寒かった或る朝の記憶がよみがえりました。
(今日みたいなかんじの、ちょっと陰鬱な朝でした)
でも、あの日見上げたグレーの曇り空はやわらかく、
仄かな太陽の存在を包み込んだ薄明るい空を、
いつになく綺麗だと感じていました。
<夕べの記憶>
年暮れに近いある日、
久々に会う親しい友人と食事の約束をしていました。
(ここしばらくは、逢っていません)
行こうとしていた店は、私がティーンズの頃から愛する
或るミュージシャンのサイトで知って
漠然と良い音楽が耳に残るように
イメージで記憶に留まって時々思い出す店がありました。
美味なオーガニックかつ廉価で人気が高く、
クリスマスを挟む年末までの時期は
予約でいっぱいなことを訪れた事のない私でも
ウェブサイトで知っていたくらい。
それでいて商売っ気たっぷりの
クリスマス商戦に浮かれたりしない、
平常心を持った良店であればなおさらだ。
(料理の内容をきいて廉価な価格に恐縮するほど)
でも。だからこそ、敢えて電話をした、妙な確信を以て。
(私はこういう事に勘、、というか鼻が利くのだ!)
電話に出た優しげなマダムの声が
あいにくその日はいっぱいです、
でも・・・お待ちくださいね。明日でしたら
空いてますよ、2名様だけですが、
キャンセルがちょうど出たので・・・」と控えめに言った。
やったー
友人に日程の変更を告げないうちに
予約を入れたのは言うまでもなくて
もし自分たちが行けなければ
誰かに譲ってもいいな、と思っていた。
(そういう気になるお店なんです)
店への地図はたいてい曖昧なイメージで頭に入っている。
着いて、まず視覚で店を見つけてみようと試みる。
ぐるっと360度前後左右を見回す。たいていは、
すぐに見つからないから地図を出すことになるけど、
今回はそうじゃなかった。
店から光が漏れている小さな店が目に入る。
穏やかな佇まいから、あの店だと確信するような
坂の途中の小さなレストランでした。

こんな場所に、こんなふうにあったらいいな、と、
かつての想像に近いお店だった。
想像よりもお店が古く
規模が小さかったのは、ことさらに理想的。
料理は美味の、地の魚や肉、野菜を使っていて
(たぶん)その時に沢山獲れた
新鮮なものを選んでいると思われる。
私がチョイスした調理法「せいろ蒸し」の魚は
何と巨大な鯛。ポン酢で頂いた
ぷりぷりのほかほかの白身。
丁寧に作られているけど気取ってないし
マダム(女将)とムッシュ(板前)の愛情関係も
感じられるのが余計に素敵。
二人とも綺麗なグレーの髪をしていた。
巨大な真鯛のせいろ蒸し!

<白か黒か?>
友人はとてもささやかだけど
確実な幸福で満たされている。
傍から見れば幸せに見えても実際そうなのかどうかは
他人には決してわからない。
その友人は「自由なあなたがうらやましい」と言った。
私は自分を自由だと思った事はないし
自由になりたい、と思った事もないけど
たまたまこうなっていて、それを見た人が
自由だ、と感じることもあるというだけのことなのだろう、
幸福や喜びは、他者や外部から与えてもらうもの、と
たいてい考える。でも
平熱を超えて発熱した身体のように(あたかも自家発電のように、笑)
自らが作ったスープで心身を暖めるように
自ら熱情的エネルギーを発することが
可能なのではないだろうか?
他人から何か与えられたり与えたりすることは
とても幸福な事で、それによって愛情、思いや
気持ちを確認することも可能だけど
実際は人は自家発電のように、発熱のように
(たいていの熱は自ら作り出せる、と或る
精神科医は言ったそうです)
自らのエネルギーによってチャージし、
愛も身体も冷えないように発熱することも
時には必要だし、可能なのだ、と思っていた。
(最近は、体温を一度上げると健康になる、とか
言われてるらしい、笑)
友人と私のささやかな幸福と、
友人の自由と私の自由とはぜんぜん、二項対立ではない、と
思っていたところ
その翌日の菊地氏の速報欄に、こんなことが書いてあった。
「ここをご覧に成っている総ての皆様。
クリスマスなんか来なきゃ良いのに。
という方も、クリスマスが楽しみで楽しみで。という方もいらっしゃるでしょう。
やっと愛を見つけた方も、
とうとう愛を失った方もいらっしゃるでしょう。
クリスマスに生まれた方も、
クリスマスに亡くなる方もいらっしゃるでしょう。
地獄の中にいる、と思っている方も、天国だぜ。最高だ。と思っている方も、
何も無い、空虚だ。という方も、そこそこ良いね。良い感じだよ。という方も。
僭越ながらワタクシの考えを申し述べさせて頂くのならば、それら総ては、
つまるところ、本当に。です。同じ事。なのであります。少なくともワタクシは、
総て経験しましたよ。その結果の、この結論であります。
「ちょっと良い感じ」というのは、全部の絵の具を混ぜたグレーであります。」
この言葉が私の漠然とした灰色の空の日の感慨を
明確に代弁されていたことに少し驚いた夜の備忘録と、
もうひとつの備忘はグレングールドが
《フーガの技法》の晩年の演奏についてのコメントです。
「鮮やかな色彩を避け、
代わりに薄い灰色が無限に続く。…私は灰色が好きだ」
あのときはわからなかったけれど、時を隔てて
いまは、なんとなくわかる、グレーの美しさ!
Gould plays Bach\'s Art of Fugue, Cp 1, 4, 2
Glenn Gould Moments- P.03 Gould plays the Art of the Fugue
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(今日みたいなかんじの、ちょっと陰鬱な朝でした)
でも、あの日見上げたグレーの曇り空はやわらかく、
仄かな太陽の存在を包み込んだ薄明るい空を、
いつになく綺麗だと感じていました。
<夕べの記憶>
年暮れに近いある日、
久々に会う親しい友人と食事の約束をしていました。
(ここしばらくは、逢っていません)
行こうとしていた店は、私がティーンズの頃から愛する
或るミュージシャンのサイトで知って
漠然と良い音楽が耳に残るように
イメージで記憶に留まって時々思い出す店がありました。
美味なオーガニックかつ廉価で人気が高く、
クリスマスを挟む年末までの時期は
予約でいっぱいなことを訪れた事のない私でも
ウェブサイトで知っていたくらい。
それでいて商売っ気たっぷりの
クリスマス商戦に浮かれたりしない、
平常心を持った良店であればなおさらだ。
(料理の内容をきいて廉価な価格に恐縮するほど)
でも。だからこそ、敢えて電話をした、妙な確信を以て。
(私はこういう事に勘、、というか鼻が利くのだ!)
電話に出た優しげなマダムの声が
あいにくその日はいっぱいです、
でも・・・お待ちくださいね。明日でしたら
空いてますよ、2名様だけですが、
キャンセルがちょうど出たので・・・」と控えめに言った。
やったー
友人に日程の変更を告げないうちに
予約を入れたのは言うまでもなくて
もし自分たちが行けなければ
誰かに譲ってもいいな、と思っていた。
(そういう気になるお店なんです)
店への地図はたいてい曖昧なイメージで頭に入っている。
着いて、まず視覚で店を見つけてみようと試みる。
ぐるっと360度前後左右を見回す。たいていは、
すぐに見つからないから地図を出すことになるけど、
今回はそうじゃなかった。
店から光が漏れている小さな店が目に入る。
穏やかな佇まいから、あの店だと確信するような
坂の途中の小さなレストランでした。

こんな場所に、こんなふうにあったらいいな、と、
かつての想像に近いお店だった。
想像よりもお店が古く
規模が小さかったのは、ことさらに理想的。
料理は美味の、地の魚や肉、野菜を使っていて
(たぶん)その時に沢山獲れた
新鮮なものを選んでいると思われる。
私がチョイスした調理法「せいろ蒸し」の魚は
何と巨大な鯛。ポン酢で頂いた
ぷりぷりのほかほかの白身。
丁寧に作られているけど気取ってないし
マダム(女将)とムッシュ(板前)の愛情関係も
感じられるのが余計に素敵。
二人とも綺麗なグレーの髪をしていた。
巨大な真鯛のせいろ蒸し!

<白か黒か?>
友人はとてもささやかだけど
確実な幸福で満たされている。
傍から見れば幸せに見えても実際そうなのかどうかは
他人には決してわからない。
その友人は「自由なあなたがうらやましい」と言った。
私は自分を自由だと思った事はないし
自由になりたい、と思った事もないけど
たまたまこうなっていて、それを見た人が
自由だ、と感じることもあるというだけのことなのだろう、
幸福や喜びは、他者や外部から与えてもらうもの、と
たいてい考える。でも
平熱を超えて発熱した身体のように(あたかも自家発電のように、笑)
自らが作ったスープで心身を暖めるように
自ら熱情的エネルギーを発することが
可能なのではないだろうか?
他人から何か与えられたり与えたりすることは
とても幸福な事で、それによって愛情、思いや
気持ちを確認することも可能だけど
実際は人は自家発電のように、発熱のように
(たいていの熱は自ら作り出せる、と或る
精神科医は言ったそうです)
自らのエネルギーによってチャージし、
愛も身体も冷えないように発熱することも
時には必要だし、可能なのだ、と思っていた。
(最近は、体温を一度上げると健康になる、とか
言われてるらしい、笑)
友人と私のささやかな幸福と、
友人の自由と私の自由とはぜんぜん、二項対立ではない、と
思っていたところ
その翌日の菊地氏の速報欄に、こんなことが書いてあった。
「ここをご覧に成っている総ての皆様。
クリスマスなんか来なきゃ良いのに。
という方も、クリスマスが楽しみで楽しみで。という方もいらっしゃるでしょう。
やっと愛を見つけた方も、
とうとう愛を失った方もいらっしゃるでしょう。
クリスマスに生まれた方も、
クリスマスに亡くなる方もいらっしゃるでしょう。
地獄の中にいる、と思っている方も、天国だぜ。最高だ。と思っている方も、
何も無い、空虚だ。という方も、そこそこ良いね。良い感じだよ。という方も。
僭越ながらワタクシの考えを申し述べさせて頂くのならば、それら総ては、
つまるところ、本当に。です。同じ事。なのであります。少なくともワタクシは、
総て経験しましたよ。その結果の、この結論であります。
「ちょっと良い感じ」というのは、全部の絵の具を混ぜたグレーであります。」
この言葉が私の漠然とした灰色の空の日の感慨を
明確に代弁されていたことに少し驚いた夜の備忘録と、
もうひとつの備忘はグレングールドが
《フーガの技法》の晩年の演奏についてのコメントです。
「鮮やかな色彩を避け、
代わりに薄い灰色が無限に続く。…私は灰色が好きだ」
あのときはわからなかったけれど、時を隔てて
いまは、なんとなくわかる、グレーの美しさ!
Gould plays Bach\'s Art of Fugue, Cp 1, 4, 2
Glenn Gould Moments- P.03 Gould plays the Art of the Fugue
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