言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

哀調の中にあるグルーヴとビート

2005-04-30 00:41:02 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
4月27日の映画美学校講義は久々の疾風怒濤の講義であった。
早い、そしてどんどん広がる…

高速度で俯瞰された
難関「マイナースケール」概念の講義

…が始まる前に宿題未提出だったA田君の宿題の分析。
解説後、いつもの3段階の判断
「キタ」「まあまあ」「コなかった」
についておのおの挙手、私は「キタ」に一票

まず構成が面白いなと思う。同じコード展開2小節を2度繰り返し
次の3つ目の章の2小節目で急展開
キャラが変わり始める。

菊池さんの分析によって
ケーデンスが小節の途中で開始されているのは
面白いという「ズレ」を発見、これは
意図的ではなかった事も検証される。
やっぱりズレは面白い、楽しい

風変わりなようで少しユーモラス
(本人のコメントによるところ多し)でいながら
知的で冷徹な印象も受けるこの曲調の魅力は
まさに本人のキャラを彷彿とさせる、、、

先日のジムオルークの講義でジム本人が言った事にも繋がる

こうして何人もの生徒が作ったコード展開とその曲調は
全てが違う、その事を知るのはとても面白く有意義で

映画美学校の音楽美学講座での、菊池成孔氏による講義でしか
感じられない体験なのかもしれない

その醍醐味は、この講義において
音楽の創作を通してそれぞれのキャラが表出していた時。

こうした差異が表現される時
私たちは全員、全てが違う、作品はその数だけ生まれる事が出来て
その事こそ貴重だという事が
音楽を通して雄弁に語られる瞬間。

マイナースケールの概念は

キャラが変わる瞬間を生むスケールで
これまでのメジャースケールの概念を含みつつ
それまでとは全く違う方向へと向かわせる力を持っている。

菊池さんは何度もマイナースケールを表現する時に
バッハ風に弾いてみせた。

ずっとバッハの音楽が時折モダンに
そしてPOPに聴こえていた事と
バッハとバークリーメソッドの因果関係について
色濃くなってくる

そして私が好きなバッハの作品の多くは
短調だという事に気がつく(代表的なのは「フーガの技法」)


例外は(かの有名な)メヌエットとゴールドベルクのアリア、
アリオーソやG線上のアリアなど

禁じられた遊びも短調の部分が好きだったし
(短調から長調へと変わる瞬間も)
このスケールに私が音楽で表現したいと思う何かが
多く含まれているのかもしれない、と感じる。

しかも、そこに表現されるグルーヴ、ビートも
曲のイメージに絡んでくる、そのイメージの中で

例えばニーナシモンのLove Me Or Leave Meにおける
バッハ風アプローチのジャズピアノによる間奏に表れる

対位法のPOPな解釈/表現による
哀調の中にあるグルーヴとビート、

The Swingle Singersによる
フレンチテイストのPOPなバッハ、今聴いてもなお
お洒落な雰囲気を醸し出している

こうして、一見とっつきにくく
厳めしいように聴こえながらその実、
バッハの音楽性にスイングさせられる何かと
そこに含まれるPOP性は

JAZZやコーラスによるポリフォニーよって為された
新解釈へと繋がり始める

そしていっぽうこちらは
オフビートなレッスン
明日は3回目の
「フーガの技法」コントラプンクトゥス第1番のピアノレッスン

今回で完結するだろうか…

ジムオルーク@映画美学校

2005-04-25 01:56:05 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
4月24日(日曜)

今夜も週末なのに睡眠不足決定。

本日の映画美学校特別講義は
ハラハラドキドキ

待ちに待った特別講義、しかし予想に反し
予定時刻1時間半すぎてもジムオルークは来なかった…

迷って帰ったのだろうか説、
寝てしまったのではないだろうか説などが飛び交う。
場内悲嘆&不安及び諦めムードに包まれる。
帰る人も現れる。


そしてジム不在時の話題は何故か全学連。

ジムは現在音楽の話をしたい状況ではなく、
とにかく現在は映画作りについて
(日本の全学連についても)
今は大いに興味があり、音楽については
あまり語りたくないとの事前情報あり。

この時点で音楽を学ぶ私としては
一瞬気落ちする。音楽について敢えて語らず
映画についてのみ、というのは
映像コースの生徒向けならまだしも
音楽楽理生徒向けには目の前に人参だなと
思いつつも、ここは映画美学校。
映画についての発言がジムの口から聴けるのだとしたら
ラッキーで稀有な事である。

もしもジムが来る時に備えてトークの下準備

岸野雄一さんのほかにレフトアローンの井土監督、
著書『憂鬱と官能を教えた学校』の編集者の方を
質問と進行役に、普段菊池成孔さんの楽曲の詞を
英訳している大和田さんが通訳者となる。
そうそうたる顔ぶれ。


にしてもジムが来ない…場が次第に緊迫する

ここで、状況は新たな展開へ向かう。

怪我の功名ともいえる予想もしていなかった
意外な人物の登場。

今後、美学校に関わる事があるかもしれないという事で
音楽家あがた森魚氏が
事前見学のため会場に来ている事が発覚し紹介される。

’80年代に彼の音楽を聴いていた私は、
思わず心から歓迎の拍手をする。
全員の大きな拍手に包まれ、あがたさん、急遽ステージへ。

岸野雄一さんが『今全学連について話していましたが
あがたさんはこういった流れに対し
当時としては珍しいロマンティックなアプローチを
されていましたよね』と言及。

ラッキーな事に私はあがたさんの作品である
『僕は天使ぢゃないよ』という
この稀有な映画の存在を知っていた友人が
偶然にもケーブルテレビで放映されているのを発見し
観る事が出来たのだった、去年の出来事。

若かりし頃のご本人のほかに
大滝詠一、泉谷しげる、桃井かおりなどが友情出演していて
これだけでも今となっては有り得ないのに
この挿入歌「僕は天使ぢゃないよ」が殊更に良かった。

あがたさんはほんの少し躊躇されながらも
自らの音楽表現について語り始める。

アーティストとしての彼の在り方が垣間みられる。
こんな言葉はそうした表現や創作に関わり
長く続けてきた人の言葉の重みをもって響く。


そうこうしていて
なんと

ジムオルーク氏による日程の錯誤が発覚、
明日25日だと思われていたらしい…ジムジムったらもう。

至急迎えをやって、ジム氏京橋へ向かうとの事、

紆余曲折あるも、
とにもかくにも15分後
とうとう待ちに待ったジムオルークの到着。
時既に通常の終了時間


初めて会うジムオルークは
イライジャウッドを彷彿とさせる
美しい目をした、もの静かでシャイな青年だった。

じつは私スクールオブロックの先生のような人を想像していた。
むしろボーカルなどを通して抱いていた
彼のヴィジュアルイメージと
現実に目の前にいるご本人がちゃんと重なったので良かった。

現場にいらしていた井土監督とのやりとりもあって
映画の話題に絡めつつ
’60年代の安保闘争、浅間山荘事件、中核派、赤軍派、
そして内ゲバについても語られ
おかげで全学連の「内ゲバ」について
改めて認識を深める
内ゲバ的なことは
身近でも常に起こっているのかもしれない、

映画をつくっていても音楽をつくっていても
カイシャでも家庭でも…内ゲバ…

美学校バンドでも起きるか内ゲバ
自称内ゲバ原因になりそうなA田君と
そんな話をしたりする。

内ゲバを回避する方法があれば
世の中良くなるだろうか。
回避法ご存知の方は当方まで。

という事でテーマがテーマだっただけに
少々会話に偏りを感じつつ、
ジムが準備してくるはずの資料映像も
日付の勘違いによって用意されなったので
それがあれば内容も変わっていたのかもしれない。
通訳も入るし、コーディネートするのは
きっと難しかったと思う。

ジムオルークから観た
アメリカの映画制作シーンについて
話を聴けたのは面白かった。
アメリカで映画を撮ってる人間は
全く映画を知らないか沢山知ってるか、だそう

途中、ご本人が「ここに居る生徒が音楽について
学んでいるのであれば音楽について話す」
といったような事を言ってくれていたのにも関わらず
なかなか音楽のほうに話題の矛先が行かなくて
少々残念ではあったが私のこんな思いは
最後に設けられた質問コーナーによって払拭される。

今回は2、3質問したい事が浮かんだので挙手する。

彼はポップミュージックに対する話題について
私にとって知りたい事、
かつとても重要な事に言及していた。

ジムオルークはその話題の中でこう言ったのだ、
『音楽を作っていく過程が重要』
といった事を踏まえ出来た楽曲は

『"POP MUSIC"に聴こえるかもしれないが
それ自体が
「"POP MUSIC"そのものであるか」という事とは別の事で、
そういった事についての検証は
自分には必要であり重要なことだ』
といった内容の事を言っていた。
この言及に思わず頭の中のPAUSEボタンを押す。


『今私たちはバークリーメソッドを見直し
POPSについて学んでいる状況で
先ほどの"POP MUSIC"についての言及から
『POP MUSIC"に聴こえる』ような状態と『"POP MUSIC"そのもの』
の違いについて、それに対する判断力のようなものは
メソッドに裏打ちされるものなのか
そして『POPとは何か』という事について質問した。

彼は悩みつつ
とてもストレートな答えを返してきてくれた。

POP MUSICであるという事には決められた形式とか形態は無い
メソッドにのみ拘束されるのであれば
それはただの職人芸で

なぜ自分はこういう事をしているかという事も
大きなテーマであり
そのプロセスそのものも重要だ、と

(メソッドを知りつつも)メソッドに縛られず
作品に本人の人間的な物事が表現されるという事も重要だ、
(この辺は返答内容に夢中になっていた為に
記録していないので曖昧)というような事を答えてくれた。
これは後になって更に響いてきそうな答えだ。
岸野先生にNice question、と有り難い突っ込みを頂く
勇気出して質問してよかった…

講義が終わった後にいつものお店で皆で食事。
気がつけば目の前にあがた森魚とジムオルークが
二人で親密に会話をしてピザをつまんでいた。
こんな事が目の前で現実化するのが
映画美学校の凄いところ

ジムの隣に座っていたいつも物静かなSくんが
(ギタリストの彼はきっとジムの音楽を
私よりも知っていて、好きなのに違いない)
溢れる思いをジムオルークに話したのだろうか、
それに熱心に耳を傾けているジムの真摯な姿に
日本人の心を感じる。

ジムは’80年代にシカゴのレコードショップで
あがた氏のレコードを見つけ初めて聴いて
以来ファンになったそうだ。

ジムは自分でもどうしてかわからないけれど
日本に惹かれる、僕はそれを信じては居ないけど
周りの人間は皆「きっと前世が日本人だったんだよ」と
言われると。

印象的だったのは、前の人がサインをしてもらっていて
ジムにI'm so Sorry…と言われていたので
ああ、そうだよな、やっぱりサインなんてダメよね、と
思ったら彼は今日授業が遅れてしまって本当にごめんなさい、と
サインする時生徒に謝っていたのだった。
握手をしてもらった。柔らかくて暖かい手。

講義の後の飲み会で
終電に遅れそうになって席を立とうとしたら
あがたさんがもういらっしゃらない、
ああ、ご挨拶が出来なかったと残念に思いつつ
出口へ向かったら間違えてトイレのほうに行ってしまった。

出てきたあがたさんとバッタリ。
思わず挨拶。
お会い出来て良かったです、
以前からあがたさんの音楽が好きでした、
映画美学校でまたお会い出来るのを楽しみにしています
と告げる。

あがたさんは私の名前を聞き(覚えていてくれるだろうか?)
きっとまた映画美学校で関わる事が
出来るでしょう、と言って握手をしてくれた。
やっぱり柔らかく温かな手だった。

ストリート系アートの現場@代官山

2005-04-24 02:46:49 | ART
今日は突然のお誘いにより
代官山へ出掛けた。

LANDというイベント
若手のアーティストユニット(彼らはメオトだそう)
夫婦漫才ならぬ夫婦ペインティング。
HITOTZUKI
によるライヴペインティングと
percussion:DAISUKE IWAHARA(TOKYO NANGADEF)
DJ:KATSUYA TANIGUCHI
の面々が奏でる音楽とのライヴセッション。

とても面白かった。

ライヴペインティングの内容は
音楽に喩えればインプロビゼイション(即興)だった。

まさに実際の音楽のビートの中で
取り壊され、新たに恵比寿に引っ越すギャラリー
POINTの壁を使って描画は行われた。

以前観た展覧会で、
アーティスト磯崎道佳さんによる、
取り壊しされる家を使ったインスタレーション、
「横浜かくれんぼ/ずいっと野毛山あたり」の事をふと思い出す。

あ、そして、その前は
東恩納祐一さんが代官山で解体されるマンションのモデルルームで行った
インスタレーション
の事も思い出す。
とてもクールかつカラフルでゴージャス&ゴシックだったので
以来、印象に残っていた。

壊されゆく建物での創作は面白い
まさに破壊と創造なので

音楽創作のメソッドを齧り始めたせいか
観ていて前回行われた
「音楽の構造分析」
という特別講義で解説された『分節』の事が思い出された。

『分節→言葉の意味作用の変化によって構成される
全体における部分』と私は日記で定義したのだけど
こうしたライブペインティングという
行為はどこか音楽的だった。
モチロン、そこでライヴとして演奏されていた
音楽的グルーヴと自らの感覚を共鳴させながら
彼らは描いていた訳だけど。

そしてその中にも確かに
感覚的なグルーヴ&ビートや
それとは対照的である
意図的な技法も垣間みられた。

ただ滅茶苦茶にやっているわけではないという事(文脈)が
わかると観ていて俄然面白くなってくる。
それが若者を場内いっぱいにした動員力なのかな~
技術がどう、とか手法が新しいわけでもないのに
確かに観ていて面白いのだ。

お誘いくださったTOKYO SOURCE
編集長の近藤ヒデノリさん
が言っていた、
現代アートは表現の中の『ひずみ』を
どんどん増長させていく部分があるのだけれど

こうしたストリート寄りのアートが持つ
大衆への「伝染性」の早さのようなものは
どこから来るのだろう、といった言及は

音楽にもどちらかというと
あまり(敢えて?)解りやすくないものもあれば

『商業音楽(POPS)』という大衆の心を、『共感』を
掴みやすい傾向を(確信犯的に)持たせるものもあるわけで
(私はまさに今そのメソッドを学んでいるのだけど)
こういった対比は考えさせられる点があって興味深かった。

アートにおけるジャンルは違っていても
根本は繋がっているという事を
実感すると何だか世界は広がるのだった。

今宵はとても美しい満月の良い夜であった。

そして、明日は待ちに待った
ジムオルークによる特別講義、、、!

日記も長くなりそう(笑)

THOUSAND KNIVES

2005-04-21 23:50:38 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
当事、初めて聴いたこの音楽が鮮烈だった事を思い出す。
難解な分厚い哲学書の香りがした。

ミショーの詩から引用されたタイトルと
毛沢東作の美しい詩の朗読から始まる
タイトル曲「thousand knives」の完成度は
今聴いても色褪せない。美しい抽象画のよう。

私はこのアルバムを
当時売り出したばかりの
初代SONYのウォークマンによって
初デジタル音で夜中寝る前にひっそり聴いた、
現在と未来を行ったり来たりしながら
今は過去と現在と未来を行ったり来たりしながら聴いている

このアルバムについて
連想ゲーム的に思い浮かんだ言葉と
曲に対する遊び的な分析が始まったので記録

予測不能な終わり

音楽的予兆

耳慣れない音と音響、音量

意味不明さ、先鋭、未知的構造

ミニマルさ

古典的構造と近未来的無機質さとの融合


全ての曲が好きと言える程のアルバムだけど
何故か分析したく思い出したのは4番目の曲である、
DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRIBUSCHE VOLKSLIED

この曲に込められた真意は未だよく知らないのだが
何らかの美を感じたのだと思うので
分析を進めてみる

【前奏】<6小節>

【はじめのフレーズ】
<24小節>
飄々と多少愉快に、剽軽なかんじで曲が始まる
(フェードイン)

深刻さはさしてない。

未来への少しの予兆的示唆

【2度目のフレーズ】

<7小節目>
少しの変化、小事件=予兆→転調

ユーモラスな緩い転落

<19小節>
甘いフレーズへ移行する

無垢なフレーズ
(私はこの突如ロマンティックに移行する部分が
とても好きだった)

【3度目のフレーズ】<24小節>

ユニゾンによって多少線が太くなる

明確

迷いを感じない

確信犯的な遊びの感覚

【4度目のフレーズ】

繰り返しのあと事件への予兆

2度目に起きた小事件時フレーズの反復後に

<19小節目>で
ひずみ(大きな事件)が起こる

ヴォコーダーによる無機的ヴォイスが数回繰り返される

画に喩えると背景が歴然と変わるイメージ(ドミナント)

晴天から悪天へ

不協和から協和への運動の反復

堪え難い不安、違和感、拒絶→反復(×6)

<43小節目>
7回目の反復より劇的な変化→受容→解決

美的解決による協和と統合

背後で小さく鳴る
2度目のフレーズで出てきた甘美なフレーズ

今一度振り返る→意味の変化

【5度目のフレーズ】

多少の違和感あるフレーズを交えつつ

それすら包有してしまった力強さを感じられる

これまであったひずみは
当たり前の事のように取り入れられ

何事もなかったかのように通り過ぎる
少しの違和感を保ちつつ

幾つもの違和的フレーズが散らばり
それを包含したり放ったりしながら

再びユニゾンとなる
(厳密に言うと途中でもう一つ重なる音が聴こえる)

揺るがされる事のない強いフレージング

形式化され、統合されて音楽的な美へ

背景に残像のようにヴォコーダーによるヴォイスと
甘美なフレーズと両者の音響は反比例して
加工された声は一瞬音が大きくなり
やがて小さくなりフェイドアウト



大嫌いなものが大好きになる事のよに、、、

2005-04-13 23:47:38 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
、、世界は開きつつある

この不順な天候のせいか風邪をひいた

不思議な事に風邪をひくと花粉症の症状が
ひっこむ…自律神経の謎。

さて、オリーブをつまみワインを飲みながら(笑)

スティービーワンダーを聴きつつ、書いている、

今日も学ぶ事の多い講義だった。

菊地さんは沖縄から美学校へ直行で
一睡もしていないとのこと、
エンジンがかかっていないかんじも
皆が提出した宿題の分析に着手するうちに
寝不足や花粉症の症状も緩和されたようだった。

本日の宿題を提出した生徒は
Si、M、Ka、So、H、F、Kmさんの面々。

本当に、各自の好みのコード進行というのは
遺伝子の如く十人十色なのだった。
何よりそういった事実としての差異を
目の当たりにする事が素晴らしかった訳なのだが

フロイディアン(笑)菊地さんの
音楽的分析もさることながら
各人の嗜好や傾向に対する判断力が鋭かった。

締めくくりにプロのミュージシャンである
Kさんだったというのも、順序として良かった。

ポップという概念が陥りがちな、
可もなく不可もなく、といった
判断を受けやすいという事や
だからこそ多くの人に好まれたり
記憶に残ったりするのだろう

短いフレーズの中にも世界は完成していて

そのくらいの力が既にプロとして
活動している人のコード展開には在った。


同じく共感度が高かったのは最年少の
H君のもので、作意と感受性、個人的事情(笑)と
年代的な特性が相俟って面白かった。

ここで菊地さんが「病」と「文学」と
「音楽の作曲動機」を繋げて敷衍した内容は興味深い。

私が面白かったのは最年長である
Soさんのコードの「ズレ」のようなものだった。
少しの律動的ズレ。

もし感想を求められたら
こういった少々予測不能の「ズレ」が良い、
と答えるつもりだった。
そうしたら、これは本当に(笑)ズレていたらしい

ご本人に作意があるのかと思いきや、
じつはそうでもなく(自然にズレたというか)
菊地さんのズレに対する定義と
解釈も面白かった

つまり、小節を区切る部分がズレていて
それはある意味で変拍子、大袈裟に言うと
プログレという(笑)かんじで

発話に喩えれば小節と小節に言葉がまたがっていたり
分節がズレていたり、という事だったのではないかと思う。

そして私は確かにそういった
『音韻と律動』のズレのようなノリが好きなのだと
今日改めて自覚

こういった事が音楽の中で統合されて
うまく自分で再構築出来たら、と思う。


スティービーを改めて聴いていて
彼の有名曲をカバーで先に知っていて
迂回して聴いていたものもあるのだが
この事は功を奏したようだ。

オリジナルを聴くタイミングはばっちりで
こうしてバークリーメソッドを認識するようになってから
改めてスティービーを聴くのは
音源と状況がシンクロして意義あり。

そして
ポップで万人に好かれるスティービーの曲と
愛嬌があってチャーミングな彼のボーカルに、
冷徹で諦観を感じる事も可能な作意と
楽しげなグルーヴと対極にある憂愁を感じていたので
紐解いてみたら東大のジャズ講義のリファレンスで
こんな言及があった。

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「コルトレーンが偉いのは、こうやって悟りの境地に至った後に、
改めて「”怒りや屈辱”を
もっと美しい崇高なものに変えて行こうというのは、
物凄く簡単に言うと、仏教的な思想です。

『四苦八苦・怒り・苦しみ・屈辱・恨み・呪い⇒
慈悲・解脱により⇒美的に昇華』という。」

「完全に解脱して宇宙ですね。」
・”怒り”と”屈辱”を、”美”と”慈悲”へ。・・・仏教的解脱。

----------------

これは、「ブラックミュージック」と呼ばれているものに
偏在するイメージなのかもしれない。

そして私が感じるブラックニュージックの魅力、
惹かれる理由、聴いて感じていた
楽しさや喜びのグルーヴの対極に
聴こえてくる哀愁のようなものの存在は
今月号のスタジオボイスに
書かれていた事にも繋がったので引用&共感。

『悲しい現実に直面したときに、鬱病になるとか
泣きわめくとか、色々な方法があると思うんだけど、
僕はそれを”うっとりとした気持ち”に逸らすんです。
一種のマゾヒズム的な解離ですよ。
まあ、それを広義のブルースと呼んでもいいのかもしれないけど、
それは世界中の音楽に偏在する方法です。
悲痛や憂鬱を官能に変換する。
演歌だって昔はそうだったんだけど、最近はそれが流行らない。
だから僕はあえて、東京で状況をちょっと
ルネッサンスする方向に動こうとしているわけですよ』

Another Star

2005-04-13 00:15:26 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
マイミクの方々の日記を読んでいると
不思議にシンクロする事が多い(前にも書いたけど)

私は運命だの何だのはあまり考えないけど
何らかの繋がりとかシンクロニシティは
あり得ると思う、どこかで何らかのエネルギーみたいな
何かが繋がっていて
その事はたぶん壊れない、とでも言えるような何か

一例を挙げると(笑)マイミクのWさんが
「探していた曲が見つかった」と日記に
書いてあって、読むとその曲は
「スティービーワンダーだった」と
で、しかも美学校講師の
菊地成孔が「「スティービー・ワンダーの曲は、
今でもバークリーの現役の教材になっているぐらい、
よく出来てる」と言っていたそうな、、、

これは少々意外だった
誰でも知っているポピュラーで解りやすく
一見単純に聴こえる
スティービーの音楽性にも
あの、超記号&論理的なバークリーメソッドが
宿っていたとは

そして実は私もここ数週間、
改めてスティービーワンダーを聴いていたのだ

バークリーとスティービーを
結びつけて聴こうと思った訳ではないので
少々驚くが
こんなに優れた楽曲だから
あたりまえかもしれない

私が最も好きなのは「Another star」で
常に頭の中にはあるせいか、こういった巨匠の名曲を
私の場合何故か手にしていない事が多い

で、改めて聴いたのだが
やはり素晴らしい、
グルーヴ、歌唱、アレンジ、編成、何もかもが
もの凄い臨場感を持っている、
一歩間違うと狂気になりそうなほどの

そして、さほど複雑でないフレーズの繰り返しなのに
こんなに聴き手を飽きさせない魅力の
正体は何なのだろうと思う

いろいろな人がカバーしているこの名曲、
以前(たぶん)ポルトガル語のものが
クラブと化した某学院のパーティーで流れ、
周囲に居た(フランス語圏の国のパーティだったので)
フランス語圏に済む黒人逹を中心に
アジア人、欧米人達が一斉にフロアに押し寄せ
異様に盛り上がったあのグルーヴ&ダンスを思いだす、
私は彼らと夜通し踊った。

じつは毎回この曲を聴くときに、
一見、曲のイメージとはかけ離れたように思える
感情を持つ事がある、それは
グルーヴやビートとは無縁の少しの「哀愁」なのは
少々不思議だったのだが、
「憂鬱を官能に変える技術」に
深く関わっている事なのではないだろうか、
という事に気がつく。

音楽の構造分析/文化コード

2005-04-08 02:26:09 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
4月7日 映画美学校特別講義

講師:アレンジャー高山博氏

久しぶりの特別講義、約2ヶ月ぶりだろうか。
アレンジャーとしての高山さんの観点は
私にとって共感する部分も多く面白かったので記録。

私は講義を記録しているつもりだけど
自分の言葉や判断に置き換わっている箇所多し(笑)

講師は高山博さん。プロツールスについても
スペシャリストで、キーボードマガジンに
主に掲載されているそう。

私は録音科ではないので彼の講義は初めて、
ユルメの関西弁(笑)が
何となく出来てしまう生徒と教師との壁を
良い意味で和らげる役割あり、

音の構造分析という事で
構造主義に従って分析を進める、
ソシュールの「ソ」まで読んでいたのが役に立つ、

「私」をシニフィアン

「実体としての私」をシニフィエに喩えて

言語をササァエル(「支える」のミスタイプを放置)
社会構造的な観点から考え、
この観点を「文化コード」とする。

※私はこの「文化コード」を
第三者と共有可能な音楽的共通感覚、と
定義付ける事にする。

分節→言葉の意味作用の変化によって構成される
全体における部分、と定義しておこう。

音源1:雅楽→分節ポイントが西洋と全く違う。

例)ブレスの箇所:伸びている場所で敢えて。というのは
伸びているという事を前提にしていて
「わかってるでしょ?」的な暗黙の了解を前提としたブレス。
(単一民族世界的了解?笑)

音源2:ブーレーズの「ストラクチュール」を聴く。

まさに「構造的」(笑)という事で
予備知識が無ければ理解不可能的音源。

実は講義の終盤の質問コーナーで、
この2つの、あまり一般的でない音楽を
自分は普通に聴けました、という生徒さんがいた。

高山さんはしばらくしてこう答えた。

それはたぶん、音楽の「外形」(つまり情報?)のみを
聴いてしまっている、それは
ある意味では音楽を聴くというより「使って」いると
言えるのではないか、と。

その音楽の「問題形」に入った時に初めて
「音楽体験」と言うのではないか、と彼は言及した。

この事は良い悪いの問題というより
聴き方の傾向や指向の違いという事で

私もこの事については、常々感じていた事があった。

逆に私は音楽を何でもは、聴けない。

そして幅広く、しかも
大量に音楽は聴いていない、
(まあ幅広くの「幅」の定義も色々あるのかと思うけど)

例えば音楽以外の『音』に対しても、大音量に弱い。
JRの駅構内に流れる聴取の選択不能な
『音』の流れ方にも苦痛を感じるほどだ

しかしリズムとグルーヴがあれば
音の大音量は可となるんだけど…

駅構内にリズムとグルーヴは無理そう(笑)


聴く速度が『遅い』のかもしれない。

21世紀において
様々な音楽を聴く事が出来るという事は
ある意味「情報処理」能力の力によるのではないかと
考えたりする。

音楽も情報なのだ、あたりまえだけど。
私には、そういった高速度でハイスペックの
「情報処理」能力が(知識も)ないようだ。
ぽんぽんと、聴く事がどうにも不可能で

聴くか、聴かないか

つまり頭の中に完全に入って来るか
全く入って来ないかのどちらかになる事が多い。
その辺はアナログ的処理(苦笑)

1曲の情報量は、私にとってはあまりにも多く
頭に入って来る曲はあまり多くはない、今の所。


という事で

わかりにくい音楽も
理解を深めると分節の仕方が共有可能になる。

分節の「単位」を知る事でどんな単位で

どこで切って…と解って来る→楽しめる。

(これはクラシックを聴く事にも通じるなと思った、
「分節」を知ると長いクラシック曲も
構造化され、脳みそが刺激され続けるので眠くならない)

◯人前で演奏するという事→文化コードの共有をあらかじめ前提としている

本日のメイン音源

キャロルキングの「I't's too late」

時代背景:フラワームーブメント/ベトナム戦争/ビートルズの出現

ポイント:ロックがないという事を想定して、そこに
ビートルズの持つ音楽性が出現したという事がいかに凄いか
想像し、考えて欲しい、という事で考えてみる。

きっと人生が変わるであろう。

良かった、そんな現場に居なくて、と内心思う。
音楽で人生を直接的に変えられるなんて
恐ろしすぎる…(笑)
それじゃなくたって音楽の存在は大き過ぎるというのに。

当時、ヤワ系音楽を創作していたであろう
(ペットサウンズ以前の軟派時代)
人気沸騰中のビーチボーイズは

「一夜にして自分たちの音楽が時代遅れになった」事を
実感したという。

そして同じく

昨日までは「クダらない」(ロコモーションなどの)
可愛い系音楽を作っていた
天才少女キャロルキングは彼らの出現によって一時消える。

その後復活したキャロルのレコードジャケットは裸足(笑)

離婚して再生した時の曲がたぶん
この曲なのであろう。

才能ある自立した女性が離婚した後もなお

私という女は自由なのよ!

という転身を遂げた後の賛美歌(笑)という感じ方もあり。

負け犬が横行する(笑)21世紀の今の感じ方は、
少々のギャップはあるかもしれないが。

若者は戦争に借り出され
自分たちが資本主義社会に
人生を搾取されているという事を実感し始めて
ヒッピーになるのだった。
(ここでアカデミー受賞作の
フォレストガンプのワンシーンを思い出す・笑)

キーワード:離婚して才能のある
自立した自由な女は裸足(笑)

この自由なあたしは『裸足』よ!は
意味を知る女性アーティストの間で象徴化され

椎名林檎、矢井田瞳などに影響する
アーティスト、アラニスモリセットまで至る話しは
面白かった。


’70年代

フラワームーブメントがダメになる。

ウッドストックがただなので(笑)大衆押し寄せる。

フォークも見直される。

社会派な詩を付ける→ボブディラン

ラブ&ピースがダメになっていくリアリティを
たった一人で見つめようという動きは

「シンガーソングライター」の輩出という
ブームの契機となる。

James Taylor,レノンのイマジンなどの
諦観系、まったり系サウンドは
フラワームーブメントはもう生きていない、
イマジンの中でしか…という意味合いも
あるのではないか!?という高山氏の解釈。

そして、反面、女性はこれ以降とても元気。
きっとウーマンリブへ移行するのであろう。
ここで大好きな映画『ガープの世界』を思い出す


同じくニールヤングの寂寥感。
ヒッピーが消えた寂寥を女性の存在に喩える。

それをまともに捉え日本に輸入された
ニールヤングやジェームズテイラー的世界は
ケンとメリーのスカイラインのテーマとなって
輸入業者を介した文化コードのズレから(笑)
『お洒落アイテム』と化してしまう。

これは都市部の知的で裕福な子息が
情報量の多さによる早熟化によって
オピニオンリーダーとなる事へと繋がり
(その傾向は今もあり得るとの事)
はっぴーえんどの登場。

(私の解釈だけど)
彼らの歌は都会的で、内面とか苦悩などが
初めから想定されていない「虚構」的世界。

これは新しくは
キリンジなんかにも継承されているのではないか。
と想像を膨らませてみる。

音楽に恋してしまった
都市部の知性的良家の子息は
大変だな(笑)と思う、

岸野雄一さんが講義の最後の質疑応答の部分で
「皆さんは幸せですか?」と
訊かれたのは(笑)象徴的なかんじがして面白かった。

キャロルキングを始め
クラシックから生まれた「ドミナント」は
ちょっとくさいよ~やめようよ~行き先わかっちゃうもの、という
雰囲気になり、排除方向へ。、

ツェッペリン、スライ&ファミリーストーン(はプリンスへ影響を与え)
など、コード進行のない音楽へ。
(COOL!)

ドミナントの概念を排した事から
行き先を持たないリアルさが生まれる。

ここでPOPSへ言及あり。

POPS→わかりやすい→共有可能→世界が広がる→音楽自ら
大衆に歩み寄る

最後に、音楽の分節とコードに
好き嫌いが発生するというのは
あらかじめその分節とコードは
既に自分の中にあるのである、と言う論理に納得。


講義内容の一部は以前私の日記に書いた
「音楽の物語性」で試みた方法を思い出し、
こういうやり方もアリなのね、と音楽に少し近づいた感。

講師がアレンジャーという事もあって
珍しく講義後の質問にも積極的だったのだが

最後にどうしても聴いておきたい事があって
高山さんがジョビンのストリングスのアレンジに触れ、

それを殆ど手がけていたアレンジャーの名前を言った、

私はてっきり全てはジョビンがやっていたと思っていた上に
彼が世界一だと思う、と言ったアレンジャーだったので
気に留める。

クラウスオガーマン、という名前だった。


そして音楽を生業にするという事は
楽しいとか自由とかいう事とは少し別のところにあって
(先日の私の日記、
プロフェッショナルとはにも書いたように)

むしろ、『自分の選択でいかに不自由になっていくか』(笑)
が重要らしい。

やっぱりそうだったのか、、、

ドミナント

2005-04-07 02:50:18 | 映画
ドミナントについて考えていた。

美術作家の中村ケンゴさんの日記(最近復活したそうです)
『ブログ作法』を読んでいて、作家の内田樹さんが
(私はこの方の文章がとても好きで良く日記を拝読していて
ちなみに内田さんは今月4月号のユリイカ
ブログ作法について書いてました)
よくドミナントという言葉を文中で
多用している事を想い出した。
内田さんは英語のそのままの意味で
使っているんだろうけど気になったので
改めて調べてみる、

そういえば
映画美学校の特別講義『音と映像』:岸野雄一さん編で
配られた資料にて
<映画における第四次元:エイゼンシュタイン著作集より>
ドミナントについて言及されていた事も想い出す、
面白かったので、ここに記録しておこう。


☆2

ここで使われている”ドミナント”とは
音楽用語としての意味を前提としている。
すなわち、主音(トニック=音階の中心となる第1音)に次いで
重要な音で、"調を支配する":ドミナント)
=(主音)の5度上の音、
またはその上に組み立てられた和音を指す。

エイゼンシュタインは論文中で、
必ずしも音楽用語の定義の従ってドミナント、
トニックの両用語を厳密に区分して用いてはいない。
そしてまた、この用語(ドミナント)に、
否定と肯定の二重の意味をかぶせているようだ。

一方は
「正統的で衒学的※1
(※1:学者ぶるさま。学識をひけらかすさま。ペダンチック)な
ドミナント」であり、他方は

「素材と素材のあいだに…生理学的符合を置いてしまう」という
ドミナントである。
後者の用語法は、ロシア・フォルマリズムの
主要な用語であり、V・エイヘンバウムによって
定式化された概念と共通する。


つまりフォルマリズムの詩学でいう、作品中の
「さまざまなレヴェルはその相互関係によって
一つの効果をもたらすとともに、
それ自体が独立の価値を有しドミナントとなりうる」
という考えとの共通点である。

以上
<映画における第四次元:エイゼンシュタイン著作集より>

岸野さんはエイゼンシュタインの論文は
少々怪しい部分もあって全てを信用していないと(確か)
触れていたが、資料が配られただけあって
面白い、訳がわからない部分も含め(笑)
一読の価値はある。

両義性を内包している
映像的観点から捉えたドミナント、
音楽的定義におけるドミナントと
比較してみるのは興味深い…が
また「わからない」の種が一つ、
私に植わった。

プロフェッショナルとは

2005-04-06 14:05:28 | 映画美学校音楽美学講座:初等科
プロになる、というのはどういう事かと考えていた、
特に具体的に「プロ」という事について
意識したり考えたりしていなかった去年の10月に

「煙る映画美学校Part2『柔構造』
というタイトルの日記の出だしで書いていた事は
今になって言い得て妙なのだ

プロであるという事は
それまでの趣味に対する感じ方のように
その事が「好き」で、ひたすら愛好する
という状態とは似て非なる状態で

ただ素直に、その事を好き、楽しい、とは
もう簡単には言えないような
ある種の不自由さを含んだ
規範のような拘束力に捉えられながら
それでもなお自由で
好きな事に向かって行くという事を引き受けた人が
プロなのかな…と

どちらが良いとか悪いとかではなく
単なる趣味を楽しむ愛好家はアマチュアであり
プロになるかアマチュアでいるかは
その人が選択する事であって
そういった状態は楽しいと知りつつも
その場所から離れてなお
好きな事を生業とする事を選択し続ける人を
プロフェッショナルというのだと
そして、そういう人が創作する作品に
多くの人々は惹かれる












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