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言葉による音楽的な日々のスケッチ

作曲講座受講日記と、言葉による音楽的日々のスケッチを記録

紅葉、効用、想像

2006-12-06 20:28:14 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
銀杏の葉も、すっかり黄色くなりましたね。

ふと寝入りばなに夢現で考えていたこと。

「現実と非現実の区別って・・・?」
いや、ちゃんと言うと
「現実と想像の区別って?」ということなんだけど。
何だか、そのとき如実に思った。

現実に起きていることでも判断や感じ方は
ほとんどの事は(独自の想像が働いていて)
人それぞれ違っている。
その人の感じ方だけ別な現実があるのだと、、、

なんて事を考えつつ、「想像」について辞書をひいてみる。
「実際には経験していない事柄などを推し量ること。
また、現実には存在しない事柄を心の中に思い描くこと。」

脳学者の茂木さんなんかが「クオリア」とか
声高に言って(微妙に怪しいが)認知され始めていることではあるけれど
想像だとしてもその想像の度合いによっては
その人にとってはある種のそれも、現実なのだと確かに言えると思う。

双方の区別がつかなくなってしまったら
精神のバランスを崩しますが。

私もちょっとだけだけど
作曲をする時、頭の中で流れたもの(これもある種の想像)を
音にして現実にしていくという作業をしていて
感じ始めたことで、創作活動をする人ならば
きっとみな感じていることだろう、というか
昔から虚実皮膜という言葉もあるくらいだし。

菊地さんの日記でブニュエルの映画について触れつつ
サルサ、理性と非現実性、現実性について
書かれて面白かった。相変わらず日記も
彼の音楽のように情報量が濃い…


さて。
菊地さんからもうじきスタートのペン大の案内メールが届く。うれしい。
案内とはいえ直接メールで少しだけ菊地節が炸裂していて。たのしい。

タイミング的に12月初めだと諸事情で(笑)
早々に休んでしまいそう、、、と心配していた。
しかし菊地さんの多忙によりスタートが繰り下がって
全てがクリアになった。相変わらず色々あるわけで…

映画美学校の授業が終了してからの約2ヶ月間
今までより多くピアノに向かって
曲の分析をしたりしていた。

作曲理論をやった人ならば当たり前のことだろうけど
私にとっては、これまでの学習の効用を
あらためて具体的に感じ始めている。
というのも、昔好きだった(歌謡曲から
童謡やら、ふと思いついたJポップやら)
色々な曲をメロディーだけでも弾くと
大抵のものから、面白いくらいにコードが取れる。
これまでは出来なかったこと。


それは楽譜に表されているけれど
和音になっていないクラシックの曲なんかも同様で
テンションも含めて音が取れる。
「うわ、ベートーベンったらこんな動きを!?」とか
「松田聖子の(笑)あの歌ったらこうだったんだ、スゲー!」とか
ルグランの大好きな曲の途中まで単純なトライアドコードの
ドミナントモーションが突然何の前触れもなく
ディミニッシュに移行することに「ああ…そうだったんだ」と
深く納得し、ゾクゾクしたりと(笑)大変。

菊地さんは楽曲分析をよく精神分析に喩えるけれど
ある意味では翻訳にも似ているなぁと思う。
これはクラシックの曲(他の人のしかも異国の)を弾くと
いつも感じることなんだけど、なんていうか
その人の「頭」の中に入ったようなかんじ。

ほんとうにほんとうに当たり前のことだけど
コードの概念と構造を知ると
それを知らなかった時と判断力は比較にならない。
楽譜も何もなくてもメロディーがわかれば
ちゃんと手がコードに動くのだから、、、

そしてこちらもほんとうにゆっくり少しずつだけど
私の中で鳴る音楽も現実に音に出始めていて
それは子供が作るみたいに稚拙なものだけど
ともかく出して行かなければ、、、というかんじ。

わかるのは、耳が変わり始めた、ということ。
あらゆる意味で。ジャズの音の動きのことも
これまで以上に気になりだす。

ペン大に行けるのは、嬉しい。
だって、こんな先生と音楽の学校、他にないもの!(笑)
ここは菊地さんの私塾だし。
(芸大でも非常勤で教えるそうですね)
より濃い内容になっていくことへ
気持ちが引き締まる思いもありつつ。

また1年間の音楽生活が始まる。
濃い1年間にしようっと。
































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東京の音楽

2006-11-04 01:16:54 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
10月28日(土曜)

念願で、なかなか行く機会のなかったのだけど今はもう卒業した
映画美学校で同級(年も実力も随分違うけど!)だったミュージシャン
神森徹也さんが出演する中川五郎氏率いる「オルタナ歌会」ライヴへ、
場所は新宿NakedLoft。

奇しくもこの場所は私たちの共通の師である音楽家
菊地成孔氏の暮らす場所にほど近く
意識しなければライヴハウスとは気づかないような
雑多な人々が行き交う場所にあってなおかつそこは
透明なビニールシートに覆われただけの文字通りあけすけなライヴハウスで
演奏している人々の音や内部の様子を観ることの出来るスペース。

三組に一組位の確率で演奏中に人が覗き込むさまは
曲の内容と共に興味深い演出効果を醸し出していて
面白かった。(例えばしっとりしたバラードの曲にホストふうの
男子たちが5分ほど足を止めている様子など)
それも含めてライヴ、なのだった。

私は目の前で演奏する神森くんの学ぶ姿と自ら作った楽曲を演奏し
歌う姿どちらもみることが出来ることは二重にラッキー、と思う。
つい夢中になる。

歌う神森くん(隣は青山陽一さん)


中川五郎氏と出演者の皆さんで


初めて聴いた青山陽一さんの音楽もそうだけど
彼らが歌うこういう音楽が好き、と実感。
それは生理的に好きとか本質的に好きとかいう
素朴なものではない、また別なもの。
時間をかけてじっくりと好きになったもののような存在。

概念的に好きな存在なのだ、彼らのやっているような表現を。
他の人の出身はわからないけれど彼らの音楽は「東京の音楽」だと思う。
POPSという表現に隠された都会の狂気や幸福や不幸や、
その豊かさを感じる。
私たちの師である菊地成孔氏の音楽も、まさにそうで
東京でしか生まれない音楽だ。

こうしたPOPSは、誰でも楽しく慣れ親しんでいるような音楽に
あくまでも聴こえるのが魅力。
でも、全然単純じゃない。
むしろ単純でわかりやすいふりをした
難解な問いかけのような時もあって
明快な答えがあるわけではない。

中川五郎氏のことは好きな著書の翻訳で強く記憶に残っていた。
今から6年前に読んだハニフクレイシの「僕は静かに揺れ動く」という
小説で彼の翻訳はビートがあって力が抜けていて絶妙だった。
演奏もそれと同様の魅力を感じた。
中川氏はブコウスキーの翻訳が特に著名だ。
「僕は静かに揺れ動く」では、当時読んだ時の、
心境に強くシンクロしたフレーズを記録したくらい好きなのだった。
握手していただく。あんなに好きだったから
訳者氏にお会いすることが出来て嬉しい。

6年前にある想いを抱いて青山ブックセンターで
この本を手にした時のことを思い出していた。
あの時に立ち戻って今を見つめた。
そして間違いなくこの時に繋がっていたのだと感じる事が出来た。


帰りは夏木マリの店、つるとんたんに行く。
温かい饂飩がおいしい季節なはずだけど
まだそんなに寒くなかった。たらふく。

幸福なライブと、夜だった。





































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音楽になりたい

2006-10-19 21:41:47 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
さて。2年間続いた「憂鬱と官能を教えた学校」こと
映画美学校の音楽理論講義は晴れて終了となりました。
すっかり気が抜けました、、、日々も想いも、
とても早いスピードで記憶を駆け抜けていくのでした。



何ていうか張り詰めていたものがなくなったような
憑き物(?)が落ちたような、おいしいワインの酔いから
醒めたような、、、(笑)そんな気分で少々寂しい限りなのですが
先日菊地先生から直接、彼の私塾であるペンギン大学の
入学案内をメールで頂き、また少し秋の深まりと共に
ぴりりと気分が引き締まり改めて入校を希望したわけでした。
場所は、はちみつぱいやシュガーベイブが使っていた
伝説のスタジオだそうです。良い気が漂って居そうだ。楽しみ♪


さて。先週の日曜に放送された菊地氏が出ていたN響アワーを観ていたら
数秒間公共の電波に乗ってしまいました。
む~記念すべきテレビ初出演(苦笑)

菊地さん自体も普段どおりに魅力的に映っていたし
マニアックでクールな選曲、出演者の方々のやりとり、
ファッションとのコントラストなどなどと共に
大変素敵な番組となっていた。

そして音楽や出演者の魅力はともかく
私が何よりも心に残ったのは途中で引用された
チャーリーパーカーの言葉だった。
これには切なくなって胸が詰まり
不覚にも初めて聴く美しい音楽を聴いたときの
心の反応と同様に涙が出てしまったのだった。


「私を赤子として受け止め
音楽を教えてください
今の私は一つの声でしか
曲が作れないのです
私は構造が欲しいのです
オーケストラのスコアが
書けるようになりたいのです
音楽さえ教えていただければ
私はあなたの召使いになります」



私も、この日記を通して音楽を学ぶことについて
そして音楽そのものについて締めくくりとして
どう書いたらいいのか、と考えていて
すっかり筆が止まっていたこの日記だけど
(パソコンが壊れたこともあるけど…)
こう考えていた。
いっそ「音楽になりたい」と。
厳密に言えば「音楽のようになりたい」
「音楽のように、生きたい」
「音楽のように日々を過ごしたい」ということだ。
突飛で幼稚な発想だと我ながら思う。
だいいち「音楽」になどなれるわけがない。

それでもやはり音楽になりたいと思う。
子供の頃、魔法使いになりたい、と思っていた。
音楽はまさに魔法だ。(種も仕掛けもあるけど・笑)

素敵なフレーズや演奏、メロディを聴けば
ああ、こんな風になれたら、と心から思う。

チャーリーはあなたの召使になる、と言ったけど
私は、そうなれるなら音楽のほかにもう何もいりません、と
言えるくらい、音楽になりたい。
そうしたら、ほんとうに他に何もいらない。
いつでもどんなときも、音楽から全ては始まるから。

音楽の神様

どうぞ私にも音楽を教え続けてください。
























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スティーリー・ダンと秋の煙

2006-09-17 00:38:22 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
残すところ2回となってしまった音楽美学講座。
講師は菊地成孔


雨の天気が苦手でも、秋の気配を早める
この時期の冷たい雨は、むしろ心地いい。

人の精神が一般的に健康にむかうのは春の頃で
そうでなくなるのは秋だと言われているそうだけど
秋生まれのせいか、この頃の気候になると
いつも妙に調子が良くなって心身が落ち着く。

身も心も騒いでカーニバルのような心持ちになるのが
春や夏だとしたら、秋は恵みの祭典。

お風呂上がりに窓を開けると
風の入る方角が北に変わっていて
静かな秋の音と、風から透明で清浄な香りがする。
朝の光も深く部屋に差すようになった。
夏が残していた季節の火照りが
澄んだ空気でひんやり鎮まっていく。
涼しくて少し寂しい気分にもなるのに
どうしてこんなに落ち着くのだろうと考える。

「あなたの演奏から秋の感じを受けますね。
澄みきったように限りない光があって」
「よかった、それじゃ僕の人生は無駄じゃなかった(*)」というのは
グールドと記者との会話だ。私が好きな音楽も秋に似ている。
                         (*)「グレングールドとの対話」より
秋の変化の全てが深さを帯びている。
秋のない国には住めないな~と、いつも思う。

9月13日 初秋を感じる日 映画美学校
「音楽美学講座」の講義録を。


7時少し前に到着。
教室の外のロビーの様子が妙に賑やか。
教室に入ったら既に菊地さんが着席している。
いでたちがすごーく素敵。そこだけ秋みたいにシック。

世間から見た理想の菊地さん、、、の像を見ているように
ピンストライプの細身の黒のスーツの下に
エクリュの(たぶんシルク)華奢なシャツを着た菊地さんが
キーボードの前に座ってフツーに教鞭をとっている(笑)
エナメル加工された黒の型押しの靴の何と素敵なこと、、、

撮影時の服のまま学校にいらしたそう。
今まで見た服装の中で、今日のが最も似合ってる、と思う。
体型にもぴったりで、完璧に着こなしている。
どこのブランドだろう?

いつも開いている印象のシャツの襟が何故か
今日は第1ボタンまで全部とまっていたのも素敵。

学校が、いつもと様子が違っていたのは
撮影のテレビカメラが入っていたからだった。


<スティーリー・ダン>


菊地先生「え~何故か撮影が入る機会が多い
このクラスですが」

(笑)

「今日もカメラが入ってます。その後は
JWaveの取材も入ります。まあいつものごとく
10分もすれば慣れるだろうから、気にしないように」
とのお達し。いつもと殆ど変わらない様子で講義が
淡々と進められて行く。

分析曲は前回に引き続きスティーリー・ダン
「Deacon Blues」

内容は、いよいよ架橋、といったもの。
ポップスにおける黄金のコード進行を変形させ
拡大解釈した、という見解で分析されていく。

何度か出てくる概念、オルタード、そして
(とても魅惑を感じる)
メロディックマイナーのスケール(※)について
触れられる。(※マイナーとメジャーが混在したスケール)

バークリーメソッドで必ず分析対象とされる
スティーリー・ダン。たぶん、彼らはかつて
さんざん2-5-(1)の動きの曲を作っただろう、でも、
段々とそれを変形させて拡大する方向に向かった、と菊地さん。
(ご自身でも触れられていたので菊地さんの日記
参照して頂くともっとわかるかと。)

先日行われた初等科の卒業制作の講評会で岸野さんや高山さんに
絶賛されていた、私と同じ勤労生徒のK原くんと
今後の進路について(笑)おしゃべりする。ペン大に進学(?)するのかと
思いきや、彼はこの1年間のことが未消化だから、学校には行かず復習する、
とのこと。ああ、耳が痛い。私から見ればこんなに理解している彼が
進学しないだなんて。それを言うなら私など未消化どころか
噛み砕いてすらいない・・・。ペン大の授業に付いていけるだろうか。
少し不安。

<秋の煙>


涼しかったせいか、滅多に吸いたいと思わない煙が吸いたくなる。
休憩時間にロビーへ。

私はニコチン依存度が低い体質らしく、
お酒を飲むと時々吸いたくなる場合を除いては
(こういうのってソーシャルスモーカーと言うらしい)
仕事のときも自宅でも煙草を吸いたいとは全く思わない。
何故か癖にならないようなのだ。

たまたま前に買ったのがバッグに入っていたので嗜む。
スモーカーのS君と会話。S君のところに菊地先生が
もらい煙草にいらっしゃる。(やめられたのでは…?)
「LARK吸ってるの!?お、美味い!」テレビカメラに
NHKとあったので「取材はN饗アワーですか?」と訊くと
やはりそうだった。10秒くらいの部分で使われるそうだけど
1時間くらい撮っていた。カメラマンって大変・・・
照明の人はもっと大変そうだったけど。

それにしても菊地さんが選ぶクラシック。どんなだろう。
前にメロドロジー講義のときにイギリスのウィリアムバードの曲に
触れられたとき、私も大好きだったのでワクワクした。
クラシックも学習している私としてはすごく楽しみ。
菊地さんはどんな曲を、アーティストを選ぶのだろう。
10月15日(日曜)に放映される。

ペン大の応募メールしました、受け取りました、
来月に追って連絡します、などと二言三言菊地先生と会話。
ダメだ。近すぎると感電しそう(笑)

いつも私が訊きたくなるのは講義の質問というよりは
その指輪、時計、ブレスレット、スーツ、シャツ、
どこのですか?シュウマイのレシピが知りたいんです、とか、、、
関係ないことばっかり。いや、ひとつあった。
なぜ私塾の名前が「ペンギン大学」なのか?という事が
知りたかったのだ(笑)今度訊いてみたい。

秋の煙は、おいしかった。
晴れてペン大に編入(?)出来るといいなー



そして、ほんとうにほんとうに、もうすぐ終わり。
あと残すところ1回の講義で2年間続いた
わたしの「憂鬱と官能を教えた学校」ともお別れなのです。
















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都市における真実のコミュニケーション

2006-08-28 01:39:17 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
「都市というのは、上辺だけの約束事と、何の保証も無い情報だけに
がんじがらめに成っている空間である。
いつどこで何をするか、誰と会うか。都市民にとっては、
既に決まっている事であり、こんな人生は無いのも同じ空虚である。
今や都市民にとって真実のコミュニュケーションとは
間違い電話だけなのだ。だから自分は電話番号を聞かれた時に、
積極的に間違った電話番号を教えるのである」
、、、というのは故・寺山修司氏の言葉で
それを日記で引用されたのは菊池成孔氏です。
この引用に、そしてこの言葉にぐっときたので書き留めることにしましょう。


先日書いた講義録日記で触れたけれど
精神分析的に「言い間違い」とか「記憶違い」なんかは
すべてその人の属性と言える、、、とした言及が
この出来事に表れているのだけど

この場合は明らかにわざと具体的に店の名前と
おいてあるメニューを言い間違えて、ファンの人々と
真のコミュニケーションを試みた(?)菊池さんの
過去の日記についてと、それに対するファンの皆さんの
楽しい突っ込みがあって菊池さんという人は
月に数回、ご本人を目の当たりにしている私にとっても
改めてチャーミングな人だな~と、思う。

今日は、そんな菊池さんによる特別講義de
お題は「ポリリズム」

専門的な内容に触れる前に感じたあれこれ。

今回の講義は通常の特別講義の枠外でもうけられたもので
現在初等科に通う数名の有志の生徒さんたちが原動力となって
講義に至ったものだ。旋律に対する講義の要望はあっても
律動(リズム)に対するものは(特に日本では)要望がない…と
菊池さんは言っていて、でもこの講義を聴いて(去年に続いて2度目)
彼が何故ポリリズムと、そして「ダンス」にこだわっているのか
ず~っと気になっていたのだけど
そのことに納得し、今回、よくわかったのだった。

それは(たぶん)こんな思想が背景にあったのだったと思う。
(私の主観も存分に入ってはいますが、とりあえず書きます)
その前に「ポリリズム」の概念について
ちょっとだけ触れませふ。

「ポリリズム」とは
アフリカの音楽に顕著だそうで、
複数のリズムが重層的に重なり合い
2つ以上のリズムが対立して絡みあうリズム。

ポリフォニー(多旋律←私はこの概念と音楽を
とても愛しているのだけど)と同様
それぞれに自立した異なるリズムが
同時に鳴っているリズム、、、というかんじ。
たとえば(これは説明してもリズム感覚などの
身体感覚を必要とすることなので言葉では難しいことを前提に)
「4」拍子のリズムを3~9迄のリズムで
等分したり等積する…という概念。

といってピンとくる人とこない人がいるのは当然だけど
ここからが面白いところ。

ちなみに私は何度か日記に書いているけれど
ドラムもやっていたことがあって(うまくはない)
乳児の頃に「ポンポポポン」のっ、「ポンポンッ!」と
お箸で茶碗を叩いた当時家業の寿司屋の板前だった
(元自衛隊のトランぺッター)Mさんという人
(現在は伊丹で中華料理を営んでいる)の膝の上で
1歳に満たない私はそのとおりに箸で叩いた、という
伝説が残っていて(笑)両親に何度か聴かされた。
そういえば私にはなぜかいつも4拍子を
3拍子に置き換えてカウントする癖があった。

その癖については以前「リズム」という日記を書いたのだけど
時々面倒なくらいにつきまとい
時にはバスや車に乗っていて電信柱から次の電信柱まで
4拍子をカウントしたりそれを3で分割したり、という
幾分偏執的な作業は自然なことになっていて

とりあえずリズム(ビート)とダンスとハーモニーが大好きで
それが何故なのか理由はよくわからず
今日まで生きていたわけですが、、、(笑)

私がポリフォニーの概念と音楽にひかれるのと
ポリリズムのそれが同じかどうかはわからないけれど

菊池さんは「ポリリズム」を
ある種の「社会参加」的な概念にたとえていて興味深い。

鳴っているリズムだけを聴いて
そのリズムだけに従って、受動的なダンスをするよりも
鳴っていないリズムを自分で感じて
それを自らが発することは、心身に
とても健全な行為なのだ、、、と、説いていらっしゃる。

私の場合は頭の中でそこにないリズムを鳴らす癖は
常にあって、ダンスすることもそれと同様で、
確かに魅力的なビートを感じながら
自分から発するビートを体に刻んで踊れば
自然にポジティブになれる、しかも心身ともに。


いっぽう、私にとって多声音楽(多旋律)である
「ポリフォニー」の概念は
どこかその音楽性に「理想的な社会」という要素を感じていて

それは「それぞれが全く違って独立した美を持っていて
互いは時に絡み合って近づき、時には離れてバラバラになり
それでも双方の違いは多旋律の
美しい音楽となって調和に向かう」、、、などという
楽園的な(笑)社会のイメージと
重ね合わせているんだけど、、、


ドラマーである外山明氏の講義を2回受講したのと
菊池さんのポリリズム講義を去年受けた経験が早速
リズムを理解するうえで有意になっていると感じる。
これは体で感じたうえで理論化するがよい。

そして月曜日は28日は2度目のポリリズム講義。
理解を深めるために出たいと思っていたのだけど
明日は東京を二日ほど離れてしまうので
出席出来ないのが何より残念、、、

生徒のニーズに応えるべく菊池さんは
普段と違うハイテンションだった。

しかも、今日の菊池さんのヅラは、ばっちりキマっていた。
フサフサと風になびく少年のようで
かなりイケてる。

ポリリズムの講義メソッドへの理解と共に
今宵の朗報は菊池さんの私塾である
「ペンギン大学」のこと。

ご本人から説明があって発覚したことなのだけど
なんとなんと、我々美学校生徒は
ペンギン式のエスカレーターで自動入学が可能な今期からは
「POPS部門」をもうけるそうな!!!ワ~イ!うれしいな♪

(もう何度も日記に書いているけれど)
コアなジャズに未だとっつき難さを感じる
ドミナントモーションから離れられない私のような嗜好性を
もった人間には本当に、これは朗報。

私には、どちらの概念も必要なのだ。たぶん。

















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この上なく素敵な乗り物

2006-08-23 01:13:31 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
今日のこと

以前の通勤は銀座を拠点にしていたのだけど
最近は新橋経由になったから
本を買ったりお茶をしたり

定時に仕事を終えられたら
風を感じる乾いた夜に夕涼みをしに行ったり
軽~く夕食を食べたりと
汐留で用を足すことが多くなった






由緒ある老舗オヤジ街、新橋駅から
地下道を通して直結しているシオサイトでは
ガラス張りの近未来的な風景を
道行く人々は目にすることになるのだけど



工業都市で港町っ子の私にとって
心象的な原風景として刷り込まれているせいなのか
その風景を、潮の香を含んだ風と共に恋しくなる
盛夏のこの時期



山手線沿線で言うなら、浜松町から大崎辺りまでか
新木場辺りから台場にかけてもしくは

対岸の天王洲辺りの東京の湾岸地域には
記憶にある川風や海風と共に
初めて見る超人工的な風景にすら
奇妙な親しみを感じる。







こうして延々と歩いていられるのだけど
「歩く」ことが好き、というより
単純に「移動して動いている」という状態が好き、
ということに気がついた。


たとえば車とか電車、飛行機などの「乗り物」で
移動しながら音楽を聴くことが私はとても好きで
乗り物と音楽は相性がいい。


それはきっと音楽の概念とエネルギーが
快適に未知の旅先へ運んでくれる
乗り物のようだから、だと思う。



好きな音楽を聴くと
憂鬱な気分も瞬時に晴れるように

規則的に刻まれて否応なく進んでいく
現実のクロノス的な時間はなくなって

音楽という乗り物で向かう旅は
自由自在に次元を行き来して
心は時空を超えられる

























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転調の美

2006-08-18 21:17:26 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
8月16日

今日の音楽美学講座はウェインショーター作曲の「プラザリアル」、
最もドラマティックな最終楽章の分析。ここに至るまでじつに3ヶ月。
長くて途中やや間延び感を感じた事もあったけれど
複雑で壮大な曲だし、講師である菊地さんご自身の
ラテンコンセプトのバンド(ペペトルメントアスカラール)の
10月に発売されるアルバムで取り上げるというだけあって、
教える側の曲に対する情熱を感じられ、
講義に引き込まれたのだった。

今回、最も起伏に富んだこの魅力的な部分の分析に用いられた音源は
スタジオでミックスダウンほやほやの菊地さん自身のSAX演奏による
ラテンアプローチの「プラザリアル」で、幸運なことに
私たち生徒はいち早く発売前にこの曲を聴くことが出来た。

じつはオリジナル版であるウェザーリポートの「プラザリアル」には
楽曲の絶対的な美を感じながらも、少々とっつきにくい「怖さ」のようなものも
同時に感じていた。幾分子供っぽくも緻密な何か・・・狂気すらもあって
そういった全ては曲が持つ強い構造性に支えられ
独特な音楽美を成立させている。
これはフーガの技法とか音楽の捧げものなんかに感じる
バッハっぽさプラスモーツァルト的な(笑)破格的奔放さもある。


曲の美しさを感じながらなぜとっつきにくさを感じたのかは
菊池さんたちが演奏するペペトルメント…版を聴いて判明した。
たぶん、これは「POP」ということに関わっている。
ペペ・・・の演奏とアレンジも同様に美しいのだけれど
ラテン(ルンバ?)のリズムもあってか親しみと陽気さがあって
ダンスしたくなるような音楽になっている。そうだ、ウェザーリポートの
プラザリアルでは(5拍子とか7拍子も出てくる変拍子だし)
音楽に引き込まれてもダンスのことは思い出さなかった。



さて、今回の分析は、いつも以上に「精神分析」的なアナロジーに満ちた
魅力的な意味解釈で、たとえば「言い間違い」や「記憶の取り違え」などは、
それも含めて「本人の属性」なのだ、という言及は興味深かった。

繰り返し起こるような「間違い」の原因には
無意識的に刷り込まれた何らかの強い記憶が作用していて、
菊地さんは自分が学生時代に毎回聴き間違いをする
テンションコードについて触れて
たとえば初めて聴いて強烈に記憶に残ったある曲のフレーズの隠れた影響だとか
「4軒あるラーメン屋のうち、自然に足が向く或る1軒のラーメン屋」が
決定していく事の嗜好性についても(笑)触れられ
それと同様にその人が奏でたいと思い、なおかつそこに向かおうとする
「転調」感というのはあって、それは音楽家によって違うのだ、とする説は
興味深く面白かった。当然、私にもそれはある。

たまたま先日完成した去年の卒業制作曲への講評
(日記:「Lighten」への講評はこちら)を頂いたことと、
今年の講義の修了に向けた卒業制作となる次回作となる
曲の構想を練っていてそれは以前観た松浦寿夫氏の
展覧会の作品について初めて抱いたイメージと
あるアーティストへのオマージュ作品である
コンピレーションアルバムの或る曲を聴いて
2つのイメージが繋がり、輪郭を持ち始めたもので
(たとえば「抽象化された具象美」であるとか)
言葉を使わずに直接感情を動かすことに出来る音楽には、
こうした表現が可能で

とりわけ同じ言葉の中に表現の仕方によっては
別な意味が立ち上がるという概念が
私は好きなのだけど(理由はわからない…)
このことは転調の概念と、よく似ていると思う。

プラザリアルの最終楽章では
10回繰り返されるシンプルな主旋律に対して
コードが徐々に変わって行き、またもとに戻る、というかんじで
コードが変わるたびに主旋律の聴こえ方も変わり、意味合いも変わる。
そういう意味では、まさに私が好きな概念上の出来事が
この音楽の中では起きていたのだった。



























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楽曲「Lighten」への講評

2006-08-15 22:09:04 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
初めて作編曲した楽曲にプロフェッショナルである講師陣に講評を頂く。
講師陣は音楽美学講座コーディネーターの岸野雄一氏、
録音技術科の主任講師である高山博氏。都合で来られなかった
録音技術科講師の横川理彦氏はCDにて全員分の講評を
録音してくださっていてデジタル媒体にて参加。

制作に参加した希望者のみ、ということで
参加人数の半分ほどだろうか。この日は雷で
山手線がストップした。時間10分送れで着いたところに
曲の順番で講評が始まるため私の曲からスタート。
初めて大勢の前で聴くという心の準備をする暇なく
曲がスタート、暑さの汗が冷汗に変わる…と思いきや
いざ曲がかかればそれは(クオリティはどうあれ)
曲は作品として独立していて当然のことながら
私の感情とは何の関係もなくそれは流れて講評される。
同様に、講評の良し悪しとも関係なく
意外な感情だったけれど、そのことは爽快だった。

曲が終わる。まずは岸野さんから講評を頂く。
開口一番に「この曲、僕は好きなんだけど」と
おっしゃってくださる、今だから書けるけれど
この曲を提出した去年の10月の講義のあと、
岸野さんがつかつかと私のほうに歩いてきて
「曲、聴いた。良かったよ。
バカラックやルグランのテイストもあったし」と言って下さった。
(どれくらいのテイストかは、突っ込まないとして・笑)
仕事の後に卒業制作にくる勤労生徒への労いの心遣いも
感じながらも、この言葉がどんなに私に勇気をくれた事だろう。
明かりが無くて見えなかった道を照らされたようだった。



曲名は

「Lighten」

意味は文字通り「軽さ」の意味合いと共に
照らす、明るくする(なる)、光る、晴れる、
(顔を)晴れ晴れとさせる、(色を)淡く(明るく)する、
などの意味がある。当時も今も重いことだらけの私の日々は
軽さや明るさ、そして音楽の存在こそが必要だった。
(どんな生活をしていようとその人にとっての人生が
重いか軽いかなんて事は他人には説明不可能なことだけど)

そういえば私は晴れ女だ。晴れとか光に縁がある。

とはいえ、この日は強烈な雷が鳴っていて
山手線がストップしたわけだけれど
実はLightenという言葉にはもう一つ意味があって
It lightensとすれば「稲光がする」という意味にもなるのだった。

とはいえ、(←二度目)
曲を作る時点ではテーマはなく
理論的というより感覚的に作った。

そんなこんなの偶然も織り交ぜつつ、
講評については他の生徒さんたちの作品のものを含め
箇条書きにします。
参加しなければわからなかったことが山ほどあって
こんな積み重ねは確かに必要なのだ。


・初めから作りこもうとせずこういう曲を10曲作るように

・低音部をもっと削ったほうがいい
 (バスドラとベースがかぶっている)

・音色の傾向がかぶっている

・主旋律と伴奏の音色の使い方が効果的でない部分がある
(今回の伴奏の音色に対して現在使われている
ピチカートの音色は主旋律としてあまり効果的ではないという事)


・1小節ごとにメロディーが完結してしまっている。
 コードのほうにメロディーがひきずられているため
 もっと全体を通した構成感をもって作るべし

・中盤の3拍のブレイクなどは良いので
 思い切りやってもよい

・踊りたくなるようなリズムを作る

・表現者として「おれはこうだ」と言い切る
 強くものを言う必要性

・モノリバーブをもって使ったほうがいい

・ボサノバ(ジョビンなど)「近い音」を使っている

・こんなふうに「出来ちゃいました」というよりも
 「全てわざとやりました」のほうがかっこいい

・(私が使った)ドラムセットはセット感が強すぎ

・オーケストレーションについて:今なっていない音が
 どうなっているかも考える

・ユニゾンの効果を見直す

・実際の弦の音はリリース音は入っていない

・オープンでフレンドリーな旋律=ポップセンス

・(その逆になりがちだけど)要素が少なくて
 バリエーションが多いものがよい

・Bメロへの期待感を持たせる

・全部がいいのはダメ=等価すぎるのは良くない
(舞台に全員出てきて全員が大声で
同じことを言っているような芝居は伝わりにくい)

・みぶりが大きい、小さいのコントラストを考える

 ---以上---

私が曲を気に入って
小さなiPodに入れた参加アーティストたちの曲は

kanikaniさん
笠原さん
ミニラさん
須藤大地さん
服部峻さん
中村さん
長尾悠市さん(この方ジャケットの絵も描かれてるようです)

うち2名の方々は
既にプロとしてライブ活動もしていることもあってか
講評には不参加だったけれど
彼らの曲への講師陣の講評、聴いてみたかった。
それと、音楽理論の主任講師である
菊池さんが多忙のため不参加で
講評を聴けなかったのはとても残念…。

評価が高かったのはミニラさんと笠原くんの曲。
お二人は作曲センスだけではなく
音響的な録音技術も完璧。とりわけ
ミニラさんの曲は既に別の次元にいる、という評価。
確かに、そのことは一目(聴?)瞭然。

CDは一部の店舗で販売されているそうですし
私の手元にも数枚あります。興味のある方は
ご一報ください。差し上げます。先着8名様まで。















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下町通り 抜かれた剣

2006-07-26 01:49:08 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
、、、という歌詞で始まる アルバムCURE JAZZのなかの
ジョビンの曲、ルイーザ。


この曲はこのアルバムの企画とプロデュースをした
楽理の講師でもある音楽家、菊地成孔氏自身によって
(確か今年の3月くらいに)映画美学校の
楽曲分析でも取り上げられた。
初めて聴いたのに一度聴いたら忘れられない曲だった。

発売前に視聴したときLuizaはUAとのデュエットになっていたので、
菊地さんのソロボーカルで始まるとは思わなかった。
Degustation a jazzで初めて彼のヴォーカルを聴いた時と同じく
とても艶のある、中性的な声をしていた。
(初めて聴いた時女性のジャズボーカリストだと思った)

映画美学校の授業でオリジナルのLuizaを初めて聴いた時、
ジョビンのヴォーカルは囁き諦め、哭いているような
静かな悲痛と生命力の美しさに溢れた複雑な曲で、
ポルトガル語がわからなかったけれど、ただ
ロマンティックな恋の歌ではないような気がした。

これまでのアルバムでは大抵の対訳は
大和田俊之氏がやっているけれど(今回も殆どされています)
今回は幾つか菊地さん自らが対訳をしていたり
詩や曲もオリジナルのものも多く
これまで聴いたジャズの作品とは
ひと味違うものになっているようにも感じられた。
時には影のようにUAのヴォーカルを引き立てたり、
緻密で骨太のSAXの演奏表現が魅力的。

ソロアルバムとはまた違って
UAという存在と魅力と表現力によって触発され
菊地さんの表現も増幅し拡張して改めて可能になるようなことも
あるのだろうな、と感じた。コラボレーションの妙。

本場の黒人ジャズ歌手の表現力とは異質でも、
日本人に在るブルーと黒っぽいリズム感や
ビートを聴き手に感じさせる事においては
きっと今居る人気のある歌い手ではUAの表現が最も
優れているのだろうと思う。
菊池さんはインタビューの中で彼女の歌唱の魅力について
「歌に殉じている」という表現をしていたのは印象的。

実際、このアルバムも市場で(ジャズを聴かない人々の間でも)
話題になっているようだ。こんなにコアな
アプローチの曲ばかり入ってるのに…。


ご本人も書かれていたけれど
自分のソロのような気もしてくる、というだけあって
仕掛けや企画は菊地さんなのだろうけれど
そういうことを越えて菊地成孔とUAという
二人のアーティストの魅力は時に寄り添い
決して溶け合う事も無く平行線を辿りながら
互いを求め追いかけ合う
美しく独立したフーガのフレーズの様な表現のごとく
展開されていてセクシーな様相を醸し出している。

アルバムの中で菊地さんによって
UAの母性的な魅力にも触れられていたのも印象的だった。

「ルイーザ」という娘さんに捧げた曲とも言われている
強い愛と悲哀、美しさを称えた曲の
詞の内容を知りたいと思っていたのだけど
(かつて日本語に対訳された事があったのだろうか?)
それを知りたい気持ちがアルバムを買った原動力にも
なったくらい、菊地さんがこのアントニオカルロスジョビンの
隠れた名曲に光を当てた心意気も、私は買いました!

「Luiza」

詞/曲 アントニオ・カルロスジョビン
対訳:国安真奈 

UA&菊地成孔 「CURE JAZZ」より

下町通り 抜かれた剣
夜空に浮かぶ黄色い大きなブイ
月のなんと丸いこと
月のなんと揺れて見えること
青空の青が
ゆっくりと広がる
ゆっくりとした沈黙の中
星を山ほど抱えた吟遊詩人がゆく

さあ 僕の歌を聴いてくれ
ルイーザを忘れるための歌を
僕は ただの情けない素人
君の恋する 愛の教え子

ねえ君 起きてよ
この雪の下にこそ 心があるんだ
ルイーザおいでよ
手をつなごう
君の望みは僕の望みだ
僕に魔除けのおまじないをしておくれ
キスをおくれ
燃えるバラの花をおくれ
キスをおくれ
陽の光をおくれ

君の髪に映る
ダイアモンドのような光が七色に輝ける時
僕がルイーザのためにだけとっておいた
幾千もの愛が輝く















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ペンギン式エスカレーター/異邦人の玉蹴り

2006-06-23 01:17:53 | 映画美学校音楽美学講座:高等科
大好きなブラジル音楽を聴きながらサッカーの中継を無音で流して
(非国民と呼ばれぬよう一応、観るけれど
どちらかというと、たまたま日本に居て
日本のことは大好きな無国籍な人間というかんじで
<やっぱり非国民なんだろうか、私
サッカーファンの日本国民の皆様ごめんなさい>
でもどこか、異国で故郷を思うようには
心の片隅で応援しているけれど)
殊にあのサポーターのおかしな行動には
(中にはそうでない人も居るとは思うけど)
何だか不自然だし、ヒステリックな感情を感じて
そういった行動と愛国心のようなものとは
私の中では、どうしても同じにはならないのだった、、、

昨日は、夜風に誘われて残業で疲れているにもかかわらず
溜池山王から乃木坂を行き、迂回して
青山一丁目で用を足して、そのまま夜風と風景を堪能しつつ
表参道ヒルズに着いて、一休みするために入ったら
既にショップは殆ど閉まっていて飲食店だけが開いていた。
初めて訪れたのは友人の中村ケンゴさんのグループ展の
梅雨の晴れ間のように熱気のあるオープニングに
冷たく冷えたマコンヴィラージュを差し入れするため
思い浮かんだのがここの地下にある
ワインショップだったのだった。

同じヒルズでも六本木ヒルズが出来た時の
あの妙な、いやな感じはここにはなくて
(混まない平日にばかり足を運んでいるせいもあって)
一見さん向きの店が多くて魅力的な商品が少ないことや
バブリー度は似たようなものだけど
落ち着かないかんじがないのは、クールで暖かくて
ハッピーな質感をもつジュリアンオピーの
アートワークのせいじゃないだろうか?(笑)
などと考えていた。そのくらいそこに描かれた
作品は良い「気」を醸し出していた。

気がつけば溜池山王から原宿駅まで歩いていた。
しかも素足に直径1センチに満たないつま先だけが少し出る
ピンヒールの靴を履いて。これもシンデレラのごとく(笑)
靴下を履いているみたいに足にぴったり合って
羽根が生えそうなくらい軽いprecieux jouetの靴だからかも。

かかとの減衰を地元の駅前のおじさんに直してもらっていた。
陽気な鍛冶屋さんのごとく
このおじさまの仕事はMr.ミニットの倍、
そして金額はその半分というかんじで
靴に対する愛情が溢れているのだった、それは
ジミーチュウとかセルジオ・ロッシなんかの靴が
山積みされていることからも用意に判断出来たのでした。

羽がはえた靴のおかげはあったとしても
距離にしてどのくらい歩いただろう?
たいした距離じゃないのかもしれないけど疲れた、程よく。
自分のどこにそんなエネルギーがあるんだろうと
思いながら精神が疲れているときは
身体とのバランスを保つため同じくらい
身体を疲れさせようという心理が働いている気がしてならないのだった。

21日 水曜日

菊地さんの講義だった。
前回に引き続きプ○○○○ル(一般公開されていないので
いちおう伏せ字・笑)
これはペペトルメント…の新しいアルバムで
演奏するそうなのだ。美しい曲。

講義が始まる前に飲み物を買いに行こうと
外に出たらタクシーから菊地さんが降りて来るところだった。
雑誌SWITCHの記者とカメラマンが一緒だったので
すぐに先生とは気づかず、日没となった京橋の通りで
帽子をかぶった人のシルエットが小さくあくびをしていた。

直後にそれが菊地さんだと気がついて妙に新鮮だった。
菊地さんとあくびって、何故か結びつかなかった(笑)
ハイテンションで不眠不休な人、という
イメージが一般的なようだったけれどそんなはずも
あくびをしないわけもなく、我らが菊地先生の
無防備な姿は可愛らしく魅力的だった…。

それで、ふとテンションが低くて無口な菊地さんや
ついでに寝起きの菊地さんはどんななのだろうと
イマジネーションが膨らむ(笑)

つい先日の菊地さんの日記で来年8月までは
彼の私塾である「ペンギン大学」こと
ペン大の生徒募集はしないけれど
美学校の美学講座の生徒はペンギンエスカレーター式に(笑)
編入可能だということを読んで小躍りした!
心身が(特に心が)疲れてしまっていたうえ
卒業まであと3ヶ月足らず、高等科を
卒業したあとのことを考えると少し憂鬱になるのだった。
とはいえ、憂鬱はいつでも官能に映し出される影のように
共にあるわけだけど(笑)「憂鬱と官能」を教えてくれた(!)
学校とさよならをするとどんな気分だろう、と思うと
ドキドキしていた矢先だったので
ペンギン式エスカレーターなお話は朗報だった。
行けるといいな。ペンギンが大好き。

オスがマイナス40°の酷寒のなか空腹で、
寒さに晒される外側に立つ順番を互いに交代して
卵を守る本能的な行動を思うといつも
彼らの存在の全てが愛おしくてたまらなくなるのだ。



私の夢のひとつは一番大きな種の皇帝ペンギンを、
あのふわふわで弾力性のありそうな羽毛にくるまった身体を
むぎゅぅ~~~~~~っと抱きしめること。ま、実際
そんなことしたら猛烈につつかれるに決まってるけど(笑)

新宿のペン大にはどんなペンギンの皆さんが居るのか
楽しみだし、是非編入したいと思う。学費を調べなきゃ…!

カシャカシャと菊地さんを写すカメラの音が聴こえつつ
講義で、プ○○○○ル…の分析が進む。
曲の中間部の分析を通して以前書いた
「ハイブリッドコード」についてさらに詳しく
触れられた。調性が薄い、このコードだけ聴いても
(ベースを併せて音が4つしかないので)
帰属する(決定的な)調性がない、ということ。
そのぶん(前回書いたけど)このコードの調整は
メロディーに牽引される傾向が強い。

じつは前回の講義のあとにピアノで
耳で好きなハイブリッドコードを繋げて
それにメロディーを付けるということを
自宅でやっていた。
これが、まったく簡単じゃない(苦笑)

コードのほうは感覚的に繋げることが出来るけど
メロディーは、ポップな感覚で作る
通常のドミナントモーション的感覚では
付与することができないのだ。

ここに行きたい、と思う場所はこのコードの前だと
ことごとく外さざると得ない、という状態になる。
(私だけ!?笑)

でも考えてみると面白い。
この作曲概念は通常の固定観念のようなものから
離れざるを得ないのだ。

感覚的な好みの傾向性はあっても
(でもそれをうまく表現するのも難しいだろうけど)
理論を用いて確信犯的に作ることも、
感覚だけで作るのも、いずれも一筋縄じゃいかない。

そんな作業をしながら、まだドミナントモーションに心が傾く
私が居た。そんな事を考えながら無音のテレビのチャンネルをひねると
(今はひねりませんね・笑)大好きなジュリーアンドリュース主演の
「ビクタービクトリア」(ヘンリーマンシーニが音楽を監修)が
やっていて、何だ、これって(今更の感想?)
ジェンダーについてしっかり描かれているんだな、とか
女は男に、男は女になるのは難しくて不自然だし
でもその双方の概念を取り持つのはゲイなんじゃないか、とか
タンゴ曲が印象的だった、アカデミー俳優フィリップ・シーモア・ホフマンが
ドラッグクイーンに扮するフローレスや「バードケージ」
「ガープの世界」のロバータとか、映画の中のゲイの存在が
魅力的で好きなわけなんだけど、そんな魅力を
最近、私がゲイだと確信した職場のSEの同僚の(男性)
チャーミングさのことと比較しつつ考えていた。

確かに彼らはとても魅力的なのだ。例えばスターバックスに、
メンズのブティックに彼らが居たとしよう。

常に男性と女性の両極に揺れているような彼らの
その接客やサーヴィスは驚く程、魅力的なのだ。
戦後の日本においては化け物扱いされた
昨今の美輪明宏先生の人気についても(笑)それは言えよう。
ある意味で彼は最強のドラッグクイーンだ。
と楽理から脱線しましたが
ハイブリッドとポップの間を行ったり来たりしながら
映画も終わってiTunesを立ち上げ
シャッフルして流れて来た最初の曲は
「プ○○○○ル」とは対照的な概念である以前分析した
楽理分析したバカラックの「雨にぬれても」だった。

私にとって、このような曲はある種、
初めて聴いたときの記憶と共に個人的に
メタファーというか、ある種の象徴性を帯びていて
どんな時でも思い起こすことが出来る
忘れ難い存在なのだということを
そのポップさと共に認識したのだった、、、

菊地さんはハイブリッドコードについて
「新しい食材」のようなもの、と今回の講義で仰った。
なるほど、と思う。(私も先日の楽理分析日記の拙文で未
知の味と書いたけれど)
この、かつて食べた事のない美味な食材である
ハイブリッドという未知の味に魅力を感じつつ。

















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