言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

菊地成孔さんによるバッハ

2004-11-30 01:54:26 | 作曲理論講義/受講録
初めて触れたとても納得のいく
菊地さんによるバッハのポップ性への言及と解釈だった。

こういった講義を一般の中高校でやれば皆が持つ
クラシックに対するおカタい観念が変わるだろうに(笑)
この講義、生で聞きたかった…

「憂鬱と官能を教えた学校」より

バッハの平均律クラヴィーア第一巻を聴きながら

もうこれ延々と聴いていたいくらいですけどね
一気に僕らの、僕らが今音楽を聴いて感情移入したりする
感情のあり方に近接しましたよね

コードが進行して、ちょっと悲しくなったり落ち着いたり
また不安になったりそれが解決したりといったドラマ
しかも僕たちでも簡単に入り込める
今日的なドラマがここにある。
このままヒットチャートに入っててもおかしくない構造。
もう少し聴いてみようか。
すごいんだから、この曲集(笑)

明晰な物語がありますよね。緊張があって、でそれが
緩和されて、不安が解消される。
また不安を呼ぶっていうような
われわれの日常みたいな形で音楽が進行していきます。
緊張から緩和へ、といったドラマを和声によって作り出すことで
曲を次々を進行させてゆくといった考えがここでは
全面的に採用されています。

こうした状態に至までは、西欧音楽においても例えば
さっきのオルガヌムの合唱曲みたいに
その宇宙を構成している音の要素が何とも言えない
神秘的な方法によって編まれているって感じで
そこにはこういった明確な不安もなければ
その解消もありません。そういった宇宙には僕たちが
今感じているような近代的な不安だとか安心だとかを
超越した前近代的な何かがあった。とも言えるし
それしかなかったとも言えるのだけど
それがバッハになって、突如として今でも聴ける
ポップなあり方になったというわけです。

現にこれ、バークリーメソッドによって
全てアナライズが可能です。
もうちょっと聴きましょうか。

NO.3 in C-sharp major,BWV.848

すごいとしか言えない(笑)ものすごいパンチライン
音が一個ずつ動くたびに興奮するみたいな
強いポピュラリティがある
因みにこれを演奏しているのは天才グレングールド

これまたすさまじいポップさですね。映画音楽にそのまま
一曲使われてそう。まあ実際バッハの曲って数々の
そこらへんの俗流のラブロマンスからゴダールまで
たくさん映画音楽に使われています。












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ポリフォニー

2004-11-25 01:52:00 | 作曲理論講義/受講録
「各声部がそれぞれ平等の重要性をもち
各々の水平的な旋律線を重視しながら
相互に和声的関連をもって重ねられる音楽の形態。
多旋律の同時的な絡み合いを本領とする。」

気がつけばピアノ曲では
バッハの「フーガの技法」を最もよく聴いている。
初めて聴いたのは高校の頃でレンタルレコードを借り
テープに録音して聴いていた。

私はクラシックフリークでもなく
ましてやクリスチャンでもないし(笑)
幼少の頃から音楽教育を受けたりもしていない。
そして、どちらかというポップスを聴く事のほうが多い。

ピアノを始めたのはここ1、2年のことだ。
ピアノを弾くのが好きというより
多声音楽をピアノで表現するのが好きなのだと
いう事に最近気がついた。殊にバッハの曲を。

ポリフォニーを完全に近い形で表現されているのが
フーガの技法なのではないかと思う。

ここ最近、ピアノ教師の薦めもあって
初めてモーツァルトのソナタを弾き始めた。
バッハとは好対照だ。

最初は、全く弾けなかった、というか
読譜が出来なかったし指も動かなかった。
楽譜自体が難しかった訳ではないのだが
拍子を取り難かったり曲の全体像がまるで掴めなくて
解読不能(笑)だった。

それは極めて感情的なフレーズの連続だ。
感情の起伏が激しく、喩えれば「歌」であり「詩」であり
「オペラ」のようでもあった。
形容詞で表現するのなら
「悲しい」「嬉しい」「楽しい」というような
主観的かつ単純な原初的感情表現だ。

私は、それをピアノで表現するのが
苦手な事に気がついた。

むしろ、バッハの曲のように
主題は絶えず隠れたり現れたりしつつ
抽象的に表現されるものが好きだということにも。
そうだ、バッハの音楽を絵に喩えるなら
抽象画に近いと私は思う。

バッハの曲の大抵の楽譜には
強弱記号などが記されていない。

独立した各声部は美しい織物のように
絡まり、重なって一つになり、広がって行く。
声部を完璧なアーティキュレーションで表現出来れば
その音韻から意味は無限に自動生成される。

私にはバッハの曲にビートも感じられたし
時にデジタルに、そして
ずっとポップに聴こえていた。
今学んでいる「バークリーメソッド」が
バッハ回帰の思想から生まれた事を知って
見聞の無い私が大いに驚いたのは言うまでもない。








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コード

2004-11-18 02:15:12 | 作曲理論講義/受講録
今日は第三回目の菊池成孔氏の著書にもある
「憂鬱と官能を教えた学校」こと
映画美学校の楽理編曲講座だった。

受講する度に思うのは、或る目的を持った複数の人間が
このメソッドを学ぶ事によって
世代などの個人の属性に関係なく
思い描く位置へ向かおうとする意志を抱き
それによって純粋に成立する場に居る時間を
貴重に思うし、とてもラッキーなことだと思う。
それに、菊池さんの教え方には
とてもライヴ感、ワクワク感があって楽しいのだ。

そして、日に日に楽理の実学へと向かっている…
聴覚…感覚と理論という相反する概念が
自分の中で統合され、一体化し、体系化していく。

ところで、映画美学校の著作権が発生するとかで
当講義についての詳細は
公にする事は禁じられているとの話があった。
講師ご本人は、僕は全然かまわないんだけど(笑)
映画美学校的には問題があるようで、、、との
お話でした。

私自身が綴っている、この日記を振り返っても、
内容はその殆どが抽象的だったり
主観化されていたりして
それには該当しないように思える。
良いのか、悪いのか…

菊池さんは今回の講義で、これをしっかり憶えると
1年後、全然、音楽に対する概念や捉え方が
全く変わります、といった事を仰った。
日記の内容も1年後には
進歩して1年前とは全く違ったものになるでしょう、
と言ったので何となくドッキリ。

そう成った状態がイメージとして頭をよぎった。
それは、かつて自由に漂っていただけのものが
規範(コード)を持った事により
調性がとれ、和声となりポリフォニーが生まれる。
拡張する自由をイメージした。


今日はコードの学習の後、度数について。

やはり、音楽は本当に良い。
私にとって音楽は
いつでも、どんな時でも
最終的に全てに対する
肯定へと向かう。








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あたかも不幸と隣り合わせのようなハッピー&スパンク

2004-11-01 23:45:52 | 作曲理論講義/受講録
じつは私は(師と仰いでも)かつても今も
菊池成孔さんの熱狂的ファンではないという事を
ここに告白させてください。

彼を知ったのは、映画美学校の音楽美学講座について知った後で
そして1年半通っていた 日仏学院・フランス語&ヨーロッパ志向的な
繋がりもありました。
しかし事前に特別な思い入れは特にありませんでした。
であるからこそ、逆にこうして作家として、
アーティストとしての 氏の著述や活動、
テキストや曲 、(とはいえ、まだスパンク…と
デギュスタシオン… しか聴いていませんが)
その存在と表現に、感銘せざるを得ないという程の
氏の際立ったご活躍に多大な興味を抱いているのは
紛れも無い事実です。

という訳で、今は私の先生でもある菊池成孔さんの日記より、
印象的な部分を引用させて頂きました。

この、常に虚と実を行ったり来たりしているような
疾走し、猛スピードで現実を駆け抜けていくかのような
この散文的なテキストには
フィリップソレルスの文のような
ビートすらも感じられるのでした。

*****

でも、それこそ、昔からのファンの方ならば
解って下さると信ずるのですが、
僕はいつでも、僕の個人所得や、肉体的な消耗、
バンドのメンバーやスタッフの多大なる労力、
メーカーを始めとする諸カンパニーからの信用。
などをすべて犠牲にしても構わないから、
ファンやリスナーの皆さん本位で音楽や執筆や
講義・講演を行っているつもりなのよ。これでも。
 ぶっちゃけ、どうなったって構わないんだ。僕は。自分が。
みんなが踊ったり楽しんだり、うっとりしたりして、
生きることの辛苦から、一時的にでも解放されるので有れば。

僕は理由なんて解っちゃ居ない。何の理由も解っちゃ居ない。
僕は、ただただ現実を帰納し、演繹し、説明しているだけなのだ。

前に書いたけど、もう一度書く。喪失を恐れちゃいけない。
厳密に言いなおせば、喪失は素晴らしい。
絶対に獲得が待っているからだ。
僕は呆然としながら、そう思った。

何度も言うようだが、本当に、喪失を恐れてはいけない。
恐れていると、あるいは打ちのめされることに執着していると、
獲得できないか、獲得に気が付かないか、
獲得しているのに捨ててしまうからだ。

この獲得が、何の喪失による物かは解らない。
今年は喪失が多すぎて、
紙に書いて保存しておかなければならないほどだ。
今年は獲得が多すぎて、
紙に書いて保存しておかなければならないほどだ。

本当にこうして、運命とは不思議な物だ。先行き。
ということを考えるのがどんなに愚行か。
先行きを考えない愚行。と比べて決闘させたい。


*****


菊池成孔さんに多少の逸脱性を感じるのならば
(私の勝手な推測)彼は
自らの狂気に翻弄される逸脱というよりは
狂わざるを得ない程に、自らが決して狂う事のない理性や
まともさを抱えるが故の逸脱…と感じた次第でした。







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