言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

忌野清志郎とブルース

2009-05-12 23:15:35 | 日々
私は日本人なのでブルースがどういうものだかわからないし
奏でることも出来ない。
作曲理論を習ってるくせに未だちゃんとわかっていない。
でもいつも「ブルース」という言葉にどこかひっかかる。
ブルースのことが気になる。

口ずさみ、奏でればそのときだけブルーを忘れる、
それがブルースという概念なんじゃないか?(逆説的だけど)って
考えることもある。それは音楽のジャンルによってとか、
黒人だから、とかと、区別なく存在するもの。
(「ブルース」という音楽を黒人が作ったのは言うまでもないことですが)

キヨシローはきっと「忌野清志郎」と自ら名乗った時から
ブルースマンだったんだと思う。

ところで、師匠が書く故人への追悼文を割と気にして読んでいる。
意外な人について書いていたり、書いていなかったりされるので。

訃報とほぼリアルタイムでたいてい書かれていて
遅くても当日か翌日には書かれていたのだけど
今回は、そうじゃなかった。

今回の事は、書かないんだな、と。でも、
この空いた日数とともに何かひっかかっていた。
ブルースが関係していたはずから、と。。。
読んで感銘した。こんなに愛のある追悼文を読んだ事はそうない。
(最後のほうに文章を転載させて頂きました)


私のように多感な年齢の頃に聴いたファン、というのは
愛していたミュージシャンの死と同時に、若き日の思い出に
さよならすることも哀しくて、大事にしてた宝物が壊れるみたいに
涙する部分も大きいんだろうけど

菊地さんの文面には純粋に楽曲、音楽表現と
清志郎というミュージシャンへの愛情と悼みが溢れていて
それが私のような旧いファンにも伝染して涙が滝のようにこぼれた。

清志郎に感じていた「ブルース」そのものが
菊地さんにはもっと強烈にダイレクトに、しかも鮮明に伝わっていて
たった一度聴いただけなのに、ずっと記憶に刻まれていたようで
意外だったとともに、やはり先生は、、、!と感銘を受けた。

おそらく私にとってリアルタイムで聴いて
親しみのあったミュージシャンの初めての死だったので
思っていた以上に哀しくて、ここ数日つかず離れず頭にあって
どう向き合っていいのか躊躇していたのだけど
これを読んで安心して(?)故人を追悼出来た気がします。

キヨシローの音楽の素晴らしさを教えてくれて
ライヴを観る為に共にススキノに徹夜して並んだ(笑)
中学時代からの親友にも感謝の意を込めて、
若い頃、一緒にあのライブに行けて良かったって伝えよう。

従姉妹に海へのキャンプに連れて行ってもらった時従姉妹の婚約者が
車の中でかけた「雨上がりの夜空に」を初めて聴いたとき



「なんや、この曲(詩)は!?」と車中が
夏のように爽やかな笑いで満たされたこともあった。
(嘘。車内は微妙な空気になった、笑)

ライヴのとき、まだ大人じゃなかったけど
めいっぱい大人に見えるように化粧をして
ナンパの危険をかわしたり(笑)
白や黒のスーツでキメたヤ○ザの皆さんが
否応なく視界に入ってきたりと
初めての不安と疲労を抱えながら歌舞伎町と
似ていなくもない北の歓楽街で夜を徹した。

ライヴではそんな不安は全て吹き飛んで
別な世界が開けた気がした。
初めてのR&Bのライヴだった。

忌野清志郎さんのご冥福を確信するとともに、
ここにお祈りします。


菊地さんの追悼の本文はこちら→追悼 May-11-2009

<以下、上記サイトより抜粋>



歌舞伎町に戻って信濃屋さんでナッツとドライフルーツを大量に買い込み、歩いて赤札堂に向かい、洗剤をいくつか買って、もうこの季節になると、すっかり売春婦の如き服装になる、一律全員スタイルの良い韓国人女性達の、凄まじい脚線美を見つめながら、つまり、こうして書いてみるとなかなか濃密と言えなくも無い2日間を過ごしながら、アタマの片隅でずっと考えていた事がありました。それは故人との、唯一の思い出です。現在ワタシは、長時間の撮影用にメイクを施しております、クレンジングしないまま、書いて居ます。

 川崎クラブチッタで90年代のいつかに行われた、忌野清志郎が主催の年越しイベント。という情報だけで、検索が上手な方、もしくは記憶力の良い方は「ああ、9×年ね。確かに山下洋輔が出たな」とお解りに成るかもしれません。ワタシは師匠の山下が当時やっていた「デュオ+」という、実質上の「90年代山下トリオ」のレギュラーで、ドラムは堀越彰という男でした。山下はそのそものデビューである60年代から、積極的にフォークやロックのコンサートに出演していたので、そして故人は、日本のフリージャズメンとの交遊が深かったので、山下トリオが故人が主催するパーティーに出る。という事は、ほとんど何の抵抗も無い事に思えました。

 しかしやはり、チッタのフロアを埋め尽くしたロックファン達を前にした、ボトム(ベース)がない、グランドピアノ、サックス、ドラムセットだけの完全アコースティックの演奏は、どれだけ扇動的な演奏を行っても、まったくの無力でした。アウェイというレヴェルではない、あれほどの無力感を感じた演奏は、ワタシの乏しい音楽歴の中でも、あれっきりです。何せ、我々の三人の最大爆音が、前のバンドの、ギターを手にした1~2年程であろう若きロッカーのギターの、軽めのカッティングより遥かに音量が小さいのです。ワタシは「ポップヴォイス」という本の中に出て来る、モンキースのリーダーが、自分たちのライブの前座に、デビューしたての無名バンドである、ジミ・ヘンドリクス&エクスペリエンスを起用した時のエピソードが好きで、今でもたまに読み返すのですが、もうそういう問題でもない。ワタシは極端な状況が当時から大好物でしたので、非常にワクワクして、大熱演しました。

 演奏は30分間でしたが、会場全体がどん引きでシーンとすることも、ヤジが飛ぶ事も、一切ありませんでした。我々の演奏は、やってるかやってないか、演奏なのかサウンドチェックなのか解らないものとして理解され、演奏中は、休憩中と全くおなじざわつきが、同じデシベル値のまままったく止まらず、演奏は空を切ると言うより、一秒ごとに、演奏している我々3人だけの独占物になって行きました。

 最後の曲は、我々のキラーチューンとも言える「おじいさんの古時計」でした。武田和命氏への追悼ナンバーとしてワタシが山下組に持ち込んで以来、山下の愛奏曲になっていました。我々は交感し、焚き付け、挑発し、謳い上げ、それを破壊し、再生し、動かなく成り、死に、蘇り、再び最初から繰り返し、名演と言って吝かでない15分以上の演奏が見事なフィニッシュを飾りました。しかし、フィニッシュと共に聴こえて来たのは、長いイベントの中の、休憩中のノイズでした。ワタシは、もうモダンジャズが、モンクのミステリオーソや、エヴァンスのいくつかのライブ盤の様な、名演に拮抗する会場のイズを記録しえなくなった今、こうした形でしか、あれは反復されないのではないか。あの当時の、ディナー中の白人達の立場に立てるのは、今夜のロックファンの若者達だけなのではないかと一瞬考えかけ、どうにもそれは違うなと思いながら、不思議な充足感の中にいました。山下は、いつもの豪快な苦笑で「まあ、こんなもんだろ。うはははははは」といった感じでした。

 その時です、上手から、故人があの声とあのテンションとあの抑揚で飛び込んできました。マイクを斜め45度に構え、会場に向けて、故人は「いえー!最高に盛りあがったぜっ!!」と絶叫しながらこちらにやってきて、我々全員と固い握手を交わしたのです。故人のシャウトは、緩み切った会場の中を、無理矢理にでも切り裂く様にして、しかし、同時に、限りない柔らかさと優しさに満ちていました。そして、握手の際には、うってかわって、故人と相手にしか聞こえない小さな声で「ありがとう」「ありがとう」と、笑っているのかかしこまっているのか、恥ずかしがっているのかわからない、不思議な情緒と共に、そう伝えて来ました。後にも先にも、ワタシが故人と触れ合ったのはその時だけであり、凄まじく鮮烈で奇妙な印象を残したまま、おそらく一生忘れないだろうと思います。

 ロックンロール(乃至、それを基礎装備したロックンロールスピリット)という物の意味や形が、ほとんど解る様で、やはりとうとう解らないワタシは、巷間言われる様に、故人がロックンローラーであったかどうか、残念ながら解りません。あくまで私個人の判断では。としますが、故人は日本人では珍しい、本物のフォークシンガーであり、ブルースメンだと思います。言葉と声が、異様なほどに突き刺さって来るからです。輪郭線の太い、シンプルで凄まじい言葉と声が、ワンセンテンスごとに、発せられるたびにこちらの胸に突き刺さり、乱反射して、こちらのハートが普通で居られなく成ってしまう。という現象は、ジャズと言わず、ロックと言わず、他のジャンルでは起り得りませんし、また、起るべきでもありません。これは、最も優れたフォークとブルースの力であるとワタシは考えます。
 
 それがいつだったか、どこでだったかは一切憶えていません。余りの事に、忘れ切ってしまったのです。ある日テレビジョンを観ている時に、画面で故人が歌い出しました。ワタシは「お、キヨシローだ。<いけないルージュマジック>歌わねえかな」などと思いながら何気なく番組を見ていました。

 ただしい記憶ではないので、ファンの方々には失礼に当るかもしれませんが、もしよろしかったら、正しい情報は、どうかワタシに教えないで下さい。ワタシは、曲のタイトルも憶えていませんし、メロディの動き方も憶えていません、正しい歌詞も憶えていません。しかし、以下の様な言葉をはっきりと憶えています。シンプルなコード進行に乗って、故人は、一行ずつ絞り出す様に、しかし軽やかに、こう歌い出しました。




 オレがどんなにわるいことをしても
 オレは知ってる
 ベイビー、おまえだけは オレの味方

 オレがどれだけウソばかりついても
 ベイビー、おまえだけは オレを解ってくれる
 オレは知ってる




 ワタシは、自分が、日本の音楽を聴いて、これほど泣くのだと言う事に、当惑する程でした。涙が流れたとか、嗚咽が止まらなかったとか言う問題ではない、ワタシは全身全霊が泣き果てて、泣いて泣いて、この曲が終わる前に、幸福で死んでしまうのではないかと思いました。

 この歌詞を、落ち着いて口にしたり、キーパンチしたりすることが、ワタシは一生出来ないでしょう。今こうして、たった100文字に満たない言葉をキーパンチするだけで、ワタシの目玉はずぶぬれになり、鼻からは滝の様な鼻水が流れています。読み返すと、更に涙があふれて来ます。こんなに人は泣けるのか。と呆れる程です。ワタシは、フォークソングの門外漢として、日本語のフォークソングは、生涯に一曲、フォーククルセイダーズの「あの素晴らしい愛をもういち度」だけあれば、そして、日本語のソウルとブルースは、この1曲があれば事足りると思っています。

 この曲がワタシを永久に泣かせてしまう力は、不謹慎を承知で申し上げるならば、故人の死、そのものよりも遥かに大きい物です。死は、遅かれ早かれ、我々全員にやってきます。故人が故人になったことで、多くの人々が泣きました。わたしはそれにつられて、場合によっては自分も泣いてしまうかも知れない。と思い、2日間もやもやし、当欄を書き始め、故人の死よりも、この曲の歌詞の方が遥かに巨大な力でワタシを泣かせる続ける事を改めて知ったのです。ご冥福をお祈り申し上げるなどといった事ではぜんぜんありません。あれだけ福の多かった方が、冥土で福に恵まれない訳が無い。安心して故人を見送り、そして彼が残した、我々のハートから抜ける事のない永遠の楔を、噛み締めようではありませんか。フォークとブルースの神が我々に授けた辛苦と歓喜を、死ぬまで背負おうではありませんか。オレがどんなに悪いことばかりをしても。オレは知ってる。ベイビー。オマエだけは、オレの味方。











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2 コメント

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Unknown (アサバスト)
2009-05-14 13:25:25
不謹慎ながら今ぼろ泣きしました。
フォークやブルースは門外漢なので、
故人は僕の中では、ずっとロッカーなんだろうと感じました。
菊池さんは素敵な文を綴りますね、ありがとうございます。
いいんですよ! (lbrtm)
2009-05-16 02:40:22
不謹慎じゃないですよ!泣いた時は、これをどうぞ。

<上を向いて歩こう>
http://www.youtube.com/watch?v=cp3T7chkDCs&feature=related

なるほど、それぞれの人の捉え方で彼の位置づけが変わるのはありですね。

というのも、このブログに師匠の速報に書いてあった
「ベイビー、、、」から始まる詩で検索してここに来る方が
多いみたいなのですが、私の推測(というか、妄想?笑)では「君が僕を知ってる」という曲が菊地さんの中でブルースに置き換わったたのではないか(そういう事に彼の中ではなったのでは)と考えていました。
私の知る曲では、そのくらいしか思い当たらないので、そうだと楽しいなと。だって、あの曲はフォークともブルースともつかない、スイートなスイートな曲なので。

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