goo blog サービス終了のお知らせ 

言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

ライヴと江戸化

2005-05-28 01:00:16 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
5/22日
映画美学校 音楽美学講座をコーディネートしている
岸野雄一氏プロデュースのライブに行った。

話題はエキスポの再結成。
現役で聴いていた同行の中村ケンゴ氏が持っていた
当時のカセットテープによって去年初めて聴いた
お気に入りの「赤ちゃんコンクール」が
ナマで聴けたのはよかった。


ユーモラスで楽しくクール、
ちょっとした肩透かしもあって
もっと聴きたいと思わされる魅力がある。


たとえば音楽の中の物語性にも色々あって
作者の個人的苦悩や思想とか思考や人生、
生き様なんぞが、もうギュウギュウに詰まった(笑)
シリアスで濃い物語にも
心が動かされる場合もあるだろうが
そんな思索性とは別次元の思索、抽象性と
POPさがある。それとなぜか笑い(笑)

数日前にこのライブにゲスト出演していた
フェルディナンドリシャール氏の講義を
ライブの数日前に映画美学校の特別講義で聴講していた。

この予備知識がなければ
ビシッとスーツを来たエグゼクティブな
ビジネスマンさながら颯爽と登場した
50代半ばのフランス人紳士を見て
誰が6弦ベースを弾いて自らも即興演奏をし
革新的な音楽を演奏する若いミュージシャンや
芸術全般のアーティストの活動をプロデュースする
政治力すら持った芸術家だと思うだろう、、

というわけで哲学、そしてワインとチーズの国
フランスという国の文化に対する熟成度はやっぱり高い、
こんなイカしたオヤジ(笑)がいるなんて!

以下、フェルディナンドリシャール氏
特別講義で
アーティストとプロデュースの関係について
共感する部分があったのでレポートを記録する
(映画美学校で配布された資料より抜粋/引用)

<>内は私の言葉

A.M.I
(Aide aux Musiques Innovatrices-革新的な音楽の扶助)

小さな加速装置と称される
このAMIという組織は
音楽製作の最初から最後まであらゆるプロセスを
理解、改良、促進し、人々が音楽で自己表現するのを
可能な限り手助けしようとしている。

AMIは音楽や都市文化(ワークスペース、ワークショップ、
知識の獲得など)を作る資源と、それらを広める手段
(パフォーマンスの場所、ネットワーク)に注目し
いろいろな活動を可能な限り統合しようとしている

AMIは「小さな加速装置」としてふるまい

特定のプロジェクトや

閉鎖的なサークルではなく
ディレクションに関わっている。

文化/アートの権利だけでなく
経済的な権利もわきまえている

現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ

革新なくして発展はなく、周辺なくして中心はなく、
アマチュアなくして専門家はいない。

「他の場所」がなければ、この場所も存在しない

<同じく、他者が居なければこの私も存在しない>

このマルセイユの工場跡地を利用した
巨大なアートセンターの理念として
3つの軸がある

●実習と訓練

●美学

●プロデューサー

アーティストとプロデューサーが一緒になって
はじめて認知・経済的なサバイバル、移動が可能になる。

ローカルシーンは「小さなプロデューサー」なしには
成立しない。

AMIはこうしたプロデューサーに注目し
そのイベント組織を見守っている

また芸術的「表現」の手段について
インターネットを介して
かつてはレコーディング不可能だった
発展途上国にあって
公共的なインターネットカフェの出現などによって
発表が可能となった

ご本人談より

自分の好みで聴くものと
プロデュースしようと思うアーティストは
必ずしも同じではない。

常に新しいものに対するオドロキが大事
例えばヒップホップなど
若者的なbad mixはあくまでもプロセスである

アートに例えればプロセスをアートとする
メタアートのようなもので、そういった意味では
「A・M・I」自体がメタアートである



ここで
「現実社会の中で、AMIは地域社会レベルで動いている。
逆説的だが、インターナショナルなプロジェクトでの
成功の鍵はローカルな活動だ」という言及に対して
以前聴いたある対談を思い出す。

柄谷行人と福田和也の対談で
現代批評の核とかいうテーマだったと思う


そこで触れられた言及について。

**************

学生諸君なんかとつきあってて感じるのは、
たぶんデジタル化のいいところなのでしょうけれど、
年の差は感じても世代の差は感じないんですよね。
音楽とか映画とか、基本的なバックグラウンドになるものが共有できる。
二十代前半でも山中貞雄の映画をすべて見てるとか。
五十年代のカントリーに詳しいとか、
そういう人とはかなりおもしろく議論ができる。
情報のギャップがまったくなくなっているので、
そういう意味での世代差は虚構になっていて、
おたがいにバックグラウンドにしているものを
理解出来ないことはあまりない。自分と自分の子供が
ほとんど同じ文化生活の経路をたどっているのを見ると
けっこうショックなんですが、江戸時代などにはあったことですよね。
あのころは親と子供が同じような文化背景に生きていた。
だから、吉田松陰みたいに11歳で軍学の教師になって、
藩主に平気で教えていたわけです。
そういう意味で一種の「江戸化」が起きている

世代だけでなくて非常に小さいトライブというんですか、
ライヴ的にはいろんな趣味で集まるというのも、
江戸の芝居なんかにはしばしばあったことですよね。
そういう意味では、現代はきわめて前近代化している気がします。

振る舞い方など局所的には洗練されていますね…

柄谷行人はマークブキャナンの著書に対する
朝日新聞の書評で似たような事を書いていた。

「人間社会の営みと、一見それとは関係のないように見えるもの
(中略)の機能の仕方とのあいだに、多数の予期されなかったつながりが存在する」
ことを解明し

たとえば、各人の「知り合いの知り合いの知り合い――」を
たどっていくと、世界中の60億の人間に到達するには、
どれぐらいの回数が必要か。なんと、6度で足りるのである。
世界中の人々は互いに遠く隔たっているように見えるが、
せいぜい「6度の隔たり」しかない。ところが、
われわれはそのようなネットワークに気づかないので、
時折それを発見して「世間は狭い」と驚くのである。

この場合、親しい知り合いだけを通しているとそうはいかない。
知り合いの連鎖によって世界中の人間に到達するためには、
親密でないただの知り合いを通したつながりを経由しなければならない。
そこから逆にいえるのは、ネットワークにおいて大事なのは、
強い絆(きずな)よりも、ゆるい絆で結ばれた関係だということである。
たとえば、噂(うわさ)が急速に広がるのは、こうした
「ゆるい絆」を通すことによってである。

いいかえれば、ネットワークの組織化そのものに、
人間の作為をこえて働く原理がある。

********

という諸々の事を考えていたら
こういったコアなライブに集まった人々の顔ぶれや
映画美学校のことなんかを思い出していた。

ワイン堪能日和

2005-05-27 13:28:05 | 日々


今日は約半年ぶりに参加した、通称ノムリエ会…
ソムリエでミュージシャンでギャラリスト、
フーテンタロー氏主催のワインテイスティングの会@吉祥寺

大好きなロワール地方のワインが今日のテーマだった。
ロワールのワインには思い出がある。
この地を初めて訪れた時、地元のレストランで
(重めの風邪を薬で抑えつつ悪体調を抱えた旅だった)
料理と共に出てきたワインは意外にもロゼ。

水がわりに出されたというかんじで
さほど高価なものではなかったと思う。
日本ではロゼは一般的でないので値のほどはわからない。
しかもそんなに冷えてなくて白より少し高いくらいの温度。
常温に限りなく近かった。
(それが当たり前なのかもわからない)
一口飲んでビックリ、体調が良くないのにぐいぐい飲めた。
身体に合った、といっても良い。
ワインが生まれた土地の温度や空気の中で飲むワインの味、
日本で同じものを飲んでおいしいと感じただろうか、、不明。
フルーティーというより淡い花と、はちみつのような味がした。

あまりにおいしかったので
鮮明に記憶に残っているけれど残念ながら
銘柄を覚えてない、、、
結局その旅で最も印象に残るワインとなった。
そんな思い入れのあるロワールのワイン。

本日は白からスタート。白が5杯、赤が3杯。

このノムリエ会はちょうど去年の今頃に
初めて参加したので私にとっては約一周年の経過である。

テイスティングの面白さはワインのヴィンテージ、ぶどう品種、
土地を明確にするべく、自分のあらゆる五感を駆使して
イメージを想起しかつての実体験と照合する、、、
【経験的実証性と論理的推論に基づく整合性:by大辞林】
というかんじで意外にも科学的な検証を楽しむことも出来る。

それだけではなくて食事の楽しみという味覚の快楽が
プラスされるのでかなり楽しい。
(っていうか結局そこに終始する・笑)

しかも途中で段々皆酔っぱらって来るので(笑)
品種が、ヴィンテージが、といった事が遠のきつつも
記憶に残しておく、というのが理想なのだけど
段々理性を失い会話の内容が上品なフレンチレストランの
雰囲気にミラーボールを添えるような(笑)内容に変わっていく。
初対面のUさんの手品が始まったりして非常に楽しい場面もあり。
皆笑い上戸になっていく(笑)
ワインは本当に奥が深く(種類も膨大だし)
テイスティングを極めるのは難しい。
経験値を高めたい、楽しみつつ、、、

しかし今日は久しぶりの参加と、
週の終わりの木曜日の開催ということで
ワインはおいしいしモチベーションは高いものの
寝不足が影響して途中
コックリコックリしてしまいました(笑)
へろへろ&ネムネムになった私が洗面所から出て
皆の居る席に戻ろうとしたら
店主でソムリエ協会理事でいらっしゃる
いつもお世話になっているムッシュNさんに
「大丈夫ですか?今日は珍しいですね。
お早めにお帰りなさい」と促して頂き、
皆さんにご挨拶もせず一足先に失礼してしまいました、、、

というわけで皆さん無事に着きました~
久々のワインとおいしい食事、デザートに至るまで
degustationしました。

ワルプルギスの夜

2005-05-25 01:25:06 | ART


書店で、視線を感じてふと見上げると
そこにあるその本の背表紙だけがクッキリと見える、、、
何度かそんな経験がある。
それは普段読まない村上春樹だったりした事もあった。
本と目が合った時は中身も確認せず
とりあえずその場でぴんとくれば買っておいて
タイミングが合えば読もう、と思う事にしている。

今日はそんなエネルギーが満ち満ちていたらしく
発生源エリアは何故か「児童書」のコーナーだった。
インテリではない両親だったが(笑)
愛情とセンスだけは優れていたようで
今でも思い出すのは子供の頃何故か
家には初めて耳にする海外の音楽(クラシック)と、
絵本の在庫だけは多少充実していた。

クラシックに関してはハイドンの「おもちゃのシンフォニー」とか
(今はモーツァルトという事になっているらしいが
ハイドンかどうかはさておき私はモーツァルトではないと思っている)
「シンコペィテッド・クロック」とか「めんどり」とか、
そんな子供向けのクラシックをよく聴いていた。

幼児の頃の体験というのは
無意識の中にある刷り込み、とも言えるように
普段は忘れていてもふとした瞬間に
つい昨日の事のように鮮明に思い出せるものだ。

今日書店でわたしは
幼稚園の頃~小学生低学年の頃に退行した(笑)
それまで忘れていたのに背表紙を目にした瞬間
数十年前の自分がその本の事がとても好きで
手に取って読んでいた事を追体験し、凝縮された
ひとときを過ごした。

今日手にした最初の1冊「鏡の国のアリス」
ルイス・キャロル
(現在では「福音館:愛蔵版」という扱い)

手に取って思わず小さく悲鳴をあげた、、、
何て美しい装丁だったのだろう。
大人になってから手にしても
やっぱり綺麗だった事に感激する。
ジョンテニエルの、子供向けで可愛いというよりも
ミステリアスで怪しい絵と淡いカラフルさ。
未知の物事でいっぱいの子供心をくすぐる。
私はこの本がとても好きで手にしているだけでも幸せだった。

意味やストーリーをあまり追っていなかった事を思い出す。
音楽のリズムを楽しむように韻を踏んだり、
言葉遊びを楽しみながら
この不可思議な物語世界に入り込んで読みとろうとしていた、
その過程こそ至福の時間だった事を思い出す。
幼い頃にこの本を手にする事が出来た幸福に感謝。
そして大人になった(もうすっかり!・笑)
いま読んだら全く違う世界が見えそうで
これもまた新たな楽しみ。

こういったファンタジーや
絵本にある挿絵の存在が自分をどんな風に形成し、
いかに将来に影響するかということを
大人になった今実感する、、、
私は今でもまだ少し(笑)夢見がちである。

2冊目の発見は「小さい魔女」

ドイツの作家:オトフリート=プロイスラー

背表紙でタイトルを発見するまで
この本の物語を全く忘れていたというのに
見た途端殆ど一瞬で沢山のことが想起された。
時間が逆回転したみたいだ。

「ワルプルギスの夜」なんて言葉に
何故親しみがあったのか今になって
やっとわかって面白かった。
どうやら私は子供の頃から魔法使いに憧れていたらしくて
今もその想いがどこかに残っているようだ(笑)

そして好きだった絵本の発見はまだ続く模様・・・


TOKYO的心象風景

2005-05-22 01:30:57 | ART
初夏になると、ある風景のイメージが浮かぶ

それはTOKYOに在りながら
人気のない場所にある、海が見える風景だ

今日行った場所はそんな心象風景とシンクロした

この場所で行われたイベントは
アーティスト近藤ヒデノリ氏のサイトで
ピックアップされていた
Variations on a Silence

大森駅から10数分走ると風景が変わってくる、
広い道路には、もうあまり車が走っていない
大田区の城南島

ヤマトインターナショナルの
エキセントリックな建物が見えてきたところで
この風景を以前にも見た事を思い出した、
1年程前に江東区の辰巳から
いま住んでいる大田区に引っ越して来た時のことだ

大きな橋をわたると倉庫や工場が広がり
風景が銀色になる

広い河川にかかる大きな橋を渡り
水面に煌めくネオンが見えると
潮気と排気ガスを含んだ東京独特の海の香りが漂う

飛行機が爆音と共に頭上を通り過ぎる
音も機体も小気味よいほどに大きくて
ふ~っと胸が空く

見ているものが非日常的に思えるほど大きいと
規格に対する恒常的感覚が狂う、
まるで幅1メートルの飛行機が
頭上5メートル位を飛んでいるように錯覚するのだ、
手を伸ばせば届きそう…

海が見えてくる、晴天のせいか
今日の海はとても青く、遠くに羽田空港が見える

自然と人工物が一体になって
美的バランスを保っている風景に奇妙な美しさを感じる

ふと、記憶にある映像が思い浮かんだ

出身地をフェリーで離れる機会があって
その時聴いていたCDからニューオーダーの「Elegia」が
流れた事を思い出す、

改めて聴いてみると
この曲の硬質で無機的な中にある叙情性が
ケミカルな風景と相性が良いという事に気がつく

この場所に来るあいだ
色々な事が想起出来たせいもあってか
この場所にまた来たいと思った。






魔法使いの苦悩

2005-05-19 23:28:27 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
<2005年5月18日 音楽美学講座>

子供の頃、神様に一つだけ
願いを叶えてあげようと言われたら
こう言おうと決めていた。魔法使いになりたい


今日世界がちょっと変わった気がした。
でも変わったのは世界じゃなく
私の世界への定義が変わっただけだ。


こういった転倒が起きるのが
メソッドを習得する事の面白いところ

コード世界の概念に関してほぼ踏襲した段階で
初めてこの世界を俯瞰出来るようになり
これまで見えなかった色々な事が見えてくる

前回の講義からのブランクは通常より
1週間多い3週間を経て

引き続きテーマは難関で重要なマイナースケール

それまでの世界が否応無く拡張される
これまでの世界と概念が変わった世界が
実は3つも存在していたんだよ、ってな具合で
思考はとうとう大気圏を飛び出す。
2005年宇宙の旅/楽理初等科バージョンクランクイン


少し憂鬱を抱えつつ期待と不安に満ちた
サブドミナントな気持ちで講義に臨んでいたら

あら不思議。

これまでしっくりきていなかった概念
ケーデンスの無限増設やコード進行についても

曇天の中にドカーン!と太陽が出て
目の前の霧が晴れたかのようにくっきり理解した
多分他の生徒はその時点で
ちゃんとわかっているんだろうな…私には無理

■スケール内の各コードを生徒に、
■突如現れるケーデンスをその生徒の両親
としたアナロジーが面白かったせいか
すごくわかりやすかった
面白くて笑いが絶えなかった。たくさん笑う
これもこの講義の楽しみ、、って笑いに来てるのか。Oui

【※ケーデンス=コード進行の原動力】
コードには各々<機能※>があると
バークリーメソッドでは定義されている。

【機能とは】

ドミナント(D)不安定(不協和)
トニック(T)安定(協和)
サブドミナント(SD)曖昧(ある意味両義的)

マイナースケールの場合は
この3種類に夫々mが付くので計6種類
意味も多少変わる。

曲の構造・動きの例えとして

●CmというKeyを美学校楽理初等科のクラスとする
●曲中に登場するコードをクラスの生徒達とする
●生徒達には必ず両親が居る
●ケーデンスラインを生徒達の親とする

あたかも独立して現れたかのようなコードには
あらかじめ秘められたケーデンスという
推進力がある、というわけだ。

菊池さんは自身が仕切るバンドDCPRGの名曲
「Mirror Balls」についての分析を始めた

分析の中で
「メジャーっぽく聴こえるマイナー」と言った

私の考えが物凄いスピードで
既に持っていたイメージと符号する

続けて、この「Mirror Balls」のKeyは
Cmでマイナーだけどコード進行の動き方や
コードの機能や使い方によって
マイナーに聴こえなくなる、という事だった


これは私が以前
何故短調に聴こえなかったか
というタイトルの日記に書いた

「私がイメージしているのは、
もしかしたら短調にしか現れない
長調のような質感を持つグルーヴなのかもしれない
それでいて、ポップなもの。かなり両義的(笑)」
という記述に、その言及を重ねる事が出来た

この日記には、どんなにばかばかしい事でも
その時思いついた事を書き残すようにしているので
こんな風に感覚的に想像していた概念が、
実際に楽理を通して説明されると
見える世界はがらりと変わってくる

私がイメージしていた概念は今回言及された
『マイナースケールの中に現れる
メジャーコードのような質感を持つコード』の存在が生む
コード進行的グルーヴだったのだ。
このコードは両義的な概念を併せ持ち、
両者の概念を結ぶようなもの

実際に聴いた曲調も、
マイナー的切なさの中にもPOPで楽しいし
かつビートとグルーヴ(推進力)があって
リズム(ドラムやベース)がなくても
それを感じることが出来る。

コード進行自体が持つグルーヴというものが
存在するのだ。
あの時の私はこれを鍵盤で表現出来なかったけど
感覚的にそれを知っていたのだ。
たぶん、耳だけが知っていたのだろう。
そしてあの時知っていた
ダイアトニックスケールだけでは
このコード進行に現れるグルーヴを
表現するのは不可能だったのだ。

この事に思い入れがずっと強かった私にとっては
核心的発見である。

そして、もう1曲分析が続く

同じくマイナーキーの曲で
マイナーコードそのものの数が多い
好対照曲「ホテルカリフォルニア」に対し
講義の最初に話していたアナロジー、

A「明るい人が持つ切なさ」Dm(ドミナントマイナー)
=甘い暗さ(例えるなら)

B「暗い人が持つ切なさ」D(ドミナント)
=痛い、ガツンとくる

を使って各マイナースケールのコードが持つ
「機能」を使って両方の曲調が説明されていく

私がイメージしていた「短調の中のグルーヴとビート」
についても、今日の説明の中にしっかり収めて
天空の澄んだ夜空に満点の星が瞬き
キラキラと理解する事が出来た

それは、ファンクの手法で
本来安定するべき章(裏拍)では落ち着かせず
それを敢えてずらしたり引っ張ったりする

こんな風に

「生徒の理解」と「先生の教え」との関係は
恋愛関係に似ていなくもないとある本で読んだ
内田樹:先生はえらい

つまり、教師の教えに対する生徒の
極めて私的な思い入れや感情を含む
勘違いの学習でも良いらしい、
この事は経験上、もっともだと思う

それがきっかけとなって学習強度を
補完することになるのならば、
という解釈を私はしたのだった

未知の物事を理解するというのは
こういう事だと改めて思う

全てが遅々としていて
ああ、もうだめだ、と思っていたら

ある時少しずつあちらこちらで
頭の中にスクラップしていた沢山の些細な物事が
ある事をきっかけにして一つになる

それを実感するまでは、やっぱり私はだめなんだと
思う気持ちにもなる

それ程、未知の事を知るのは少し怖くて
エネルギーが要る

それはマジックの不思議に似ている
種や仕掛けを知らないからマジックを観て楽しめる
音楽の内に在る強度なメソッドは
一部の種や仕掛けを知ってしまう事だ
だから、これまで通りには楽しめなくなる可能性も
多く含んでいる
しかし種や仕掛けを知らなければ
マジックで誰かを楽しませる事は出来ない

monologue et polyphonie

2005-05-01 23:46:09 | ピアノレッスン
今日はゴダールの新作
「Les Moments choisis」(選ばれた瞬間)を観に
日仏学院に行った。

前回の苦い経験を繰り返さないよう
チケットをゲットするべく早めに行ったら一番乗りに。

ここには1年半程週2回のペースで通った、
都内で好きな場所の1つである。
授業以外でもフランス語の聴き取りに慣れ親しむために
よく映画を観に来ていて、ボードリヤール、
岩崎力(翻訳家、もうご高齢である)のユルスナールに関する講演も聴いた。

ロランバルトが在日中ここに滞在して
「表徴の帝国」を著したのも有名な話だそうで、
新しくは新進女流作家のアメリノートン、
ベネックス、ジャンユーグアングラードなど映画人も
この学院を訪れた歴史と共に、様々な芸術に対して
開放的な雰囲気が漂っている。

古い歴史を持つコンサートホールで
過去の優れた演奏と演奏家の魂を感じるように
ここではそういった芸術家の魂を感じて
その世界に足を踏み入れたような錯覚を
容易に感じられるのが素晴らしい、私にとっての
アカデミックアミューズメントスポット(笑)でもある。

エスパスイマージュではとても良い状態で映画が観られる、
設備はそこそこなのに、いつも気分が良いのは
クッションの良いシートのおかげだけでなく
観客の行儀の良さのせいじゃないかといつも思う。
大衆がどっと押し寄せる映画館では
なかなかこういう雰囲気は味わえない。

チケット発売時刻までの時間を埋めるため
春うららかな日仏学院のよく手入れされた美しい中庭を
独り占めするべくcafeを頂き読書、
学院内を掃除をしてくれている女性と「おはよう」の挨拶を交わす。
都内ど真ん中なのに山深い手つかずの場所に来たような
優雅な空間を独占する喜びを感じつつ…
風が大木を揺する音と賑やかなほどの鳥のさえずり、
鮮やかなフクシャピンク色に
満開となったつつじに群がる蜂の羽音に耳を傾け
あまりの心地よさについ眠ってしまう、、、

と、うかうかしていたら
既にチケットを入手すべく20数名が並んでいて
一番乗りの意味なし、、、

この映画に対する予備知識は一切ないものの
久々にフランス語の響きと
綴り字の美しさを改めて感じる。

言葉の美しさ同様
ゴダールのモンタージュされた映像表現は
色も鮮やかで1コマ1コマが
グラフィックのようでもあり、意匠性を感じる。
音楽が鳴るタイミングと人物の動き、映像の流れに
何故かミュージカルをイメージする。
内容について私のフランス語の実力では
理解は5割に満たない程度、、さらに字幕は英語だったので
自分の語学力のなさを痛感する。言葉の壁は厚い。
それでも楽しめる音と映像の美。

2曲ほどバッハの曲が使われていた。
ゴダールの映像とバッハの音楽は
とても相性が良いという事を発見。

そして先日のピアノレッスンについて。

フーガの技法を聴きながら

(主にバッハの曲に現れる)
ポリフォニーという概念に対するイメージを思い起こしてみる

共鳴(poly)、孤独(mono)、自由、様式美、個々、両義性、
分裂、一体、メビウスの輪 etc…

私がフーガの技法の録音の中で
最も好きなものはグールドが弾く
The Art of Fuge, BWV 1080 - Contrapunctus IVなのだけど、
実際に早いパッセージが次から次と現れるこの曲を
グールドのように演奏するのは、至難の業。

「無」を感じさせるほど冷徹で抽象的でありながら
実はそこに音楽的「美」の全てが在るかのような
とてつもない情報量も感じさせる
バッハ晩年の作品「フーガの技法」


先日のピアノレッスンで弾いたのは
比較的弾きやすいフーガの技法の序である
The Art of Fuge, BWV 1080 (Excerpts) - Contrapunctus Iで、
弾きやすいとは言っても
それはテンポがゆっくりしている事を前提とした
運指の面での事で、実際、演奏によってこの抽象的な曲を
豊かに表現するのは簡単ではない。

今回のレッスンで教師に指摘されたのは
「あなたが表現したい事」という内容だった。

あなたがフーガの技法を弾く時、
とても素晴らしい表現を奏でている時もあれば
何故かふとそこから離れて、気の抜けたソーダのように(苦笑)
なってしまう瞬間がある。
こう言われる事には身に覚えがあった。
子供の頃にも似たような事をよく言われた。

教師はそう言って私にもう一度弾くように言った。
そして、彼はおもむろに私の演奏に「指揮」を取り始めた。

よく、クラシックのピアノレッスンで
(子供の頃通ったヤマハ教室でも)
教師が「悦に入ったように」私が弾く演奏に
歌ったり、何だかそういった素振りをした事があったけど
私はその度に何故か興醒めしていた事を思い出す。

私には子供の頃からおかしな癖があって
いつも、自分がそこに居るという
一見揺るぎのないように見える現実から離脱するかのように
自らの不在を感じる事がある
思考が放蕩的ボヘミアン状態になる、
つまりぼ~っとしてしまうって事なんだけど(笑)

こんなに好きなフーガの技法を弾きながらも、
私はその事を疑いつつ
それによって演奏を高めようとしていた。

ところどころに表れる「気の抜けたソーダ状態」は
何らかの諦め的思考停止状態なんだろうか…
などと考える雑念が私の演奏力を失わせるようだ。

しかし今回のレッスンによる師の指揮は
子供の頃に興醒めしたピアノ教師の「指揮」とはまるで違った。

彼は自身の表現力を使って
あたかも私が表現したい事に共鳴し、
代弁しているかのような指揮だったので
その事は私の演奏に対するモチベーションを
終止落とす事はなかった。
(2つの別な概念が1つになる事が可能であるかのように)
私はあの時多分実力以上の演奏が出来たのだと思う。

優れた教師とは「生徒に応える」というような
相手に呼応して鼓舞させる役割をも
担っているのかもしれない、と感じた。
そしてそういう能力のある教師の数はきっと多くない。

彼は言った。バッハの曲の素晴らしい部分は
こうして、次から次へと新たなフレーズが
次のフレーズへと移り変わる事なのだ、と。
(無常を美に変換するかのように)

私は教師に言った、
「グールドが何故演奏中に歌っていたのかが
ようやくわかりました。彼は自らに「指揮」を
していたのですね」共鳴をもたらす演奏へ
絶え間ないモチベーションを保つために
頭の中で編曲し、様々な楽器の音で奏でられる
フーガの技法が彼には聴こえていたのかもしれない。

「彼は一人でオーケストラの演奏を行っていた。
そこが、彼のバッハの演奏の素晴らしさなのです」
と、マスターヨーダは言った。

もしかしたら彼はモノ(ローグ)を
ポリ(フォニー)に変換していたのかもしれない。
私にとって一番最初に出会ったピアノ教師、グレングールド

私が愛する音楽の概念は
バッハが初めて確立した
「バッハの宇宙」とも言える音楽世界。

なぜなら、そこには人間が持つあらゆる感情の全てが在るのだ。
そして、そこに表現されているものは
必ずしも良い部分だけではなくダークサイドも存在している。
そこには狂気やら悪の部分なんかもすっかり包有されていて
なお音楽的な「美」に向かい作品として完結しているので
聴いていると落ち着くのだ。