骸を額に見立てたもの。

わずかに形骸をとどめた船の断片は
そうなっていることによってかつての船の存在感が逆に
濃くなっているように感じられて、その転倒が面白く不思議だった。

作品にエネルギーというか
「笑い」にも繋がるような強い肯定性とか生命力を感じた。
良し悪しとか優劣を超える独自の世界観と創作的エネルギー、
自由さ、ロック的なビート、歪み、明確さ、多様性に圧倒される。



























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ふたつの旅/伊豆高原と新潟

2006-08-09 00:38:49 | ART
ここのところ、2週続けて週末に
伊豆高原と新潟に出掛けていた。

菊池さんの講義がUAとのコンサートで休講になったり
特別講義に岸野先生が海外出張でいらっしゃらなかったりと
何となく映画美学校も夏休みモード。

それでも週末には振替講義や、卒業制作を講師陣と視聴する
光栄(恐怖)な催しがあったりと、音楽講座は架橋に入ってきた。
最後の卒業制作になる作曲に、そろそろとりかかる。


友人たちのおかげで2週続けて
夏の休日を東京を脱出して満喫することが出来た。

音楽のことは1日に何度も何度も
愛しい人のことを忘れないように、考えている。

文字数が多くなってしまったので日記を別枠へ

<7月28ー30日> 伊豆高原へ
日記はこちら→<伊豆高原へ再び!>

<8月4-6日> 新潟へ

新潟で開催されている妻有トリエンナーレ
中村ケンゴさん仕切りで出掛ける。真夜中に新宿集合。風邪でもないのに発熱しつつ
少し不安を抱えながらも現地で治すつもりで(笑)いざ出発!

後藤繁雄氏がスーパーバイザーをしている
TOKYO SOURCE編集長の近藤ヒデノリさんチームと
二手に分かれて総勢11名の友人たちと。

同行の皆さんのブログも併せてどうぞ

大地の芸術祭 ー 越後妻有トリエンナーレ(The World According to Kengo)

越後妻有アート・トリエンナーレ 2006(TFJ's Sidewalk Cafe)

越後妻有トリエンナーレ「大地の祭典」(TRAVEL HETEROPIA)

もう一週間も(tanaka akiko blog)





現地では代官山アートフロントのギャラリスト
熊谷氏に素晴らしい宿泊施設(破格!)やら


お薦めのアート作品への道程案内、説明などを含め
大変お世話になる。感謝。

<ステキなコテージで創氏の料理を手伝いながら乾杯>


<談笑&マジ食い>


<浅田シェフの創るごちそう♪>




初めて訪れた
お米と雪、そしてお酒の国、新潟の十日町市は
民話の世界に入り込んだような切り立った山々に囲まれ
起伏にとんだ深い地形でそれぞれの集落がこぢんまりとしていて、
こんなに美しいところだとは
今回トリエンナーレに来なければきっと知る事がなかった。


土地の人たちはふっくら炊けたご飯のように柔らかくて暖かく
雪に備えた高い玄関や木々や
艶やかに風にそよぐ黄緑色の絵本のような
田んぼの風景が今も目に浮かぶ。



突き抜けるような、厳しさと豊かさが共存している自然。
同じ北国でも私が生まれた平坦で開かれた大地の
北海道の地形とはまた違う切り立ったような雄大さ。


そんな風景を味わい、大きな地形を移動し
野越え山越えしながら鑑賞するアート作品は
都市部の屋内で鑑賞するのとはおもむきが違う。
自然の風景に突如現れる自然とは対極のアート作品と
風景との視覚的・心情的(笑)コントラストを楽しむのも一興。

西 雅秋『Bed for the Cold』 (2000)
マウンテンパーク津南





Richard Deacon 『マウンテン』 (2006)


Anne Graham『スネーク・パス』 (2003)中里エリア


内海 昭子『窓』 (2006)中里エリア


滞在していた2日間とも
もう少し太陽が陰っても、、、というくらい快晴で
温泉も楽しみ、帰りはへとへとながら
私の原因不明の熱はどこかに消えていた。


半田 真規 『ブランコはブランコでなく』








極めて優れた芸術作品は
それを知った後の世界と知る前の世界とを
じんわり確実に変化させる



<ボルタンスキーの作品>








灼熱に降る雪のよう・・・

クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマン
<最後の教室>




刀禰尚子+飯島敦義
田圃の枯山水





リチャード・ウィルソン
日本に向けて北を定めよ(74°33’2”)




青木野枝 空の水ーV



安 奎哲 記憶の扉(画像なし)

Navin Production Co.Ltd. (Navin Rawanchaikul)
『こへび物語り』 (2006)十日町エリア (68) : キナーレ



鬼頭 健吾
無題 (2005)
十日町エリア (福武ハウス) : 名ヶ山/旧名ヶ山小学校



Moataz Nasr (Egypt)
『夢』 (2006)
十日町エリア (57) : 名ヶ山/旧名ヶ山小学校



(以上・画像撮影提供:中村ケンゴ氏)



<過疎で生徒数が減るいっぽうの学校の窓からお里の風景>



旅のあと思い出すのは何でもない風景だったり
誰かとの他愛のない会話だったりするのも
大切な旅のお土産

(粗めで大きめ画像撮影は私・笑)
































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POPS、現代アート、クリエイティビティ

2006-07-19 02:00:29 | ART
話題の日本×画展に足を運ぶ。


今日は出展作家である中村ケンゴさんとしりあがり寿さんの
クロストークショーが見ものだ。



両者の作品は全く違うけど
まさに「クロストーク」という名のとおり
漫画と絵画というジャンルを横断して
よくぞこのお二人が、、、、という魅力的な組み合わせ。
何だか顔つきや背格好、オーラも似てて兄弟みたい!(笑)

ケンゴさんはもう20年近く前の高校時代に
しりあがりさんの漫画を読んで以来、後の
自分のクリエイティビティに直接影響を及ぼすくらいの
インパクトを受けられたそうで、今は現代美術家である彼の
そういった話を、しりあがりさんは時に感慨深げに
時に恐縮しつつもしっかり受け止めて
先輩後輩の枠を飛び越えたかんじで
応えていらした姿が印象深かった。
漫画や文章のイメージどおりの無理のない自然体の方だった。

現代美術とか日本画とかいうと
敷居が高いかんじもするし確かに敷居は必要な場合もあって
必ずしも気軽なのが良いという訳じゃないけれど
素人には分かりにくい内容に終始したり
観念的な内容になる事も多いけれどしりあがりさんは
自然体で心地よい緩さを持った方だし
ケンゴさんはポップスの解釈を創作のコンセプトに用いたりと
例えば商業音楽理論を学ぶ私でも共感するような
発想を持っておられるので
その思想が現代美術の枠に収まらず
横断的に広がるところが魅力だと思う。

前々日に行われたアップルストアのトークショーでも
触れられていたアートにおける「POP」について
ケンゴさんが言及していたことは
奇しくもその翌日に行われた菊地成孔氏の
「メロドロジー」講義で触れられたPOPについての言及と
ほぼ同じもので 両者共それぞれ絵画と音楽における著作権や
引用、盗用、オリジナリティについての言及だったのだけど
殆どにおいて一致したのは興味深かった。
(これについてはちょっと長くなるので
講義の詳細と共に別の機会に書きたいです)


出身大学で先輩後輩である、しりあがりさんと
ケンゴさんのお二人のやりとりは
世代や属性に関係なく共感性が高くて
傍目で聴いていても流れよく心地良いものだった。
音楽で言うと極上のアンサンブルのよう。
私は特に宝島世代で彼らと近い世代なので(笑)
感じ入ってしまった。

トークショーは予想に反して4倍近い人数が参加して
その7割近い人がその後の「自分の夢をスピーチバルーンに
書き込む」という中村氏のワークショップに参加した模様。
もちろん、私もスピーチバルーンに夢を書いて遊びました。

美術館でのこうした雰囲気の展覧会ってあまりないし
親和性を観覧者に抱かせつつ考えさせられる内容が
しっかりあって魅力的な場だった。
実際の作品を前にしたトークだったせいか、
アーティストの考えが伝わりやすい。
私は時々、背後のカラフルな作品を見渡しながら聴いていた。


沢山来場していた10代と見られる子たちは
何を感じ、思って帰ったのだろうか、興味深い。

私が今のように情報を入手しやすくなかった(笑)10代の頃、
こういったジャンルの横断的なアーティスト同士の会話を
頻繁に雑誌で読んだりラジオで聴いたりしては
刺激を受けたものだけど、そんな事を思い出させるような
トークショーだった。











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奇妙な孤独

2006-01-10 00:06:59 | ART
2006年1月8日 日曜日

<遠い国に住む人からの伝言>

今年最初のアート体験は現在フィンランドに
お住まいのアーティスト三田村光土里さんによる
限定人数招待制の展覧会へ、
中村ケンゴさん
と(美術作家で彼女の友人でもある)
広尾にある「古書一路」という古本店へ向かう。

『遠い国からの伝言』は現在記録展開催中~2006/4/9。
詳細は現在こちらに掲載されています。
ReatTokyo『小崎哲哉氏のコラム』


行くまで、何を見て、何がそこに有って
何が起きるのか全く想像がつかないミステリアスな展覧会。
アーティストご本人とのやりとりを経て鑑賞を決めたので
いろいろな想像力がかきたてられわくわくする。


広尾に着いた時は既に日が暮れ始めて居た。
道に迷いつつも、現場に着く。
事前に現在フィンランドに住む三田村さんご本人から
丁寧な文面の手紙を頂き(手書きの地図まで付いていて)
寒い異国に居て孤独でありながら創作をする境地と
真摯さを感じながら手紙を受け取った。
その手紙にあったある言葉を、店主にお伝えするのが決めごと。

会場に行くと作家本人が店主に託した或るものを、
鑑賞者は手渡される。それごと全てが作品なのだ。
参加者(鑑賞者)全てに別々の作品が手渡される、とのこと。
作品を受け取って、とても豊かな気持ちにさせられた。
鑑賞にいたるまでの経緯を含め
別な所にあった別々な幾つかの大切にしていた
好きな物事が繋がったかの様な不思議な出来事となった。

作品を含め詳細については未見の
ほかの鑑賞者の方々もいらっしゃるので
ここで今は公表出来ないけれど、ご本人からの言葉通り
鑑賞した人のみにしか味わえない作品でした。
(3月に再び同じ場所で展覧会を行う予定だそうです)

そんな風にアーティストご本人から直接与えられた
「機会」そのものが素晴らしいと
感じざるを得ないような出来事が起きた。
とても個人的で小さな幸福なのだけど私にはとても重要な出来事。

ある完全なタイミングでしか
その未知の対象と出会えない、という状況がある。

今から4年程前、ある決意から
これまでやろうとしてやっていなかった
好きなあらゆることを少しでも専門的に学習しようと
まず最初にフランス語を始めた時、

学院の図書館で背表紙のタイトルに心を掴まれて
ある1冊の本と出会った。

タイトルに惹かれたとおり内容は
その時の特殊な状況による孤独の心情とシンクロし
これまでに一度も触れられた事のないような部分にある感情を
これまでにはないやり方で揺さぶられたような文章だった。

その本は30年以上も前に出版されたもので
詳細を調べたら絶版になっていて
記憶と手元に留めておきたい文章だったため
始まりの魅力的な数ページの文を
パソコンに打って保存してあった。

この作家は今では大御所的存在だけど
これは2作目で、今とは全く文体が違っていて
多少大仰だけど、とても瑞々しく情熱的。
何故日本で出版されないのかわからない。
(オリジナルの本はこんなに素敵な装丁)




そして今回の展覧会の会場である古書一路にて
店主に挨拶をしてお茶を頂くべく席に着いて
本棚に目をやって絶句。
(人は喜びにちょっと驚いた時にも絶句するらしい…)
目の前に探していて諦めていたその本が
微笑みかけるように並んでた。


見慣れた装丁だったのですぐに気がつき、
経緯もあったので今ここで出会った事に感銘する。

店主の本に対する愛情を感じるように
古書にも関わらずコンディションが良いのにも感激。
信頼出来る古本店を見つけられた事も
とても嬉しい発見だった。

このような作品と機会を創作し、提供してくれた
三田村光土里さんに深い感謝と敬意を表します。

<小さな偶然>

森美術館で開催され終わり迄あと2日に迫っていた
「杉本博司」展に行こうという事になっていた。
そんな話をしたらチケットをたまたま持っていらした
店主に頂いてしまう…初めて訪れたというのに何て有り難い。
感謝の言葉もありません。

<杉本博司展@森美術館>

美しい光と影、モノトーンの世界。
数理模型の作品は数字という明確な答えがあるものが持つ
独得の美しさを放っていて
割り切れるものの明澄さに惹かれ、美しいと思う。

「フーガの技法」の静謐な明晰さの事が思い出された。

そして作家による強烈に印象的な言葉。

・芸術的野心のないものにも芸術は宿る
・どんな虚像でも一度写真に撮ってしまえば実像になるのだ




観賞後は恒例の夜景観賞。

正月明け間もない東京の空気は冬の冷気と共に澄んでいたらしく
夜景はまるで「大停電の夜に」状態



夜景とハーフムーンがあんまり綺麗だし
気分が良いのでカフェでジントニックを一杯。





アートによるコミュニケーションの力と
語る言葉を持たないほどの
静謐な作品の美を堪能した休日だった。














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言葉による日々のスケッチ

2006-01-01 02:53:09 | ART
カレンダーでは西暦が1年進み
2006年、元旦になりました。

深夜、両親は既に就寝。

東京に居るときは、時々望郷の想いを抱き
こうして郷里からは東京の親しい人々へ
想いを馳せつつ


皆様。新年あけましておめでとうございます。
どんな皆さんが読んで下さっているのか全てを把握する事は
出来ませんが、いつもありがとうございます。

全ての皆様にとってより充実し、
より良い年でありますように。


さて。2005年最後の日々の備忘録を
スケッチのように記録しようと思います。

従いまして新年である2006年の日記のテーマは
『日々を文章でスケッチする』事に。

この日記のタイトルも変わり
『言葉による日々のスケッチ』日記となります。

『憂鬱と官能を教えた学校』こと
映画美学校での音楽美学講座受講日記も
もちろん、続けます。
どうぞ引き続きよろしくお願い致します。

以下、日々の備忘録

12月28日

<ノン・リュー>

仕事納めの土壇場で年内迄にと言われていた
自社ウェブサイトの更新作業に追加の依頼が入る。
今日の今日で大丈夫なのかと思ったら
締め切りも来年の10日まで延びたので、とりあえず
何事も無く仕事を終える。

16時半頃から納会が始まり、去年と同じような雰囲気で
ビールとワインを三杯ほど頂き
サンドウィッチやお寿司などを少しつまみ
また仕事に戻る。帰り際に最後に社長や役員に挨拶。
「(北海道に)帰るの?」と訊かれ、今からこのまま帰るのです、と
上司たちと短い談笑。年の瀬の挨拶をして
そのままリムジンバスで羽田へ。
毎度の事ながら仕事納めの日は慌ただしい…

仕事納めで頂いたアルコールのせいで、ついつい居眠り。
あっという間に到着。危うく乗り過ごすところ。
師走の首都高は思ったより空いていた。

羽田は初めて利用する去年新設された第2空港。
空港とはフランスの人類学者マルク・オジェによる
著作によると『非場所』と定義されている。所謂ターミナル。

ターミナルという場所の雰囲気は嫌いじゃない。
多くの人と人とが行き交い、それぞれの目的地へ向かう
一過性の場が持つ独特な雰囲気や
通り過ぎて行く沢山の人々の間に流れる距離感は心地よい。
そのせいかそこで過ごす時間は(トランジット以外は)
いつも、あっという間。

日本の空港はどれもデザインが一緒で
慣れてしまえばつまらないけれど、今回はとりあえず
初めての場所なので(第1空港よりは多少カフェが充実していた)
サバティーニ系列のカジュアルラインの店の
混雑し慌ただしくも不思議に落ち着く
雰囲気の中でサラダとスパークリングワインを注文する。

あいにく飛行機は到着機の遅れによって
40分程遅延してしまったけれど
揺れもせず快適なフライトだった。22時40分に到着。
北国の空港は雪景色で晴れ。星が眩しいくらい澄んだ夜。
気温はー8℃。



12月29日

<地方都市とメイドインアメリカ>

郊外に出来た巨大ショッピングスポットに
おいしいコーヒーを飲むという目的だけのために行く(笑)

土地が余っている地方都市に建設された大手スーパーの店舗は
さながらアメリカ西海岸の郊外にある
無意味に巨大なショッピングモールのようで、ちょっと驚いた。

でも巨大な器に対して中身は画一的。

かくしてメイドインアメリカの本格的コーヒーや
ヴィンテージジーンズは(4万も5万もする)
地方都市に済むモードへの関心度の高い若者にも
入手可能になったけれど
そこにはその土地が持つ独自の魅力は
完全に失せていた。

人口が増えているにも関わらず
かつて街の中心地だった場所にあった
にわか景気で出来た店舗はことごとく閉店に追いやられ
昔から在る老舗の珈琲店など顧客を獲得した優良店が幾つか
かろうじて生き残っていたのは象徴的。


12月30日

<暖かく山を臨む場所>

31日までは妹夫婦と子供が住む家に泊まる。
この家の主(義弟)はとても良く出来た人。歳は妹と同じ。
彼らは、私が日頃から素敵だなと思うアーティスト達のように
優れた知識人だったり
表現力に秀でていたりするわけではないけれど
彼らが発するさりげない一言や、
たった一つの行為は、人の気持ちを暖かくする。
とても素敵な才能だと思う。

自由な姉(傍からはそう見えるであろう)からすると
育児を含め家を取り仕切る妹は、もはや妹ではなく
頼りになる姉のようだ。立場がいつしか
逆転してしまった事を感じるのだった。

皆で近くにある温泉に出かける。大きな火山と
森に囲まれた場所にある。眩しい程、晴れて居た。

昼間から山と雪景色を見ながら露天風呂に浸かる。
空は透明で青く雲はところどころ桃色で
色や質感は東京のそれとは少し違うといつも思う。
思い出すのはフェルメールの絵に出て来るような空。
たっぷりと寛ぐ。




12月31日

<私の時間を両親と共に>

1年ぶりに姉妹やその家族達と賑やかな(場合によっては
子供が居るので騒々しくも)振り返れば楽しい時間を過ごし
31日の今日は両親が住む小さくて静かな家で3人で過ごす事に。
両親とだけ過ごすのは何年ぶりの事だろう。

母と久々に1対1でじっくりおしゃべりをする。
私が家に居た時は、母と何でも話した。

時に親友や姉のように、恋愛の話しとか
好きな映画や音楽など、まあまあ突っ込んだ会話なども。

久しぶりに家族と過ごすと、良くも悪くも
家族で居た時の自分の『立場』というものがわかってくる。
それは、その時そこに居なかった新しい家族と過ごしても
変わらないようだ。

家族という集合体には芝居のように
誰にでも必ず役割というものがあるように思える。
その中では誰でも良い役ばかりでもなく
悪役を引き受ける家族も居る。そんな存在の人のことを考えつつ。

人はいつか生まれた家を出る時がくる。
そうしなくて済む人は、幸いだと思う。



もう高齢の母に「人生に後悔はない?」と
訊いてみたいと思っていた。母は、後悔は無いと言った。
それを聴いて安心した。0時を過ぎて母に
「まだ寝ないの?」と訊かれ
「これからが、私の時間」と答える。

やっぱり一人で、あれやこれや、考える時間は
どこにいても必要。今日は、皆が寝静まった後、、、

母の母親(亡くなった祖母)の話をして
彼女がとてもモダニストだったということや
その影響を母が最も影響を受けた事や
(母親は世代の割にはリアリストで
独自の世界観を持っている)改めてその母親の思想が
最も私に強く引き継がれた事を感じた2005年最後の日。

中村ケンゴさん展覧会@代官山

2005-12-14 22:31:17 | ART
2005/12/13

中村ケンゴさん展覧会オープニングへ。

映画美学校で同じクラスのミュージシャン神森徹也さんをお誘い。
ケンゴさんはとてもPOPSに明るい人で『POP』ということと、
アート全般における私の師匠的存在。
最も身近で最も影響を受けている敬愛するアーティスト。

代官山の駅から少し歩き交差点にさしかかったところで
角に配された美しいショーウィンドーに展示されている彼の作品が
街を彩っているのが見えてちょっとドキドキする。
そういえばもうすぐクリスマス。





代官山という洗練に包まれた街の、艶やかで穏やかな風景と
作品に表れた鮮やかに柔らかい色彩や
近づいて観なければわからない
記憶にある繊細に輝くマティエールのイメージが
目の前の風景と一体化して、しばし見とれる。


POPクリエイションにおいて、お二人に接点を感じたので
お誘いした神森君は、現代アートをまともに観るのは初めて
という事ではあったけれど極めて軽いフットワークで
顔を出してくれて、とても嬉しい。

作者本人の作品の説明を聴いて頷いていた神森君。
『POPな作品を創作する』という点で隔たりはなく
共通する部分がとても多いという発見をされたようだ。
う~ん、お二人は異業種ながら(笑)意気投合した模様。
美術ジャーナリストの新川貴詩さんとも(終わった頃いらして
ケンゴさんからナ~イス突っ込みをされていた)
神森君が共演した中川五郎氏の話で思いがけなく盛り上がる。





こういう風にジャンルに関係なく
開かれた共通感覚的な関連性って
傍から拝見していても素敵。良いな、と思う。
その後数人で飲みに行き男性4名がPOPS話に花が咲き始め
楽しく幸せな気分になった所で23時を回っていた。
彼らより一足先に帰宅する、何だか味わった事のない
不思議な安堵感を抱きつつ。

エンターテインする芸術

2005-06-08 00:25:49 | ART
前回の日記の続き

<あるCDのレビューより>


彼と知り合いだった人と偶然再会すると、
私はいつもこの部分を思い出すのだ。彼の生前でさえ、
われわれは幸運な仲間どうしなのだという自覚が皆にあった。
あの優しく、愉快で、才気あふれる人物と知り合いなのだということが
どれほどに恵まれているかを理解していたのである。
そして今日、歳月を重ねるほどに、彼と過ごした時間はますます貴重に
(そして妙に神話的に)なっていく。

なぜ彼はこうした魅力を保っているのだろう?
まず第一に、ごく当然の話だが、彼が大変に偉大な音楽家だったことが
理由に挙げられる。彼が「偉大」なのは、よく知られた名曲に
新しい深みをーーーときにはまったく新らしい皮相性をーーー
見出す能力があったからだ。(略)
さらに重要なのは、彼の演奏を聴いた人や、各種の電気的な成果を
聴いた人と、深い繋がりを持てる能力だ
(この「電気的成果を聴いた人」というのは、まさに私自身に該当する)
結局のところ、彼の成し遂げたことのすべてを気に入るかどうかは
大した問題ではない。彼は厳然と存在するのであって、
無視はできないほどである。しかし、彼が公衆の目から隠れて長い時間を
過ごしたのは逆説的な話ではある。

彼が魅力を保っている第2の理由は、彼が、一言でいえば、
エンターテインのできる人、つまり他人をたのしませることの
できる人だったからである。とてつもないユーモアの持ち主だったのは
事実だか、必ずしも「ファニー」という言葉で形容できるわけではない。
もっと深い、根本的なところで他人を楽しませるすべを
心得ていたのである。

芸術を(アート)と娯楽(エンターテイメント)をどう区別するか
という議論が昨今活発になされているが、私は、個人的には、
この区別を認めていない。
何らかの次元でわれわれをエンターテインしない芸術は
葬られる運命にあるのだから。

その点、彼は確かにエンターテインしていた。
それも多種多様な次元においてである。
彼は忘我の境地になれるエンターテイナーだった。
もっとも、そうした視覚的要素を抜きにしても、
彼の音楽は立派に成り立っている。
彼には視覚の助けなどいらないのである。

彼の魅力の最後の理由は、彼が独自の世界を
築き上げた人物だったという点である。

自分が手にしたさまざまな手段を用いて、
型にはまらない生き方を確立した、真の意味で洗練された、
教養ある人物であり、まさに英雄の信じられなくなった時代の
英雄なのである。時間はかかったにせよ、彼は
自分の天才と、それが求める物を受け入れられるようになり、
そこに自分を適応させた。彼の生前に書かれ、いまなお
最高の論である、とある著書の著者Jは、いみじくもこう語っているー

「彼は、抜群に優れた人物で、友好的で思いやりもある。
実はエキセントリック(常軌を逸した)でも
エゴセントリック(自己中心的)でもない。
自分がどう生きたいかを悟り、そのとおりに
実践している人物なのである」

ワルプルギスの夜

2005-05-25 01:25:06 | ART


書店で、視線を感じてふと見上げると
そこにあるその本の背表紙だけがクッキリと見える、、、
何度かそんな経験がある。
それは普段読まない村上春樹だったりした事もあった。
本と目が合った時は中身も確認せず
とりあえずその場でぴんとくれば買っておいて
タイミングが合えば読もう、と思う事にしている。

今日はそんなエネルギーが満ち満ちていたらしく
発生源エリアは何故か「児童書」のコーナーだった。
インテリではない両親だったが(笑)
愛情とセンスだけは優れていたようで
今でも思い出すのは子供の頃何故か
家には初めて耳にする海外の音楽(クラシック)と、
絵本の在庫だけは多少充実していた。

クラシックに関してはハイドンの「おもちゃのシンフォニー」とか
(今はモーツァルトという事になっているらしいが
ハイドンかどうかはさておき私はモーツァルトではないと思っている)
「シンコペィテッド・クロック」とか「めんどり」とか、
そんな子供向けのクラシックをよく聴いていた。

幼児の頃の体験というのは
無意識の中にある刷り込み、とも言えるように
普段は忘れていてもふとした瞬間に
つい昨日の事のように鮮明に思い出せるものだ。

今日書店でわたしは
幼稚園の頃~小学生低学年の頃に退行した(笑)
それまで忘れていたのに背表紙を目にした瞬間
数十年前の自分がその本の事がとても好きで
手に取って読んでいた事を追体験し、凝縮された
ひとときを過ごした。

今日手にした最初の1冊「鏡の国のアリス」
ルイス・キャロル
(現在では「福音館:愛蔵版」という扱い)

手に取って思わず小さく悲鳴をあげた、、、
何て美しい装丁だったのだろう。
大人になってから手にしても
やっぱり綺麗だった事に感激する。
ジョンテニエルの、子供向けで可愛いというよりも
ミステリアスで怪しい絵と淡いカラフルさ。
未知の物事でいっぱいの子供心をくすぐる。
私はこの本がとても好きで手にしているだけでも幸せだった。

意味やストーリーをあまり追っていなかった事を思い出す。
音楽のリズムを楽しむように韻を踏んだり、
言葉遊びを楽しみながら
この不可思議な物語世界に入り込んで読みとろうとしていた、
その過程こそ至福の時間だった事を思い出す。
幼い頃にこの本を手にする事が出来た幸福に感謝。
そして大人になった(もうすっかり!・笑)
いま読んだら全く違う世界が見えそうで
これもまた新たな楽しみ。

こういったファンタジーや
絵本にある挿絵の存在が自分をどんな風に形成し、
いかに将来に影響するかということを
大人になった今実感する、、、
私は今でもまだ少し(笑)夢見がちである。

2冊目の発見は「小さい魔女」

ドイツの作家:オトフリート=プロイスラー

背表紙でタイトルを発見するまで
この本の物語を全く忘れていたというのに
見た途端殆ど一瞬で沢山のことが想起された。
時間が逆回転したみたいだ。

「ワルプルギスの夜」なんて言葉に
何故親しみがあったのか今になって
やっとわかって面白かった。
どうやら私は子供の頃から魔法使いに憧れていたらしくて
今もその想いがどこかに残っているようだ(笑)

そして好きだった絵本の発見はまだ続く模様・・・