銀杏の葉も、すっかり黄色くなりましたね。
ふと寝入りばなに夢現で考えていたこと。
「現実と非現実の区別って・・・?」
いや、ちゃんと言うと
「現実と想像の区別って?」ということなんだけど。
何だか、そのとき如実に思った。
現実に起きていることでも判断や感じ方は
ほとんどの事は(独自の想像が働いていて)
人それぞれ違っている。
その人の感じ方だけ別な現実があるのだと、、、
なんて事を考えつつ、「想像」について辞書をひいてみる。
「実際には経験していない事柄などを推し量ること。
また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。」
脳学者の茂木さんなんかが「クオリア」とか
声高に言って(微妙に怪しいが)認知され始めていることではあるけれど
想像だとしてもその想像の度合いによっては
その人にとってはある種のそれも、現実なのだと確かに言えると思う。
双方の区別がつかなくなってしまったら
精神のバランスを崩しますが。
私もちょっとだけだけど
作曲をする時、頭の中で流れたもの(これもある種の想像)を
音にして現実にしていくという作業をしていて
感じ始めたことで、創作活動をする人ならば
きっとみな感じていることだろう、というか
昔から虚実皮膜という言葉もあるくらいだし。
菊地さんの日記でブニュエルの映画について触れつつ
サルサ、理性と非現実性、現実性について
書かれて面白かった。相変わらず日記も
彼の音楽のように情報量が濃い…
さて。
菊地さんからもうじきスタートのペン大の案内メールが届く。うれしい。
案内とはいえ直接メールで少しだけ菊地節が炸裂していて。たのしい。
タイミング的に12月初めだと諸事情で(笑)
早々に休んでしまいそう、、、と心配していた。
しかし菊地さんの多忙によりスタートが繰り下がって
全てがクリアになった。相変わらず色々あるわけで…
映画美学校の授業が終了してからの約2ヶ月間
今までより多くピアノに向かって
曲の分析をしたりしていた。
作曲理論をやった人ならば当たり前のことだろうけど
私にとっては、これまでの学習の効用を
あらためて具体的に感じ始めている。
というのも、昔好きだった(歌謡曲から
童謡やら、ふと思いついたJポップやら)
色々な曲をメロディーだけでも弾くと
大抵のものから、面白いくらいにコードが取れる。
これまでは出来なかったこと。
それは楽譜に表されているけれど
和音になっていないクラシックの曲なんかも同様で
テンションも含めて音が取れる。
「うわ、ベートーベンったらこんな動きを!?」とか
「松田聖子の(笑)あの歌ったらこうだったんだ、スゲー!」とか
ルグランの大好きな曲の途中まで単純なトライアドコードの
ドミナントモーションが突然何の前触れもなく
ディミニッシュに移行することに「ああ…そうだったんだ」と
深く納得し、ゾクゾクしたりと(笑)大変。
菊地さんは楽曲分析をよく精神分析に喩えるけれど
ある意味では翻訳にも似ているなぁと思う。
これはクラシックの曲(他の人のしかも異国の)を弾くと
いつも感じることなんだけど、なんていうか
その人の「頭」の中に入ったようなかんじ。
ほんとうにほんとうに当たり前のことだけど
コードの概念と構造を知ると
それを知らなかった時と判断力は比較にならない。
楽譜も何もなくてもメロディーがわかれば
ちゃんと手がコードに動くのだから、、、
そしてこちらもほんとうにゆっくり少しずつだけど
私の中で鳴る音楽も現実に音に出始めていて
それは子供が作るみたいに稚拙なものだけど
ともかく出して行かなければ、、、というかんじ。
わかるのは、耳が変わり始めた、ということ。
あらゆる意味で。ジャズの音の動きのことも
これまで以上に気になりだす。
ペン大に行けるのは、嬉しい。
だって、こんな先生と音楽の学校、他にないもの!(笑)
ここは菊地さんの私塾だし。
(芸大でも非常勤で教えるそうですね)
より濃い内容になっていくことへ
気持ちが引き締まる思いもありつつ。
また1年間の音楽生活が始まる。
濃い1年間にしようっと。
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ふと寝入りばなに夢現で考えていたこと。
「現実と非現実の区別って・・・?」
いや、ちゃんと言うと
「現実と想像の区別って?」ということなんだけど。
何だか、そのとき如実に思った。
現実に起きていることでも判断や感じ方は
ほとんどの事は(独自の想像が働いていて)
人それぞれ違っている。
その人の感じ方だけ別な現実があるのだと、、、
なんて事を考えつつ、「想像」について辞書をひいてみる。
「実際には経験していない事柄などを推し量ること。
また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。」
脳学者の茂木さんなんかが「クオリア」とか
声高に言って(微妙に怪しいが)認知され始めていることではあるけれど
想像だとしてもその想像の度合いによっては
その人にとってはある種のそれも、現実なのだと確かに言えると思う。
双方の区別がつかなくなってしまったら
精神のバランスを崩しますが。
私もちょっとだけだけど
作曲をする時、頭の中で流れたもの(これもある種の想像)を
音にして現実にしていくという作業をしていて
感じ始めたことで、創作活動をする人ならば
きっとみな感じていることだろう、というか
昔から虚実皮膜という言葉もあるくらいだし。
菊地さんの日記でブニュエルの映画について触れつつ
サルサ、理性と非現実性、現実性について
書かれて面白かった。相変わらず日記も
彼の音楽のように情報量が濃い…
さて。
菊地さんからもうじきスタートのペン大の案内メールが届く。うれしい。
案内とはいえ直接メールで少しだけ菊地節が炸裂していて。たのしい。
タイミング的に12月初めだと諸事情で(笑)
早々に休んでしまいそう、、、と心配していた。
しかし菊地さんの多忙によりスタートが繰り下がって
全てがクリアになった。相変わらず色々あるわけで…
映画美学校の授業が終了してからの約2ヶ月間
今までより多くピアノに向かって
曲の分析をしたりしていた。
作曲理論をやった人ならば当たり前のことだろうけど
私にとっては、これまでの学習の効用を
あらためて具体的に感じ始めている。
というのも、昔好きだった(歌謡曲から
童謡やら、ふと思いついたJポップやら)
色々な曲をメロディーだけでも弾くと
大抵のものから、面白いくらいにコードが取れる。
これまでは出来なかったこと。
それは楽譜に表されているけれど
和音になっていないクラシックの曲なんかも同様で
テンションも含めて音が取れる。
「うわ、ベートーベンったらこんな動きを!?」とか
「松田聖子の(笑)あの歌ったらこうだったんだ、スゲー!」とか
ルグランの大好きな曲の途中まで単純なトライアドコードの
ドミナントモーションが突然何の前触れもなく
ディミニッシュに移行することに「ああ…そうだったんだ」と
深く納得し、ゾクゾクしたりと(笑)大変。
菊地さんは楽曲分析をよく精神分析に喩えるけれど
ある意味では翻訳にも似ているなぁと思う。
これはクラシックの曲(他の人のしかも異国の)を弾くと
いつも感じることなんだけど、なんていうか
その人の「頭」の中に入ったようなかんじ。
ほんとうにほんとうに当たり前のことだけど
コードの概念と構造を知ると
それを知らなかった時と判断力は比較にならない。
楽譜も何もなくてもメロディーがわかれば
ちゃんと手がコードに動くのだから、、、
そしてこちらもほんとうにゆっくり少しずつだけど
私の中で鳴る音楽も現実に音に出始めていて
それは子供が作るみたいに稚拙なものだけど
ともかく出して行かなければ、、、というかんじ。
わかるのは、耳が変わり始めた、ということ。
あらゆる意味で。ジャズの音の動きのことも
これまで以上に気になりだす。
ペン大に行けるのは、嬉しい。
だって、こんな先生と音楽の学校、他にないもの!(笑)
ここは菊地さんの私塾だし。
(芸大でも非常勤で教えるそうですね)
より濃い内容になっていくことへ
気持ちが引き締まる思いもありつつ。
また1年間の音楽生活が始まる。
濃い1年間にしようっと。
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