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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

演奏の美とジレンマ

2010-03-02 00:15:07 | ピアノレッスン
ひさびさ、ピアノを弾きました。

ビゼーの希有とも思える、ただただ美しい
ノクターンのスコアを手にした。
(このクオリティで習作だなんて信じ難い…)


Glenn Gould plays Georges Bizet Nocturne in D major


この曲に限らず、弾いていて、とらわれる妙な感情がある、
とても美しい、と思う箇所にさしかかったときに限って、
弾く手が、何故かそれをスムーズに弾く事を躊躇しているような、
(すごーーーく弾きたいのに)

もっと言うと拒否しているような
(実際なかなか弾けない場合のほうが多いんだけど、笑)

まるで意志と手(心と身体?)が
相反しているようなことが、よくあるのだ。
(才能のある人なら、迷いようのないジレンマだろう)

奇妙なことだとずっと思っていたんだけど
このジレンマというか分裂を説明する
自分なりに納得する答えが見つかったので備忘します。

答え(らしきもの)を見つけたのは、以前習っていた
ピアノレッスンでの師匠とのやりとりを思い出していたから。

「甘い想い出」という曲を弾いていて
(私にはなかなかの難曲だった)言われたことと、


(いつも指先が躊躇していたのは2:45辺りの
低音の下降から始まり、2:55位のところで
美的ピークを迎える部分でした、笑)

Songs Without Words Op19 1 Felix Mendelssohn


ラカンが「ママ」と初めて言葉を発した子供は
「言葉」を得た替わりに「ママ」という象徴を失う、、、
(というようなことだったと、思う)と
定義していたことの二つが繋がった。

ピアノレッスンの師匠は、私が以前レッスンを受けて
及第点を頂いたとき「知っている事について話している」
といった演奏ですね、と言った。


(レッスンの詳細はこちらにあります)


























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あとで響く

2007-07-11 23:33:44 | ピアノレッスン
失った夢だけが美しく見えるのは何故かしら?

過ぎ去った優しさも今は

甘い記憶

スィート・メモリーズ、、、(笑)


「スィート・メモリーズ」(1983年)作詞/松本隆、作曲/大村雅朗


この曲、ずっと呉田軽穂、こと松任谷由美の曲かと思いきや違い、
そして詩はやはり流石の松本隆氏なのでした。


以前、私の音楽理論の師、菊地成孔氏とサエキケンゾウ氏、鈴木慶一氏の3人のライヴのとき

菊地さんが自らヴォーカルをとって歌っていて(笑)久々に聴いて
不意打ち的に涙が出そうになった、歌詞の深さに、リアルタイムで聴いていたときと
歌の意味、捉え方がまったく変わったことに驚いて。

あの頃はこんな曲を懐かしむなんて想像もつかなかった。

ただロマンティックに甘い曲としか聞こえなかったのに。

過ぎ去ったもの、失ったもの、も、ずいぶんと多くなったのかな~と(笑)ふと思う。


成熟した大人になることって、多くを失っていく中に
何かを得ることなのかもしれない。


と考えていたのは先日、年上の女性の友人(といわせていただこう)で

以前お世話になっていたピアノ教師と久々にお会いしたせいもある。


若者天国のこの日本において(笑)大人で素敵な年上の友人はとても貴重な存在。

幸福なことにそういう友人は何人か居て、
多忙な方たちなので頻繁には会えないけれど

会えばパワーを頂き、会わずとも、どこかで私の心の支えになっている、彼女たちの存在と生き方。


もう一人、こちらは年上ではないけれどピアノを通じてとても親しくなった

同世代の友人と共に、桜上水から反対側の都内某所に
引っ越した先生を訪ねがてら、3人でランチをする計画を二人で企てました(笑)

ランチの席が空くまで時間が少しあったので、すぐそばだという
先生のお宅に「ぜひ行きたいですー」と、生徒A子、B子ともに図々しくもおねだりする(笑)
先生が楽しそうに笑った。

閑静な場所にある高層のマンションで、先生の新居はさながらホテルのよう。

以前のスタジオより大分広い。ピアノはNYスタインウェイのグランドから

コンパクトなベヒシュタインに変わっていたけれど、このピアノは
薄い木目で、見た目もとてもかわいらしい。
「弾いていいわよ」といってくださるので
「うれしいです!失礼しまーす」と何の遠慮もなく(苦笑)弾かせていただく。

とても弾きやすく、まろやかな音。部屋の響きもいい。

先生、気がつくかな?と思いながら最近練習して
さわりだけ暗譜し始めた夜想曲を奏でる。

「綺麗な曲ね。もしかして○○?」彼女は絶対音感を持っていて
以前、この楽譜を船便で注文したときに一緒に先生の分も頼んでいたから
やはり憶えていらした。弾きながら、先生、この部分素晴らしいですよね、と問う。

先生の解釈はいつも深い。あろうことか生徒A子、またもや
「先生、この難しい、ここのところ、弾いてみてください!」とか
「ぜひ最初から弾いてください」とかねだりまくる(笑)

先生は初見だから無理よ、といいながら、ごくさらさらと
私が1ヶ月かけて弾いた部分を、その場で弾かれる。とても深い演奏。

私が、もっとも美しいと思う曲の部分を、何故そう思うのかを改めて感じる。

それは聴き手、というより弾き手が持つ独特の感情なのかもしれない。


この曲には随所に「二度と来ない輝き」のような感情が流れている。

弾くたびに、それを感じる事が出来るのは幸せなはずなのに、
どこか切ない、というような情緒を以て。


ランチはイタリアンの良店でした。じゃがいものヴィシソワーズ、
パスタは上品な塩梅のジェノベーゼで、メインはフィレステーキ。なのに廉価(笑)

どれもこれも美味なうえ、さらに味をひきたてるのは
給仕の男性の心遣い、笑顔と優れたサービス、そしてリップサービス(笑)

坂の途中の、また行きたいと思う理想的な佇まいの素敵なお店でした。

もうレッスンは受けていない先生に、また来てもいいですか?と告げる。
いつでもどうぞ。と応えてくれた。必ずまた来ようっと(笑)

そのあと、友人の提案で、大好きなビザンティン建築のニコライ堂を初めてまじまじと観て
聖なる場所独特の厳かな雰囲気を楽しんでいたら、


梅雨の決まりの(笑)曇天の予報の中、突然に快晴となる。
陽光射す中庭で、びゅうびゅうと乾いた風が吹き始める不思議なひとときでした。




その後、リゾートウェアを探すべく
友人と下北沢へ。約一年ぶりの賑やかさ。

写真はそこで遭遇した子(笑)飼い主の膝で無邪気かつ無防備に眠るネコ。



物事の記憶や感情って音楽のようで、あとになっても私の中に響きます。

















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キーワードはルックオブラブ:波瀾万丈な発表会の記憶

2006-05-03 14:18:55 | ピアノレッスン
発表会の1日は予想に反して
吉凶入り乱れ(笑)稀有な1日となった。

稀有なこと1つめ

発表会の3日前に酷い風邪に見舞われ
発熱と共に重苦しい咳が出て
全身が倦怠感に包まれる。

この、たちの悪い風邪は
発表会当日にピークを迎えた。

稀有なこと2つめ

あり得ないことに、発表会の日付を間違えて認識していた、、、

30日の日曜だと思っていた発表会は
29日の土曜だったということを体調不良を伝えるべく
ピアノ教師にメール連絡して知る驚愕の事実、、、!
知ったのは前日の金曜日、、、とほほほほほ~~~(苦笑)

稀有なこと3つめ

1週間前のリハーサルで近年稀に見る程(笑)
意気投合した素敵な女子と再会を果たす。

というわけで素敵な彼女のリハーサル風景をパチリ



リハーサル終了後、東急のドゥマゴでランチをする。
シャンパンで乾杯する(風邪薬と熱のせいで通常の3倍くらい効く…)

話す殆どのキーワードが私達の会話を結びつけるのが
心地よかった。前回初めて会った時に続き、話が止まらない(笑)
こんな事ってあるんだな~と不思議な気持ちに互いになる、
「10代の頃みたい」って。

私が告げる色々なキーワードに彼女が好反応する(笑)
私の場合、バッハ発(笑)ルグランやバカラック、フランシスレイ、
マンシーニなどの映画音楽やジョビンやジルベルト(二人とも)などの
POPS、YMO坂本龍一テクノ経由で
間にPOPだったりムーディーだったりする
昭和歌謡などを経由して至ったピアノレッスンだけど(笑)
彼女はジャズ発、映画音楽経由、ドビュッシー着だったようだ。
モードスケール好みの人なのかもしれない。

マイルスデイビスの名前が登場し、そのあとに
ウェインショーターの名前も出たので
このキーワードにどう反応するだろうかと
菊地成孔」って知ってる?と訊いてみた。

彼女の表情がぱっと変わった。
「そのひと知ってる。といってもつい最近。
実は英語でしゃべらナイトで観た時に
話の内容が強く印象に残って
この人はただものじゃないと興味を抱いたから
彼の名前をメモしていたの」と吃驚な答え。
こんなことって一体どれくらいの確率で起きるのだろう。
神様教えてください(笑)

私は現在映画美学校で彼に商業音楽理論を教わっている事を告げ
今度必ずライブに一緒に行こうと約束する。

前回バカラックの話で盛り上がり
菊地さん繋がりもあってルックオブラブの話になる。

CASINO ROYALの話になり
出番まで一度家に帰った彼女は
DVDを持って来てくれたのだった。





とにかく大きなミスもなく無事終わる。


ピアノは、タッチ、鍵盤の感触、音の響きともに
ほぼ完璧に理想的で素晴らしいものだった。


音楽する心と身体

2006-04-25 22:23:59 | ピアノレッスン
ピアノを弾く催しを数日後に控えているので
ここのところ、その備忘録が多くなっている。


ピアノを弾きながら何故か愛情と筋力って似てる(笑)と
考えていた。有ると疑わずに安心しているから
わざわざその事について考えたりしないけれど
いざ失えばその存在の偉大さや大切さがよくわかる。

人間は手術などで失血したりして体力を消耗した状態で
たった1日横たわっているだけで
立つ力を簡単に失ってしまう。

翌朝、直立すると体中の血液が下がり目が回って
簡単には立てない。歩行に慣れるのに1日かかる。
立っている事がこんなに大変な事なのかと感じる。

たとえば女性につきにくい腹筋。
腹筋が衰えるとふらつく。
腰が痛くなったりするし平衡感覚も鈍る。

バレエダンサーのように
まっすぐに美しく立つことを腹筋は手伝う。
ダンスも上手に踊れるし動きも機敏になる。

誰かや何らかの物事との間で
愛情や信頼が相互に行き来し
それが循環していると感じられる時は
無条件に心も身体も調子が良いものだ。


欧米の習慣であるハグっていいな、と思う。
子供が親に抱きしめられたり彼が彼女を、
彼女が彼を、友が友を抱きしめる事で
心身の不安は、少なからず解決するのだ。

そして上手く表現出来た演奏とはそんな風に
「愛情が循環している」状態を思わせる。
揺るがない何かに支えられているように。


演奏の感情表現は過剰過ぎてもいけないし
不足していてもいけないけど
感情表現的な起伏は演奏には不可欠だ。

演奏への疑いは緊張を呼ぶ。

しかし緊張なんて演奏には全く必要ないのだ。
必要なのはむしろ上手く弾けた演奏の
如実なイメージのほうだ。

今日はそんな事を切に感じた
発表会にむけての最終リハーサル録。

<23日:久々に教師A宅@桜上水>

彼女のピアノは数ヶ月前に以前の物と違う
NYスタインウェイのヴィンテージピアノに変わっていた。

前にちらっと触らせてもらって今回は2度目。
作曲家である現在レッスンを受けているB教師の前に
私はこのA教師に2年レッスンを受けていた。


本番の順番通りに3人ずつ部屋に入って練習をする。
今日一緒の2人の人と会うのは今回が初めて。
前回の催しの時には居なかった人たちだ。

現在A教師に習っている彼女達は今日弾くピアノに慣れている。
ちょっと触っておく?と言われ弾いてみる。

発表会のプログラムを手渡される。
私の順番は2部の10人中8番目。大トリは
「ガラスの仮面」の北島マヤを思わせる(笑)本番に
驚異的な実力を発揮する20代前半位の子。

彼女はリストを2曲弾くらしい。凄い…!
そして一部の最後にA教師のソロと連弾、
2部の最後にB教師のソロ演奏がある。

リハーサルの自分の演奏をMDに録音してもらった。
他の二人の曲を聴いてレベルの高さに絶句、、、

最初の人はドビュッシーの「アラベスクNO.1」
次の人はシューマンの謝肉祭OP90-2
大曲、しかも長い!私は3分40秒くらいだけど
彼女達の曲はいずれも5分だ。凄いなぁ、、、

自分の番になって、いざ曲を弾いて弾きながらビビる。
そしてリハーサルなのに緊張しまくる(苦笑)
このNYスタインウェイ、タッチも鳴り方も
B教師のピアノとも私のピアノとも全然違う、、、!

響きや鳴り方は部屋の広さも関係するけど
慣れないピアノをいきなり弾くとこうなってしまう
という典型的な例だった。私の今回の演奏は
割と繊細に仕上げてあって、その音の強弱を
初めて弾いたピアノで表現するのは極めて難しい事を実感する。

で、もう一回りしてみましょう、ということで2度目に弾く。
2度目はさすがに初回よりも随分表現が思い通りになった。
それでも手が空回りすることが多かった。
ただ本番のピアノはこれともまた違うのだ。

あまり微細に表現しすぎず
極端なピアニッシモは避けた方が良いかもしれない。
私が弾いているピアノとは表現力の幅がまるで違う事を感じた。

感情の起伏が繊細でいて激しいから扱いが難しい、、、!
その代わり上手く弾けた時の響きはすばらしい。
しかし会場のピアノがここまで弾き難くないことを願う・・・。

実は出来上がった演奏をA教師に今日
初めて聴いてもらったのだった。
「大人の演奏といった表現ですね」だそうで・・・

本番でこの雰囲気を
100%近く出せるといいのだけど!


<往年の巨匠ホロヴィッツの言葉>

『まず作曲家のすべてを学ぶことから始める。彼の全作品を弾いてみる。
アンサンブル用の曲もとにかく全部を弾く。レコードを聴くんじゃない。
自分で弾くのだ。私は初見の大家だからね。

 全作品を弾くには、理由がある。曲の大小に関係なく、
そこにこめられた作曲家の気分は同じだ。
弾けば、その曲の持つ感情がわかる。その曲の本質が私に語りかけてくる。
つまり、持ち味がわかるのだ。ある作曲家は勇壮をこめ、
ある作曲家は詩的な思い入れをこめる。
自分で弾くのは、レコードには真実がないからだ。

 それに、私はその作曲家のすべてを知ることにしている。
作曲家自身が書いた手紙を読む。時代柄、彼らはじつに
膨大な数の手紙を書いている。それを読めば、作曲家の性格、誠実さ、
好みがわかる。彼がほかにどんな音楽が好きで、
どんな音楽がきらいだったかもわかる。
手紙は本人の精神概念や音楽概念を知る手がかりだ。

 その曲をはじめて弾くときは、ひたすら聴き、ひたすら考える。
そこになにかしら隠されたものがあるからだ。
音符を弾くだけでは、音楽ではない。その真になにがあり、
その曲にどんな感情があり、なにが潜められているか、
そこまで掘り下げなくてはだめなのだ。
だから、はじめて弾いた翌日、私はもう一
度その譜を読んでみる。そして、つぎの二日間はそのまま放っておく。
そして三日日にまた読んで、また二日放っておく。
五日がたち、六日がたつ。すると、いつしか自分が
その音楽に入りこんでいる。楽にすらすら弾けるのだ。

 「弾いているときの私は、誰にも耳を貸さない。
私自身のレコードさえ聴かない。誰からも何からも影響されたくないのだ。
無意識に影響されるのさえいやだ。
選んだ曲には、いつも、初対面のような気持ちで接し、
受け止めていきたいのだ。弾いていて、
ひとつひとつの旋律がはっきり心に染みとおってくる曲、
そういう曲でなければ、私は弾けない。絶対に弾けない。

 「思うに、演奏家にはある程度音楽家の本質がなくてはいけない。
質の良し悪しはともかく、これまでの偉大なピアニストたちは
決まって作曲もしている-一人残らずだ! 
さらに、芸術にはもうひとつの面がある。
 即興だよ。即興なら、私も二時間は弾ける。
私にとって、知性はつねにガイドだよ。決して演奏のゴールではない。
三位一体は必要でも、その中の一つだけが抜きん出ることはよろしくない。

 知性は高すぎてもいけない。音楽家は学者ではないのだ。
感情過多もいけない。センチメンタルになってしまう。
テクニック一辺倒もだめだ。それでは機械と変わらなくなる。
ピアノを使って筋肉強化の体操をしているわけではないのだ。
(一部、略)
著者:ヘレン・エプスタイン 犬飼みずほ
『普段着の巨匠たち』より引用









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FELIX THE CAT

2006-04-16 01:37:08 | ピアノレッスン

今日は4月だというのに風が冷たかった。
陽射しは春だったけど。

2006年4月15日 土曜日

発表会(複数の人々の前で弾くこと)直前の
レッスンの記録@谷中の教師宅


レッスン室には生徒さんが居た形跡がなかった。
もしかしたら自らのコンサートも控えているから
先週に引き続き本来なら生徒への教授は予定に
入れていなかったのかもしれない。

私はたぶん彼が教える生徒の中でも
(8割はプロの音楽家を教えているそうなので)
出来の悪い生徒になるのだろうと推測される、

レッスンの前の恒例の雑談で「マーケティング」についての話題から
今回初めて教師の口から「ノルウェイの森」についてと
「坂本龍一」というキーワードが出て来たのは興味深かった。

この話について個人的に突っ込みを入れたい気持ちもあった、
何故なら坂本龍一と村上春樹は私にとって夫々両極的な存在だからだ(笑)
氏が両者の作品についてどう思ってるのか興味津々だったけど
話が長くなりそうだったのでやめておいた。

初めてお酒の話になる。ビールやワインの話。
師の好みは明確で銘柄名についても明瞭だった。
発泡酒に対する意見は同じだった。
この方はほんとうに芸術家なのだなと思う…良い意味で浮世離れしてる!(笑)

ふと、この師とお酒を酌み交わす事を想像、、、(笑)
もう一人の教師とは叶ったんだけど。
きっと楽しいだろうなと思う、互いの属性を超えたり
それを忘れる程の何かが働けば、、、

前にも書いたけど優れた教師と話していると
上手な人とプレイしているテニスのように
下手なこちらまでテニスが上手になった気にさせられる。
優れた教師というのはそういう力があると思う。

<本日のレッスン録>

ウォーミングアップをしていてください、と言われ弾く。

教師の家にあるピアノは19世紀末のニューヨークスタインウェイで
ピアニストには憧れの楽器だという事は素人である私も知っている。

往年の巨匠達が好んだ楽器でもあったけれど
日本国産の頑丈で画一的な響きの
(トラブルがない優良な国産車のような)
ピアノと比べて、繊細な音と羽根のように軽いタッチで
私が普段家で弾いてるピアノと比較すると
フォルテはフォルテッシモになるし
ピアノはピアニッシモになってピアニッシモは
音が消えてしまうほどに敏感で繊細な楽器。

全てのこのピアノに個々に違った個性があって
扱いにくいことで有名なピアノでもある。そのかわり
微細な表現には長けている、というわけだ。

教師の古いピアノは当然ながらワシントン条約で
象牙の取引や扱いを禁じられる以前のものなので、
美しい象牙鍵盤の感触を楽しめる。

じつは私が使っているピアノも国産の古いものなので象牙鍵盤だ。
象牙の鍵盤は滑りやすいので乾いた手とは相性が悪いそうだ。
幸い私の肌はドライスキンではないし
手の温度も高いのでさほど乾いていないせいか
象牙鍵盤との相性は良いようだ。

側はNYスタインウェイでは珍しく明るい色調の美しい木目。
音も見た目もとても流麗なピアノ。

但し、今度の本番で使うピアノはNYスタインウェイではなく
ハンブルクスタインウェイだという事も
考慮に入れなければならない…

ハンブルクスタインウェイはNY…より幾分弾き易い、
つまりタッチは幾分重い。
日本のコンサートホールにあるものは殆どこちらだそうだ。

<codaが巧く弾けた>

私が3回ほど曲を弾き終えたところで師が部屋に戻る。
どうやら、2階で少し距離を置いて私の演奏を聴いているようだ。
「格段に演奏が良くなりました、間に合いそうですね」と
一応合格ラインの答えをもらう

「では、弾いてみて下さい」想像に反し滞り無く演奏終了。

「1週間で格段に良くなりましたよ。
右手の伴奏も主旋律よりも随分抑えられている」

そして「わかっている事について話している」
という演奏でした、と仰る。

そして、この「わかっている事について話している」
というところで腑に落ちる。

以前このブログ日記にタイトル『甘い思い出』で書いた
クラシックをピアノを弾くということは
「翻訳という行為に似ている」という言及のことを思い出していた。
きっと、このことと似たようなことだと思ったので記録する。

<一部抜粋>

『以前から時々感じていたのだけど、クラシックのように
今を遡る遥か昔に作られた異国の音楽を演奏するという行為は
どこか、自分ではない、或る作家の著述を翻訳という行為に
似ているな、と考えていた。見知らぬ時代に見知らぬ異国で触れる
自分ではない人の語る見知らぬ言葉を意味解釈し
自分の感覚や身体性に馴染ませるようなこと。

外国語で話すこととか、歌を歌うという行為にも似ていると思う。
見慣れない文字、文節、聞き慣れない音。
音のひとかたまり(小節)の言葉の意味を把握した上で文章を区切り、
一音一音を正確に、意味を込めて発音する。

それは自分が使う言葉の限界を超えて
それまで知らなかった未知の世界が開けてくるような
そんなことに、近いように思えた。』

*****

日記の効用は備忘録のうえで考えが
こうして統合されていくことだ。私はまだ何もわかっていない。

教師は、ここからスタート地点とも言えます、と提言した上で
(私もそう感じていた)前奏、中盤のクライマックスについての
2カ所について細かい指摘をくれた。その何れも明確に理解出来て
要求通り表現することが出来た。

「最後のページの部分はとても巧いですよ」と
笑顔で彼は言った。初めて褒められたよ、、、!

お褒めを頂いたのは終盤のクライマックスと
codaの部分の演奏だった。

終盤に表れる(ほんの数秒の)小節にしてたった2小節の
クライマックスのフレーズは
曲への感情移入とその感情表現が苦手な私にとっても
特別に美しいフレーズなので、
演奏が起伏するイメージが膨らんだのだ。

そのフレーズはメンデルスゾーン特有の
抑えられたロマンティックさがあって
現代でも充分通用するような優れたポピュラリティを持っている。
これを例えば今学んでいるバークリーメソッドで(笑)
分析したとしても間違いなく符合するだろう。

そんなドラマティックな展開があって
後に続くcodaの主要な音は半音ずつ下がっていく。

その表現は、この曲のタイトルが「甘い思い出」たることを
充分に示すフレーズだ。

最後の1ページは見所&聴き所だから
きっと沢山ダメ出しされるだろうと思っていたから
少し拍子抜け、、、

教師はチェーホフのドラマトゥルギーに基づき
『演技』に喩えてピアノの演奏について話し始めた。

私は『演技』という表現に興味がある。
そして演技と歌唱と器楽演奏は時間の中で
感情を扱うという事でどこか似ていると思っていた。
興味深く耳を傾ける。

たとえばメインテーマのようなクライマックスの演技は
俳優は比較的、不可なく演じられるものです。
そのクライマックスのあとの…たとえば

「愛し合う男女が別れる」「愛する人が死ぬ」ような場面で
別れの場面は比較的演じる事が出来るけれど
俳優の技量がわかるのはむしろその後の場面で

例えば立ち去る場面、嘆く場面、思慮する場面、
その後ろ姿、、、などは表現が難しい、との事だった。
とても納得する。

クライマックスのあとにその激情が減衰していくような
感情表現は、そのことを受け入れて昇華しないと
できないある意味で成熟した表現だろうと思う。

この曲のタイトルである「思い出」という言葉。
これは過去を振り返ることでしか感じ得ない感情で
ある意味(必ずしも否定的ではないけれど)
『喪失』を前提としている。

振り返って喪失を感じ、失われた過去の記憶を通して
現在でそのことを意義的、事後的に獲得する。

でもそのことは、もう二度と出会わない一回性の出来事なのだ。
音楽の演奏も一回性だ。でもそれらの事は二度と忘れない。
そんな思いを演奏に込めてみようと思う。

レッスンが終わって玄関を出て庭を抜け
門扉に向かおうとしたら目の前に、それまで
まるで私の演奏を聴いていたかのように(笑)
猫が庭の日だまりの中ちんまりと
こちら側に顔を向けて鎮座していた。

近づいても微動だにしないし人に慣れてる。
クビにエメラルドグリーンのリボンが付いていた。
この家で飼われているのかな、、、?

もしかして、メンデルスゾーンの化身!?(笑)



そういえば、、、メンデルスゾーンのフルネームは確か
フェリックス=メンデルスゾーン

この猫の名を「フェリックス」と命名(笑)

家に居るFelix


この子↓顔は白黒じゃないけれど。

近寄っても逃げなかったので、さらに接近を試みる


撫でたり愛でたりしてスキンシップをして色々話しかけて
「バイバイ」と言ったら
わざわざ向きを変えてお見送りしてくれた模様。

ニャ~!

ほんと、ネコ街だ、谷中って。





恒例の谷中散歩。いつもの蕎麦屋さんで(春だから)
ピルスナーエールのミニサイズとせいろを注文。
激ウマ!!!帰り際、店主の素敵な女性に挨拶。

(蕎麦もこの方が打っていて可愛らしいことに
「蛙」がお好きなようで至るところにキュートな
蛙グッズが置いてあった。気が合いそう!(笑)
3回目の今日初めて気がついたのは
この蕎麦屋の小僧さんがトニーレオン似で素敵だってこと。

駅に向かうまでに裏道を通って嗅覚で歩いていたら
「根津神社」に到着した。

こんなところがあったとは。もうじき「「つつじ祭り」で
込み合うらしい、じじばばで、、、

鳥居があったなんて知らなかった。




ちょっとした観光スポット。なかなか風光明媚ですね~
根津&谷中って素敵なところ!



















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SweetMemories/音楽のための音楽

2006-04-10 00:52:44 | ピアノレッスン
前回に引き続き発表会へ向けてのレッスン。
残すところ、あと3週間。

好きこそものの上手なれ…とはよく言ったもので
本当に好きな曲を弾いていると飽くことなく
弾くほどに新たな発見がある。

私はクラシックフリークでもなくて
(バッハの音楽を特別に好きではあるけれど)
当たり前ながらピアニストになりたくてレッスンを
受けているわけじゃない(実際、なれない・笑)

ただ、可能なところまで演奏の技術を知って体得し
演奏を通して音楽の事を知りたいというだけ。
その時に使う楽器がたまたま
ピアノだったということだ。

一見相反しているように思える
ポップスとクラシックだけど
バッハから商業音楽に直結している、ということは
理論として学んだし、映画美学校の
商業音楽理論の学習と並行してクラシックピアノのレッスンの内容は
引き裂かれることなく、私の中で少しずつ統合されつつある。


ピアノ演奏の実力も情熱もモチベーションも
小学生並みのテンションだけど、さして巧くはないので
人前で弾く事にはあまり興味もなく、むしろ苦手。

でも、その事は必要だ、という事だけはわかるので
ともかく今回の発表の機会に参加することにした。


<2年前の記憶>

100名程収容可能な代々木上原のホールでの開催だった。




弾いた曲はバッハのコラールより「アリオーソ」
(「憂鬱と官能を教えた学校」でこの曲の
バークリーメソッド的ポピュラリティについての
著述を知るのは約半年後の事だ)
ピアノ用にアレンジした楽譜は往年の巨匠コルトーが書いたもの。

この曲はグールドとも密接な関わりのある映画
カートヴォネガットジュニア原作の『スローターハウス5』の
テーマ曲でもあった。今から15年程前に
レコードで毎朝聴いていた、深い思い入れのある曲。

実際の現場では弾く直前に喉はからからになり
手や足は震えるし(苦笑)
頭が真っ白になりそうで逃げ出したくなった。

だから、ただ一つの事を考える事にした。
「私が今ここに居る理由」という事だけを考えていた。

私が現在師事している教師と出会ったのは
或る理由からピアノを諦め、手放した事がきっかけだった。

そんな経緯や幾つかの喪失と獲得のことを含め
「今ここに居る理由」のことだけを考えていたら
結果的に演奏に集中することが出来たのか
初めて大勢の人前で弾いた経験はノーミスの演奏となった。

でも後で振り返ると弾いた時の記憶は最初の数秒以降
記憶から抜け落ちていた、まるで自分が
そこに居なかったみたいに(苦笑)

後日、録音されたCDを聴いた時にほんのコンマ数秒間
次の音符に移るのを躊躇していた箇所を聴いて
自分の記憶が抜け落ちていた事を自覚した。

<先日、4月8日のレッスンの備忘録>

桜吹雪舞う谷中の教師宅に心うきうきと到着。
ピアノの音が聴こえる。ああ、前の順番の生徒さんだなと
呼び鈴を押すのを数秒ためらいつつ、押した。
ピアノの音が止まり、幾分の時間差を置いて
師の「どうぞ」という声。

お邪魔しますと入ったらピアノには誰も座ってなかった。
照明も付いてない。何だかいつもと違う様相の室内。

今弾いていたのは誰だろう?と少し訝りつつ
ソファで待機していたら、師が手帳を手に、微笑しつつ
怪訝な顔で「もしかしたら、一週間間違えてない?」
「15日になってますよ」と彼は言った。
、、勘違い、、、

恥ずかしくて自分の顔が赤くなっているのがわかった…
すみません、今日は失礼しますと帰ろうとしたら
師は外出の予定があったようで、1時間は見られないけど
構わない、ということで急遽レッスンを受けることに。
僕が留守の時じゃなくて良かった、と仰った。

彼は2週間後にコンサートを控えている。
さっき聴こえていたのはその練習だったようだ。
生徒のレッスン予定が入っていなかった事を確認すべく
彼は手帳を取りに二階に上がったので
ピアノの前には誰もいなかったのだ。

以前コンサートの前にはレッスンを受け付けないと
もう一人の教師から聴いた事を思い出していた。

邪魔をしてしまった、と後悔していたら
師はレッスン前のいつもの他愛のない雑談を始めた。
そして、いつのまにかその話に引き込まれる。

お題は「春が苦手なのは何故か」(笑)
この方の話は本当に面白い。多弁なのだと思うけれど
そう感じないのは話し方がゆっくりしていて
間も感じられるからだと思う。

以前、あるレクチャーでお会いした俳優の
中島陽典さんとも、これと似たような
お話をしていたなと思いながら聴いていた。

今でこそ肉体と精神のバランスが保てる様になったけれど
常に脳から成る思考(心?)と身体とのバランスに
幼少時から違和感があり、むしろSFなんかに出て来る
「精神生命体」のようなものに子供の頃から惹かれたそうだ(!)
惑星ソラリスみたい、、、

面白いなと思うのは、何故こんなデジタルな人が
クラシックを教えてるの?ってこと。
しかも彼の演奏はとてもロマンティックなのだ。

そして私も今回弾く「甘い想い出」の演奏を
タイトルどおりに「とびきりロマンティックで甘い演奏」に
したいという気持ちが強まる。そういえばこれ
英語にしたらSweetMemoriesだ(笑)

さて。
1週間間違えたにもかかわらず今日のレッスンは
充実したものとなった。

「暗譜にしますか?それとも楽譜を見ますか?」と訊かれ
ただでさえ頭が真っ白になりそうなので暗譜は避ける。

元の楽譜に書き込んでも意味がないから、と
次回コピーしてらっしゃい、と師は言いつつ
「ちょっと待って」と咄嗟に彼は2階に上がり
コピーをしてきてくれて3枚綴りの楽譜を
その場で手際よく用意してくれた

楽譜に曲の構成について書き込みをくれて
私が弾きながら間違えがちだった部分についての留意点と
暗譜が必要な部分と、そしてそのコツを教わる。

こうして師の指摘によっていつも
モヤモヤが晴れて頭がスッキリしてくる。

今回の思いがけないレッスンが濃い内容となったので
彼は帰り際に「今日は間違えて来てくれて
良かったかもしれない」と仰った。
レッスンを通して、いつもこの教師の情熱と愛を感じて帰る。

彼の「愛と情熱」(笑)は個人に向けたものというよりは
もっと大きくて、むしろ個人を飛び越えて
「音楽」にまっすぐ向かっているのを感じる。
それを感じるとこの教師に付いて良かったと思う。
それは教師としての菊地さんに対しても同じ思いを抱く。

今回のユリイカ菊地成孔特集で興味深かったのは林拓身氏が書いた
坂本龍一に対して後藤繁雄が尋ねた質問と対比され
菊地さんに言及していたものだ。質問の内容は
「音楽の恩寵は何?」に対して坂本龍一の答えが
「数学と建築とSEXを一体化させることが出来る」
(後藤繁雄+坂本龍一「skmt」リトルモア,1999年,58頁)
という事で「なんかわからないけど気持ちイイ」と、
「根拠ある快楽を感じる『数学/建築』の部分
(理論的に構築される音の展開の気持ちよさ)」に
二分される、ということだった。

「菊地さんもまた、この音楽の持つ「数学/建築」の
側面に意識的な音楽家の一人である」という事と
坂本vs吉本のE.cafeでの対談の両者の「音楽に対する認識の違い」に触れ、
おそらく菊地さんも、坂本龍一が否定している言葉の部分を主体とした
感情表現をしすぎた「感情表現の道具」として
音楽を考えていないだろう、ということだった。

全ての芸術は確かに感情を発端としているだろうし
何らかの感情表現であるだろうけれど
それが表現者にとって「感情表現の道具」とされていたなら
私はその表現をさして好まないだろう。
感情に先立つ「音楽の為の音楽」とでもいうような表現が
結果的に聴き手に与えた何か、といった
物事のほうに近づき、触れたいと思う。











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桜咲く谷中の甘き想い出

2006-03-27 00:25:03 | ピアノレッスン
2006年3月26日

今日はピアノレッスン@桜咲く春の谷中
4月末のピアノの催しに向けて、練習曲は
メンデルスゾーン 無言歌 第1番『甘い想い出』



レッスンに行く坂の途中にある桜




不思議なほど、幾ら弾いても弾き飽きない曲なので
何故なのだろうと思っていたら教師がそんな私の疑問を
演奏によっていとも簡単に説明された、、、


『これは、コラールなんです』


…え、、、!?どういう事?

『メンデルスゾーンは無言歌で、コラールの和音を
分散させたんですね(=垂直な音の響き<縦>を
水平<横>に捉えなおしたということ)
これをバッハのコラールのように
和音で弾いてみましょう』そう言って弾いた彼の演奏は、
違う側面から解釈された、重厚な
メンデルスゾーンの無言歌だった。


その後に、師はマタイ受難曲に繰り返し表れる
フレーズを弾いてくれた。数百年前の宗教曲とは
思えない程ポピュラリティがあって
鳥肌が立つほど美しい演奏とフレーズ。



つまり無言歌はメンデルスゾーンによる軽めの
『バッハのコラールのポップ解釈』なのだと、
解釈することにした。(笑)

ポップなマタイ受難曲的インストゥルメンタル、
と言っても良いだろう。何せ20歳にして
作品完成100年後にマタイ受難曲を編曲し自ら
指揮し初演をした早熟の天才メンデルスゾーンだったのだから


でも、そういった解釈によって楽しく、
曲が生き生きと魅力に溢れて
表現にもそれが生きて来るから面白いものだ。

彼は今回のレッスンの最後のほうで言った。
『マズルカのような舞曲的なリズムは今後
音楽的表現においてレッスンは不可欠ですが、
演奏会まで残り1ヶ月となった今は、あなたが好きな
バッハのコラールの性質を持ったポリフォニックなこの曲は
むしろ優れた演奏への早道でしょう』と
師は何故私がこの曲に惹かれるのか、お見通しだった。

(そういえば私が前回このピアノの催しに初めて参加した時
弾いたのはバッハのコラールをコルトーがピアノにアレンジした
「アリオーソ」だった)

今回のレッスンではテクニカルなことを詳細に教わり、
しかも、そのことが、これまで自分で分析しつつ
統合し切れなかった幾つかの物事と共に
ほぼ完璧に心身ともに理解出来た。それは、
どこか不自由で、手首から下を拘束されたような
私の右手の演奏が自由にダンスし始めたようなかんじ。
(楽しい事に『ネコが獲物を狙う手』で、
右手の理想的な動きを師は表現したのだった・笑)

この曲をただ弾くのは(読譜も含め)難しいということはないけれど
音楽的に美しく弾くのは、とても難しい。何故かというと

・3声(2本の手で3本の手を使うような演奏をする)

・ほぼ曲の全体に16分音符(とても早い音)の4連符が
 左手と右手に渡って伴奏として常に存在していて

・メロディーは、ほとんど右手の薬指と小指のみで
 表現しなくてはいけない

・指の運びだけでもあまり簡単ではない上に

・左手のベースと伴奏、さらに右手の中指~親指で
 左手のような伴奏をしたうえで

・右手の薬指と小指は主旋律を弾く

ということになると、ともすると
バラバラで騒々しい演奏に成りかねない。


じつは私の演奏は、今日迄ずっとそうだった。
何だかとても慌てた演奏だったのだ。

「3倍くらい遅く弾いてごらんなさい」と言われて
やってみたら、これが速く弾くよりも思いのほか難しい。
遅く弾く事によって、手の漫然とした運動で
(勢いや惰性で)弾くことと
曲の構造や和音、前後の繋がりを理解し
解釈しながら弾くのとは大きな違いがある、と彼は言って
そのことをやっと理解することが出来たのだった。


帰宅して4時半から9時前まで珍しく
長い時間弾いたのだけど、途中で
自分で自分ではないような(笑)演奏だった、
手が勝手に弾いているようで
聴こえ方も響きも弾き方もまるで変わっていた。
手と鍵盤がこれまでと違うもののように(笑)軽くて自由になった。

何度か3倍遅く弾いて、その後に本番の速さで弾いて
もう少し速く弾いて、また遅く弾いて…という練習は
難しいけれど、表現の幅が驚く程広がって、変わっていく。


ここから、幾分自由になった私の演奏は
今後どう変わって行くのか楽しみに思える
本日のレッスンだった。

こんな事ってあるのだなと、これまでの
3年間のレッスンを思うと感慨深い。
この状態を良い風に維持していこう。


さて、レッスンが終わるとあまり優秀ではない
私の頭も幾分ピアノを弾くと働いているのか
必ず甘いものが食べたくなっていつも
谷中で老舗の甘味処に行くのだけれど

今回向かった場所は違うところで、
隠れた蕎麦の名店で、これまで一度も入れたことのない
(売り切れると閉店してしまう)店だった。

ふと店の前に行くと『蕎麦あります』の看板に
誘われる様に店内に入ると、蕎麦と木の香り(檜だろうか?)と
清浄な空気の静謐な店内ではイタリアのルネサンス音楽や
ギターで奏でられる古いバロックがかかっていた
何とも不思議な空間。

ごつごつとして手触りの良い急須とゆのみで
お茶が出される。
座敷に通されたので正座してせいろを注文。
とろりとしたお茶が何とも美味。

お膳に置いてある色々なものに興味津々。
妙に可愛らしい猫の置物があって、これは
お店の人を呼ぶベルだった。ニャー!






大根おろしと細く千切りされたねぎと
幾分甘めの蕎麦つゆと一緒に頂く
細打ちの蕎麦は上品な逸品でした。

いつも幸せ感じる春の谷中にて

















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『甘い想い出』

2006-03-22 00:20:36 | ピアノレッスン
練習は、あまりしないほうだけど
ここのところ、わりと頻繁にピアノを弾いている。

その理由は、春に行われるピアノ演奏の催しに向けて弾く曲を
これまでレッスンしていたショパンのマズルカではなく
メンデルスゾーンのSongWithoutWordsから好きな1曲を弾く、
ということが決定したからだ。

弾く曲は、誰もがポピュラリティを感じる
とても聴き易い曲なんだけど、実際に弾くと
その楽しさ、美しさや優しさと裏腹に
3声によって奏でられる対位法的な構造を持った曲なので
主旋律を表現するのは難しいけれど、魅力的。

テンポを遅めて弾きながら、曲を分解してみる。
2つの手で弾くための楽譜(2段)になっているけれど
それを3つの手で弾くべく楽譜(3段)を頭の中に書き直す。
器楽で言えば、デュエットではなくトリオの状態。

そういうふうにイメージして弾くと、あたかも内声部は
『自分一人で弾いているのではないように
(自分ではない誰かの手が伴奏しているように)』
聴こえるべく、弾く事が出来る。
聴く耳が変われば、演奏も変わるのだ。


以前から時々感じていたのだけど、クラシックのように
今を遡る遥か昔に作られた異国の音楽を演奏するという行為は
どこか、自分ではない、或る作家の著述を翻訳するという行為に
似ているな、と考えていた。

見知らぬ時代に見知らぬ異国で触れる自分ではない人の語る
見知らぬ言葉を意味解釈し、自分の感覚や身体性に
馴染ませるようなこと。

外国語で話すこととか、歌を歌うという行為にも似ていると思う。

見慣れない文字、文節、聞き慣れない音。
音のひとかたまり(小節)の
言葉の意味を把握した上で文章を区切り、
一音一音を正確に、意味を込めて発音する。


それは自分が使う言葉の限界を超えて
それまで知らなかった未知の世界が開けてくるような
そんなことに、近いように思えた。


ピアノを弾くということは、頭を使いつつも
たぶんに身体的な表現だと思う。ダンスにも似ている。

バランス、力の入れ方、身体の動き、筋力、
スピード感、優美さや力強さの表現、
丹田に力を入れて感覚を研ぎすませる。
そういった全てのバランスが完全な状態で演奏すると、
感情より、身体の方が音楽を奏でる事が出来るようになる。


そして音楽に限らず優れた表現とは、感情に先立って
意志と鍛錬によって表出する「何か」なのだと思う。
例えば、歌で言えば、まっすぐに良く伸びる声、
絵で言えば、美しい線のようなもの。

内田樹氏のブログに紹介されていた
谷川俊太郎氏の詩に対する言及と
舞踏家、岩下徹氏のダンスに対する言及が明解だった。
全ての芸術的表現に繋げることが出来るように思うので引用します。


『詩のことばが作品として成立しているかどうかは、
ほどんど直感で判断するしかないんだけれど、
ひとつには、そのことばが作者を離れて
自立しているかどうか。
そのように自立したことばというのは、
書いた人間の騒がしさから離れて、
たとえどんなに饒舌に書かれていても、
ことば自身が静かになってそこに在る。

逆に、たった三行の詩でも、騒がしい詩というのは
あります。詩というのは、いわば芸がないと
成立しないもので、ほんとうは、芸があって、
ことばが自立しているほうが、実際には他者には
よく伝わるはずなんです。
『自分はこんなに苦しんでいるんだ』
ということをいうだけでは、
意外に他者には伝わらないものです。

いま、だれもが『オレが、オレが』と
自分を表現しようとしていることが、
たぶん騒がしさのいちばんの源なんじゃないでしょうか。

じゃあ、騒がしくないことば、沈黙をどこかに
秘めたことばとはどういうものかを考えたときに、
それは個人に属しているものではなくて、
もっと無名性のもの、集合的無意識のような
ところから生まれてくるものだと、ぼくは思う。』



『前に岩下徹さんがダンスにおける
「表現」と「表出」の違いについて語ったときに、

「オレはこう思う、こういうことを言いたい」という
「表現」の身体 はうすっぺらで、「表出」というのは、
そういうものじゃなくて、それ以外にありえない決定的な軌跡を描いて
自律的に動く身体のことだ、というふうに説明してくれたことがある。

岩下さんのダンスは「沈黙をどこかに秘めたダンス」だった』

その道を究めた人のことばは、どこかで通じている。

以上、内田樹氏のブログより引用


















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抽象と感情

2006-01-08 01:17:19 | ピアノレッスン
1月7日 土曜日

久々にメンデルスゾーンを弾く、
大好きな無言歌の中から最も好きな曲を1曲。

最近のレッスンで弾いているのはショパンのマズルカ。

ショパンは、どこか甘ったるくて軟弱で苦手なイメージ。
嫌いな訳ではない。どちらかというと感覚が近すぎて苦手なのだ。
旋律が持つスラブっぽさは私が生まれた北海道と共通する
何か寒い国の人間が持つ特有の陰鬱なものを感じるので
嫌いじゃないけど敬遠してしまうような想いを抱く。
解りすぎるものとは距離を置きたいのかもしれない。

しかし同じ寒い国でもバッハと同じ国のメンデルスゾーンが持つ
ロマンティックさは程良く好きと言える。
ショパンより甘くなくベートーベンほどは重くない。
程よいポピュラリティと複雑さを兼ね備えているのが好ましい。

彼は14歳で初めてバッハの大曲マタイ受難曲を知り
約6年後、若干20歳にして新解釈(新しいアレンジで)による
マタイ受難曲を作者であるバッハの死後約100年後に初演し
以降、大衆のバッハに対する興味と理解を印象付けて
過去の作品を再演するということを定着させた第1人者。
あんな難曲で大曲をエンタメにしたなんて(笑)凄い。
メンデルスゾーンがいなければ今日私たちは
あの美しいマタイ受難曲を聴く事が出来なかったかもしれない。
(しかし早熟の天才はこの後すぐ若干20歳にして亡くなる…)

その時の観衆には後に弁証法でお馴染み(笑)ヘーゲルや
詩人のハイネなども居たそうだ。
そして何とバイオリンソロはパガニーニ。

メンデルスゾーンの有名なニ短調のバイオリンコンチェルトを聴くと
1分半を越えたあたりで、あの有名なロマンティックなフレーズから
打って変わってバッハに影響を受けたであろう
極めて対位法的なフレーズに変化する
短いパッセージがあって、そのドラマティックでクールなアレンジに
時代を超えたポピュラリティを感じてゾクゾクする。
彼らと音楽的共通感覚を、今もって感じられる事に心が動く。


2005年12月23日
久々のピアノレッスン@谷中を振り返る


優れた表現とは、ということから広がって行った

・表象の向こうに見える本質の話
(彼は美しく見える雲を表象に、雲を形成する成分を本質に喩えた)
・客観と主観の話

私がバッハ晩年の未完の大曲『フーガの技法』に
以前から感情を超えた抽象性のようなものを
感じるという話、などから、何故そう感じるかという事になって
『作曲は感情表現を発端にしている』という事を前提に

何故多くのクラシックの作曲家が晩年の作品で対位法的で、
モノフォニーというよりは
ポリフォニックな曲を作るようになるのかという事を
ラフマニノフやショパンなどの後期作品の楽譜を用いて
視覚的にも音の流れを追いつつ説明されていく。

「感情というのは多重構造」であり
例えば最も悲しい現象である「死」についても
場合によっては(闘病生活を長く続けていた場合など)
もしかしたら本人も、家族もどこかで戦いを終えたような
一抹の「安堵感」のような感情を抱いているかもしれないし
悲しみが甘美なこともあるかもしれない。

例えば「幸福」な感情の中にも傍らでは
一抹の不安があったり(「幸福とは現象ではない」と
考えていた。心の在り方に幸福はあって
その状態は「沸き立つような幸福」というよりは
様々な感情を抱きつつもなお、幸福と思えるような
その心の在りようこそが「幸福」という事なんじゃないかと
漠然と考えていた)、感情は必ずや一様ではない、
という事で深く掘り下げて行くと対位法的な表現に到達する、
という事から発展していき

客観と主観は別のもののように思いがちだけれど
実は不可分である、とか、いつの間にか哲学講座へ…(笑)

そんな会話をしていて、ふと、このレッスンの「場」は
ちょっと特殊な在り方をしているように思えてきた。

考えてみたら、この音楽の美を追求している
ピアノ教師は私の詳しい属性を何一つ知らない。

私の年齢、出身地、学歴、既婚か未婚か、
どこに住んでいるか、どんな生い立ちで、家族構成はどんなで
どんな仕事をしていて、、、などと言う事は
一切彼は知らないし、訊かれた事もない。
彼を紹介してもらった存在の方にも一切訊かれた事はない。
これは有りそうで無いある種純粋な関係性のように思う。

唯一、彼が知っている大まかな私に関することは
私が彼から音楽を学びたいと思っていて
彼もそれを受容している、という、ただそれだけ。

属性に関係なく、私は彼から音楽を学んでいる。
例えば私と、このピアノ教師が
音楽的共通感覚の素地を持たないまま世間で
出会ったとしたら果たしてここまで
深く会話を研ぎすまそうと互いに歩み寄っただろうか。
たぶん、しなかっただろうと思う。

そういった、属性を持たない私と
教師とのある意味「抽象的な関係性」における場では
自分という存在が純化され易いために
良くも悪くも自分の本質に近いことが自ずと
露呈される事が多い。逃げ場もないし
自分の素養についても誤魔化しようがない。
考えてみれば勇気の居ることかもしれない。

内田樹「先生はえらい」より引用

『学びには二人の参加者が必要です。
送信するものと受信するものです。そして、
このドラマの主人公はあくまでも「受信者」です。
先生の発信するメッセージを弟子が、「教え」であると
思い込んで受信してしまうというときに学びは成立します。
「教え」として受信されるのであれば、極端な話、
そのメッセージは「あくび」や「しゃっくり」であったって
かまわないのです。「嘘」だってかまわないのです』

さて。ピアノレッスンのほうは、苦手なロマン派代表選手
ショパンのマズルカOP.50-2。
比較的弾き易い曲を選んだつもりだけど
それでも演奏に感情を込めるのが苦手な私、
曲に心が入って行っていない事を、すぐに指摘される。

身体がピアノから(いわゆる腰が引けている状態)離れていて
一体感がなく他人事のように、あなたは弾いていますね、
と言われる。この曲を弾く悦びが感じられない、と、、、
(彼は精神論で語ったりしない合理的な物理学者なのだが)
バッハのポリフォニーに向かうには
他の作曲家の対位法的なポリフォニーの曲を経験する
必要性がある、というのは師の考えなのだけど
難しい、、、まだまだ修行が足りないと思う。
ということで作曲家が何故晩年、対位法的な
ポリフォニックな曲を作るかというと
より深いところまで感情を掘り下げようとすると
必然的にそちらへ向かうという事だった。
多声旋律による表現はより深い豊かな感情を表現出来、
しかもその音楽的表現は感情を超える、というのが
本日の学習内容だった。

そしてここで、改めて私はクラシックが好き、というよりは
バッハの音楽から派生し広がって行った音楽が好き、という事を認識した。











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火星でダンス

2005-10-25 22:57:22 | ピアノレッスン
一見異質な<Classic>と<POPS>音楽体験のお話。

<classic(ピアノレッスン)>

前回の日記でも書いたけど3拍子というリズムは
もともと日本の音楽には存在していないという話を
物理学者でもあるピアノ教師が言っていた。
そして3拍子の曲を演奏するのは日本人は苦手である、
ということだった。

たまたま、私が<POPS>を初めて作曲した卒業制作曲が
3拍子になったので、何とタイムリーな話題、と思って
耳をダンボにして聴いたのだった。

そういえば私が以前日記で取り上げたジョビンの
children's gameも3拍子。ジョビンのボサノバ曲も好きだけど
どのアーティストのものでもインストゥルメンタルの
短めの珠玉な作品が好きで、3拍子の曲も多い。

何故レッスンで3拍子の話になったかというと
今度新しく出来た松涛のサロンで発表会があるらしい。
せっかくなので参加する事にする。問題は曲選び。
バッハは前回弾いたし急な話だったので
特に弾きたい曲のイメージを描いていなかった。
お薦めの作品はないでしょうか、と訊く。

彼はショパンのマズルカはどうだろう、と言った。
私は憂鬱で甘くロマンティックな(あくまでもイメージ)
ショパンよりも同じロマン派でもバッハのように明晰な
メンデルスゾーンの例えば無言歌や
ショパンのモダン解釈的なスクリャアビン、
若しくはラヴェルやドビュッシーの方が好きなのだけど、
そこに至りたいのであれば尚更、順番としてショパン後期作品の
マズルカを弾くのが好ましい、との事だった。
そして師が実際に何曲か弾いてくれた。
彼はマズルカ演奏の名手でもある。(マズルカも3拍子)


マズルカには3種類あるそうで、
1.土着性があってシンプル(民族的なリズム、曲調のもの)
2.内面性を表現したロマンティックなもの
3.以上の2つの要素を兼ね備えた土着的かつロマンティックなもの

という3種類を全て弾いてくれた。演奏も曲も素晴らしい。
前半はよく聴くようなショパン節だったけど
私は3番目に弾いた民族的なリズムを持ちながらロマンティックという
2面性を持ったものが圧倒的に好きだった。
しかしそう告げると一番難易度が高いとの事、、、チャレンジしてみたい。

<POPS(商業音楽)>

卒業制作がやっとやっと、期限を大幅に過ぎて完成。
自主的に点数を付けたところ一番最初の時点では、悲惨なもので
20点くらい、今はやっと50点というかんじ、、、
こういう曲は、きっと楽曲を数多く聴いたり
創作経験豊富な方々から見ると稚拙なんだろうな~と
想像しつつも今はこれしか作れないので、それも踏まえて提出。
POPSになっているのかどうか…(苦笑)

録音技術科の講義を受講していないので
音響的な技術を全く使うことが出来ず当然
ProToolsが使えない、録音機材、MIDIキーボード、
プロフェッショナル仕様の音楽ソフトなどツールがない、
1から自分で全て作るという作曲経験が無い、など
無い無い尽くしだったので、完成しただけでも良かったと思う。

このPCにデフォルトで付いてるようなオマケソフトで
3拍子を選択すると、リズムのループは実際には数百あるのに
4つしか出てこないので、リズムセクションは諦めて
曲を作っていった訳だけど、結果的にはなんだかんだと
やってるうちにドラムパターンも自分で作って入れたし
(出来はともかく…)当初作りたいような雰囲気にどう近付くか
少しずつわかってきたし何より、楽しかった。
1曲なのに時間かかったけど。

最初ピアノで作ったので右手のコードと左手のルート音で
まず録音して、そこから膨らませていったので
こういうかんじ、という漠然とした曲のイメージはあったものの、
そこに向かうというよりやっていくうちにそうなった、
という状態のほうに近い。ダンスしたくなる曲が好きなのだ。

とはいえ、そもそも3拍子でノリノリに踊るのは
ちょっと難しいんだけど、私が好きな3拍子の曲は
多分、180bpm以上の速度のものだと思う。今回のも183bpm。
だと、身体を左右に揺らしてず~っと踊る事が可能になる。
残念ながら今回の曲は3拍子の持つビートを表現できなかったので
踊れる曲ではないんだけど。

<火星人のダンス>

師が言っていた面白い事。
例えば日本の舞踊の動きというのは単調な動きをする
農耕民族的なリズムで、地に根ざすような動きこそ多いけれど、
例えばバレエのように跳躍する動きはない。

3拍子のリズムというのは、バレエや乗馬のように
跳躍して落ちる時までをカウントした時に(付点音符)
初めて発生するリズムで、ああいうスイングした
リズムというのはそもそも日本の音楽にはない、という話だった。
もちろん、音楽というのは「ダンス」から
発生したものだ、という事を前提として。

これを踏まえ物理学者的見地から彼は更に面白い事を言った。
もし、火星人や金星人などの異星人が地球の芸術を見たとき
例えば絵画のように視覚的な表現であるなら
ある程度はそれを理解出来るだろう、しかし舞踏というのは
引力や重力に関係していて無重力の月に行けば跳躍しても
地球と同じような3拍子にはならない。

重力や引力が違えばリズムが変わるので舞踏の表現は
地球のものとは全く異質なものになってしまうだろう、と言った。
マスターヨーダ、例えが面白すぎ。

そして、バレエで何故トウシューズでつま先立ちを
するかというと、上下する両方の動きを可能にするためで、
地上から離れようとする跳躍を強調すると共に
ダンスの動きというのは「飛翔する事へのあこがれ」なのだ、と。
つまり、重力に逆らって浮遊するごとく
それは軽さ…自由への憧れのようなものなのだ、と私は解釈した。
面白い…楽しいなと思う。
とてもクラシックピアノのレッスンとは思えな~い、
センセイの話もとても飛躍的(笑)

火星人や金星人のダンス、見てみたい。