5/22日
映画美学校 音楽美学講座をコーディネートしている
岸野雄一氏プロデュースのライブに行った。
話題はエキスポの再結成。
現役で聴いていた同行の中村ケンゴ氏が持っていた
当時のカセットテープによって去年初めて聴いた
お気に入りの「赤ちゃんコンクール」が
ナマで聴けたのはよかった。
ユーモラスで楽しくクール、
ちょっとした肩透かしもあって
もっと聴きたいと思わされる魅力がある。
たとえば音楽の中の物語性にも色々あって
作者の個人的苦悩や思想とか思考や人生、
生き様なんぞが、もうギュウギュウに詰まった(笑)
シリアスで濃い物語にも
心が動かされる場合もあるだろうが
そんな思索性とは別次元の思索、抽象性と
POPさがある。それとなぜか笑い(笑)
数日前にこのライブにゲスト出演していた
フェルディナンドリシャール氏の講義を
ライブの数日前に映画美学校の特別講義で聴講していた。
この予備知識がなければ
ビシッとスーツを来たエグゼクティブな
ビジネスマンさながら颯爽と登場した
50代半ばのフランス人紳士を見て
誰が6弦ベースを弾いて自らも即興演奏をし
革新的な音楽を演奏する若いミュージシャンや
芸術全般のアーティストの活動をプロデュースする
政治力すら持った芸術家だと思うだろう、、
というわけで哲学、そしてワインとチーズの国
フランスという国の文化に対する熟成度はやっぱり高い、
こんなイカしたオヤジ(笑)がいるなんて!
以下、フェルディナンドリシャール氏
特別講義で
アーティストとプロデュースの関係について
共感する部分があったのでレポートを記録する
(映画美学校で配布された資料より抜粋/引用)
<>内は私の言葉
A.M.I
(Aide aux Musiques Innovatrices-革新的な音楽の扶助)
小さな加速装置と称される
このAMIという組織は
音楽製作の最初から最後まであらゆるプロセスを
理解、改良、促進し、人々が音楽で自己表現するのを
可能な限り手助けしようとしている。
AMIは音楽や都市文化(ワークスペース、ワークショップ、
知識の獲得など)を作る資源と、それらを広める手段
(パフォーマンスの場所、ネットワーク)に注目し
いろいろな活動を可能な限り統合しようとしている
AMIは「小さな加速装置」としてふるまい
特定のプロジェクトや
閉鎖的なサークルではなく
ディレクションに関わっている。
文化/アートの権利だけでなく
経済的な権利もわきまえている
現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ
革新なくして発展はなく、周辺なくして中心はなく、
アマチュアなくして専門家はいない。
「他の場所」がなければ、この場所も存在しない
<同じく、他者が居なければこの私も存在しない>
このマルセイユの工場跡地を利用した
巨大なアートセンターの理念として
3つの軸がある
●実習と訓練
●美学
●プロデューサー
アーティストとプロデューサーが一緒になって
はじめて認知・経済的なサバイバル、移動が可能になる。
ローカルシーンは「小さなプロデューサー」なしには
成立しない。
AMIはこうしたプロデューサーに注目し
そのイベント組織を見守っている
また芸術的「表現」の手段について
インターネットを介して
かつてはレコーディング不可能だった
発展途上国にあって
公共的なインターネットカフェの出現などによって
発表が可能となった
ご本人談より
自分の好みで聴くものと
プロデュースしようと思うアーティストは
必ずしも同じではない。
常に新しいものに対するオドロキが大事
例えばヒップホップなど
若者的なbad mixはあくまでもプロセスである
アートに例えればプロセスをアートとする
メタアートのようなもので、そういった意味では
「A・M・I」自体がメタアートである
ここで
「現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ」という言及に対して
以前聴いたある対談を思い出す。
柄谷行人と福田和也の対談で
現代批評の核とかいうテーマだったと思う
そこで触れられた言及について。
**************
学生諸君なんかとつきあってて感じるのは、
たぶんデジタル化のいいところなのでしょうけれど、
年の差は感じても世代の差は感じないんですよね。
音楽とか映画とか、基本的なバックグラウンドになるものが共有できる。
二十代前半でも山中貞雄の映画をすべて見てるとか。
五十年代のカントリーに詳しいとか、
そういう人とはかなりおもしろく議論ができる。
情報のギャップがまったくなくなっているので、
そういう意味での世代差は虚構になっていて、
おたがいにバックグラウンドにしているものを
理解出来ないことはあまりない。自分と自分の子供が
ほとんど同じ文化生活の経路をたどっているのを見ると
けっこうショックなんですが、江戸時代などにはあったことですよね。
あのころは親と子供が同じような文化背景に生きていた。
だから、吉田松陰みたいに11歳で軍学の教師になって、
藩主に平気で教えていたわけです。
そういう意味で一種の「江戸化」が起きている
世代だけでなくて非常に小さいトライブというんですか、
ライヴ的にはいろんな趣味で集まるというのも、
江戸の芝居なんかにはしばしばあったことですよね。
そういう意味では、現代はきわめて前近代化している気がします。
振る舞い方など局所的には洗練されていますね…
柄谷行人はマークブキャナンの著書に対する
朝日新聞の書評で似たような事を書いていた。
「人間社会の営みと、一見それとは関係のないように見えるもの
(中略)の機能の仕方とのあいだに、多数の予期されなかったつながりが存在する」
ことを解明し
たとえば、各人の「知り合いの知り合いの知り合い――」を
たどっていくと、世界中の60億の人間に到達するには、
どれぐらいの回数が必要か。なんと、6度で足りるのである。
世界中の人々は互いに遠く隔たっているように見えるが、
せいぜい「6度の隔たり」しかない。ところが、
われわれはそのようなネットワークに気づかないので、
時折それを発見して「世間は狭い」と驚くのである。
この場合、親しい知り合いだけを通しているとそうはいかない。
知り合いの連鎖によって世界中の人間に到達するためには、
親密でないただの知り合いを通したつながりを経由しなければならない。
そこから逆にいえるのは、ネットワークにおいて大事なのは、
強い絆(きずな)よりも、ゆるい絆で結ばれた関係だということである。
たとえば、噂(うわさ)が急速に広がるのは、こうした
「ゆるい絆」を通すことによってである。
いいかえれば、ネットワークの組織化そのものに、
人間の作為をこえて働く原理がある。
********
という諸々の事を考えていたら
こういったコアなライブに集まった人々の顔ぶれや
映画美学校のことなんかを思い出していた。
映画美学校 音楽美学講座をコーディネートしている
岸野雄一氏プロデュースのライブに行った。
話題はエキスポの再結成。
現役で聴いていた同行の中村ケンゴ氏が持っていた
当時のカセットテープによって去年初めて聴いた
お気に入りの「赤ちゃんコンクール」が
ナマで聴けたのはよかった。
ユーモラスで楽しくクール、
ちょっとした肩透かしもあって
もっと聴きたいと思わされる魅力がある。
たとえば音楽の中の物語性にも色々あって
作者の個人的苦悩や思想とか思考や人生、
生き様なんぞが、もうギュウギュウに詰まった(笑)
シリアスで濃い物語にも
心が動かされる場合もあるだろうが
そんな思索性とは別次元の思索、抽象性と
POPさがある。それとなぜか笑い(笑)
数日前にこのライブにゲスト出演していた
フェルディナンドリシャール氏の講義を
ライブの数日前に映画美学校の特別講義で聴講していた。
この予備知識がなければ
ビシッとスーツを来たエグゼクティブな
ビジネスマンさながら颯爽と登場した
50代半ばのフランス人紳士を見て
誰が6弦ベースを弾いて自らも即興演奏をし
革新的な音楽を演奏する若いミュージシャンや
芸術全般のアーティストの活動をプロデュースする
政治力すら持った芸術家だと思うだろう、、
というわけで哲学、そしてワインとチーズの国
フランスという国の文化に対する熟成度はやっぱり高い、
こんなイカしたオヤジ(笑)がいるなんて!
以下、フェルディナンドリシャール氏
特別講義で
アーティストとプロデュースの関係について
共感する部分があったのでレポートを記録する
(映画美学校で配布された資料より抜粋/引用)
<>内は私の言葉
A.M.I
(Aide aux Musiques Innovatrices-革新的な音楽の扶助)
小さな加速装置と称される
このAMIという組織は
音楽製作の最初から最後まであらゆるプロセスを
理解、改良、促進し、人々が音楽で自己表現するのを
可能な限り手助けしようとしている。
AMIは音楽や都市文化(ワークスペース、ワークショップ、
知識の獲得など)を作る資源と、それらを広める手段
(パフォーマンスの場所、ネットワーク)に注目し
いろいろな活動を可能な限り統合しようとしている
AMIは「小さな加速装置」としてふるまい
特定のプロジェクトや
閉鎖的なサークルではなく
ディレクションに関わっている。
文化/アートの権利だけでなく
経済的な権利もわきまえている
現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ
革新なくして発展はなく、周辺なくして中心はなく、
アマチュアなくして専門家はいない。
「他の場所」がなければ、この場所も存在しない
<同じく、他者が居なければこの私も存在しない>
このマルセイユの工場跡地を利用した
巨大なアートセンターの理念として
3つの軸がある
●実習と訓練
●美学
●プロデューサー
アーティストとプロデューサーが一緒になって
はじめて認知・経済的なサバイバル、移動が可能になる。
ローカルシーンは「小さなプロデューサー」なしには
成立しない。
AMIはこうしたプロデューサーに注目し
そのイベント組織を見守っている
また芸術的「表現」の手段について
インターネットを介して
かつてはレコーディング不可能だった
発展途上国にあって
公共的なインターネットカフェの出現などによって
発表が可能となった
ご本人談より
自分の好みで聴くものと
プロデュースしようと思うアーティストは
必ずしも同じではない。
常に新しいものに対するオドロキが大事
例えばヒップホップなど
若者的なbad mixはあくまでもプロセスである
アートに例えればプロセスをアートとする
メタアートのようなもので、そういった意味では
「A・M・I」自体がメタアートである
ここで
「現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ」という言及に対して
以前聴いたある対談を思い出す。
柄谷行人と福田和也の対談で
現代批評の核とかいうテーマだったと思う
そこで触れられた言及について。
**************
学生諸君なんかとつきあってて感じるのは、
たぶんデジタル化のいいところなのでしょうけれど、
年の差は感じても世代の差は感じないんですよね。
音楽とか映画とか、基本的なバックグラウンドになるものが共有できる。
二十代前半でも山中貞雄の映画をすべて見てるとか。
五十年代のカントリーに詳しいとか、
そういう人とはかなりおもしろく議論ができる。
情報のギャップがまったくなくなっているので、
そういう意味での世代差は虚構になっていて、
おたがいにバックグラウンドにしているものを
理解出来ないことはあまりない。自分と自分の子供が
ほとんど同じ文化生活の経路をたどっているのを見ると
けっこうショックなんですが、江戸時代などにはあったことですよね。
あのころは親と子供が同じような文化背景に生きていた。
だから、吉田松陰みたいに11歳で軍学の教師になって、
藩主に平気で教えていたわけです。
そういう意味で一種の「江戸化」が起きている
世代だけでなくて非常に小さいトライブというんですか、
ライヴ的にはいろんな趣味で集まるというのも、
江戸の芝居なんかにはしばしばあったことですよね。
そういう意味では、現代はきわめて前近代化している気がします。
振る舞い方など局所的には洗練されていますね…
柄谷行人はマークブキャナンの著書に対する
朝日新聞の書評で似たような事を書いていた。
「人間社会の営みと、一見それとは関係のないように見えるもの
(中略)の機能の仕方とのあいだに、多数の予期されなかったつながりが存在する」
ことを解明し
たとえば、各人の「知り合いの知り合いの知り合い――」を
たどっていくと、世界中の60億の人間に到達するには、
どれぐらいの回数が必要か。なんと、6度で足りるのである。
世界中の人々は互いに遠く隔たっているように見えるが、
せいぜい「6度の隔たり」しかない。ところが、
われわれはそのようなネットワークに気づかないので、
時折それを発見して「世間は狭い」と驚くのである。
この場合、親しい知り合いだけを通しているとそうはいかない。
知り合いの連鎖によって世界中の人間に到達するためには、
親密でないただの知り合いを通したつながりを経由しなければならない。
そこから逆にいえるのは、ネットワークにおいて大事なのは、
強い絆(きずな)よりも、ゆるい絆で結ばれた関係だということである。
たとえば、噂(うわさ)が急速に広がるのは、こうした
「ゆるい絆」を通すことによってである。
いいかえれば、ネットワークの組織化そのものに、
人間の作為をこえて働く原理がある。
********
という諸々の事を考えていたら
こういったコアなライブに集まった人々の顔ぶれや
映画美学校のことなんかを思い出していた。